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随 筆



人間の居場所                 百錢会通信 平成29年8月号より

 極道の伝統と習慣というものには、何故か昔から興味があった。例えば盃事。その手の話題に詳しい週刊誌の写真などを見ると、古式に則り列席者は紋付羽織袴の正装である。また、「天照皇大神」「八幡大菩薩」「春日大明神」など、大抵は三幅の軸が掛けられている。その系統によっては「神農皇帝」が混ざったりするらしい。あまり詳しくないがいずれにしろそのルーツはとても古いものに違いない。

 江戸時代末期には既に、追放刑などで人別帳を離れた者などが、表社会から外れたところで一家組織を形成していたようで、それが最も近い直接的なルーツだろう。主な収入源は博打や、港湾、建設現場の人足の手配、興行の仕切りなどが知られている。維新後は主に保守系の政治家お抱えの暴力装置としても組み込まれたものもある。また敗戦後の混乱期には弱体化した警察に代わって街の治安維持に一役かって出たが、今や警察と自衛隊のお陰で出る幕はない。それどころか警察にはパチンコの景品買取の類の利権までむしり取られてしまった。芸能はテレビと大手プロダクションが仕切り、政治家の用心棒役も官僚派の政治家の台頭によって余り仕事が無い。極め付けは暴対法だ。

 この暴対法は近代法の精神に照らし合わせるとかなり危うい法律だという指摘も一部にはある。ヤクザと認定されれば住宅の賃貸契約も結べない、銀行口座も作れないし、社会保障制度から締め出される。口座振替が出来ないからヤクザの子供だけが学校給食費を現金で納める事になる。当局に「身分」を決められた時点であらゆる市民としての権利が剥奪される、差別法としての危うさを孕んでいるのも事実だろう。

 若者が暴力団の構成員となる動機の大半は貧困である。これは売春と同じ背景だ。貧困が無くならない限りヤクザと売春は無くならない。しかもヤクザは社会に居場所が無い。街には半グレと呼ばれる、いわば非正規雇用のヤクザが満ち溢れてくる・・・。ヤクザ社会もかなりな格差社会のようだ。

 もう既にお気付きの事と思うが、江戸時代の虚無僧の歴史も、ほぼ同じ様な生い立ちと末路を辿って来たであろうことは想像に難くないのである。そして後世に虚無僧の末裔が反社会勢力に発展したという話を聞かないのは、明治維新当時の社会による普化宗の抹殺が如何に呵責なきものであったかということの証なのだと思う。今はただ、世の矛盾を背負って生きる哀しみというものに対する感受性だけが、「虚無尺八」の音の中にいつまでも消えることなく残っているのではないだろうか。

参考文献「人間の居場所」田原 牧 著  集英社新書

 



純真に出会う                 百錢会通信 平成29年7月号より

 鳩が2階の窓近くを横切り屋根の方へ飛び去るのを何度か目にした。珍しいことだがその時は大して気にも留めなかった。が、翌日もまた何度も飛んでくるのでそこで妻がピンと来た。「どこかに巣を作っている!」

 窓から身を乗り出して屋根の方を見ると案の定、ひさしの上にせっせと小枝が運ばれている最中だった。そこは東向きのひさしと南向きのひさしが交差する場所で、巣にとっては丁度床と天上となる。屋根の傾斜と言い雨風を凌ぐには誠にもって好都合な、これほどの「物件」をよくぞ見つけ出したものだと、ちょっと感心してしまった。しかしその階下は我々が頻繁に出入りする場所で、「糞害」を蒙ることは必至であるから、運搬中の資材(小枝)は強制撤去させてもらった。可哀想なことをするという気持ちはもちろんあったが、それでも取り払うことに躊躇いはなかった。

 ところがその数時間後、向かいの離れの屋根に番いの鳩が並んで、今しがた営巣を定めたはずの場所を、身動きもせず黙してじっと見つめる姿を目にした時、私の無意識の部屋に封じていたはずの、やるせない想いが溢れて来て止まらなくなった。

 箏を弾き竹を吹く暮らしはこの歳になっても試練の連続であるけれど、所帯を構えた時はもっと酷い逆風の中にいて、良くここまで生きて来ることが出来たものだと思う。小枝を一本一本運び続ける営々とした努力も徒労に終わる虚しさは何度も味わってきた。そういう越し方の想いが一気に蘇ってきたのだ。

 若い世代の苦労は人生の砥石であって必要なものには違いないであろうが、しかしこの歳になってようやく気付いたことは、この世には欲に目の眩んだ老練の大人の如何に多いかということであって、そういう輩に翻弄される若者は本当に可哀想だと思う。世界を震撼とさせるテロもその現場の先端にあるものは行き場を失った若者の純真の誤った自死である。テロは断じて許さないと連呼する政治家とその取り巻きの世界には、決して自分の手は汚さずに裏では彼らに武器を流したり、その駆け引きで禄を食む俗物が跋扈していることだろう。

 私の敬愛する画家の友人はかつて、野辺の草を喰っても「売り絵」は描かないと言っていたが、先日久しぶりに会うと彼の信念は更に研ぎ澄まされていて、ついに自分の絵は売らないときっぱり言い切った。欲得に駆られてめしいた芸術家も世の中には多いことだが、それでも我々の業界が幸福だと思うのは、決して自死させたくない、或いは自死させてはならないと思える「純真」に出会える場が、今でも意外に多いという事だ。だから今まで頑張ることが出来たのだと思う。



暗幕のゲルニカ               百錢会通信 平成29年6月号より

 日本最大の暴力団の山口組が3つに分裂したそうだ。本家の山口組と袂を分かった神戸山口組、そこから更に離反したのは任侠団体山口組。任侠とは弱きを助けるためには体を張ってでも強きを挫くという、そういう精神的傾向、あるいはそういう人物を指す言葉であるが、最後の離反組の実態が果たして現代の任侠を目指すのだろうか、甚だ疑問である。根底にあるのは、“経営”の逼迫により激化した、今日日の暴力団の内部権力闘争なのだろう。

 権力闘争といえば北朝鮮のトップが異母兄を暗殺してしまったニュースを思い出す。驚いたことに実行犯はたった2人の若いお姉さんで、後ろから飛びつかれてあっという間に仕留められてしまったというのだから開いた口が塞がらない。しかもそのニュースはまるで三面記事に載った場末の殺人事件の様に、今では世界の人々の記憶から日に日に薄まっている事だろう。

 またこの暗殺には中国のトップの血みどろの権力闘争も絡んでいるという記事もよく目にする。現主席の習近平派と江沢民派の覇権争いだそうだ。ヒトラーのユダヤ人虐殺を遥かに上回る規模の殺人を犯した毛沢東の遺影を、紫禁城に今尚掲げる中華人民共和国ならば、さもありなんの話だ。

 アメリカもなんのかんのと言っては他国にミサイルを打ち込むし、そうした世界各国の動向を冷静に観察して、漁夫の利を虎視眈々と狙うロシアなどは、国際社会にその強面を隠そうともしないかのような態度だ。

 かのピカソがドイツの無差別空爆に激憤して描いたゲルニカは、そのタピストリーが国連総本部に飾られてあって、全世界の人々の心に今もなお平和への熱い思いを喚起し続けていることに、私は称賛の拍手を惜しまない。しかし!である。2003年の2月、イラクの大量破壊兵器疑惑をめぐってアメリカを中心とした連合軍がイラク空爆に踏み切ることを、当時のブッシュ政権のパウエル国務長官が国連安保理会議場のロビーで会見した時に、その背景にあるべきゲルニカのタペストリーには暗幕が掛けられていたというが、それは本当の話なのか。

 世界中どこもかしこも欲にまみれた話ばかりで、もうウンザリだ。任侠もヘッタクレもあったものじゃない。



新 緑  - 10 -                百錢会通信 平成29年5月号より

 群馬の稽古場の草刈りに手を焼いて、昨年初めて除草剤を使った。駐車場のスペースだけに使ったのだが、冬を迎える前に枯れた草葉の色を眼にするのは、予想外に哀しいことだった。稽古場の土地を求めて初めてこの地を訪ねた時の鮮やかな若葉の緑色が、今も脳裡に鮮烈に焼き付いて離れないからなのだろう。

 あの時の感激がきっかけで毎年5月の会報の題を「新緑」と決めてから早、干支も一巡りしようとしている。毎年同じお題で心に浮かんでくることが年々どう変わるだろうか、自分で自分を観察してみようと思いついて始めたことである。そして結果はどうだったかと言うと、結論から言えば芯は何も変わらなかったのである。

 私のような、人生に対して重度な悲観論を提唱する者でも、5月の新緑に命の喜びを感じるのは今も昔も変わらない。否、重症の悲観論者であるが故にそう感じるのかも知れない。この根幹にあるキーワードは「母性」であって、芸術も宗教もこの「母性」を離れては、寸秒の間も価値を持たないのではないかと、5月の新緑に包まれてはこの10年余り、ずっと思い続けて来たのである。

 「母性」と言えば一般には「子を思う母の無償の愛」と括られてしまうが、私が想念するのはもう少し広大なものだ。あらゆる苦悩を内包しつつも産み育み続ける宇宙の大きなうねりのようなものと言うべきか・・・。

 親の気持ちは子を持って見て初めて思い知る、とは巷間よく耳にする常套句だが、広大無辺の宇宙に思いを馳せて感得するこの「母性」の視点から眺めるならば、必ずしもそれは真実を言い表しているとは思えない。異論も多いことと思うが、母を慕う幼児には実は既に「母なる心」が漲っているのだと、私は敢えて断言したい。閻魔大王の前で鞭打たれる母の首に取りすがり「お母さん!」と叫んだ杜子春は、我が身の命をも忘れて母と一つになった姿ではないか。

 「母性」は子を持つ親の専有物ではない。子を持たぬ人はいるが親の無い子はいないのであって故にあらゆる生命は「母性」を有するという事は、私の中では自明のことなのだが、中々共感してくれる人は少ないものだ。毎年初夏の新緑を眺めて確信することはこの一点に尽きるのであって、「新緑」と題したこの定点観測はその任務を完了した感があるので、ここで終止符を打つこととしたい。



アレだから・・・                百錢会通信 平成29年4月号より

 私は小さい頃から、多くの大人が口にする「アレだから・・」という言い回しが気になって仕方がなく、それは今もずっと続いている。

 「あれ」とは、「これ」や「それ」に比べてやや遠くのものを指す代名詞だ。例えば「正面に真っ赤な車があるでしょ?アレは今日本一加速の良い車なんだ」この場合「アレ」が指し示すのは明確な物体で、こういう使い方に何の不自然さもないだろう。「四川料理によく使う山椒の実をそのまま噛んだことある?物凄く口の中が痺れるのだけど、アレが段々癖になるんだよ!」ここで言う「アレ」は物ではなく状態を指し示すものだが、この使い方にも私は違和感を覚えない。ではこんな使い方はどうだろうか。「面と向かって批判するのもアレだから・・・」

 正面から批判することが憚られる原因・理由を指す代名詞の「アレ」だ。が、全く不明確なのに、えてして暗に同意を求められたりする場合が多いので厄介である。誤解のないように「アレ」の意味を問い正そうものなら、次からはもう話しかけてくれることも無くなるだろう。

 日常の会話の中で、白黒はっきりさせ難い、揺れ動き戸惑う気持ちになることは多いもので、私も無意識の内にこんな言い回しで話をしていることだろうから、とやかく人の言葉尻を捕らえるつもりはないが、自分自身にはこうした言葉遣いをしてしまう姿勢があれば、戒めていきたいと思っている。

 上の例文で言えば、心の中での批判精神と、あからさまな諍いを避けたいという気持ちとの葛藤が滲んでいるわけだか、それならばあの時迷い戸惑ってしまったとだけ言えば良い。「アレだから」という言葉には、そうした葛藤に向き合うことを拒否したままに我が身を正当化してしまう細やかな強引さと、またその問題を指摘された時には、「そういう意味では無く・・・」と、どちらに転んでも自己弁護できるという、したたかな逃げ道までも用意されているのである。

 暇つぶしのお茶飲み話でなら目くじら立てる程もない事だが、音楽の表現活動の現場ではこのような灰色の会話は好ましいことではない。天才の表現はもとより迷いがなく、自ずからなる明らかさに満ちているが、凡人はそうは行かない。いつも迷いながらの試行錯誤の連続であって、その一つ一つに丁寧に根気強く向き合う以外に道は無い。その過程に「アレだから」と曖昧に乗り越えて良いステージは無いのだ。



それぞれの歌枕               百錢会通信 平成29年3月号より

 多少花粉症の気のある私は、症状は軽微であっても演奏や稽古に差し支えるので、しっかりとマスクでこの季節の風には備えている。しかし梅の花の香りが運ばれてくる時だけは「エイッままよ!」と多少のクシャミも厭わず、花の香りを満喫しないではいられない。誕生月であるこの季節への郷愁なのか、梅の花にはその姿といい香りといい、何か特別な思いがある。和歌には歌枕、縁語、掛詞など、修辞法のルールとして言葉に着せられた共通のイメージがあるが、動物や植物、季節や土地、この世のあらゆるものに、十人十色で、そしてその人が如何なる状況にあっても必ず決まった想念を起こさずにはおかない、言わばそれぞれの「歌枕」があるのだと思う。

 ここで話題は全く別の事に転換。今年は山田流箏曲の流祖、山田検校没後200年の年となるそうだ。当然の事ながら山田検校の作品を取り上げたイベント、コンサートが沢山に企画されている。残念ながら現在は限られた少数のリスナーの世界でのみ鑑賞されているのだが、その当時は大名から町娘に至るまで、山田検校の作品と演奏に熱狂したというのだから、今迄余り馴染みのなかった方にも今年は少し耳を傾けて頂きたいと思っている。

 山田検校の作品で最も格式の高い曲は「奥四つ物」と言われる長大な4曲で、どの曲も味わい深い名曲である。次に山田流箏曲で大切とされるのは流祖作による「中七曲」と呼ばれる作品群である。家内の箏の師匠は数年前に先の「奥四つ物」を全曲演奏するという前代未聞のリサイタルを成し遂げられたのであるが、今年はそれに続いて「中七曲」を一挙に、“走破”ならぬ“奏破”するという、誠にエネルギッシュな演奏会がこの4月に開催される。有難いことに、私も一番プログラムに載せていただくことになっている。

 しかもその演目は、菅原公が「東風吹かば・・・」と歌った庭の梅が一夜にして太宰府まで千里の道を飛んだという、飛梅伝説を題材にした「千里の梅の曲」で、私個人的にはテーマだけで大変に惹かれるのである。が・・・、曲趣は源氏物語や平家物語のようなドラマティックなソースに取材した作品に比しては明らかに抑制が効いていて、名人芸のみが味わいを醸し出すという、玄人好みの難曲である。テーマへの憧れだけでは如何ともし難い壁が立ちはだかるのだが、元より覚悟で選んだ“物狂い”の道は進むしかない。

 

 私の手元には家内の先輩が分けて下さった正に名人の「千里の梅の曲」の録音テープがある。その名人の名は室岡松孝師。異論は多々あるかも知れないが私は名人と信じて止まない。

 

 〽 常(とことわ)に、吹かせてしがな家の風、世を経て仰ぐ文の道、

 

と一節唄えば、世俗の権勢争いを遥かに超越した悠久の風が流れて来るようだ。

 

〽 行手の袖の薫るまで、思ひを運ぶ思ひ川、

 

拙を守りて貫く文の道というも、何処かに恋の誠を貫く悲哀に似たものが、「思ひ」の一節からそこはかとなく漂って来る。

 

〽 掬(むす)ぶ手に吹く春風は、今日如月の神事に、夜の鼓の澄みのぼる、

 

「夜」のひと声が私には忘れられない。ここが前半部分の唄のクライマックスなのだが、室岡師のこの「夜」の一節に私はいつしか目を閉じ、光から音の世界に誘われて、そこには常に梅の花の香りが漂っていたことに気付くのである。

 これは飽くまで私個人の空想というか、むしろ妄想と言うべきものだろう。しかし聴く者にこうした強い想像力を喚起することこそ芸の力であろう。室岡師はこの一節に何を感じて生きてきたのだろうか? その具体的な想像は時に大いに的はずれとなるかも知れないが、その当たり外れは大きな問題ではない。音を奏でる側に、それぞれに固有の、言わば広い意味での「歌枕」の強いイメージがあって、それが演奏に乗せられているか否かということこそ、大切なことではないかと思うのである。



手元 手子                   百錢会通信 平成29年2月号より

 昨年も多くの舞台を共にした箏曲の友人と、年明け早々にあるイベントで一緒になったので、軽く新年の盃を交わしますかということになり、小一時間の寄り道となった。

 昨年も髄分アチコチで失敗をやらかしちまったなァー・・・などという気楽な会話を交わせるのも学生時代からの馴染みの誼、そんな“痛切”な反省もそこそこに、次の合奏ゲームは誰をターゲットにしようかなどという相談にとりかかるのだから、呑気な極楽トンボたちである。

 音楽の合奏は、相手がコウ来ればコウ応える、或いはこちらがコウ仕掛ければどう応えるか?その出方によってはコウ受ける・・・といった駆け引きを楽しむゲームとしての側面がある。その意味で合奏相手は“ターゲット”なのだが、それは気の置けない仲間内の会話での悪ふざけである。我々がチームとなって迎えるゲスト出演者は、皆本当に素晴らしい演奏家ばかりであった。それに引き換えこちらと言えば所詮は俄仕込みの策士、三流の自策に溺れて返り討ちに合うのが関の山なのだが、この手の「作戦会議」が何故か止められない。今まで、山勢松韻先生や富山清琴先生と言った人間国宝の先生にもご出演賜った。とても歯が立たないのは十分承知しているのだが、先生の心を一瞬でも揺るがすことが出来たなら幸せだろうなぁ・・・などといつも夢見ているのである。

 建設現場には、「手元」あるいは「手子」という職人用語がある。1人前の職人を手助けするために、その職人の下につく補助者のことである。主に修業中の職人が、親方にはやれ間抜けだノロマだのとどやされながら、この手子を務めて仕事を覚えたものだった。今は人件費などの理由でこの習慣は消滅したらしい。

ところで私が興味を覚えたのは、かつては手元専門の職人がいたという話だ。私は見たことがないから、一流の手元職人とはどんな仕事ぶりなのだろうと想像を逞しくしてしまうのである。手元は作業に必要な道具や材料をタイミング良く職人に差し出すのが主な仕事だが、決まった手順で指図のままに動いているのでは駄目なのである。職人の技が必要とされる現場とは、一見単純な作業が繰り返されているように見えても、実は常に変化する状況への繊細な対応であって、作業の事故を防ぎながら一品物の作品を仕上げる真剣勝負の場である。そういう現場にあって、何事も先回りして職人の最良の技を引き出すことが手元職人の肝要であるからだ。

 友人と新年の祝杯を挙げてほろ酔いの帰り道、つらつらと束の間の会話を思い浮かべてみた。そう、我々が目指しているのは一流の手元職人かも知れないと、ふとそう思ったことだった。



後ろ向きに後ずさりする        百錢会通信 平成29年1月号より

「ヨーイドンの銃声と共に周りの友達は、突如猛然と一斉に走り始めた。僕は余り近所の友達と深く交わることもなく、かといって孤立していたわけでもないが、どちらかと言えば野原を一人歩いては空想に耽ることが多かった。ねこじゃらしを引っこ抜いたりして、それを耳の後ろにこすりつけては自分でくすぐったがったり、或いは目に見えぬ大人が目の前にいることにして、自分は透明人間になってその背後からイタズラしたり、何につけても空想の王国の中で自由に暮らしていた。そういう私を周りの友達は横目に時折クスクスと軽い軽蔑のまなざしで嘲笑っていた様にも感じていたが、別段危害を加えられることもなかったから、それはそれで平和な毎日だった。ところが突然に勃発した群衆の集団移動に呑み込まれて、僕の王国は一瞬にして胡散霧消してしまった。みんなはギラギラした眼つきでひたすら前を向いて、走っている。何が起こったかもわからず、僕はひるんで後ろを向いてしまった。するとみんなが僕に向かって突進してくるようで、それが恐ろしくてたまらなかった。」

幼稚園にも通わず、6歳になったばかりの桜の花散る4月、小学校へ上がった時の衝撃を今綴って見ればこんな告白文になるだろう。それからというもの、学校の先生は口を揃えて前向きに生きろと言い続けたのだが、一度後ろを向いてしまってからは中々身体の向きを変えられぬままに、いつの間にか半世紀近くも経ってしまった気がしている。後向きになってはしまったが、それでも周りにジリジリと押されて後ずさりしたので、結果、同じ方向に進んで来た。マイナスにマイナスをかければプラスになるといった具合だ。当然“進軍兵”に押されて何度も転んだものだが、ヨタヨタ立ち上がろうとする私にわざわざ立ち止まって手を貸して下さる人が、この世の中にこんなにも沢山いるとは思いもしなかった。こうした心優しき人々のお蔭で今日の私があるのだが、こうした恩人に永訣のご挨拶を申し上げなくてはならぬ場面が、近頃は本当に多くなってきたことだ。

    私が6歳から手にして今だに手放さずに来た虚無僧尺八は、誤解を恐れずに言えば「後向き」の芸能であろう。私は空想の王国の輝きを心に失いたくないが為にこの「後向き」を辞めなかったとも言える。しかしもっと正確に言うならば、本当は後ろ向きも前向きも無いのだ。私は同世代の友達から奇異の視線を浴びることはあったが、概ね同じ方向に、しかしちょっと違う景色を眺めながら流れて来ただけの話である。

  しかるに世界はそれぞれ少しばかり違う生い立ちを辿った者たちが(「勝ち組」「負け組」もその分類の一つに過ぎない)、極端な二極に陣取ってその対立が一層深まっている。私は幸いにも、「前向き」のみを是と確信してやまない“進軍兵”に、押し倒されたり踏みつけられたりしたこともないわけではないが、今まで概ねその甚大な被害者になることはなかった。そういう私だからこそ、人生には色々な景色のある事を、そしてその多様な楽しみ方のあることを知らせるのが役目なのかも知れないが、それには余りに己が非力を痛感せざるを得ないのが、今の世情の現実である。毎年、年頭に思い願うことは同じである。大きな諍いがこの世に起きないことを。



大統領選 グローバリズム 国際紛争  百錢会通信 平成28年12月号より

今年も振り返ると、一度には思い出しきれぬほどに沢山の、箏、三味線との合奏の床に座らせて頂いた。毎度、年の瀬に思うことだが、思い起こせば30余年の昔、現代の虚無僧になれという父の言い付けに背いて三曲の世界に飛び込んではみたものの、そこには畳半畳すらも私の居場所などはなかったのだが、様々な人の心優しきご縁に恵まれ導かれてこうして生きていられる幸せを噛み締めている。

三曲における尺八の立ち位置について、斯界の人々は口を揃えて「糸を生かしつつ竹も主張する」というこのフレーズを復唱し続けるのだが、私は専ら糸を生かすことだけを考えていれば良いと思っている。正確には「歌を活かし、糸を活かす」ことだ。場に応じては身を引くことを知る見識こそが、むしろ三曲合奏における尺八の出発点であると私は思っている。

 とは言え、言葉で総括するのはたやすいが、実行はそんなに簡単なものではない。まず筝曲界では、ある一つの曲が、それを伝承する会派や演奏家によってはまるで別曲と言ってよいほどに傾向が違ってしまうことも珍しくない。あらゆるタイプに万能であるオールマイティの鍵はあるかも知れないが、残念ながら今の私は、その都度ごとに細かな試行錯誤を繰り返して、それぞれの音作りに苦心して対応しなければならないのだ。

 ましてや合奏する糸方が複数で、互いが他流試合であったりすると一層厄介である。あからさまに我が道を押し通す人がいて合奏が険悪になることはまずないが、それぞれの伝統に誇りを持って日々修行をしてきているのだから、腹の内側では断じて譲らないという態度があっても、頭からそれを非難することは出来ないのである。音楽は喧嘩ではないと言いたいが、譲らぬ信念と信念が一つの場を共有しなければならない時に、火花の散ることが実際にはある。

 トランプが大統領戦に勝利した。あの無謀な過激発言をする者が大統領になるとは思いもしなかったが、それが現実となって寒気がした。実際には選挙戦中の公約は修正されて政治を行うのだろうが、一般有権者に露骨な排他性が噴き上がるほどのフラストレーションがここまで高まっていたということに私は戦慄したのである。中産階級が落ち着いていて、その良識が政治に反映していれば、おおむね民主主義は安定していたと思うが、そこが崩壊したとは言えないか。グローバリズムという言葉を私は余り好まない。なぜならそこには人間の欲望の過剰な肥大という問題が潜んでいるからだ。「グローバリズム」と「帝国主義」という用語の間に、余り大きな違いを私は感じられないでいる。「勝ち組」と「負け組」の格差は否応なく拡大して世界に憎しみと怒りが充満する。大きな戦火がその後にやって来ることは、過去の歴史を振り返れば明らかではないか。

それに比べれば三曲界の火花などは平和なものかも知れない。しかし、それぞれの会派の磨き上げて来た伝統が一堂に会した時、それぞれが優位性を主張して覇権を競い始めるなら、それは紛れもなく世界の紛争の相似形であって、深く戒めなければならないことと思う。幸か不幸か、現在の三曲界は内紛を起こしている場合ではないという空気があるから、当面大きな諍いは起こらないだろうと楽観している。我々演奏家という己の心の奥深くに分け入ることを宿命とする人間は、政治活動に参加しなくても、世界の空気が決して平穏ではない時代にこそ、果している役割があるはずだから、まずは来年も業界内の平和を祈っている。



職人芸                      百錢会通信 平成28年11月号より

長年、尺八を趣味にしているある自転車屋さんの言葉が、最近忘れられずにいる。歳をとってくると若い時のようには中々身体が動かないという他愛もない話題の中の一言だった。「これでもたまにはお客さんから、今日は良い仕事を見せて頂きました!と感謝の言葉をもらったりしたこともあったんですがねぇ・・・、今はとてもあの頃のような仕事は出来ません。」と笑いながら謙遜なさるのである。私は急に懐かしさが込み上げてきて感激した。そうだ、私も子供の頃、パンク修理、ブレーキやギアの調整など、様々な整備の様子を、自転車屋さんで飽きもせずに眺めていたものだった。職人さんの無駄のない、しかも繊細な体さばきによって、不具合のポンコツが見る間に蘇って来るのがとても痛快であった。他の職種でも、たとえば大工さんのカンナから向こうが透けて見えそうな位に薄い削りカスが舞い上がるのを見るのもワクワクしたものだし、畳屋さんの所作はまるで踊りを見ているような心地がして、とにかく職人の仕事を眺めることの、理屈抜きの楽しさに共感してくれる人は少なくないと思う。我々の幼少期には街のあちこちにこうした職人芸のショールームが溢れていて、スマホのゲームは無くとも子供の愉しみに事欠くことは無かったのではないだろうか。「良い仕事」という言葉が何故か私の心にいつまでも響いたのは、鑑賞に値する「良い仕事」の数々を思い出したからだ。

優れた職人の動きは、まずその軌跡の残像が直線と曲線を織り交ぜた幾何学模様となっていて、これはすでに美術である。またその動きから伝わる音とリズムも心地よいもので、それはまさに音楽である。しかも職人の技は、明確な目的に向かってその精度と時間効率を上げなくてはならないから、絶対にシンプルでなくてはならない。

つまり無駄のない簡素な美しさはいつの世も人々の心を惹きつけて、しかも何かの浄化作用があると思うのだが、近頃はやたらと複雑怪奇な音楽や美術が多過ぎやしないだろうか。もちろんそういうものがあって良いけれども、過剰な氾濫は、必ずや人々の心身を疲弊させると思う。



「いにしえ」に憧れる           百錢会通信 平成28年10月号より

虚無僧尺八愛好家には馴染みの無い用語であろうが、生田流地歌箏曲の世界で「九州系」と言えば、その言葉を知らぬ者はいないだろう。地歌箏曲はもともと京都、大阪が中心であったが、名古屋、中国地方などの各地に伝播してそれぞれに特徴的な芸風を醸し出して来た。中でも九州熊本の芸は独創的で、三味線の左手の繊細な技巧や、流麗な歌唱法などは巷間つとに話題となるところである。明治期以降、東京に進出した多くの「九州系」名人達人の芸は、三曲合奏全盛期の琴古流尺八家を巻き込んで大好評を博した。虚無僧尺八しか吹いたことがない私が三曲の手習いを始めたのは1980年代、まさに最後の「昭和」であるが、その頃でさえ「九州系」に非ずば地歌に非ず、と言った空気は業界に満ち満ちていて、大変な勢力であったと思う。

あの賑やかな時代から早30年、当時の立役者たる巨匠は次々に身罷り、往時の隆盛を知る人の寂しさやさこそとの思いもあるが、「九州系」のみならず、伝統芸能全般が著しい衰退の状況下にあっても、この世界に足を踏み入れてくる若人の動向にも、私は興味を惹かれるのである。

次世代の牽引役は私より一回り下の40代の演奏家だと思う。彼らは「九州系」の栄華を知る最後の世代であろう。その卓越した芸を目の当たりにして来て、その素晴らしさに皆今も敬意を抱いている。しかし自分の本芸にとって最も重要なものはと問えば、それは「九州系」ではなく、むしろ大本の大阪、京都である、という人たちがとても増えて来たように思う。こうした傾向の根拠は私には良く解らない。自分が惹かれる古典芸能のルーツへの漠然とした憧憬か、或いは技術の改革がもたらした芸能の高度な様式化によって希薄になってしまったかも知れない人間性への回帰なのか。恐らくもっと複合的な理由が集合した結果なのだろう。驚いたのはそうしたメンバーの中から平家琵琶を伝承しようという人物まで現れて来たことだ。平家琵琶(平曲)は盲人の職能集団であった当道の検校たちの本来の表芸であった。しかし三味線の隆盛という時流の中で止む無く自ら手放してしまったのである。その系譜は僅かに名古屋の芸系にだけ残されていたかと思う。こうなると、希少なジャンルにおけるマニアの悦楽も漂ってくるが、いずれにしても平家を語る芸能の保存は日本文化において大きな意味があり、若者がその役に名乗りを上げたのは、世間からすれば物好きなと一蹴されてしまうほどのニュースかも知れないが、私にはとても頼もしく感じられたことだった。

私がここでちょっと寂しくなってしまうのは、尺八界にそうした動きが起こらないことだ。しかし、その責任を次世代の若者に押し付けてはいけないと思う。むしろ戦後の隆盛期を味わった尺八界にこそ問題があったのではないか。若者が憧れるような尺八の「いにしへ」を誠実に検証し、伝えて来たと言えるだろうか。私を含めた50代以上の尺八吹きはプロアマ問わず、過去の自慢話を控えて、胸に手を当て思索する必要があると思う。



心配事                       百錢会通信 平成28年9月号より

 夏のオリンピックが終わった。メダル獲得のニュースがあればその快挙の映像を「凄いね~」などと呟きながら眺めもするが、私は夜なべしてまで観戦するほどのファンではない。こんなことを考えては身も蓋もないかも知れないが、過激にヒートするオリンピック利権のことを思うと妙にしらけてしまうからだ。

 アテネ五輪の後にギリシャは破綻したし、中国だってあの鳥の巣のような競技場もその後の管理に手を焼いていることだろう。ブラジルも今後深刻な経済危機が訪れるのではないだろうか。利権にまみれた者たちは自らの仕業を何の反省もせずに、その後の国家を如何に荒らすことになろうとも、知らぬ顔の半兵衛を決め込むに決まっている。

 オリンピックはスポーツと共に文化の祭典とも言われる。東京都ではオリンピックに向けて様々な文化プログラムが始動しはじめていて、伝統文化が注目されてきていることは誠に喜ばしい状況ではある。しかし、周りを見渡せば背に腹は代えられぬとばかりに、オリンピックという巨大ビジネス向けの“商品”としての芸能の売り込み合戦が始まっていることを聞くと、余り手放しで喜んでばかりもいられない。コンペに向けて技を競うのは良いとしても、その最終目的が、かつての芸能のように神事として崇高な世界へ止揚するというようなことでは無くなり、結局は富と名誉の追及であるという、飽くなき人間の欲望の世界に堕しているとは言えないだろうか。

 戦後70年を経て様々な政治的機密情報が公開されてきているようだ。終戦記念日近くにはそういう特集番組もあるにはあったが、テレビは国民的アイドルグループの解散の話題でもちきりだった。これは只々情けないの一言に尽きる。「マスコミが、芸能ネタなりスキャンダル事件を連日連夜、執拗に報道している時は注意しなさい。国民に知られたくない事が必ず裏で起きている。」と指摘したのは政治評論家の竹村健一だが、確かにマスコミが煽る芸能スキャンダルの乱痴気騒ぎの中では余程の情報網でも持って無い限り、国民はどんな悪法が制定されていても気づかないだろう。

 それはさておき、日本のアイドルを見ていると、何か怪しい事務所の放った網に捕獲された子供が獅子舞もどきを踊らされているように見えてならない。オリンピック選手の自らを厳しく鍛錬する姿は美しいけれど、その後ろ盾に誰がいるのかを想像すると、その昔、親方が子供に獅子踊りを仕込んで巡業させていた悲話を思い出さずにはいられない。今後の4年間、政治家、メディア、広告代理店の周辺には甘い汁を求めて数知れぬ多くの芸能事務所が蠢くことだろう。古典芸能の世界は余り縁が薄いにしても無関係ではないし、また大げさかもしれないが、国家の動きにも繋がっていることだから、注視の眼を光らせていなくてはならないと思う。



バルセロナ、尺八スクールで    百錢会通信 平成28年8月号より

 ヨーロッパ尺八協会(ESS)に招かれて、夏の特別スクールに参加した。10周年を記念する今回の開催地はスペインのバルセロナだった。片言の英語すら話せぬままに単身飛行機を乗り継いで行く16時間余りに渡る渡欧は、お笑いになるだろうが私には決死の覚悟を持って臨む旅路である。到着ロビーに迎えに来て下さった知り合いの顔が見えた時は、正に九死に一生を得る思いだった。

 現地到着は既に23:00を過ぎていた。トランクを開くのもそこそこにとにかく床に着く。翌朝早速9:00から怒涛のような行程が始まるからだ。20:30までぎっしりのスケデュールだから初日でヨレヨレに疲れると思いきや、さに非ず。まるで疲労感が無いのはどうしたことだろう。夜の21:00にようやくありついたタパスと呼ばれる小料理の数々、ワインが実に美味い。疲労に対する不思議な無感覚はとうとう最終の4日目まで続いた。それはきっと受講生の純粋な熱意に依るのだと確信している。それぞれの綿密な予習による習熟度はこちらの予想を遥かに上回るもので、慌ててレクチャーの内容を増量しなければならず、私には嬉しい悲鳴だった。

 そして今回のオーガナイザーは終始ユーモアを忘れない素晴らしい仕切りである。またイギリス、ドイツ、スウェーデン、デンマーク、ギリシャなどの各地から参加する幹事の、それぞれのお国柄溢れる笑顔のサポートが、実に和気藹々とした空気を醸し出し、よってスクールの成果は確実に増幅されたのであった。

 そうした穏やかな人間関係が確かに構築されているにもかかわらず、私が強く感じたのは、洋の東西を問わず、尺八を手にしようとする者は、中々に容易くは譲らない一家言の持ち主が多いということだ。今回のカリキュラムに盛り込まれた、フリーのディスカッションの場で、その事実は顕著となった。伝統音楽の教育の問題、古典と現代の意味、楽譜とは何か、などのテーマが提出されたが、表層的な見解では納得しないという鋭い眼光が、会場のあちこちから発射されていた。私にはどのテーマに対しても、演奏家がムキになって、言語という1つのロジックで解決しようとすることそのものの虚しさを常日頃から感じているので、どの話題を振られてもシドロモドロ・・・、何とも格好が悪かった。

 直行便の無い、バルセロナからの帰国はドイツのフランクフルト経由で全日空の便だった。機内誌に日本語のあることにヤケに安堵したので、およそ私は国際的な人間ではないなと苦笑した。さてつらつらとページをめくると突然に鈴木大拙の名前が目に飛び込んで来た。数年前に大拙の故郷、金沢にオープンした記念館にまつわるエッセイだった。中でも文中に引用された、大拙に長年師事して助手役を務めた岡村美穂子さんの述懐は、私には何かとても感慨深いものだった。

 《コロンビア大学での大拙先生の講義で、先生が「この世の中は神様が出てこられて、そして世の中を創造されたというけど、神様はそれ以前はどこにおられたのですか」って質問されたんです。「何をしておられて、どこにおられたんですか。皆さん、誰かわかった人がいたらちょっと立ち上がって下さい」って。もちろん誰も立ち上がれなかった。そうしたら、静かにご自分が立ち上がって、「ここにある」とおっしゃったんです。このインパクトはすごかったです。そこには哲学者もいたし、コロンビア大学の先生方もみんなおられました。》

 存在とは何かという、途方も無く大きな問題にこんな短い言葉を言い切ってしまう大拙の静かな佇まいに、皆が蒼ざめたのだろう。私にはもちろんその言葉の心底など分からない。ただ世界の人々に向けてこうキッパリものの言える人物は、尺八界にはいないものだなぁ・・・とつくづく思った次第だ。



芸のためなら・・              百錢会通信 平成28年7月号より

演奏も教授も、何事をも前向きにこなす活動的な後輩が、珍しく、今年は少しノンビリしようと思っていますと言ったことがあった。「アウトプットばかりでは枯れてしまうからインプットの時間も作らないと!」というのがその言い分だった。演奏も生徒に教えることも音楽的エネルギーの放出だからそれがアウトプット。その為には自分の音楽に実を結ぶ原材料をたくさん仕入れなくてはならない。例えば多ジャンルの音楽の名演や、演劇、美術、文学などを積極的に鑑賞する、旅をして自然の素晴らしい景色を見る、地の美味しい料理を堪能する、すなわち豊かなインプットであると。なるほど誠に明快なロジックだ。しかしその後輩君が半年後に辿り着いた心境は、やはり演奏家は演奏し続けてないとダメなのではないかという想いで、「豊かなインプット生活」は意外に空疎な感じがなきにしもあらずといった様子だった。私は心の中で膝を打って共感したものだった。

昔、藝大の助手をしていた頃、京都の花街に育ったという一寸ませた学生君に「善さん、もっと女遊びしなくちゃ芸に艶がでないよ!」と説教されたことがある。噺家の春団治を描いた演歌の台詞、芸のためなら女房も泣かす〜なんて言うフレーズが思わず頭に浮かんできた。なるほどそれも一面においては間違いでもないのだろうが、遊びをすれば芸に艶が出るなら何も苦労はない。インプットからアウトプットへ移行するプロセスとはそんな単純なものではない。

「それはすべての進歩と同じように、深い内部からこなければならぬものであり、何物によっても強制されたり、促進されたりできるものではありません。月満ちるまで持ちこたえ、それから生む、これがすべてです。」とは、私が敬愛してやまない詩人リルケの言葉だ。「もしあなたの日常があなたに貧しく思われるならば、その日常を非難してはなりません、あなた御自身をこそ非難なさい。あなたがまだ本当の詩人ではないために、日常の富を呼び寄せることができないのだと自らに言いきかせることです。」

こういう視点に立つなら、テレビ番組によくあるような、売れっ子アーティストに旅をさせて、その感動をのせた演奏シーンで締めくくるなどという企画が、実に皮相浅薄な作り事であるということがわかるだろう。自らの心の「深い内部」に分け入ることの意味を、表現者は忘れてはならないと思う。否、忘れる、忘れないという次元ではなく、そうせずにはいられないということが、芸術家の証なのだと思う。



フィクサー                    百錢会通信 平成28年6月号より 

かれこれ十数年前、親しくしていたお箏奏者に誘われて、ある音楽事務所の企画に参加した。事務所の代表は歳の頃は還暦を越えているであろうに、その出立は皮のスーツにスキンヘッド、ドスの効いた良く通る声で、どう見ても“その筋”の人としか思われない人物だった。周りの友達は「善ちゃん、その事務所は大丈夫?」と心配顔であったが、そのプロジェクトが頓挫するまで、私はその事務所から社会的に不誠実な待遇を受けたことは無く、決して非合法な事業ではなかった。

しかし彼はプロフィールに田中清玄のもとにいたことを明言していたので、尋常の経歴の持ち主ではないことは確かだ。田中清玄は戦後の実業家にして政治活動のフィクサーとしれ知られた人物である。私はその名を父から聞いて良く知っていた。戦後の焼跡整理から父の土建屋稼業は始まったのであるが、ある組の待遇が不満で飛び出し、移った先が神中組(後の三幸建設)で、その創業者が田中清玄である。父の話では、過激な共産主義者であった田中は母の自死などを契機に投獄中、天皇制に転向を宣言、獄中で知り合った極道系の人物と共に、戦後に興した組らしい。父と一緒に移った仲間はやはり「善ちゃん、この組は大丈夫なのかい?」と心配顔だったそうだが、切った張ったの修羅場は日常茶飯事の、当時の現場を渡り歩いてきた度胸もあったのだろう、父は構わず飛び込んでいったようだ。「善養寺さんのお父さんは横浜神中にいたんですかぁ!いゃー懐かしいなぁ!」田中の元にいたというその社長は「神中組」の名を良く知っていて嬉しそうに私に握手を求めて来た。何か妙な因縁だなぁ・・・と心の中で思いながら苦笑いで応えたのを覚えている。

恵比寿のお稽古でお世話になっている松泉寺の廊下に山本玄峰老師の色紙が飾られていたことをふと思い出す。三島の龍沢寺住のこの名僧は、若くして失明、四国霊場巡礼の途中に行倒れ、雪蹊寺住職に拾われて仏門に入った。戦前戦後、山本による政界への進言はよく耳にするところである。この山本玄峰に田中清玄は傾倒した。山本に田中を繋いだのは血盟団事件に連座した四元義隆である。「非利権右翼」の異名をとる。私はある高名な禅宗の師家の法要の場繋ぎで尺八を吹いたことがあるが、そのビップ席にいたのがかの四元氏だと教えられたことがある。四元義隆は山本玄峰に師事することによってその後の人生が転換したと言われるが、その四元と獄中で出会った田中清玄も同じ道を辿ったのかも知れない。

ところで、尺八の神如道の葬儀で導師を務めたのは山本玄峰の愛弟子、中川宗淵老師である。またその葬儀で語り草になっている、見事な弔文を寄せたのは陽明学者の安岡正篤で、政界への進言者としてはこちらもつとに有名な人物だ。先の四元は戦前、安岡の主宰する金鶏学院に学んでいたが不満を持ちやがて離れていったそうだ。田中清玄も安岡正篤とは、ともに政界中枢への影響力を持つ立場にありながら、遂に志を共にすることはなかったようだ。

因みに私の伯父は安岡の興した日本農士学校の生徒であり、それが縁となって父は神如道の尺八に傾倒した。結果、私の代になっても安岡正篤ゆかりの方々との交流が今尚続いている。尺八を縁に今では愉快に文学を語り、音楽を語り、酒を酌み交わし、実に平和な時間を過ごさせて頂いている人間関係も、そのルーツを一代二代と遡れば、戦前戦中戦後の激動、流血の時代が見えて来る。尺八を愛する人々の周りではどうかこの平和が続いて欲しいと祈るような気持ちが、年々いや増さるばかりである。



新 緑  - 9 -                百錢会通信 平成28年5月号より

  我が家に最寄りの所沢駅は、西武の新宿線と池袋線の2つの路線が、地図で上から見るとちょうど方程式に用いるxの文字のような曲線で交わっている。ホーム階上に昨年完成した広いコンコースには、新宿、池袋、川越、秩父の各方面、それぞれの地に向かう人々が縦横無尽に行き交う。その多くはすれ違うだけの広場だが、さらに一階上の休憩所から見下ろすと、アチコチにやはりそれぞれの小さなドラマが思い浮かばれるような、出会いと別れのシーンが繰り広げられている。まさに人生の縮図を見るようだ。

 その夜、私が目にしたのは、嘗ての恩師と教え子か、或いは定年を迎えた上司と歳の離れた部下のようにも見受けられる、初老の紳士と青年であった。楽しい会話の弾んだ酒宴であったらしく、特に老人の笑顔は満足気で「君は本当に頼もしい大人になった!」という様な台詞が聞こえてくるようだった。

 しばらくの立ち話の後に二人は別れの挨拶を交わしてそれぞれ別のホームへ降りる階段へ向かって歩き出した。二人の姿が各々の視界から消える寸前に、初老の紳士はもう一度彼の方を振り返った。それに対して若者は真っ直ぐ前だけを見て颯爽と階段を降りて行った。老人はそれを見届けてゆっくりとにこやかに階段を降りて行った。

 老人の見たものは目に目映ゆいばかりの若葉の緑である。しかしそれは老人の感傷的な追憶の彼方に遠ざかった他者ではなく、実は己自身の心に今まさにある若緑であって、その存在を初めて見た瞬間だったのではないか?こちらも酔いに任せてそんな思いがよぎったのである。自分のことは自分が一番良く解っていると断じるのは若気の至りというもので、わかった積りの自分とは精々過去の思い出の中の自分であって、所詮はセンチメンタリズムの域を越えるものではないと思う。普化宗に思いを致す尺八吹きとして意識しなければならないものは、的確な言葉が思い浮かばないが強いて言うならば、過去を持つ者が、今に至るまでの息つく間の差し挟む余地もない連続性というものに対する集中力ではないだろうか・・・。さすがにここまで言うと、自分で発した言葉の意味が解らなくなってきた。ここは潔く良く解らないと白状する。



人工知能の勝利              百錢会通信 平成28年4月号より

  先日、下合わせの帰り道に、夕食を兼ねて一杯飲んで行きませんかとお誘いしたところ、快く同行して下さったお弟子さんは、コンピューターの情報処理に詳しい方だった。相手が邦楽の演奏家仲間であれば、酒場の会話はどうしても同業者として仕事の延長になってしまうけれど、それがアマチュアのお弟子さんならば必ず尺八以外の世界がある訳で、盃を片手にその方の専門分野のお話を根掘り葉掘り聞くのを、私はとても楽しみにしている。

 さてその日一番の話題となったのは、コンピューターソフトが囲碁でプロの棋士に勝利したということであった。これはかなりなエポックメイキングな“事件”だったと仰るのだ。私はとっさに何故?と思った。その昔はまずオセロゲームでコンピューターが人間に勝利し、以来、チェス、将棋と、より指し手の複雑なゲームにおいて、コンピューターはハードの技術革新に伴う形で人間に勝利して来たのだから、いずれは囲碁でも・・・と思っていたからだ。しかしここがきっと素人の浅はかさであろうから、説明されてもチンプンカンプンかも知れないのに例によって根掘り葉掘り質問したのである。

チェスは想定される次の手は平均数十手、将棋はとった駒の再利用などのルール上の理由によって指し手は更に複雑さを増す訳だが、囲碁に於いては指し手の可能性がもともと数百と桁外れである。この膨大な量の計算を処理し尽くすことは最新のコンピューターでも不可能なことなので、従来のような可能な指し手を高速に検索するという演算性能に依存した方式では、プロの棋士に勝つには少なくとも10年はかかると言うのが通説だったようだ。囲碁こそ難攻不落の最後の砦であると言われた所以である。

 ところが今回、グーグル社が開発した人工知能ソフトはあっけなくプロの囲碁棋士を破ってしまった。何故?何故?と“根掘り葉掘り”は一段と熱気を帯びて来る。しかしここからは説明されても私のポンコツ頭では良く解らなかった・・・。とにかく要はコンピューターに深い学習機能を与えて、より勝利の可能性の高い指し手だけを短時間に絞り込ませるのだそうだ。ではコンピューターに直感力を与えたのか? 否、そういう事ではないらしい。飽くまでもデータの集積が前提のようだ。でもどうしてそんな事が可能になったのか? 実は開発者自身も良く解っていない部分もあるらしい。ここに至って私は何かとても怖くなって鳥肌が立った。優れた科学者の中に演繹法を積み重ねる者は殆どいないという話をアチコチで耳にする。アインシュタイン然り、正にプロの棋士のように、直感による何手も先へのジャンプが、ソフト開発者にもあったのではなかろうか。

 経済学者が説くように、地球の資源が有限であるのに対して、人間の欲望は無限である。アインシュタインが如何に世界平和を叫んでも、人間の欲望故に広島に原爆は落とされた。人工知能技術の発展は、かつての物理学の革命が人間界に巻き起こした悲劇の再来を連想させて私は空恐ろしくなる。

しかし同時に私は野党よろしく批判だけして善人を決め込むつもりはない。私は演奏活動をしていて、どうしたら日々質の高い演奏の再現率を高めることが出来るかを考えていて、そのノウハウを私のお弟子さんに開示して日々の糧を得ている。こうした私の生活は一見人畜無害のように思われるが、実は本質的な意味においてはこれもまた紛れもなく人間の欲望の無限性に属する話だと思えてならないからだ。



自校史教育                  百錢会通信 平成28年3月号より

  私が大学生の頃と言えば早30年も昔の事だ。1960年以降、特に70年代に邦楽界を最も沸騰させたのは学生邦楽サークルのメンバーであったと思う。ところが80年代後半になると大学の邦楽系サークルの部員は激減、廃部の話がアチコチから聞こえてきたものだった。思い返せば私の同世代には「日本的」であるものに対する“不本意さ”というような意識が強く漂っていたと思う。今だに私の演奏会に足を運んでくれる同級生は皆無に等しい。ところが我々から一回り下の年代あたりから、徐々にではあるが復調の兆しが現れて来ているように感じている。何故こんなことが起きたのかということは、私にとって長年の謎である。様々な社会情勢などを手掛かりにその原因を今まで考えて来たが、確固たる結論には至らない。そして、また同じようなうやむやな結末になるのかも知れないのだが、最近再びこの謎に挑む気をそそられたキーワードが「自校史教育」である。

 「自校史教育」の理念をざっくりと要約すると、次のようなことらしい。日本の学生は入学試験という関門によって明確に序列化された学校に在籍していて、多くは、本当はこんな学校には来たくなかったという“不本意入学者”である。こうした学生に、不本意ながら在籍している学校の歴史をレクチャーすると、それがどのような学校であっても、学生の勉学意欲は高まり、成績上昇の傾向が認められるというものだ。これだけ聞くとそんな簡単にいくものか?と思ってしまうが、その要点には意味深いものがあると感じた。このレクチャーの核とは、その学校の歴史の良いことも悪いこともまるごと教えるということだ。単なる発展史や顕彰史ではなく、その学校がどういう理念を掲げて社会に向けて何に成功し、何に失敗してきたかを知ることにあると云う。このレクチャーを受けて自校に誇りを持つ者もあれば、失望する者もあるだろう。むしろ後者の方が多いかも知れない。しかしいずれにしても今自分のいる位置を知る手掛かりにはなる訳で、それは実は希望も失望もない無気力という牢獄からの脱出とも言えるだろう。

 この話を知ったのは、私の友人の三味線奏者が主宰する会のある女性の門人が、その会報に投稿した記事によってであった。その方のその後のひらめきが面白い。「自校史教育」の話を聞いて一月ほど経て、突然あることに気が付いたというのだ。それは、自分は“不本意日本人”であったと。以来、日本史に親しむようになり、いつの間にか音楽の趣味はシャンソンから邦楽へ、気が付いたら和服で緋毛氈の上で、嬉々として三味線を弾き唄っていたというのである。

 1970年代に邦楽界を大いに盛り上げた世代も、80年代後半に邦楽を最も嫌悪した我々の世代も、実は根っこは同じで、多くは “不本意日本人”ではなかったか?という思いが込み上げてきたのである。ここで明言するが、私自身は日本人であることを不本意だと感じたことは未だかつて一度もない。その理由を一言で説明することは出来ないが、結論だけを言えば、それは私が幼少の頃から虚無僧尺八と共に生きて来たからであると信じている。それ故に同世代の中にあって私はどうしても孤独を強いられて来たのであるが、それも私の背負った因縁であって、これから語り合える友人は増えてくると楽観している。



玄  冬                        百錢会通信 平成28年2月号より

  四季のイメージを色で表すならば、とはしばしば耳にする話題であるが、何度聞いても不思議に思うのは、古代中国の五行説で言うところの「白秋」と「玄冬」である。「白秋」は何とも美しい言葉だが、現実的には秋はやはり色づく木々の黄葉を思い浮べてしまうし、「玄冬」に至ってはそもそも「玄」とはどんな色?と頭をかしげてしまう始末だ。辞書で調べてみると、奥が深過ぎて光の届かぬところの「黒」ということらしい。

  昨年に引き続いて今年も南相馬市の小学校で演奏させてもらうことになった。震災後に南相馬を訪れるのは今年で3回目。常磐線は未だ休止中であるから、今回も福島駅から車で入った。3年前、福島から南相馬へ向かう道すがら、飯館村の景色を目の当たりにした時の衝撃は今も忘れることが出来ない。人ひとり無く、全ての灯りは消え去り、凍りつくような沈黙だけに覆われた死の村であった。昼間であるのにあの景色は、正に光の届かぬ闇以外の何物でもなかった。

  それから2年の月日が流れて再び訪れてみれば、村のアチコチには除染の為に削り取られた膨大な表土が、不気味に黒い特殊なシートに包まれて、行く宛ても無く、意味も無く、廃棄せられた巨大な文鎮のように重く地面を圧していた。小学校にたどり着いて子供達のつぶらな瞳に逢えなければ、息の詰まるようなこの胸の苦しみからは逃れられなかったかも知れない。

  以前の拙稿でも書き記したことだが、この地にこれからも暮らして行こうと決めた人々の心には、言葉にはならない大きな覚悟があるという。敢えて言うならそれは諦念と言う言葉が一番相応しいのではなかろうか。とかく現代は何でもかんでも前向きに生きろ、諦めるな、己の可能性を最大限に生かせ、夢に向かって頑張れという。もちろんそれが悪いことではないし、我々の日々の生活に大いなる歓喜をもたらしてくれるのは確かなことだ。しかしそういう集団的無意識ともいうべき価値観が 、人間が生きるということの根源的な哀しさに対する無感覚を助長してはいないだろうか。人間は無力であり未来永劫に悲哀と共にあると言うことを正面から受け止め受け入れ、その上でなお人生を肯定的に生きようとする東北の偉大なる人間苦の歴史とは、およそ次元を異にすると言わねばならない。

   20歳の頃、初めて東北線に乗った時、福島入りして程なく視界に広がった一面の雪景色もまた私は忘れることが出来ない。自然の猛威でありながらその色と静寂の所為であろう、雪には清浄、浄化の念を催さずにはいられない。その崇高さ故に冬の色として多くの人が白を思い浮かべるであろう。「玄」いう文字は、ただ奥深いという形容ではなく、森羅万象の根源としての意味がきっと大事なのである。白色の雪(芸術がそれでありたい!)が黒い人間の欲望の闇を浄化してくれること、そして「玄」の世界へ人間が正しく導かれる、そんなことを頻りに思い願う今年の冬である。



夢の中で逢える人             百錢会通信 平成28年1月号より

  昨年の後半に今までずっと親しくして頂いていた方とのお別れがいくつもあった所為だろう、今年のお正月、心の内は何時になく静まっていたように思う。またこうした思いが年々増してくるのは、歳を重ねれば自然なことなのだろうと思っている。昨年末の押し迫ったあるご葬儀の帰り道、故人を偲んで献杯しようと友人と立ち寄った寿司屋のカウンターで、「自分みたいな酒好きが長生きするのは難しいかなぁ。」と冗談交じりにぼやけば「善ちゃんそんな話をしないでよ!」と笑いながら友人はその会話を制止してくれた。その何げない気遣いが嬉しかった。「自分の死期は案外近いかも知れない・・・」と父が頻りに呟き出したのはいつ頃だろうかと思い返して考えてみると、50代も半ばの頃だったと思う。それからかれこれ四半世紀、有難いことに両親が元気でいてくれているので、最近時折脳裡をよぎることのある、「自分はあと何年で旅立つのだろう?」などという思いも、やはりどこか他人事のように消え失せてしまうのである。

 父方の郷里の群馬に、私が小さい頃から本当に世話になった伯父がいた。その伯父も尺八を嗜んでいて、主に箏や三絃との三曲合奏を楽しんでいた。誰からも好かれる心優しい人物で、私の群馬での教授活動も本当に親身になって応援してくれた。「ウチの甥御は尺八の達人ですぜ!」と愛嬌たっぷりに宣伝してくれて、お陰で私は群馬で沢山の竹友と知り合うことが出来たのである。その伯父が他界して何年経つだろうか。実はお別れしてからこのかた、私は墓参に未だ一度も訪れていないのである。そんな不義理な話があるものかとも思うのだが、私の中では永遠の記憶の中で「しばらく逢ってないけど元気かな・・・」などと呟き、たまに夢の中で逢って言葉を交わすという、錯覚の中に伯父さんと共に生きているという気分が心地良いので、何としても墓前に向かう気がしないのだ。

 私が伯父の墓参に行かない理由は、裏を返せば、足繁くお参りする人のそれと実は同じだということも良く承知しているつもりだ。「墓参」とは、「墓所」というものが、実在する“現世”から“異界”を垣間見ることの出来る“境界”であるという前提の上に成り立つ、土俗的な信仰儀礼であろう。「首を回らせば五十有余年 是非得失一夢の中」と良寛が言ったように、そもそも“現世”が「実在している」ということすらも疑い始めた浮世離れの尺八吹きに、「墓参」の意味が薄れてしまうのを、どうか赦して頂きたい。尺八を吹くということはすなわち夢を見ること、夢に生きること、最近はそう思えてならない。

「吾子すべからく多く古書を読み、古人と晤言して、以て胸間の汚穢を蕩除すべし」と言えば少々堅苦しいが、夢の中で逢える人は別段偉大な聖人でなくとも、きっと心の清涼剤となるだろう。故人と逢えるのは眠りの床や墓所ばかりではない。その心構えで今年も大いに竹を吹きたいと思う。



前略、かしこ                  百錢会通信 平成27年12月号より

  招待状、案内状、出欠の連絡、御礼状。この秋も演奏会関係の、数え切れぬほどの手紙が私の前を往き来した。さてその中身の文面の話。受け取る側は、日時や会場などの要点は確認するが、時候の挨拶文など、所謂書簡の“定型”部分については、大概は何気なく流し読みされることが多いのではないだろうか。しかし送り手は、きっと流し読みされるであろうことが解ってはいても、その部分の文面の作成に、結構、唸りながら悩んでしまうものである。

 誤字脱字に注意するのは言うまでもないことだが、一番苦労するのは、その用語、言い回しが適切であるか否かの判断であろう。「中秋」なのか「錦秋」なのか?に始まって、「拝啓」か「謹啓」か?などなど。要するに我々の実生活にはその意味が極めて希薄となってしまった有職故実の縛りが、書状の世界には今も尚 “棲息”しているからである。

 大袈裟な考え方かもしれないが、こうした様々な約束事は、「身分制」という仕組みがその秩序を支配している社会に有効なのであって、国民の平等を謳った戦後教育を受けた我々の世代以降、その実用性を実感できない人間が加速して増加することは免れない。

 邦楽の世界には僅かだがまだ身分制は現存している。そして若い世代を中心としたこの仕組みに対する反発もある。しかしいずれはその対立すらも忘却された時代が日本に訪れることだろう。杞憂かも知れないが、その時に何かの事件が起きなければ良いが・・・という思いが強くなってきた。

 それはさておき、我々身分制の良さを実感出来ない者が、その身分制の産物であるところの書状の約束事を守るために、ことに及んでは文例集をめくりながら、肌に馴染まぬ拙い手紙文を書き続けるのは何故だろう?と、この秋、山のように届いた演奏会の案内状を眺めながら考えた。答えは簡単なことだ。こうした古き日本の仕組みの中で生まれた美の世界を、その上澄みだけを要領よく掬って残すことの難しさを、肌で感じているからだろう。後輩たちの、私より更にぎこちない挨拶文を読むたびに、そのジレンマが伝わってくる思いがした。

 今年の夏の終わりころ、「長引く残暑お見舞い申し上げます」という書き出しの、人間国宝の先生から頂いた葉書を私は今でも大切に保管している。書状を差し上げれば翌日には返信の葉書が届くという、誠に厳格な礼儀作法に徹底されていて、あらゆる場面において毅然とした、胸のすくような思いのする先生である。「長引く」のたった一言で、使い古された残暑見舞いの常套句も、まるで先生の張りのある力強いお声が今ここに聞こえてくるような思いにさせられたものだった。葉書に僅か数行にして、我々の手紙文とは既に格が違う。有職故実の染み込み方が違うのだ。こうなると、「前略」の一語でも威厳に満ちていて、いつの間にか書状を上に頂いて低頭している自分がいたりして、思わず失笑した。旧仮名づかいの「かしこ」の筆跡も余閑を残し、正に余人をもって代え難き先生のような人物は、今後三曲界に輩出されることは無いだろう。後に続く我々はこうした先達の後姿を瞼に残しつつ、新しい秩序と音を紡いでいかなくてはならないのだ。



信仰の原点                  百錢会通信 平成27年11月号より

 毎月の巻頭文はいつも小難しい・・・という声が聞こえてくる。そこでたまにはくだけた話を、と考えてみたが元々が堅物故に中々思いつかないものだ。妻との会話の中で、こちらは笑い話のつもりではなかったのに、やけに妻の笑い転げたことがあったので、それで今月の余白を埋めてみたい。

妻が言った。あなたに“モテ期”はなかったの? 残念ながらトンと思いつかなかった。強いて言うなら・・・、小学校1年生の頃。久しく思い出すこともなかった昔話だ。

同じクラスにまるでお人形さんかと思うほどに可愛らしい子がいた。まつ毛が長く、真ん丸の愛らしい大きな瞳で、髪毛はいつも丁寧に編み込まれ、緩やかにカールされた耳元のそれは栗毛色で、日に当たると眩しいほどにキラキラと金色に輝いていた。その小学校の学区には、歓楽街と呼ぶ程ではないが夜の賑やか繁華街があり、その付近の家の子の中にはちょっとませた男子も多く、彼女は常にそうした男どもに取り巻かれ、その渦の真ん中にあって、まるでマリーゴールドのように華やいでいた。もちろん私はそんな光景をいつも遠くから眺めているだけの少年だった。

そんな私が彼女に最も近づくことが出来たのは、朝礼などで男女2列に整列する時だ。身長の低い者順に並ぶと彼女も私と同じ、前から4番目。だからと言って仲良くお話できる訳でもなく、やはりただ真面目に黙して立ち尽くすだけの時間が徒らに過ぎて行った・・・。

さて入学して程なく、初夏の遠足の近づいたとある日に担任の先生から衝撃的な申し渡しがあった。「遠足は背の順に並んで隣同士手を繋いで歩きましょう!」この私が彼女と手を繋いで遠足に?!と、考えただけでも心臓が高鳴り、何を話して歩けば良いのだろうという不安とときめきの入り混じった甘い興奮は日に日に昂まっていった。ところが当日、彼女の前の女の子がまさかの病欠、1人繰り上がって結局私の遠足のパートナーは彼女の1人後ろの女の子となった。失礼ながら落胆したのは確か、しかし「それもまた人生・・・」。まさかそんな悟ったような言葉を当時思いついた訳ではないけれど、安堵の気持ちの方がいくらか優っていたように覚えている。

その小学校は2学期まで通い、引越しの為に年明けの3学期には転校することになっていた。教室に漂う秋の空気の所為もあったのだろう、漸く馴染んできた学校を変えるのが何となく寂しい気持ちがして、校庭の落葉をボンヤリ眺めたりすることがあった。

その小学校で過ごす最後の大きな行事は秋の学芸会。事件はその時に起きた。暗幕の張られた体育館の中、昼間なのに暗闇の中にいるという非日常が児童たちの心をワクワクさせたのだろう、演目と演目の幕間は皆大騒ぎではしゃいでいる。私は騒いではいけませんと先生に言われたのだからとクソ真面目に大人しくしていた。すると後ろから何者かが覆いかぶさるようにぎゅっと力をこめてしがみついて来た。本当は遊びたいのを我慢していた私は堰を切ったようにケラケラと笑いながら「やめてよ、やめてよ、誰?!」と叫んだ。ふと見るとそれはあの愛くるしい彼女ではないか!体育館の暗闇の中で頭の中は真っ白に。生まれて初めての甘い目眩。彼女は次の演目が始まるまでその手を緩めなかった。

家に帰っても相当のぼせていたようで、すぐさまそれに気付いた母は「惠介お前どうした?」と問い正してきた。それでかくかくしかじかだと素直に答えると、母は腹を抱えて笑い転げていた。喜んでくれたのだと思う。夢のアクシデントは、あとにも先にもそれ一回きり、彼女の“お戯れ”の真意は今も謎のままだ。

謎のままで良かったのだと思う。それ以来成人するまで、およそ女性には縁のない淋しい青春時代だったが、ひどく落ち込むこともなく生きてこれた理由の1つは、この謎だったかも知れない。自分は自分のあずかり知らぬところで誰かに慕われているかも知れない、誰かに愛されているかも知れないという空想は、あらゆる信仰の原点であって、人間の思考の中での美徳の1つではないだろうか。



孔子の言葉は・・・             百錢会通信 平成27年10月号より

  孔子の言葉は正直に言えば苦手である。仰ることは至極御尤もで返す言葉もなく、わが身を振り返ればひたすら反省の独居房に閉じ込められるような気がするからだ。敷居が高いという、過剰な先入観もあるのだろう。だからこれを読もうとする時は何となく腰が引けてしまうのだ。しかし “おっかなびっくり”に覗いて見ると、不思議なことにあちこちで音楽の記述によく出会う。不思議に思うのは、音楽はすなわち享楽という図式で礼節の世界からは反対にあるという印象があるからで、これもまた誤った先入観なのかも知れない。

 

「子、斉に在りて、韶を聞く。三月、肉の味を知らず。曰わく、図らざりき、楽を為すことの斯に至らんとは。」

 

(しょう)とは伝説上の聖帝である舜(しゅん)が作ったとされる曲。孔子はこの曲を聴いて、音楽が人間をこのような高みに導いてくれるものとは思いもせず、その感応の深さは三月も肉の味を忘れるほどであったというのだ。私の師匠はこの話を幾度となく解説して下さったが、「この“肉の味を知らず”とは美味い肉の味のことではなくて“女色の味”という意味だ!」と、その部分に随分と力が籠っていた・・・。確かに肉料理の味では様にならないから、やはり人間の肉体の、日常的な欲望を忘れるほどであったというのが、適切な解釈であると思う。

 

「詩に興り、礼に立ち、楽に成る。」

 

人はまず詩によって心の感激を知り、社会の摂理を学んで自己を律することを学び、そして最後は音楽によって全ての調和の何たるを知る。ド素人の論語解釈で甚だ自信はないが、こんな意味ではないだろうか。日本でも荻生徂徠の一派は盛んに自ら音楽を奏で、孔子の「礼楽」の実践を試みていたようだ。ただしその音楽は一世を風靡していた三味線音楽ではなく、折り目正しき雅楽であったようだ。

 その昔、テレビ出演を頑なに拒んでいたロックシンガーの矢沢永吉が、珍しくNHKの教育テレビに出演したことがあって、今ふとその時のある台詞を思い出した。「ミュージシャンになろうなんて思うヤツは大体ナンパなわけよ。ところがね、続けてると音楽ってのはね、別世界を開いてくれるんだよね。」確か、こんな文句だったかと思う。江戸の三味線音楽を淫靡の楽として拒絶した荻生派には受け入れられない言葉かもしれないが、矢沢の言葉は「礼楽」の思想のある一面を語ってはいないだろうか。音楽が人間を深く化する力を秘めているということを直感的に感じ取った人間の生の声だったと記憶している。

音楽による感化の問題は、自己陶酔や精神の崩壊をも孕んでいて簡単に話をまとめることは出来ないことだろうが、子に曰く、

 

「これを知る者はこれを好む者に如かず、これを好む者はこれを楽しむ者に如かず。」

 

あまり難しく考えずにまずは楽しむのがよかろう。けれど私は今月の緊張の舞台をどのくらい楽しむことができるだろうか・・・。やはり孔子の言葉は苦手である。



来る日も、来る日も            百錢会通信 平成27年9月号より

 小学校時代、少年野球に夢中だったことをよく話して聞かせてくれる筝曲の友人がいる。あるトーナメントの決勝戦で運悪く筝曲の総浚いと日程がぶつかってしまったそうで、彼はレギュラーの主力選手であったにも関わらず、交渉の余地もなく箏の師匠からは決勝戦の欠場を命ぜられたという。泣く泣くグラウンドを去って合わせの会場へ向かい、後で聞けば試合は敗退・・・。彼の筝曲家として生きていく覚悟の奥底に、この出来事が無意識のうちに深く関与しているという。

 彼が進学した高校の野球部は甲子園での優勝経験もある有名校だ。その野球部員を見てその水準の高さに愕然としたそうだ。基礎体力、技術力、センスの良さ、どれをとっても自分などは遥かに及ばない。努力を必要としない天才的な資質に恵まれた選手も稀にはいるのかも知れないが、リトルリーグやシニアリーグなど、小学生から既に硬式ボールを握って専門トレーニングを積み重ね、幾度もレギュラー獲得の試練を勝ち抜いて来た猛者たちであろう。しかし、そういう人材を擁しても全国制覇はままならないのだ。増してやその中からプロの世界に入ることのできる選手は一握りだから、一般聴衆からは何気なく見られているであろうテレビの中のプロ野球選手は、注目のスターでなくても自分には十分偉大に映ると、しみじみ彼は語るのである。

 水準の高さ、ステージの違い、といった言葉から私が連想するのは昔の芸人のレパートリーの膨大さと、その体への染み込み方の深さ、そしてその稽古の激しさだ。昔盲人の筝曲家が、たとえ町の師匠レベルであっても専門家として立つには、いつでも演奏できる曲が少なくとも7080曲はなければならないという話を、何かのエッセイで読んだ覚えがある。能楽などは一演目があの長大なものであって、しかもそれが200曲を越えるというのだから、一体どんな稽古をすれば一人前の能楽師になれるのだろう。

 私のレパートリーといえば、どれも10分前後の尺八本曲が僅かに30曲ほどである。しかし残念ながらこれらの尺八本曲の演奏依頼を受けることは本当に稀だ。頼まれることの多いのは筝曲との合奏曲だが、こちらのジャンルで頭に入っている曲は僅かに10曲あまりしかない。一度覚えても瞬く間に記憶の用紙は真っ白になってしまう。先日も、ある浴衣会に持参したずっしりと重い楽譜の山を眺めて、いつもの事ながら苦笑いしたものだった。

 お浚い会の当日、昔の師匠は手ぶらで出かけて「今日は何を弾いたらいいんだい?」と仰ったそうだが、自分も一度でいいからそんな台詞を言ってみたいもんだね、と仲間とはよく笑い合うが、兎に角やるべきことは一つ。来る日も来る日も稽古を積んで心と体の奥深くに芸を染み込ませて、やがてそれが新しい光を放って溢れ出す日を夢見ることだ。かつて友人の師匠が決勝戦の野球グラウンドから彼を無理やり引き連れ戻したのは、この稽古の積み重ねの、その重い意味を知ればこその愛の鉄槌であったに相違ない。



日本音楽、男、戦争。          百錢会通信 平成27年8月号より

  ある女性奏者が言った。「地歌なんてとても真心こめて歌う気にはなれないわ。だってあんなに男に都合よくメソメソ泣く女がいると思う!?」なるほど!と思わず膝を叩いて大笑いしたものだった。

 地歌に「末の契り」という曲があって、尺八吹きには人気の曲だ。手事(器楽演奏部分)の懸りのゆっくりした部分に、誠に尺八吹きには堪えられない情の籠った節が付いているからではなかろうか。この部分をしみじみと吹く男の尺八吹きは、末期哀れの人生を背負った薄倖の佳人を、脳裡のスクリーン一杯に映し出していることだろう。男のナルシズムが捻出した、妄想上の女性以外の何物でもない。

 但し、ここで妄想の行き過ぎた己自身をニヤリと笑ってから吹く手事と、その妄想を抱えたまま吹く手事では、全く趣が変わってしまうだろう。私は前者で行きたい。遊び心で手事を渡り歩いた方が、次に来る後歌に膨らみが出ると思う。

 ところが例えば「雪」なんていう、全編通して中々悲恋の深刻さから抜け出しにくい曲もある。曲中に本気で涙する人もあるだろう。だがこうした曲でも私なら、最後の一撥の余韻が消えたら盛大に拍手して、束の間20分弱の妄想から抜け出して、笑顔で会場を後にしたいものだと思う。緊張というエネルギーも適宜ガスを抜いて緩めてやらないと、楽しみにメリハリがつかないと思うからだ。しかし、哀しみのエネルギーをずっと胸に秘め続けずにはいられないという鑑賞態度もあるだろう。小難しい言葉を使えば“無限否定性”のロマン主義といったところだろうか。いずれにしろ同じ作品に対して、人それぞれの解釈や楽しみ方が保障されている社会に生きていられることは、つくづく幸福なことだと思う。

   人それぞれの解釈がなどと呑気なことを言っていられないのは、今時の憲法の議論だろう。私はここが私自身の政治信条を述べるための場ではないと思っているので、ここで改憲の是非を論ずる気はない。ただ、芸術の表現と鑑賞の自由が未来永劫に人間社会の基礎として担保されることを心から願って止まない一人として、最近一読して忘れられない言葉を記しておきたいのだ。それは自衛隊の前身、警察予備隊の指導にあたった、コワルスキーというアメリカの軍人の述懐である。

 「私個人としては、あの恐ろしい戦争のあと、大きな希望と期待をもって生まれ変わった民主主義国日本が、国際情勢のためやむをえないとはいえ、みずからその理想主義憲法を踏みにじり、国民がきっぱりと放棄した戦力を再建せねばならなくなったのは悲しいことであった。」

 ここでいう国際情勢とは朝鮮戦争のことだ。日本の再軍備は実質上アメリカから日本へ下された命令である。繰り返し断っておくが、私はここで自分の国際政治に関する信条を表すつもりはない。かつて日本軍に、日本国民に銃口を向けて引き金を引いたアメリカの軍人が、太平洋戦争を「あの恐ろしい戦争」と表現して戦慄し、未だ世界に戦火の止まぬことに涙しているということを、記しておきたいだけだ。戦争の根底には人間の底知れぬ欲望が横たわっているのは考えるまでもない。また同時に、戦争という人間の欲望の大規模な暴発には、主に男の自己陶酔が深く関与しているのではないかということを、私はかなり確信的に感じている。おやっ・・・、僅か10数分の近世日本の音曲にも同じものが潜んでいるかも知れない、ということを思い出したら、背筋がヒヤッとした。



3つの話                     百錢会通信 平成27年7月号より

   酒場を賑わすサラリーマンの会話のクライマックス、それは社内政争の話題に極まるそうだ。それに引き換え演奏家の皆さんは高邁な芸術のお話とかをなさるのでしょう・・・? と、聞かれることがある。が、恥ずかしながら、我々も同業者が集まれば必ず業界内の政治闘争の話ばかりだ。“すったもんだ”の揉め事の話なら枚挙にいとまが無い。これが1つ目の話。

  世の実業界のそれに比べたら可愛いものなのかも知れないが、どんな些細なことでも人間同士の切った張ったの話を聞けば哀しくなる。出来ることならいつでも気楽な趣味の話で盛り上がりたいものだ。これが2つ目の話。何でも知ることは本当に楽しいし、それを糧に創作するのは尚面白い。例えば、どうしても上手く吹けない箇所があって、それを克服するヒントが話題に上ったならどんな気持ちになるだろう。またそのテクニックを使って今までに誰にも聞かせたことがないような即興演奏ができたなら!などと想像を膨らませたら、どんな大人だって目をキラキラと輝かせないではいられないだろう。「童心に帰る」ということが趣味の世界で幸福を掴むキーワードではないかと思う。

  しかし、そんな風にただ無邪気にはしゃいでいる内は良いのだけれど、専門技術屋張りに技と理論を掘り下げて、余りにマニアックになるとこれまた食傷気味になる事があるから、注意が必要だ。知識や教養、技術の水準の高さによる優越感が目的になってしまうという精神状態は誰にでも起こり得るだろう。その瞬間に趣味の純粋な光彩は翳り始めるのではなかろうか。清廉なはずの趣味の話も、いつの間にかゴシップ、スキャンダルにまみれた権力闘争の話と同じレベルに成り下がってしまうことは、実は決して珍しいことではないのだ。

  だからどうしても3つ目の話、少し大袈裟だが、例えば真実の幸福とは何か?とか、美とは?とか、更には宗教、哲学といったことにさえ、正面から向き合おうという話に辿り着くのはごく自然の成り行きだと思うのだが、一般にこの手の話はまず間違いなく敬遠される。というより寧ろ嫌悪(ゝゝ)されると言った方が正確かも知れない。こうした話題は時に難解な用語の多用も免れないから嫌気が差すのは致し方ないとも思うのだが、人間の精神文化について知的な思索を試みるということを全く拒絶することが、現代ほど圧倒的な多数を以って市民権を得てしまっていることに、私は何か空恐ろしいものを感じないではいられないのだ。

 

  先日ご招待頂いたある地方の演奏会で、尺八のキャリアは私などよりもずっと古い地元の先生と、23日という僅かな滞在ではあったが親しくお話する機会を得た。尺八を始めたきっかけを尋ねると、ラジオから流れてきた竹の響きに魅了されたのが始まりだと仰った。辛い辛い大学の受験勉強の最中の出来事だったそうで、それだけに、合格の暁には是非とも稽古を始めよう!との思い止み難く、以来50年に渡って尺八への情熱は冷めたことがないと言われた。私はこの話に率直な感激を覚えた。たかだか半世紀前の日本にはまだこんなことがあちこちで起きていたのかという驚きと、現代の大衆の感動の質に対する一抹の寂しさの入り混じった感慨であった。

  またその先生には、どこの演奏会にも連れ立って出演して、ともに切磋琢磨して来たという、 “竹馬の友”ならぬ“竹の友”がいらっしゃって、その先生の話も私には味わい深かった。静かにきっぱりと仰った。私は人生のいかなる時も尺八から離れずにいたことが幸せでした、と。辛い時も吹き、嬉しい時も吹く。辛いことがあれば悲しみや怒りを吐き出すように、嬉しいことがあればありったけの歓喜を込めて吹く。「今の家内にプロポーズして了承してくれた時も吹きましたよ。嬉しくて嬉しくてですね!」

  こういう話は私にとって、先の話題の分類の中では紛れもなく3つ目の話のカテゴリーに属することに気がついた。こうした平易な話題にも、奥行きの広い世界への扉が開かれていることはあるものだ。ここに着目すれば、難解と敬遠される、芸術や宗教、思想、美の世界についても、もっと多くの人と言葉を交わすことが出来るのではないかと思ったのである。



熾  火                        百錢会通信 平成27年6月号より

「夢と知りせば覚めざらましを」、というような甘い夢などトンと見たことがない。見るのはいつも、電車に遅れて本番に間に合わないとか、着物の準備が出来てないのに開演の時間になってしまうとか・・・。覚めてホッと胸をなでおろすような夢ばかりだ。

つい先日見た夢は演奏にまつわるものではないが、やはり自分の心に沈殿している一つの悩みに端を発している。それは私が父の前で焚き火をしているという夢だった。これから暑さも厳しくなろうという季節に暑苦しい話のタネだが、場面は寒い冬の朝なので、ご容赦頂きたい。

建設現場の冬の朝、父も私も地下足袋に手甲シャツ、ニッカーズボンという出で立ちである。私の鳶職人時代の思い出が夢に出てきたのである。今は余り見かけなくなったが、冬の現場の朝は始業前のひと時、決まって焚き火をして職人達は暖をとったものだった。半人前の私は一日中仕事のヘマをどやされ続けるのであるが、それはこの焚き火の時から始まるのである。「惠介、一斗缶に火を起こしておけ!」。先ずは焚き付けの新聞紙や紙くずなどに火をつけて小さな木屑などを燃やそうとするのだが、これが中々燃え移らない。紙だけがパァっと燃えては直ぐに消えてしまうのである。ここで怒鳴り声が飛んでくる。「焚き火の火ひとつも起こせねぇのか!よく見てろ!」。癇癪を起こした父が荒い手つきで木屑を組み直すと、あら不思議みるみると炎は燃え盛るのである。そこですかさずもっと大きくて硬そうな、一寸やそっとでは燃えそうもない薪木を焼べると、パチパチと音を立て始め、いつの間にか熱くて近寄れないほどの炎が勢い良く立ち昇るのである。「山で遭難したらおめぇみたいなのが一番先に凍死するんだろうよ」。私は返す言葉も無く、惨めにその場に立ち尽くしている・・・。現実にこんな場面が何度もあったのだ。

要は熱を外に逃がさないようにして薪木に炎を這わせるだけなのだが、私がやれば中々燃え移らず、父が焼べれば不思議とよく燃えた。

私が父と一緒に働いていた頃はおおらかな時代で、現場の廃材をその場で燃やしてしまうことは当たり前だった。時には処分に困った庭の生木を燃やしてしまうこともよくあったが、特にこういう水分を沢山含んだ大木を燃やすのは容易ではない。しかし父の手に掛かれば、時間はかかるが必ず灰となるまで綺麗に燃え切ったものだった。こういう木ほど一度火が起これば消えること無く、炎は無くなっても煌々と紅い熾火として永くその熱を失わない。す放っておいて、10時、正午、3時の休憩の時となっても静かに燃え続けていて、その上に新たな薪木を乗せれば真赤な炎が瞬く間に甦るのだ。

なぜこんな記憶が今更夢の中に蘇ってきたのか。その理由は私には考えるまでも無くよく分かっている。今、日本の伝統文化の火を起こすためには何をするべきか、侃々諤々の議論がなされていて、様々な試みが実行されているにも拘らず、中々大きな炎とならないでいる。そのジレンマが、あの冬の現場の朝の記憶に重なっているのだ。

今の邦楽界の多くが、否、日本全体の音楽界が、瞬く間に燃えては消えてしまう薄い薄い紙っぺらを燃やし続けているように思われてならない。鍛え抜かれた古典芸能は生木を燃やして出来た熾火のような存在かも知れない。しかし中々消えない熾火も正しく配置しなければ途中で消えてしまうことだってあるのだし、それにそもそも燃え尽きてしまえば元も子もない。正しく次の大木に火を移すのに、焚き付けの紙ばかりを焼べていても始まらないと思う。



新 緑  - 8 -                百錢会通信 平成27年5月号より

   丸一日の休日は久しぶりだと思い、ふと手帳をめくって見て驚いた。もう3ヶ月も休み無しだったからだ。今年ももう3分の1が過ぎてしまったのか・・・というなんともやるせない気持ちに、中高年の方々なら共感して頂けるのではないだろうか。そう思うと少し焦るような心持がして、この珍しい休日をどう過ごそうかと気もそぞろとなってしまった。ただ、幸いその日は暑からず寒からず、爽やかな空気が殊の外に心地良かったので正気を取り戻し、近頃は随分とご無沙汰となっていた近くの森の散策に出かけることにしたのである。

 新緑に“盛り”という言葉は相応しくないが、刻々と変わる葉の緑色の中で、その日の森は私の好む新緑の“頂点”だった。若葉の擦れ合う隙間から射す木洩れ日の中に佇むと、いつもの事なのだが私は軽い目眩にも似た浮遊感の中で快い幻覚に襲われるのだ。時間の感覚が束の間麻痺するかのような。

 突然「こんにちは!」という元気な子供の声がして私は陶酔境から現世に引き戻された。見ると近くの幼稚園児達が森の中の広場でお弁当を広げるところだった。保育士も笑顔で挨拶をしてくれるのはマニュアルによるものだろうが、それでも理屈抜きに幸福な気持ちになった。園児たちの笑い声こそこの新緑の景色に相応しいと思った。

 ところが広場を通り過ぎて数分も経たぬうちであろう、辺りはそよ風と鳥の声のみとなってしまったことに気付くと、急に淋しくなってしまった。何故か秋の枯葉の道の景色が脳裡をよぎった。少し雲が出てきたようで、僅かな日の光の陰りが緑の色を大きく変えたことは確かだったが、夏を飛び越して枯葉の径を想うのは些か気が早すぎやしないかと苦笑した。径に積もったままの枯葉の匂いの所為かも知れないと思った。とその時「アニさん若いね、流石に坂道でも足取りがしっかりだ!」と言う、しわがれてはいるが腹に力のこもった声が耳に飛び込んできた。歳の頃は70代と思しき職人で、どうやら市の委託か何かで森の手入れをしている人のようだった。

 いくら歳下だといっても50過ぎの“オジさん”を“アニさん”と呼ぶ習慣は、昔気質の職人の間でも無かったように思うのだが、もしもこの気さくで健康な老人の気持ちが瞬間50代に戻っていたなら、私は紛もなく“アニさん”なのである。虚を突かれた思いがした。何故なら私の中には、迷子になって泣き叫んでいた幼年の私も、草野球のボールを無心に追いかけていた少年の私も、人生の進路の選択に奥歯を噛みしめて苦悩していた青年の私も、只の記憶ではなく、むしろ今に生々しく生き続けていると思われてならないからである。今しがたすれ違った園児や保育士の声や笑顔も俄かに蘇ってきた。普段は当たり前に感じていた時間の秩序が信じられなくなった私はしばらく森の小径に立ち止り、デジャヴ(既視感)や、そのまた逆の日常的な体験が未知のものに感じられるというような未視感の、不思議な錯綜を体験したのである。

 尺八の古典本曲を聴いて青春の讃歌であるという人は皆無だと思うが、巷間ささやかれるように古典本曲は人生の老境を表したものでもなければ弔いの曲でもないと感じている。私の森の中の先日の恍惚境は、脳のメカニズムから説明のつくことかもしれないが、あの感覚を保持して、謎は謎めいたままにして尺八を吹いてみるのも楽しそうだと思っている。



母の訓示                    百錢会通信 平成27年4月号より

  その昔、私は自分のリサイタル活動のスポンサーを募った事があった。今思うと、よくそんな大それたことを考えたものだと思う。80年代のいわゆるバブル好景気を背景として、「企業は芸術家を須らく支援すべし」という様な言葉があちこちから聞こえてきた時期だった。そんな文化人気取りのスローガンに迂闊にも私は浮かれていたのだろう。財界や国家が芸術家を支援するのは誠に結構な事だ。ただし、芸術家の側から進んでそれを訴えることに全く恥じらいが無いとしたら、それは芸術家の本来的な純潔からは逸脱していて、既に淫しているとは言えないだろうか。今はそんな思いが強くなってきた。

  しかし当時の私は時代のムードに飲み込まれて、生来の“引っ込み思案”は何処へやら、虚無僧尺八を世に売り込むことに腐心していた。否、売り込もうとしていたのは、己自身であったのかも知れない。生きることに必死で、やみくもに一生懸命だったのだから悪事を働いたとまでは思わないけれど、今思い返せばやはり尺八吹きとして決して美しい姿では無かったと思う。

  そんな若気の至りを責めるでもなく、当時から今も変わらぬエールを送って下さる私の恩人の一人が、虚無僧研究会顧問の高橋峰外師である。実業界では日本郵船の副社長まで務め、海運の「サムライ」として世界に名の知られた人物である。退職後はその剛腕を見込まれて学生時代からの親友、石原慎太郎元東京都知事の要請で首都大学理事長に就任、大改革を成し遂げた後に、昨年無事に任期を終えられたようだ。今を遡ること15年前の2000年に、私はなんと高橋氏に企業の協賛を得る手立てはないものかと、とんでもない相談を持ち掛けたのである。

 もちろんそんな事が出来るわけがない。企業の協賛というものが個人のコネで何とかなるものではないことを実に快活な笑顔で教えて下さった。全く赤面の至りである。ところがその代わりに高橋氏は個人的な知り合いに呼びかけて喜捨を募り、「虚無尺八」と題した私の演奏活動を宣伝するための、プロモーションビデオの製作費を全面的に支援して下さったのである。しかもその名簿に名を連ねて下さった方々はその名を広く知られた各界の著名人ばかりである。ここへ来て初めて「エライことをしでかしてしまった・・・」と気が付いた。以来、高橋氏には、会う度に感謝の念と共に、自分の未熟さを恥じる気持ちが高まり、今でも顔が赤らんでしまうのである。

  しかしそれにしても、ちょっと不思議だったのは、二つ返事で協力して下さった時の高橋氏の態度が実に淡々としていたことだ。あの余裕というか、心のゆとりは何処からやってくるのだろうか・・・。それがつい先日贈呈頂いた高橋氏の著書を読んで、その謎が解けたような気がした。

  先月の3月に講談社から出版された著書のタイトルは「喧嘩の作法」。郵船時代、アメリカと繰り広げた丁々発止、或いは首都大学理事長時代に単身、教授会に乗り込んだこと等、様々な戦の話がとにかく痛快である。石原慎太郎氏との60年に渡る交友の逸話なども面白い。話はそれてしまったが、私がその著述の中で、あの高橋氏の心のゆとりの源はコレだ!と確信したのは、今も人生の指針となっているという、幼少時代にお母様から叩き込まれたという5つの訓示の中の1つであった。

  「人生の価値は立身出世・成功・栄華ではなく、どれくらい他人に奉仕し、何人かを幸せにしたかだ。貧乏は恥ではない。」こういうシンプルな訓示を生涯をかけて貫くのは並大抵のことではない。高橋氏を通じてお母様の信念と気迫が私にまで伝わって来た思いがして思わず胸が熱くなった。私は多くの人に助けられて生きている。宮沢賢治が望んでいたような、「自分を勘定にいれずに」人の幸福の為に力を捧げる人があれば、その後ろ盾には、きっとこうした日本の母の心があるのだろうということを、心して忘れてはならないと思う。



25年間                      百錢会通信 平成27年3月号より

 群馬の稽古の帰り道、車中の眠気覚ましに何か賑やかな音楽のかかるラジオ番組はないかと思い、何故か必ず流すようになったのがK's TRANSMISSIONというFM番組だ。ロックバンドのTHE ALFEEのメンバー、坂崎幸之助氏がパーソナリティーを務める。ロックやポップスには全く疎く話題の半分も理解できないのに、坂崎氏の中々マニアックな嗜好性に引き込まれてしまい、それなりに興味を持って聴くようになった。彼は1954年生まれで今年還暦を迎える。私より十歳も年上だ。ロックバンドのTHE ALFEEは昨年デビュー40周年を迎えるというから、浮き沈みの激しい芸能界で大したものだと思う。

 ところで、我々の業界ではリサイタルのチラシに、「開軒30周年記念」とか「芸道60周年」といったサブタイトルを目にすることが殊に多いのではないだろうか。古典芸能はその位の年月をかけないとどうも一人前という風格が備わらないというのが定説であるから、修行に費やした長大な年月というのが、演奏会の重要な宣伝材料となるのは至極当然のことなのであろう。

 それに比べるとTHE ALFEEデビュー40周年を迎えた坂崎氏のコメントはやけに淡々としたものだった。「年明けは少しのんびりして、3月に恒例のビートルズのイベントやって、それが終わったらすぐ春のツアーに出かけて、真夏に一発でかいイベントやったりやらなかったり、その間に新曲仕込んだりしなかったり・・・(笑)、んで秋のツアーが終わったらすぐ年末のイベントや年始の収録が怒涛のように押しかけてきて・・・。全部終わったら正月の豚の角煮を作ってハイお休み! 40年同じように過ごせたのが、それが幸せ。特別でないことが一番じゃないかなぁ!」と。辛いことも沢山あったのだろうけれど、そういうものはどこかに置いてきてしまったというような気楽さである。

 これが演歌の世界となると、少し古典芸能の雰囲気に近くなるような気もする。「下積み時代の紆余曲折あって今開花する芸の花道!」と言ったところであろうか。キャリアを積み重ねた年月に対する思いというか感慨みたいなものが、はたから眺めるとそれがアーティストによって随分と違うように映って見えるのは、それぞれのジャンルの違いによるのだろうか。否、古典芸能の血の滲むような修行を重ねてきた大家の中にも案外気楽な人はいるかも知れない。意外に簡単に結論付けることは難しい話題だと思うので、今は余り深く追求するのは止めておこうと思う。

 会報が今月で300号になった。1年間12か月で割り算してみると25年の歳月となる。創刊当時はバブルの絶頂期で世の中皆浮かれていた。企業が文化戦略とかメセナとか言って文化関係にお金を使っていた様だが、私には全く縁が無かった。来る日も来る日も、新しいお弟子さんの訪れることを祈り、一人入門すれば喜び一人去れば黙して寂しさに耐えた。小さなお浚い会の助演の依頼を受ければ小躍りして手帳に書き込み、合奏相手の喜ぶ顔が見たさに一生懸命に練習をした。虚無僧研究会の本部、法身寺をお借りして開く浴衣会、納会では、お互いそれぞれの演目で冷や汗をかくも、お楽しみの打ち上げではその労をねぎらい、愉快に杯を交わしてきた。25年間、殆ど変わりがない。それが一番有難いことだと思っている。



一字不識                    百錢会通信 平成27年2月号より

先日、卒業以来初めて、母校の尺八専攻の学生の公開試験を聞きに行った。上野駅の公園口の改札を抜けると、左にはクラシックコンサートの殿堂、上野文化会館、右にロダンの彫刻の並ぶ国立西洋美術館。真中を通り抜けて東京藝術大学を目指して文化の杜を歩めば、意気揚々と歩を進める私の姿を思い浮かべる方も多いことかと思うが、現実は正反対だ。劣等意識に苛まれ続けた学生時代の記憶が生々しくフラッシュバックして、今だに心安らかにこの道を歩むことが出来ないでいる。

公開の試験演奏などはまるで13階段を登る死刑囚のような気持ちで臨んだことが、昨日の事のように思い出されて来るのである。だからこそ、私にとっては息子の世代となる今の学生には、音楽を奏でる喜びに満ちた舞台をのびのびと務めて欲しいと祈りながら、ホールの席についたのだった。期待に違わず皆良い演奏だった。技術的水準は間違いなく我々の学生時代のそれを遥かに凌駕している。楽器の性能の向上や、藤原道山師を初めとする若い演奏家の大活躍が後進に大きな影響を及ぼしたと思われるが、何より、今の若者の尺八に対する偏見のない、真っ直ぐな感動が、演奏水準を押し上げたのだと私は思っている。

行きとは正反対の清々しい気持ちで歩む上野駅への道すがら、個人的に親しくしていた現役学生数名に私は直ぐにお祝いのメールを送った。いい舞台を見せてくれて有り難うと。ところが、数日も間をおいて返信してきたある学生の一人のメールには、最後まで演奏の構想が決まらぬままに舞台に臨んだことを恥じる文言が綴られていた。いろいろ言い尽くせない思いがあったのだろうけれど、私は彼の言葉を制して、たとえ拙くとも自分の美意識を信じて演奏すればいいと思うとメールを返した。

「一字不識」という四文字に始まる古今の名言がある。「一字をも識らずして、而して詩意ある者は、詩家の真趣を得る」。たったの一文字も知らずとも、詩の真の趣を身体に秘めたる者は既にその時点で詩人なのである。私が件の学生の演奏に観ていたものは、その演奏のフォルムの造形美であるとか技術の巧拙などではなく、その人そのものからしか溢れだすことのない、その人自身の「詩情」以外の何物でもないのだ。演奏家はどこまでも職人として技術を磨き続けることを宿命とするけれど、「詩意」あるものは自ずとその磨きようがそれぞれに違って然るべきだ。その過程は最短距離で駆け抜ける者もあれば、大きく迂回することだってあるはずで、必ずそれぞれの必然性を持っている。その意味において、若者は大いに伸び伸びと自由に演奏して欲しいと思っている。



「浚い」と「稽古」              百錢会通信 平成27年1月号より

昨年の秋に、思いもかけず、人間国宝の山勢松韻先生と同じ床で演奏させて頂くという幸運に恵まれた。能舞台であったので緞帳はない。我々三曲の人間は、舞台の定位置につくまでの立ち居振る舞いが観客の視線に晒されることに慣れていない。しかし先生は凛として動じなかった。文字通り板について一節歌い奏でれば、会場は瞬く間に別世界となる。その冒頭の一瞬を間近に体感させて頂いたことが何よりの勉強となった。

 何故その日の会場が能舞台であったかと言えば、その会はやはり人間国宝である狂言師、野村萬先生の傘寿のお祝いの会であったからだ。能二番の他に先生の狂言、また琉球舞踊もあり、山勢先生の箏曲を加えて誠に賑やかなプログラムであった。しかも数えてみれば出演者の中に人間国宝が7人も揃うという、これほど豪華という形容の相応しいキャスティングはなかったであろう。

 野村萬先生は、私にはご挨拶することさえ恐れ多い方である。しかし先生のお名前を聞けば並んですぐに思い出さずにはいられない、親しくお話しもさせて頂いたもう一人の能楽の先生がある。それは宝生流能楽師の佐野萌先生である。佐野萌先生と野村萬先生は確か藝大邦楽科の同期生で、互いに歯に衣着せぬ痛快な会話の数々は、我々のような下々の後輩にまで漏れ伝わって来たものだった。佐野萌先生は私が学生時代の邦楽科の主任をなさっていた。良き意味での保守主義と評され、とても稽古に厳しい先生であったが、流儀から離れると、当時邦楽科の助手を務めていた我々には実に思いやり深く接して下さったのだ。

 野村先生のご縁で佐野先生を懐かしく思い出したので、佐野先生の書き残された随筆を久しぶり紐解くと、思いもかけない文章が目に飛び込んで来た。

ある年の新年早々、稀曲の地謡の地頭を務められた先生がまさかの絶句!誰もが予想だにしなかった非常事態に衝撃を受けて、地謡全員までもが絶句してしまうという大事故を起こしてしまったそうだ。地頭として事態収拾の出来なかった時間は、身の縮まるというより、舞台から逃げ出したくなるほど長く感じられ、大切な宝物が手から滑り落ちて粉々に砕け散ってしまったというような、まさに悪夢のような現実であった・・・。 楽しみにしていた終演後の新年会も欠席。食欲は全く無くなり親子丼の半分も喉を通らなかったという。「二度とこんなこと起こさぬように」と誓う自信もなくなり、「二度あることは三度ある」という恐怖心がいや増すばかり。

この気持ちは張り詰めた舞台を真剣に務めて来た者でなければわからぬであろう、巨大な闇に吸い込まれてしまうかのような絶望である。責任の負荷が多くなるのに反して衰退していく我が肉体の現実を思い知らされる悲しみといい、何もかもが舞台人にとっては身につまされる、苦渋に満ちた言葉のオンパレードであった・・・。

 脳細胞は毎日10万単位ずつ消滅するそうだが、人間は生まれた時に約60兆単位程持っているそうで、これだと毎日10万単位消えても死ぬ時にはまだ残っている計算になるそうだ。しかし覚えた節もその10万単位に含まれていたら、それは消え、残った細胞に新たに記憶させなくてはならず、結局頭と体に叩き込むためには稽古しかないと、先生はその一文を締め括られていた。

 我々はよく下合わせの別れ際に「次回までにまたよく浚っておきます」という挨拶を交わすものだが、この「浚う」という言葉は「復習する」という程度の意味で些か迫力がない。それに引き換え、語源に「古を考える」という意味をもつ「稽古」とは、「稽古照今」という四字熟語としても用いられ、つまり本来は「今に照らして古を考える」という意味を持つ。昨秋目の当たりにした人間国宝の至芸は、過去から未来へと不断に続くこの「稽古」の上に成り立つものに違いない。もう天国に旅立たれて久しい佐野先生の、我が身を切り刻む思いで残して下さったこの苦言を敢えて年頭に噛み締めて、併せて同好の諸氏の発奮を促したいと思うのである。



二人の名人                  百錢会通信 平成26年12月号より

 邦楽囃子方の世界で、その名を知らぬものはないであろう二人の名人がいる。四代望月朴清師と三代堅田喜三久師である。確か一歳違いの兄弟で二人とも重要無形文化財(人間国宝)。認定の年度も一年違い、兄の朴清は既に亡くなられている。この二人について尋ねると誰に聞いても「不世出の名人」という言葉が飛び出す。しかし芸風は対照的であったそうだ。その違いを実に面白く教えてくれた友人の話を紹介してみたい。

 邦楽囃子方にも幾つかに分かれた芸の流儀が有り、同じ曲でも細かいところでは随分と手の付け方が違うそうだ。ところがその違う流儀の者同士が同じ演目を打たなくてはならない場面が時に有り、そこで手付けの違いの摺合せをしなければならなくなる。そういう時に、堅田喜三久師は「いいよ、俺が引っ張るから適当に付いて来いよ!」と仰ったそうだ。随分と乱暴な摺合せだが、いざ舞台に並んで見ると喜三久師の圧倒的な機動力に飲み込まれて、気が付いたら聞いたこともない手を打たされていたという。それと対照的なのが朴清師で、「大丈夫、お前の好きなように打てば適当に付いて行くから!」と。ところがその「適当」は誤魔化しでなく、本当に吸い付くような「的確」さであったというのだ。この話を教えてくれた友人は、これは楽屋話で明らかに場を盛り上げるための面白おかしな誇張があるはずだが、あの二人なら本当にあり得る・・・と内心は誰もが思ってしまうのだと言い添えた。

 最近、柔術の神様と称えられた三船久蔵の映像を見て面白くなり、合気道の名人達人の映像もインターネットで漁って見た。それを見れば、技が美しく決まる時にそこにあるのは、決して力とスピードではないということが、私のような素人でも一目瞭然と分かる。適切な言葉が思い浮かばないが、その源にあるものについて敢えて言えばそれが「気」というものだろう。「気」の流れに添う、とか、「気」の流れを呼び込む、とかが正しい表現なのか解らないが、とにかく「気」というものと渡り合わなくてはならないのは音楽も同じだと思う。そこに辿り着くならば朴清師や喜三久師の逸話も俄然、現実味を帯びて来るはずだ。

 尺八の世界はそういう話題がずっと以前からあったはずなのに、実際に演奏でそれが実現されたことは、残念ながら皆無に近かったのではないだろうか。あったとしても、それはかなり希なことだったのではないかと思う。現代の虚無僧尺八に限って言えば殆どが講釈ばかりのハッタリと言っても過言ではない。虚無僧尺八にしても、三曲の尺八にしても、ポップス系にしても、このあたりの研鑽がこれからのキーワードとなるように感じているが、さて来年はどんな年になるのか。



香                       百錢会通信 平成26年11月号より

  先月はやけに旅公演の多い月だった。たった一月の内に北は山形から南は沖縄まで、6箇所も飛び回るというのは、私には生まれて初めての経験だ。滅多にない遠出の旅路なのだからついでに観光も・・・と思ってはみても、そうは問屋が卸さない。この季節に我々にそんな贅沢は許されないのだ。空港からホールへ直行、即リハーサル、ホテルに宿泊、翌日本番、急いで飛行機に飛び乗り帰京。そうしないと次の仕事に間に合わないからだ。唯一夕食だけはのんびりとれることが多いので、旅ではそれが何よりの愉しみの時間だ。

 よく旅公演で一緒になる後輩のT君は美食家で中々の食通である。しかもクダクダと薀蓄を垂れるタイプではなく、食の興味も高まる的確なガイドをしてくれて会話は実に愉快だ。だから私はそんな彼と食事をするのを楽しみにしている。私などは「美味い、美味い!」の一本槍で誠に能がないが、彼の料理に対するコメントにはいつも感心させられる。例えば肉汁豊かなステーキを口にして「この肉の脂はとても多いのにあっさりしているのが驚き!」と言った具合に、その一品の最も際立った特色を瞬時に言い当てるのである。調理法にも通じていて「下作りに手抜きがない料理は格が違いますねぇ」と言った台詞も、調理人の面影が浮かんでくるようで心憎い。

 ところで薀蓄のひけらかしで嫌われるのが酒の通に多いのではないだろうか。やれ酒米がナントカで山廃だ、ひやおろしだナンノカンノ・・・酵母菌の種類まで説明されてはこちらはキョトンとするしかない。そういう専門用語が味のイメージとして定着している人同士なら楽しいのかも知れないが。しかし逆に味の分類が余りに単純化されるのもつまらないと思う。日本酒の好みを「甘口ですか?辛口ですか?」と問われることも少なくないが、仮に「辛口です」と答えても希望のお酒に辿り着けることは先ずもってない。同じ辛いにもヒリヒリする辛いもあれば痺れる辛さもある。少なくとも舌に感ずる味覚は他に、苦い、酸っぱい、渋いもあって、どんな味も複雑なハーモニーで成り立っているのではないか。

 人の心に最も強く、深く影響を及ぼすのは、味覚の刺激よりむしろ香りではないかと思う。

香りのイメージは味覚にある種の混乱、時には錯乱すらも催させる力を持っていないだろうか。糖度の低いお酒でも果実の香りが漂えばとても甘く感じることは誰でも経験のあるところだろう。舌には甘いはずの酒もアルコールの刺激臭が強ければ辛口でまかり通ることだってある。何より香はその人の人生の重大な記憶に結びついていることも多いから、決して疎かにはできないのである。

 嗅覚、味覚、視覚、聴覚、触覚といった五感は相互に絡み合い混沌としてくるところが何につけても面白いと私は思うのだ。尺八は少なくとも、色を放ち、香り立つ音でありたいと思う。



慣れてから・・・               百錢会通信 平成26年10月号より

モノは何でも慣れである。そう思うようになったのは、作曲を専攻する娘のお陰である。今までチンプンカンプンで聞くのが苦痛でさえあった現代音楽も、今は普通に聞いていられるようになったからだ。それは車で出かけた家族旅行の時だった。小学校高学年だった娘が、旅の途中でも勉強のためと言って車に持ち込んだCDはヒンデミットであった。その旅も最終日、家路へ向かう途中に娘がそのCDをかけた。すると助手席の家内はもちろん、本人までがたちまちに深い眠りについたのである・・・。残された私は、慣れない土地での運転の最中にCDを取り出すのも憚られて、休憩までの約3時間、ひたすらそのCDを繰り返し聴き続けたのである。その経験を境に、私は現代音楽というものが怖くなくなった。

最近の若い人に人気のポップスも、私には騒々しいばかりだったが、これも腰を据えて向き合ってみれば何とかなるものだ。もっとも今流行りのアニメソングや、制服みたいな衣装をお揃いで身につけて歌い踊る“団体芸”と、ヒンデミットを同列視するわけには行かないのだが、兎に角慣れれば少なくとも苦痛はなくなる。

しかし中にはふと心を奪われる作品だってある。これも娘に教えてもらったのだが、私が強く関心をそそられたのが椎名林檎である。「本能」「カリソメ乙女」「茎」「凡才肌」といった曲を、気が付いたら自ら進んで繰り返し聞いていた。何とも爛れた甘さと悲哀に満ちている。時折聞こえるビブラートは精神病理的な痙攣を連想させ、声色の変化は担当医師を嘲笑う多重人格のようだ。私の学生時代、詩人の大岡信氏が授業の雑談で、サザンオールスターズの桑田佳祐の作詞を“日本語の破壊”と評して、その根には若者の深い苦悩があるのではないかと仰っていたが、この椎名林檎に至っては桑田の何倍も、その闇は深いと感じた。

歌詞の意味は全くと言って良いほどわからないが、「おこのみで」という曲が妙に気にかかり、そのことを娘に話してみた。すると「あの曲には他にはない、“惨めさ”が漂っている」と間髪入れずに返答してきた。このコメントには少なからずショックを受けた。私が小学生の頃から虚無僧尺八に向き合ってきたその心の葛藤の中には、紛れもないこの“惨めさ”があったからだ。

 尺八の音を聞いて、或は奏でることによって起こる、心の浄化作用に感激する人は少なくないが、その前提として、残酷なまでの苦悩が尺八のその一音に含まれていることを、痛切に感じる人はどれだけいるであろうか。

何事もまずは慣れてから。それからその一歩先に踏み出してみないと分からない世界はあるものだと思う。




雑 草                      百錢会通信 平成26年9月号より

 群馬の稽古場の庭の手入れを父がしなくなって何年経つだろうか。庭木の剪定と草刈だけでもかなりの労働量になる。加えてわずかだが野菜作りもしてくれていて、私は稽古の合間に小腹がすけば、呑気にキュウリやトマトをかじっていたものだった。

 86歳になる父にさすがにその体力は無くなり、菜園はもちろん閉園。庭木の剪定は通路や駐車場など、私の空き時間に手のかけられる必要最小限の場所だけで、ほかの庭木の枝は伸び放題である。しかし地面に生い茂る草だけは放っておくわけには行かない。冬の雪掻きと同じで草刈をしなければ、車の駐車も出来ないし玄関に辿り着くのもままならぬ。実質、草を刈らなければならない面積は100坪ほどにもなるだろうか。これはとても稽古の合間にできるものではないので、ひと夏に少なくとも2回は早起きして作業にあたっている。

 稽古場は山里の緩やかな北斜面である。そういう土地を平らに均すために、最も経費のかからない方法として地主さんが薦めてくれたのが川原の造成現場から出る残土による盛土だ。したがってここの地面には大小さまざまの石が埋もれている。こういう石の多い地面には、ナイロン製の紐を高速回転させる方式の草刈りが最も適しているようだ。ノコギリ式の草刈機では石ですぐ刃を傷めてしまうからだ。この草刈機は、小石や細かく刻まれた草がものすごいスピードで体に向かって飛び散るので、前掛け、顔面の防御マスク、麦藁帽子など、装備にぬかりはない。人間、いでたちを整えるとヤル気が出てくるものだ。近頃は作業にもなれて4時間はかからぬようになった。紐式の草刈機は重量も軽く、力の要るものではないから、実際にはそれほどの重労働ではない。しかしこの時期の気温であるから、びっしょりの汗である。綺麗に刈られた地面を眺めて汗をぬぐう時の達成感と爽快感は何ものにも代え難い。

 庭の手入れを日課とする人と話をすると、「雑草の生命力は本当に強い!」という台詞が必ずと言って良いほどに話題に上るものだ。「本当に強いねぇ・・・」と相槌を打つ。しかし花壇の雑草をむしっている程度の人に、この会話の真意はわからないと思う。私はこの数年、夏の草刈りを年中行事とするようになって、雑草の生命力を「強い」というより「怖い」と感じるようになった。八畳一間の稽古場などはあっと言う間に飲み込まれてしまうという実感があるからだ。最近の日本の亜熱帯化ということも影響しているかも知れない。草花が動物に見えてくるというのも大袈裟な表現では無くなって来た。とにかく雑草の「侵攻力」は凄まじいものだ。

 その「猛威」も9月の声を聞くとハタと穏やかになる。夏の雑草との格闘があればこそ知る秋の気配の静けさである。我々尺八吹きはこういう“音”の移ろいこそ聞き逃してはならいないのだと思う。



お辞儀                      百錢会通信 平成26年8月号より

 私が藝大に通っていた学生時代、学内の勉強会では舞台マナーを注意される時間が実に長かった。尺八の持ち方や姿勢など、一から十まで、何から何まで“ダメ出し”の連続であった。私は緊張した時の目つきが人一倍に厳しい所為か、目の動きが特に目立つようで、視線についてやけに注意された記憶がある。そして気が付くと演奏については何も触れられないこともしばしばで、それが「演奏に見込みはないのだからせめて見た目ぐらいで点を稼げ!」と言われた心地がして憔悴したものだった。

 舞台の所作で何度教えられて、いくら工夫してみても様にならないのがお辞儀ではないだろうか。猫背にならぬように腰から頭までをまっすぐにして約15度から30度くらい傾けて静止、しかる後にゆっくりと体を起こす・・・、と誰もが同じように教わるのだが、その所作が板についている演奏家はほんの一握りではないだろうか。ベテランといえどもまるで器械体操をしているロボットのようにしか見えない、そういう一礼に接することは少なくない。型というものに心が通うというか、気が流れるというか、寄って来る自然の流れが備わるには、別次元の何かが必要なのだろう。

 私は学内で指導を受けた故山口五郎師の静かな佇まいの一礼が脳裡に焼き付いて離れない。誤解を恐れずに言えば、それは舞台という神聖な場にあって何か大きな力に身を委ねるというような、敬虔にして静謐な無力さが漂っていた。親しい演奏仲間では、よく舞台を共にする山登松和師の一礼にも山口師のそれに近いものを私は感じることがある。こうしてみると、代々芸能を継ぐ家系に生まれて、演奏家という職能を運命として受け入れた人物には、何か特殊な気が流れるのではないかということを、いくら真似してもそれが様にならない私は妄想するのである。

 それでも、茶番になるのは覚悟の上で、私は山口師のお辞儀を姿形だけでも真似てみようと心掛けている。その中で気付いたことは、首の曲がり方である。インターネットで「美しいお辞儀の仕方」を検索すれば一様に腰から頭までを一直線にと説明されている。しかし私はこの一直線がどうしても不自然に感じられるのである。これから果たし合いの真剣勝負に臨む前の一礼ならともかく、それとは逆にこれから己の何もかも討たれてしまおうとの思いの方にむしろ近い、天への一礼は自ずと“首を垂れ”ずにはいられないわけで、従って首には僅かな湾曲が生じるのが自然の姿だと、私には思えてならないのである。

 話は脱線するが、この首の曲げ方にもいろいろあることを、尺八の“顎メリ”の奏法を教えていて知ることとなった。頸椎は七つの骨で構成されている。脊椎の中でも最も可動性が高く上下左右など様々な方向へ動かすことができる。この可動性をふんだんに駆使するのが尺八の奏法で、“顎メリ”はその中でも必須のテクニックである。伝統的に“顎メリ”は「顎を引け!」「顎を引き締めろ!」と厳しく指導されてきた。しかしよく観察すると、こうした指示を受けたお弟子さんは首を硬直させるばかりである。もっと具体的にいうと頸椎の上方半分くらいだけが曲がっていて付け根部分はまっすぐに硬直している。この動かし方では“顎メリ”の効果は殆ど期待できないのである。その理由についての詳述はここでは控えるが、とにかく結論から言えば“顎メリ”は頸椎の七つの関節を根元から僅かずつ曲げる方が効果的なのである。すると視覚的にそれは首や顎を大きく動かしているという印象の少ない所作なのである。

そこでふと思い付いたことは、「首を垂れる」お辞儀の首の曲げ方がコレではないか!という閃きだった。尺八の“顎メリ”の所作が天に向かって「首を垂れる」姿となるならば、それは尺八音楽の内面においても理に適っていると思うのである。



文体模写                    百錢会通信 平成26年7月号より

とかく伝統が重んじられる邦楽の世界では、師匠の芸を「真似る」ということが第一義というか、伝家の宝刀のように語られる。しかしそれに対して、必ずと言ってよいほどに、ラジカルな革新派から「では真似るだけで良いのか」という批判が起こる。そこまでは熱い議論が交わされるのに、何故かその先いつも有耶無耶で、この世界に何か新しいムーブメントは起こらずに、じわじわと衰退していくのは何故だろうといつも不思議に思っている。情けないが私自身も確たる意見が中々固まらないままに貴重な時間を取り逃がしているような気がしてならない。

そんな不甲斐なさの中で少し気になったある対談を引用して、同好の士の会話のタネにでもなればと思う次第である。以下はフランス文学者、澁澤龍彦と出口裕弘による三島由紀夫についての対談である。

 

出口 やっぱりずいぶん早くからあの人、日本の古典というのは読んだんでしょう。

澁澤 そうだね。『大鏡』なんかすごく好きだっていうことを、書いたりしてた。

出口 やっぱりそれは、三島さんの世代がどうこうというより、ま、あの人個人の問題だろうけど、ものすごく読んだんだね。

澁澤 それはものすごいよ。

(中略)

出口 あの人は、自分で自分の文章を練り上げてきた過程というか、手のうちを早いうちから明かして・・・

澁澤 そうね。ああいうのはおもしろいね。

出口 堀口大学訳の何々に影響されたとか全部やるじゃない。

澁澤 そう。まず鷗外だろう。それからスタンダール。

出口 モーリアックであり・・・

澁澤 最初は日夏耿之介や堀辰雄から始まってるけどね。

出口 そうそう。全部明かして見せるでしょう。《私のはそういうもののアマルガム(合金)である》と。潔いというか、ま、自信のあらわれなんだろうけどね。

澁澤 だけど、いまそういう風潮ってないよ。自分のスタイルを磨くためにね、先輩作家のまねをするという風潮は、全くないでしょう。

出口 極端な場合は、プルーストのバスティシュ(文体模写)みたいなことになるわけか。

澁澤 うん。そうそう。

出口 ああいうことを、僕ら、意識的にやったとは思わないけど、好きな作家なんか、入れ込んでると、もう似ちゃってさ。無意識のバスティシュみたいなことになってた。ああいう風潮はなくなったな。

澁澤 いま、ないよ。

出口 それは何かものすごく違っちゃった部分だね。

澁澤 ものすごく違ってる。

 

 この対談は19862月とある。思い起せば同時期の尺八界は、山口五郎、青木鈴慕、横山勝也、山本邦山といった巨匠を最高峰とする模倣に満ち溢れていた。一見それは当時の尺八界におけるその“文体模写”が出口や澁澤のいわんとする事とかなり似ているように思われるかも知れないが、私には決定的に違っていたと思われてならない。それは、その“模倣”が「自分のスタイルを磨くため」という前提、或はその自覚が余りにも希薄であったと思うからである。



体重の増減                  百錢会通信 平成26年6月号より

 「子供の肥満は親の責任です!」と保健の先生に叱られたのが、母はよほど堪えたらしい。私が小学生の頃である。2人兄弟の私は兄とは比べようもないほどに食べっぷりがよく、何でも「美味い美味い」と喜んで食べてくれるのが嬉しさに、せっせと料理に腕を振るったのであろう。その挙げ句が先の警告で、まさに晴天の霹靂だったようだ。以来、舞台の私の姿を見て体重の増加を察知すれば、誰よりも先に警告して来るのが私の母である。

 よくストレスの増幅は食欲に影響すると言われるが、心労で食事が喉も通らないとか、逆にイライラして大食いしてしまうと言った経験が私には無い。気に病む曲を抱えていようがいまいが、時間が来ればいつもと変わらずにお腹はすいて美味しく食べる。「空腹は最善の調理師である」という言葉の意味を私ほど理解している者はいないだろう。

 しかし仕事が立て込んで来ると、体力を落としてはならないということを口実に、どうも食べ過ぎるようだ。また疲労を貯めないようにとの思いから運動量は減っている。昨年の9~12月の演奏会シーズンで私は2キロも体重を増やしてしまった。年が明けて慌てて減量したが、春からまた演奏会が続くと何時の間にか体重は増えていて、何とも情けないことの繰り返しだ。

 よく体重を増やすのはあっという間で、減らすのにはとても時間を要すると、肥満に悩む人は口を揃えて言うけれど、それは快楽の時間は短く、苦痛の時間は長く感じるからではないだろうか。いくら一度に沢山食べてもそれが本当に“貯蓄”という形で体に固着するまでの時間と、一度蓄えた“貯蓄”を消費するまでの時間はそれほど変わりがないのではないかというのが、太りがちな生活を長年経験してきた私の実感である。

 ところで尺八の練習も、これと同じような事が言えるのではないだろうか。上辺の体重の増減と同様に、即席で仕上げた指使いや曲節の暗譜などは消えてしまうのもアッという間だ。それとは別モノで、長い年月をかけてしか得られない技術とうものが確かにある。体重は蓄えたくなくて消費してしまいたいのに、尺八の技術は蓄えたくて手放したくないというところが逆の例えになってしまうが、とにかく時間をかけて手にしたものはそう簡単に消えて無くなりはしないのである。しかしそれを手にしていく実感は、日々の稽古のその場その場で目に見えるようなものではないから、快楽の感覚とは結び付きにくい。苦痛とまではいかなくてもやはり時間が長く感じられることだろう。でもやがて手にするものは確かな技術。またそれは技だけではなく、心にとても豊かな何かをもたらしてくれると思う。先ずは気長に腰を据えることだ。



新 緑  - 7 -                百錢会通信 平成26年5月号より

 毎年会報5月号の題目を定めて「新緑」としてみようと思い立ったのは、調べてみると平成20年からであった。若い葉の緑を浴びる喜びを書き留めておくことによって、なかなか気づかない自分の心の内奥深くの変化を顧みることが出来るかも知れない、というのがその動機だった。いつの間にか6年の月日が流れた。

 平成20年、萌える緑の色が空間に溢れる思いがして、その浮遊する感覚に陶酔する。平成21年、恩師や先輩との別れの辛さと不安を、若葉の緑に癒そうとしていた。平成22年、葉の緑色の僅かな移り変わりに気づき、時間という連続性や永遠性に思いを馳せた。平成23年、福島の大事件、緑の祖国を破いてしまった自責の念に苛まれる。平成24年、若人の羽ばたきを祝福することによって、震災の苦しみから立ち直ろうともがいている。平成25年、心の奥底より自ずから滾々と湧き出るのは、日本の国の緑を伏し拝む気持ちであることに気付く。

 やはり東北の震災は心に大きな打撃であった。自然の猛威に遭遇して人間の無力と愚かしさを思い知らされた。だからこそ、自然の育む生命に歓喜する気持ちが強くなったのは言うまでもない。またこの数年の間に、影に日向に教え導いて下さった幾人もの先生をお見送りしなければならなかった。そして気が付くと、嘆く間もなく、自分のすぐ後ろには更にその教えを乞う、目をキラキラと輝かせる若者が立っていた。先達との別れを惜しみ、若人の活躍を祈る気持ちが起こるのも、元をただせばその根は一つ、大自然の中では余りにちっぽけな存在である自分でも、この世に生きている意味があるという、小粒でも一顆の宝石はこの身に刻まれているという、漠とした確信である。

 しかし反面に、毎年5月の新緑に感じるものが、大自然への畏敬の念であり、大自然に育まれる生命の喜びであるとするだけなら、尺八吹きとしてはいささか洞察が浅いのではないかとも思われてならないのである。その自然の源とは何か?目の前の緑の葉は本当に緑なのか? 呼気と吸気の循環にあらゆる想念を沈潜させるを行とする尺八吹きは、どうしてもこうした問いに向き合い続けなくてはならないであろう。願わくはそこを潜り抜けてこの季節の喜びを噛みしめたいものだ。

 振り返るに6年とは余りに短い歴史かも知れない。今しばらくこの定点観測は継続してみようと思っている。



桜花の下で                  百錢会通信 平成26年4月号より

 花の便りと共に届くのは、案外悲しい知らせの方が多いように思う。しかも、これから折角夢に向かって羽ばたこうとの思いを、誰もが胸に秘めたこの季節だけに、人・モノの別を問わず、様々な離別に遭遇した時の憂鬱は、中々に形容が難しい。視界は薄墨色の霞に覆われて、心には鉛のような重りが沈殿してしまう、とでも言おうか・・・。

 私の尺八の友人に、頑なに古典音楽しか認めないという“一刻者”がいて、彼は会えば必ずというほど、山本邦山師の批判をしていた。その論拠は矛盾に満ちていて私には全く納得のいかないものだったが、とても議論が成り立つ人物ではなかったものだから、いつも適当にお茶を濁して、早々にその場を退散したものだった。ところがその彼から先日久しぶりに電話があり、山本邦山師の訃報を聞いて殊の外に落胆しているという。彼の名誉の為に断っておくが、それは決して攻撃の標的を失ったという類の失意ではない。時代の脚光を一身に集めた巨匠の逝去に、斯界の落日を思わずにはいられなかったのだ。彼はこよなく和楽を、尺八楽全部を愛して止まない人物であったのである。

 純邦楽の衰退の危惧は、もう数十年も前から囁かれていた。しかしその折れ線グラフの下降する傾斜は緩やかであったから、はっきりと言えば皆呑気だったと思う。学校教育に和楽器を導入させる運動をしているだけで何となく安心していた。そしてその運動の一定の成果は得られたにも関わらず、事態は好転するどころか衰退の傾斜は日に日に急勾配となり、一番先に悲鳴を上げていた和楽器商は一般愛好家のすぐ隣で続々と暖簾を降ろす事態となった。

 何故邦楽は衰退したのか? 議論をすれば手っ取り早く悪者をでっち上げたくなるのが世の常であるが、実の有る分析は見当たらない。文化の衰微の真因は歴史の深い古層にまで根を張っているはずであるし、況して増してその地層は極めて複層的である。難解な解析は頭脳明晰な方に任せて、何があろうととにかく我々は日々学んで生み出すしかないと思っている。特に古典主義の“一刻者”は学ぶけれど生み出すことに怠惰であったことは否めないと思う。否、一番足りなかったことは生んだ後に育むことではなかったか?

 夏から冬への移行は考えようによっては緩やかな衰微である。その逆に冬から春を迎えるのは、その心は希望に満ちていても、体への負荷はむしろ重篤なのである。故に、春浅く花の便りと共に届くのは、志半ばにして思いを遂げずというような、薄倖の報せが多いのであろう。毎年4月に乗り越えなくてはならない試練は、桜花の下で迎える薄墨色の憂鬱である。



雪の沈黙                    百錢会通信 平成26年3月号より

 雪の降った朝、その静けさに胸騒ぎして眼の覚めることがある。先日の降雪は楽観的な予報であっただけに、朝窓を開けた時は思わず息を呑んだ。先ずその雪の量に驚いた。そして今日一日の都市生活の混乱を想像して「これは弱ったことになった・・・」と思った。交通機関のマヒや仕事の遣り繰り、食料の確保等々。しかし不思議なことに、心は妙に落ち着いている。雪の純白と静寂をむしろ快く受け止めている自分がそこにいた。

 雪の沈黙は、人の心の憂いや迷いを只そのままに包み込み、決して消し去るのではないけれど、その痛みを鎮静せしめる何かがある。「雪」という文字の「雨(あめかんむり)」の下は本来「彗」という字で、清らかな美しさを表すという。雪は天より舞い降りて大地の汚辱を祓い清めるの意があるという話をどこかで聞いて、私は大いに頷いたものだった。

 

 尺八は一音をもって、むしろその音の消え去った後の無韻を支配する。よく息継ぎの間に譜面をめくる人があるが、本曲を吹く時に私が口やかましくそれを禁じるのは、この無韻の含蓄をもっと深く味わって欲しいからである。それはさて置き、この尺八の無韻と雪の静寂には何か通じるものがないだろうかということがふと気になった。一面の雪景色に清められた思いでいたその時の私は、尺八の音とその音故の無音の世界が、雪による「浄化」と同質のものであって欲しいという希いがよぎったのである。しかし残念ながらその二つは似ているが実は異質のものであろう。何故なら、尺八は(耳に聞き取ることの出来る)音が消えた後も、肌には幽かに感じられるような空気のうねりが連続しているが、雪を取り巻く空間にはそれが感じられないからだ。無音と思われる時間さえ何かが動き続ける尺八に対して、雪に接した空気は静止する。雪の沈黙とは、「仮の死」ではないかと思われてならないのである。

 

 先の大雪から2週間。公道の除雪完了の報を得て、私は漸く群馬の稽古場を訪れた。気温も少し上昇したから残雪の雪掻きもさほどではなかろうと踏んで出かけたが、辿り着いて再び息を呑んだ。敷地に一歩足を踏み入れればズブズブと太ももまで埋まってしまう。先ずは人が一人の通れる道を掘り進まなければ玄関にも辿り着けない有様であった。覚悟を決めて予てより用意の作業着に着替え、2時間は越えるであろう労働に取り掛かったのである。土方用語では作業の正しい構えを“腰を切る”という。長丁場に備えて腕だけを酷使することのないように腰を落とし、下腹に力をこめて雪にスコップを突き刺す。すると思いの外に雪は柔らかく、難なく地面まで掘り起こすことができた。誰も踏み固めることが無かったので凍結を免れたのであろうか、これは不幸中の幸いであった。ただし、表層の雪は軽いが地面に接する層はさすがに重い雪だ。慎重に“腰を切”って再びスコップを突き刺すと、真っ白な雪の中に焦げ茶の土の色が鮮やかに現れた。そして春の土の香が立ち昇ってきたのである。雑草の葉の色もしっかりとした緑色である。

 雪による仮死からの再生、春の息吹き、漂う梅の花の甘い香・・・。少々バタ臭い台詞でも、私には一年の中でもっとも心しみじみとする3月の言葉である。そういうことに心動かされるようになったのは加齢の所為であると笑われるが、こういう気持ちになれるのならば歳を重ねるのも悪いものではない。今月私は満で数えて50になる。



初舞台                      百錢会通信 平成26年2月号より

もう長い付き合いになる私のとある竹友は、十年一日の如く次のような演奏評を私に向かって繰り返すのである。「善養寺に未だあの初舞台を超える演奏はない!」 この“決めゼリフ”が飛び出したら最後、観念するしかない。襟を正し坐を直してご高説を賜わなければならないのである・・・。

その初舞台とは私が確か18歳の頃である。とすればそれからかれこれ30年にも渡る私の竹歴は一体何だったのか。身も蓋もない話だが、しかし何度考えてもそれは肯わざるを得ない真実だと思っている。

乱暴な言い方ではあるが、演奏家とは音楽を再生する機械、ある一面においてはCDプレーヤーみたいな存在であると思う。このことを第一義としない演奏家を私は信用しない。楽曲の情報を精密に読み取り、高度な技術をもってそれを音声化する。その技術を支えるのはもちろん生身の肉体である。トレーニングによって鍛えられた身体が、高度な制御システムにコントロールされて作動する時、個々に散在する音は初めて組織化された「音楽」となるのである。また機械の金属疲労と同様に肉体も劣化して行く。メンテナンスを怠ればすぐに故障する。だから一見平易に聞こえる演奏でも、準備や補修を含めると実に様々なプロセスを経なければ曲がりなりにも音楽作品として成立しないのである。増してや何につけても人並みより不器用な私である。演奏マシーンの整備と補修に明け暮れて30年が過ぎてしまったと言っても過言ではなかろう。しかしそれにしてもこうした“事務仕事”に過剰な時間を費やし過ぎたという思いは否めない。心の闇の奥深くから幽かに聞こえて来る、己の本当の声に耳を傾ける時間が少な過ぎたことは紛れもない事実である・・・。

世に音楽の鑑賞とは、作曲家或いは演奏家の職人芸的な技術の完成度の高さを楽しむというのが、恐らくは大半なのではなかろうか。フィギュアスケートの採点項目ではないが、音楽性や芸術性と呼ばれるものはこの技術分野というものからは一般には区別されているように思われるかも知れないが、こうした音楽性、芸術性と呼ばれるものさえも、実際には職業音楽家によって分析、理論化されて、既に技術的なプログラムとして新しい作品に組み込まれていくのである。そういう音楽業界の中にあって、今その瞬間、本当にその表現者の心の奥底から溢れ出す真実の歌声に彩られた演奏というものが実現されることは実は稀なことであって、聴衆もそれを見抜くためにはそれなりの一隻眼を持たなければならないだろう。知識や技術も無く、只々若かったあの頃は曲意も何もお構い無しにひたすら、心の声だけで奏でることしか出来なかった。若き日のそうした「拙なる誠」のみをもって臨んだ私の舞台の印象を、30年の長きに渡って心に留めて、今も尚私に語り続けてくれる友を、つくづく有難いと思う。


稀曲の会                    百錢会通信 平成26年1月号より

昨年の暮れに、国立劇場主催による「稀曲の会」という演奏会に出演させて頂いた。尺八、常磐津、地歌、長唄などそれぞれのジャンルから、今では演奏されることが余りなくなってしまった隠れた名曲を発掘しようという、国立劇場ならではの興味深い企画である。尺八の出し物は「一閑流六段」で、当日配付の有料プログラムの解説はお馴染みの神田可遊氏。何時もながらの簡潔にして的を射たキレの良い解説文は、同じ“尺八チーム”として何か誇らしい気持ちになったものだ。またこの「一閑流六段」は制作担当者の肝煎りの選曲で、尺八を当企画の代表として新聞社へ売り込んで頂いたお陰で、私の顔写真が随分と大きく紙面を飾ることになった。これは少々気恥ずかしかった…。

 そんな経緯もあって、私としては普段とは違った気持ちの高揚をもって舞台に臨んだのである。が、予想はしていたとは言え、残念ながら観客の動員は伸びず、興業としての成績は芳しいものではなかった。もとよりそういう成果が期待できない催しであるからこそ国立劇場が気を吐く訳で、改めて制作の担当者(原田亮一氏)に感謝申上げる次第である。

 さて演奏会では稀曲の披露だけではなく、最後に出演者による座談会があった。一番若輩の私の発言などは意味の薄いもので諸先輩のお言葉に比すべきもないが、中でも盲人の今井勉師のお話を印象深く覚えている。

 今井師は名古屋系の地歌箏曲家で、また平曲についてはただ一人の伝承者である。私が特に面白かったと思うのは、師匠になにがしかの曲を教えてもらおうとお願いした時「スマン、忘れた!」という返事が還ってきたというエピソードだ。楽譜という道具を使う習慣のない環境が、そう遠くない時代の日本にまだあったということに、妙に新鮮な驚きを覚えた。忘れたら最後、絶滅してしまうとはなかなか野性的な世界ではないか!! この“野性味”の中で残されてきたものは一体何だったのだろうということをこそ、我々は良く良く考えなければならないと思う。音楽の形式は楽譜に残せるが、それとは別次元の何か、人の心と心が触れて醸される何かが妙味ではないだろうか。

 時代の推移は目まぐるしく、生活の土台が変われば音楽文化も変容するのは免れない現実だ。社会全体から見れば、所謂純邦楽の古典は全て既に稀曲と言っても過言ではないだろう。しかし、人から人へ何かが伝わる場がそこにあるなら、芸能そのものは社会の大きな流れにはならなくとも、いつの世にも存在する意味があると思う。



「オメエ」 「バカヤロー」        百錢会通信 平成25年12月号より

 昔私が土方稼業に明け暮れていた20代の頃の仕事仲間に、面白い口癖のあるオジサンがいた。山谷の住人で少し東北の訛りがあったような記憶がある。さてその口癖とは、とにかく何につけても「オメエ」という言葉を挟むのである。

 

 「朝起きたらオメエ、空が曇ってるからオメエ、雨降って仕事は休みかってオメエ、テレビの天気予報をよ見たらオメエ、すぐ晴れるからってオメエ、がっかりしちまったよオメエ!」

 

 誇張は無く、本当にこんな調子でおよそ品の宜しくないこと甚だしいのだが、思い出すと何とも懐かしく、そのリズムは私にはとても心地良く響くのだ。ところでつい先日、町田の稽古の帰りに良く立ち寄る立ち呑み屋で、そっくりの口調の人物と隣り合わせた。私のかつての仕事仲間はいつもニコニコと穏やかだったが、こちらの客人は少々怒気を含んでいる。

 

 「だからオメエ、そういう時はオメエ、ビシッとオメエ、ハッキリとよおオメエ、言ってやりゃなきゃオメエ、駄目なんだよオメエ!」

 

 相方は逆らわずに静かに頷いていた。テンポ良く文句をまくし立てる件の御仁は、きっと昔からそういう勝気な気性で、また相方も昔から穏やかな聞き役だったのだろうなぁ・・・と、そう思わせる空気が2人の間に漂っていた。ただ、気性は変わらなくとも身体は衰えたのだろう。焼酎一杯でたちまち酔いが廻ったと見えて、頻繁に繰り返される “接尾語”の「オメエ」の他に「バカヤロー」が加わった。

 

 「バカヤローオメエ!今日はオメエ飲むったらオメエ、飲むんだよバカヤローオメエ!」

 

 ここまで来て相方はついに笑い出しながら、なだめすかし始めた。いつものことなのだろう。周りの見知らぬ客たちもそれを見て微笑んでいた。私はその時ふいに映画「男はつらいよ」の1シーンを思い出していた。柴又の団子屋のオイチャンが、甥の寅次郎の狼藉に呆れて「馬鹿だね、お前は・・・」としみじみ嘆く場面だ。

 「オメエ」と「バカヤロー」。私が耳にしてきたこの二つの言葉には、それが勢い余って口から飛び出てしまう時も、情けなくて思わずつぶやくように言う時も、裏を返せばどちらも相手に対する深い愛情を汲み取ることが出来るのだ。そういう思いがあるから、品が良くないとは思いつつ、ついつい私もこの言葉を使いがちな傾向がある。しかし現代の都市社会にそれが通じる人間関係は激減、否、皆無に等しいかも知れない。生活共同体の解体がその大きな原因であろう。たかだか50年も前には当たり前のように存在していた庶民のこういう会話が、いつの間にかノスタルジーの世界にだけ封じ込められてしまうのは淋しい限りだが、致し方のないことだ。取り急ぎ、これから年末に増える宴席での言葉遣いには注意しなければと、心もとない戒めを我が身に言い聞かせている次第だ。


なまはげ                     百錢会通信 平成25年11月号より

 あっという間に年の瀬だ!と何か騒がしい気持ちになるのは、毎月欠かさず稽古に来られるお弟子さんの月謝袋の、11月の升目に判子を押す時だ。12月になれば多少は観念してくるようだ。私にとって40代最後の年末。例年になく慌しい毎日なのは何かの巡り会わせなのだろうか。不思議なのは、仕事の最中にも拘らず時折心が現場から遊離して幼少時代を回想することが増えてきたことだ。その場その場の仕事に追われているのが辛さに、束の間、現実逃避をしているのだろう。

テレビはほとんど見ることが無いが、今月あたりから年末行事の話題が増えているのであろう。ふと目にしたテレビの画面に秋田の「なまはげ」が映っていた。一年の災いを祓う、確か、大晦日の有名な民俗行事ではなかったか。私は小学生の頃、「なまはげ」という仇名をつけられていたことを思い出した。仇名の由来に別に深い意味はない。単に私の髪型が丸刈りのクリクリ坊主であったからだ。戦前の小学生の写真を見ると男は全員丸刈りだが、昭和39年生まれの小学生の中に、そんな頭をしているのは私の他に一人としていなかった。正確には「丸刈り」と「はげ」は意味が違うのだが、そんなことにはお構い無しの無邪気な小学生である。私の頭を面白がって「はげ!はげ!」と持て囃し、やがて誰かが見つけてきた「なまはげ」という言葉が、子供たちに興奮を一気に盛り上げたのである。話したことも無い他のクラスの子供も、私の顔を目にすると「なまはげ」と呟いては笑い転げていたものだ。

 そんな訳で私は学年中の笑いものであったが、高学年になると私の仇名はいつの間にか「神様」になっていた。文字通り尊敬と崇拝の的となったのは、本来の「なまはげ」の意味を知って畏れをなしたのであろうかと、今となっては苦笑するのである。

 父は自分を「はげ」とあざ笑う者に向かって怒るのはつまらぬことだと私に諭した。弱いものいじめをして悦楽を感じるのは愚かしい人間の性(さが)ではあるけれど、それも自然の摂理であって、この「自ずから然ある」中に自由をつかむには、回りと一緒になって笑えばよいと言った。当事の私は真面目にそれを実行に移した。さしたる悲壮感もなく、その頃から“浮世離れ”の面目は現れていたのだろうか。こうして時に残虐な子供の悪戯も飄然とかわす異形の小学生は、やがて「神様」と崇め奉られてしまったのである。

 さてあれから40年経った今はどうであろうかと思ったらハッとした。あの頃とは比べようも無いほどに、つまらぬことに一々腹を立てているではないか。自然に逆らって生きている。「なまはげ」を目にして妙に反省させられたことだった。



順応性                      百錢会通信 平成25年10月号より

 私が生まれて初めて本物のコーヒーというものを口にしたのは、確か小学4年生の頃だったと思う。それまでインスタントか牛乳屋さんのコーヒー牛乳しか飲んだことのない私に、尺八の岡崎師匠が面白がって入れてくれたのである。布製のドリップで、お湯には沸かす時から少量の砂糖が入っていた。その方がお湯の沸点が上がって美味しく入れることができるそうで、岡崎師は何につけてもこうしたヒネリの効いたアイディアの考案者であった。

 何はともあれ、“おっかなびっくり”頂くことにした。本物のコーヒーは苦くて子供には無理と思い込んでいたからだ。ところが口に含むとどうだろう、今まで味わったことのない深い香が口一杯に拡がり、何て美味しい飲み物だろう!と驚き感嘆したものだった。

 兄は私に比べて好き嫌いが多かったように記憶している。その点「惠介は食い意地が張っているから!」と母は笑っていたが、確かに自分でもそう思う。ちょっと変な味だと感じても、それを如何にも美味しそうに食べている人を見るとその幸福が味わえないことが何となく悔しいというか、面白くなかったのだ。そこで多少痩せ我慢をしても「美味い!」と言ってしまう変な子供だった。ただそう思って食べているうちに段々にその本当の美味しさが不思議と分かってくることに、実は私は早くから気がついていたのだ。だから同世代の多くの子供が苦手とする、セロリやミョウガなどの香のつよい野菜も、クサヤやホヤや生臭い塩辛なども嬉々として食べては、いつも周りを驚かせていた。岡崎師が仕掛けてくる食の悪戯もむしろ楽しみにしていたのである。

 成人して演奏で海外に出ても、旅先で初めて食べるものには好奇心旺盛で、和食を恋しく思うようなことは全くなかった。私の異文化に対する順応性は、幼少の頃からの食に対する感覚に由来するのではないかと思っている。「美味いと思って食べていれば何時かは分かる」という原理・原則である。

 ところが40代の初めころ、中国の7都市を回る演奏旅行でちょっとした事件が起きた。連日続く晩餐会で土地折々の特別料理を頂いても、どうも美味しくない。美味いと強く念じてみても最終日までとうとう美味しいとは思えなかった・・・。やはり順応性は体力の衰えに並行して衰退していくものなのかな・・・という、ちょっと淋しい気持ちが込み上げてきた。初めて海外で日本の食べ物が恋しくなったのである。

 ただ、少し言い訳がましい気もするのだが、恋しくなったのは煮物や漬物、白米、味噌醤油といった純和食ではないのだ。早く日本の中華が食べたいと思ったのである。お互いの一流店を比較したわけではないから余り自信をもって訴えることは出来ないが、フレンチでもイタリアンでも、日本で食べる方がどうも美味しいような気がするのだ。日本の風土、気候と、日本の職人の優れた感性が生み出す異文化の融合、つまり“作品”はとても高い水準だと思う。だから演奏旅行で食が進まなかったのは体力が衰えたからだけではなく、ちょっと口が肥えてきたのだと思いたい。

日本は古代より自国に異文化を取り入れ独自の作品を生み出す“名人”であったに違いない。たとえば中国で尺八という楽器の伝統は、恐らくはその音量の少なさ故に跡形もなく絶えてしまったが、内面に世界を拡大することが出来るという楽器として驚くべき可能性は、日本でなければ発見されなかったのではないだろうか。

逆に異文化として日本に接する多くの海外の人は体力の衰えとは無関係に、様々な日本の作品の素晴らしさにきっと順応してくれるだろうと思っている。



スズメバチ                   百錢会通信 平成25年9月号より

 蜂に刺された。群馬の稽古場の草刈をしていたら、不覚にも後ろから右足のふくらはぎをやられてしまった。激痛を感じて振り返り足元をみると、大きさが3040mmはあるスズメバチ十数匹が群がっている。私は首からぶら下げている草刈機をはずす間も惜しんで一目散にその場から逃げた。後で調べて解かったことだが、私のこの行動は正しかった。1匹のハチに刺されると毒液(興奮物質)が空中に撒き散らされるため,その場に止まっているとさらに多数のハチの攻撃を受けることがあるからだ。5メートルほど離れて振り向くとまだ追いかけて来る。その時私は、怒りの焔の燃え上がる蜂の眼が見えたような気がした。全身に凍りつくような戦慄を覚えた。しかし必死で逃げた。30メートルも離れたところで傷口を水でよく洗い流し、しばらく安静にしていた。アナフラキシーのショック症状が起こる気配はなかったので、そこで漸く胸をなでおろした。が、もちろん激痛は治まらない・・・。

 もう一度“現場”をおそるおそる見回してみたが蜂の巣らしき物が見当たらない。しかし飛び交う蜂の数は尋常ではなかったのでその動きを追跡すると、物置の扉の下の僅かな隙間から無数の蜂が出入りするのを発見した。間違いなく巣は物置の中だ・・・。

 高崎市の指定業者に依頼して駆除に私も立ち会った。扉を開くと直径50cmはかるく越えた巨大な巣が現れた。「久々の大物だなぁ・・・200匹じゃきかねぇよ!」と業者は不屈な笑みを浮かべた。私は10mほど離れた所で身構えて(というより及び腰でおっかなびっくり!)、この駆除の様子を興味深々で観察した。

 防御服を着ていても一斉攻撃を受けたら極めて危険なのだそうだ。そこでどうするかというと、非常に強い粘着剤を一面に塗りつけたボード振り回し、まず数匹の蜂を捕獲する。そのボードを巣への通り道に置くと、他の蜂達は仲間に吸い寄せられて次から次へとこの粘着剤に捕まってしまうのだ。40cm四方のボードがビッシリ、真っ黒くなるまでに10分とかからなかった。「これで200匹は越えてるよ!そろそろ大丈夫かな・・、作業に取り掛かるか!」。手早く駆除された大きな蜂の巣は、専用の大きなビニール袋にサッサと放り込まれた。「夜になるまで、働きに出た蜂がまだまだ帰ってくるから、ボードはこのまま置いていきますよ、では次の現場があるので!」と、ベテラン作業員はニッコリと笑って早々に立ち去った。

 日没頃、抜き足差し足でボードに近づいてみた。粘着剤に張り付いてもがく蜂を見ていたら何とも申し訳ないような気になってきた。こんなに勤勉に働く蜂たちの生活を理不尽に踏みにじったのは人間の方ではないか。遅くなってもまだ帰還する蜂がいて、粘着ボードに捕まるその様子を観察していると、それはまるで仲間を助けに行くかのようだった。昼間、怒り狂って私を追いかけてきた蜂の姿を再び思い出したら、今度はどうにもやり切れない思いに駆られて涙が湧いてきた。世界中の彼方此方で起こる戦争も、この状況とどこか同じかも知れない・・・

 小さい頃母親に叱られて(何の悪さをしたかは記憶にないが)、線香でお灸を据えられたことがある。久しぶりに蜂に刺された痛みは、患部の痛みも心の痛みも、母のお灸のそれと同じように思われてならなかった。



新人類                      百錢会通信 平成25年8月号より

 「昔、先生の前では手帳を開くなんて許されない空気が漂っていた・・・」とは、山田流箏曲を専攻していた家内が、学生時代を振り返っての述懐だ。たとえば下合わせや総浚いの日程を相談していたとしよう。先生や先輩から○日の○時はどうかと訊ねられたなら、既に決まっている舞台の本番や下合わせと重ならない限りは「承知いたしました。」と答えるしかなかったというのだ。他に断ることの出来る理由があるとすれば親の危篤か親族の葬儀くらいなもので、都合の良くない日時の約束から体よく逃げるために、親戚には何人も死んでもらったなぁ・・・、などという笑い噺があったものだ。

 ところが「その日は彼と旅行に行くので予定を合わせられません。」と、平然と答えるような後輩が現れてきた。所謂「新人類」と言われた世代である。「新人類」とは、従来の価値観、道徳的常識などが通用しない、独自の行動規範を持つ若者を揶揄するために拵えられた造語だ。ところがその定義を改めて調べてみると1960年以降生まれの若者を指すようで、つまり私は新人類に括られる訳でちょっとそれは驚きだった。はっきりとした理由もなく、何とは無しに自分は「旧人類」と勝手に思い込んでいたからだ。それぞれの生まれ育った環境によって大きな個人差の生じるのは当然だが、しかし落ち着いてよく自分を振り返るならば「旧人類」と「新人類」、どちらかと言えば私は「新人類」寄りのグレーゾーンに生きてきたのではないかと思うようになった。親に孝行、師を敬い勉学に励み、私心を抑えて公に尽力する。確かにこういう指針を人間としての美徳と教えられてそれを信じて生きてきたが、反面には例えば「長幼の序」といったものを盲目的に信奉する階級主義、あるいは権威主義といったものに対する強い反抗精神も同時に、自分の心の中には培われているという自覚が、小学生の時には既にあった。どちらかと言えばこの抵抗精神の方がやや強いように思うので、だから自分は少し「新人類」寄りのグレーゾーンではないかと思うようになったのである。

 ところで、最も階級性が厳しい組織は、かつての鉱山会社であったという話を聞いたことがある。鉱山会社というものは、現場で事故が起きたならばその危険度と損失が桁外れに大きく、そうした危機に際して組織の指令系統に一糸の乱れもあってはならぬからだそうだ。会社内での上下関係の厳格さはそのまま社員の奥様社会にまでそっくりの相似形で反映されるというので、これまた舌をまいた。まさに軍隊なのだと思った。どんなに平和な社会が続いていても、生命の危険と常に背中合わせであるということが即ち生きていくということなのだと思う。そういう危機に対して組織で立ち向かおうとする時、厳しい階級性というものを取り除いたシステムはまだ発見されていないだろう。だから一朝有事の際にはこの厳しい身分制がいつ復活しても不思議ではない。しかしこの身分制が固定化されれば、人間は愚かなものでこの制度にあぐらをかいた腐敗が必ず生じて来て、新たな諍いの種となる。延々とこんなことを繰り返すのではないだろうか。

ただちょっと心配なのは「新人類」が旧制度の腐敗に対する抵抗勢力になり得るかということである。「新人類」が親世代となった1990年代に「モンスターペアレント」という言葉が生まれた。「新人類」は“怪獣”になったというなら不名誉なこと極まりない。しかし何の責任も果たす気配もなく一方的に自分の要求だけを連呼する人間が増えて来たことも紛れもない事実である。もしもそれが「新人類」の定義とされてしまうなら、私は一刻も早くそのカテゴリーの中から脱出したいと思っている。

そもそも私は、自分の心の中に静かに宿る「抵抗精神」の源は、生まれた年代やその時代の世相ではなく、幼少から慣れ親しんだ虚無僧尺八にあると思っている。その手ほどきをしてくれた父は、真実・真理の前に上下左右もヘッタクレもありますかい!といった気風があったし、岡崎師は外に向かって私を弟子と言わず、常に“親友”だと紹介し、徒党を組まぬ単独者であり続けた。思い起こせば創立当時の虚無僧研究会の“猛者”たちも、一様に眼光鋭く、一筋縄ではいかぬ“変わり者”の集団であったけれど、心の自由をこよなく愛するが故の反骨精神が強く感じられたものだった。だから、こうした一風変わった環境に育まれた私は虚無僧尺八を通じて、命名以来この「新人類」という造語に帰せられた不名誉を払拭したいと思うようになったのである。



ある社長の訓辞              百錢会通信 平成25年7 月号より

 船場のある時計輸入会社のオーナー社長が、息子に職を譲る時にこんな戒めを口にしたそうだ。「社長になったら、別荘と2号さんは作るな」と。私には何とも奇妙な訓辞に思われたのでその理由を尋ねると、「どちらも手にした時が喜びの頂点で、後は感激が薄らいで行くばかりだから、そういう物をなるべく所有するべきではない」というのだ。成る程それはそれで仰る通りだとは思ったが、何もこの別荘・2号禁止令が、これから社長職を譲ろうという時に、後継者に向かってわざわざ言い含めておかなくてはならない程に重要なことなのかということが、私にはどうしても理解出来なかった。でも、考えてみれば私は会社組織に所属したこともなければ、増して会社の経営とは無縁の生活をしている訳だから、解らなくて当たり前と思い、とりあえずはこの話題を放置することにした。
 けれども(2年前に聞いた)この言葉が何故か妙に気にかかり、忘れられないでいた。度々思い出しては、この言葉を自分の生活に当てはめてみたら・・・などということをとりとめもなく空想するようになったのである。ただ別荘も2号さんも相当な財力がなければ手には入れられないから、これは私には中々想像しにくい状況だ。突然世界で空前の虚無僧尺八ブームが起こって、夢のような印税生活が訪れたら!!と無理に思い込んでみたが、余りに馬鹿馬鹿しくて、一人で笑いだしてしまった。
 逆に、手に入れた時より喜びが増してくるものは何だろうということを考えてみたら、これは意外に楽しい作業だった。一寸恥ずかしいが、一番に思いついたのは、自分で選んで入手した酒器である。私の小遣いで買うのだから高価であろうはずもないが、気に入って使い込む程にこれは間違いなく愛着が増してくる。お気に入りの道具とは皆そういうものなのだろう。毎日手にする、アメ色に変色した我が吹き料の尺八もそうだ。眺めているだけで心に音楽が聞こえてくるほどだ (もしも聞こえてこないならば、それは使い方が足りないのだ!)。だから自分の楽器への想いは、とても言葉で言い尽くせるものではない。
 考え出したら楽しくなってきて、時を経るにつれて愛着の増してくるものがもっと他にはないだろうかと思いを巡らせた、たとえば道具以外のものでも・・・。そう自分に問いかけてみた時、ふと「家族」という言葉が思い浮かんできた。そしてそう思えることの出来た自分は今幸福なのだということを、改めてその時しみじみと感じたものだった。ここまで来ると、船場の商人も浮世離れの尺八吹きも、大した別もなく思われてきた。
 近ごろ雑誌を賑わす若いIT長者達は、その特集記事を見ると揃いも揃って、フェラーリ、ベントレー、高級マンション、芸能人などなど、まさに手に入れた時が喜びの頂点というものばかりによって、その身は覆い尽くされている。創造的な仕事をする者は、出来ることなら時と共に感激の薄らいで行ってしまうものはなるべく所有しない方が良いという、かの社長の訓辞を噛み締めて欲しいと思う。



自己陶酔症                  百錢会通信 平成25年6月号より

 「どうして男は何かと自慢話をしたがるかね?」 「そうそう! 退職後、『我が半生』なんて自叙伝を自費出版する人がいるけど、そんなことするのはまず間違いなく男だね・・・。恐怖の自慢話の連発!」「それがどれほどツマラナイ読み物だか本人はまるっきりわかってないんだよね。アッハッハッハ!!」

 酸いも甘いもそれなりに心得た中高年女性の、こんな会話を耳にしたことが何度かある。戦後の高度経済成長時代、男は男でそれなりに体を張って生きてきたわけだし、その苦労を思うとそこまで声高らかに笑わなくったって・・・という気持ちが半分。でもやはり的を射ているというのが私の実感である。

 たとえば我が子の出来の良さを吹聴してしまうそそっかしい母親も世には多いことだが、男にありがちな自慢話は、精神的背景において母親のそれとは本質的に違う。母の自慢は、我が子に無限に与え続けようとする母性の盲目性がその背景にあるけれど、男の自慢の根底には「自己陶酔・自己愛(ナルシズム)」が深く関っていることが多いように思う。そして、この男の自己陶酔にはいくつかの心理学的な類型があるのだろう。自分の狩猟の成果を並べて悦に入るのは可愛いものだが、私が気にかかるのは、自己の苦悩を露出するという、少し複雑な構造を持ったものだ。

 被虐嗜好(マゾヒズム)は本質的に自己愛(ナルシズム)と深い関わりがあると言われる。先の『我が半生』の類の多くは、構成力や文章力などその稚拙さ故に、その殆どが哀れにも隣人の笑いの種になってしまう。しかしその構造だけをよく観察してみれば、優れた芸術家の耽美派も好んで取り上げるのと同じモチーフがあると思う。それは他者からの攻撃を受けた我が身の苦悩を露出することにある。これを読者にドラマティックに知ってもらおうという甘い欲望と悦楽に、被虐的な自己愛を感じないではいられない。

 尺八吹きににこやかな笑顔で演奏する人は皆無に近い。逆に眉間に皺を寄せて苦悶しながら節を奏でる人のなんと多いことか。この苦悩の表情の中にも、程度に差こそあれ、先と同じナルシズムの悦楽が潜んでいるように思う。私もその一人である。この心境から出来ることなら早く抜け出したいと思っているが、なかなか願いは叶わないでいる・・・。

 浪速っ子の司馬遼太郎は、江戸っ子の池波正太郎と意外にも親しく交流していたそうだ。司馬は池波の何に惹かれたのか。池波の死去に際して司馬はその追悼文のなかで、「自己陶酔症(ナルシズム)という臭い気体のふた」をねじいっぱいに閉めていたと評しているそうだ。先の大戦で「自己陶酔」した軍部のお陰でひどい目にあったことが司馬の創作の原点というならば、頷ける話である。今の世間には、ナルシスティックな政治家も多ければ、その言動に一緒に酔ってしまう大衆も増えてきてはいないだろうか。尺八吹きの自己陶酔もまったく無関係ではないかも知れない。自戒を込めてこの風潮を警戒したいと思っている。



新 緑  - 6 -                百錢会通信 平成25年5月号より

  ユダヤ教やキリスト教、イスラム教などの一神教は、八百万の手近な神様に頼らないという点においては仏教や儒教と共通している、という一文をどこかの雑誌で読んで、そんな簡単に言ってしまってよいものかなぁ・・・と一瞬ためらいを感じたが、やはりなるほどその通りだと思った。そういう視点を押さえておくことは日本人には大切なことだと思う。

 神話に登場する神々は、お酒を飲んだり好色だったり、よくしくじったりもするし、必ずしも人間に対する圧倒的な超越性は感じられない。つまり人間よりはちょっと特殊な呪術力や、創造力、生命力などを有する程度の存在で、そんな神々がワイワイガヤガヤとやっている。神話は人間社会の拡張を天空に投射したような一種のファンタジーのようだ。

 こんな神々を拝む信仰は、おそらく自然との調和の中に暮らす人々に湧きあがって来たものだろう。そこに命を育む山林原野や海があり、共同体は何代にもわたってその地に生まれ育った人間が殆どで、大きな諍いもなく、だから自然の背後にある神々を拝んでいれば事は済んでいたのだと思う。

 ところが世界すべての地に、そういう集落の存続が安堵されていたわけではない。世界史の教科書を開けば、大規模な異民族の侵入や戦争、帝国形成といった話ばかりではないか。この戦争は、小さな部族同士の諍いとは規模が違って、その地に形成された社会を根こそぎ壊してしまう。そしてその社会はもともとその地の自然との調和の上に成り立っていたのだから、同時にその地の自然を壊すことになるのだ。何もかもがぐちゃぐちゃになって、自然の神々はもう頼りにできなくなってしまった。このぐちゃぐちゃの中でも何とか人間らしく生きていきたいという背景から、世界の一神教や仏教、儒教といったものが生まれてきたのは恐らく事実だろう。だから世界の名立たる宗教を語るに、そこにいかなる愛や法悦があろうとも、まずは人間の深い悲しみを思わずにはいられないのだ。

 人間が神々と共存していた世界中の社会と自然を、もっとも多く破壊したのは日本を含めた先進国である・・・、とまで断言する胆力が私にはないが、疑問を呈するかたちで訴えたい。しかし不思議なのは先進国の中で、日本に八百万の神の信仰が現在も続いているという現実である。日本の仏教寺院は院内に神々のおわすことを拒まないようだ。江戸時代に禅宗の一派であった普化宗の虚無僧にも、安産祈願の曲があったり、清め・厄除けのまじないがあったり、そこはかとない自然神崇拝やアニミズムの匂いが消え去らないのは何故だろう。それは、日本独特の自然の豊かさに由来するのではないかと私は感じている。

 昔、初めて訪ねたドイツ南部の都市で、小さな森を散策したことがあった。天気もよくとても爽やかであったけれど、なぜか心の扉を大きく開く気分にはなれなかった。硬質で輪郭の鋭利な木々の葉を眺めているうちに何とはなしに身構えが堅くなってしまうのである。草木も厳しい気候と闘っているかのようだ。それがどうだろう、我が家の近隣の雑木林を歩くと、木の肌や一枚一枚の葉の柔らかさが空気に融け出して、私の体はそれに優しくくるまれている様な気持ちになる。新緑の中に佇むととにかく理屈抜きに心の底から喜びが溢れてくる。自然が人間の心に与える感化の力は計り知れないものだ。日本という、これほど幸運な場所はないのかも知れない。



春の水                      百錢会通信 平成25年4月号より

    春の水 すみれつばなを ぬらしゆく

現代語訳:春の川水が、スミレやチガヤを濡らしてゆく

『蕪村遺稿』より

 

某大学受験予備校で、古文の講師をしている友人が発信している、「**毎朝3分!心が目覚める『古文サプリ』**」というメールマガジンからの孫引きである。

冬の間、川に水量が少なく、草も枯れて寂しげだった川岸に、山の雪が溶けて水が増えてくると、スミレやチガヤなど、春の草たちが、若々しく生えてきて川岸を彩る。豊かになった水は、その草たちの根を、しっとり柔らかく濡らしていく。ただそれだけの景色なのに、思い浮かべたら、しみじみとした喜びが込み上げてきた。

正直に白状するなら、かつては春という季節を晴れ晴れとした気持ちで迎えたことはなかった。桜がいくら艶やかに咲き乱れても、瞬く間に散ってしまうのが悲しかったし、何よりも年度変わりによる環境の変化はいつもいつも不安に満ちていた。父は陶淵明の「田園の居に帰る」を好んで諳じていたが、冒頭の「少にして俗韻に適するなく、性本丘山を愛す(自分は若い時から世俗に馴染むのが下手で、生まれつき丘や山の方が好きだった)」という件に私はいたく共感し、物憂い気持ちで父の朗唱に耳を傾けていたものだった。いつになったら心安らかな暮らしが出来るのだろうか…と。

幸か不幸か、尺八古典本曲というマイナーな世界に足を踏み入れたが為に、年度の変わる4月に、世俗の習慣に巻き込まれてあたふたすることは少なくなった。その代わりに私の稼業はいつ仕事が無くなるか分からないという不安に一年中苛まれるのであるが、逆にそういう日常故に年々歳々、春の訪れ、新しい命の息吹に感激するようになったのかも知れない。いつしか春の訪れを、細やかではあるが喜びの気持ちで受け入れることの出来る心境の変化が起きていた。

「春の花」ではなく、「春の水」という言葉が心から好ましかった。天から山が受け止めた水が、春、大地を潤し、命を育み、大河となってゆっくりと海へと注がれる景色の何と美しいことか。震災のあった2年前の春に、雲ひとつない上空から日本の山河を見下ろしたことがあったが、思い出すと今でも涙が溢れてくる。つくづくこの自然を汚したくないと思うのだ。



雛祭りの日に                 百錢会通信 平成25年3月号より

 箏曲のお浚い会のハイライトは、なんと言っても子どもの舞台である。可愛い着物を着せてもらい、無垢な心で歌い爪弾く姿は、疑いもなく清澄であって、こればかりはどんな名人達人も真似ることが出来ない。つい先日も目にした小さな子どもの舞台は、時節がら演目が「雛祭り」で、とにかく掛け値なしに可愛らしく美しかった。またその時は伴奏の篠笛がしみじみと郷愁を誘い、心に清水の流れる思いがした。
 「雛祭り」で思い出すのは実家の雛人形である。兄と二人兄弟である我々には、元来必要無かったはずなのに、毎年3月になると何故かいつも、当時のあばら屋には似合わぬ華やかな雛壇が飾られていた。母は4人姉妹の二女だが、どういういきさつか、実家の雛人形は我が家に持ち込まれていたのである。母がどんな思いで飾っていたのかを聞いたことはない。娘が欲しかったという無念かも知れないが、間違いなく思い出されたであろうことは、亡き母(私の祖母)の面影だと思う。雛段に向かい、人形に託された、子を思う母の心を思い出さぬ者があるだろうか。
 おりしも今年の雛祭り、33日に私は、震災後初めて福島の被災地へ慰問の演奏を届けにあがった。誘って下さった芸大の先輩のご両親の郷里が、南相馬だったというご縁であった。津波被害を受けたご両親のご実家の近辺は、放射線量が高く、立ち入りが制限されていて復興は遅々として進まない。今だに横転した車がそのまま放置されているという生々しいお話を現地で伺い、胸が潰れる思いだった。
 政財界、マスコミなどの様々な思惑が絡み合い、この地の現状は必ずしも正しくは国民に伝えられていない。言葉少なにそのことを仰ったのは、今回のコンサートを主催、アレンジして下さった南相馬の文化財団の担当の方だ。この地にとどまった人は皆、こうした無念を抱きつつも、前を向いて生きて行こうという、名状し難いある覚悟を心に秘めているのだということを、実に穏やかな口調でお話し下さった。
 覚悟。そのひとつの例として、被災したある小学生の作文のお話を伺った。要旨をかいつまんで言えばこういうことだ。震災と原発の問題は自分の子どもの代になっても、解決の道筋は恐らく見えて来ないだろう。その時に大切なことは、震災でこの地に何が起きたのか、本当のことを子どもに伝えなければならないということだ。その為に自分はこれから一生懸命勉強するのだ、と。
 次世代の為にと口先だけでがなる代議士センセイは、襟を正してこの作文を神棚に供えて伏し拝むがいい。なまじに目を通して分かったような気になってもらうのは迷惑千万だ。未だ見ぬ我が子のことを思う、幼くとも気高い、これは紛れもない母性の萌芽なのだ。そのことに気付く大人たちが一体どれ程いるだろうか。
 この澄んだ瞳の冷静な認識力と想像力を見習いたいと思う。つくづく反省させられた、今年の桃の節句であった。



幻 影                       百錢会通信 平成25年2月号より

国の借金が何百兆を超えてしまったというニュースを私が心に留めたのは、確か小泉政権が誕生する少し前だったと思う。そんなことになっていたということも知らずに生きていたのが、流石の私もその時とても恥ずかしく感じたので、私のような“浮世離れ”にも、国の財政について分かりやすく解説して頂けないかと、国政経済に明るいお弟子さんに酒場で訊ねた事があった。

そのお弟子さんは実に簡単に説明して下さった。「簡単に言うとですね・・・、たとえば一家の主、つまりお父ちゃんの年間の給料が500万円の家庭があったとしましょう。毎日の衣食住はそのお父ちゃんの給料で賄うわけですが、たまたま気安くお金を貸してくれる人がいて、ちょっと贅沢になっちゃったんです。部屋が手狭になったからちょっとだけ広い家に住み替えよう。入院しているお爺ちゃんは今まで苦労してきたのだから、差額ベッド代は多少かさんでもせめて病室くらいは快適な個室にしてあげよう。子供たちが良い大学に入学できるように塾に通わせましょう。社会に出てグローバルな仕事をこなすには今から英会話教室にも通わせなければ。互助会の会費のほかに特別の寄付もあちこちからお願いされて、喜ばれるものだからつい気前良く払ってしまう。家の修繕も出来栄えがよければ家族も喜ぶし、ついつい高額になる。犯罪や災害に備えて防犯防災グッズ、保険も入らなくちゃ・・・。気がついたら年間の出費は年収の倍近く。累積した借金は7000万円。だけどかつては順調に上がった給料も今は上がるどころかボーナスカット。それでも昇給し続ける前提の消費生活を見直せずにいる、一種の中毒みたいなものかも知れませんね。国の財政を身近な家計に振り替えて言えば、今日本という国はこういう家庭みたいなものなんですよ。」

 このショッキングなお話を伺ってもう何年経ったことか。何の改革も起こさぬまま、そんな会話があったことも忘れかけていたこの頃である。先月末、新聞に「国の財政をアベ家の家計に例えたら- 年収431万・支出926万・借金7500万円」という記事があったので、一瞬この記事はそのお弟子さんが書いたのではないかと、本当に目を疑ったものだった。あの酒場の会話で「どうするべきだと思います?」と逆に私は問われて「当然、収入に見合った生活にもどすことが第一でしょう。」と答えた。まずはボロ家に住んで隙間風に震えながらも歯を食いしばって借金の返済に立ち向かうべきではないのか。しかし今更そんな生活は出来ないという。借入金で支えている豊かな暮らしはそのままに、何とか立て直すには・・・。景気さえ回復すれば何とかなるという発想は、借金返済の為に本気で競馬場へ足を向ける父ちゃんの思いに似てはいないだろうか。

 こういう世の中だから、音楽家は真っ先に仕事がなくなるのではと戦々恐々としている。とかく芸術は裕福な社会が保障されてこそ花開くと言われる。それは一面の事実であることを私は否定しない。しかし、単に文化的な生活を彩るだけの装飾品ではない、本物の芸術の本質的エネルギーの発露というものは、実はとうの昔にその次元を超越しているのである。だから真逆の環境の中にあっても、機が熟せば作品は生まれるべくして生まれて来るのだ。経済の景気の良し悪しによって変動する感覚的な幸福や恐怖というものは、所詮幻、儚い影だと思う。だからこういう時勢の時こそ佳き芸術に触れて、心を強くしたいものだと、つくづく思う。



 桧枝岐村                   百錢会通信 平成25年1月号より

昨年は私には珍しく出張演奏の多い年だった。どんな平凡な街でも掘り起こせば深い歴史があり、それを知れば全てが思い出深い演奏旅行になるものだ。秋の過密スケデュールを経ていささか放心気味で迎えた年始だが、今でも印象深く忘れられないのが、昨年9月に訪ねた桧枝岐村である。

 福島県の南西にある小さな村とだけ聞きいていて、演奏の前日の夕方までに都内の仕事を済ませてから移動すれば良いだろうと思っていた。ところが一般の交通機関の時刻を調べてみると、とても半日で辿り着けるような場所ではなく、大慌てでその日のレッスン等を振り替えなければならなかった。

 尾瀬への観光地で、群馬、新潟、栃木と隣接する。駒ケ岳と、燧ケ岳、帝釈山に囲まれ、特に燧ケ岳(2356m)は、東北地方で最も標高が高い山だそうだ。それらの間を通る檜枝岐川沿線の国道沿いに位置する。村役場に隣接した集落の他は、村の面積のうち約98%を林野が占めている。村民は約700人弱、福島県内で人口が最も少ない市町村であり、日本一人口密度の低い市町村となっている。村民の姓名の大半は星、残りが、平野、橘、と続く。村全体が親族みたいなものだ。だから村人はお互いを姓ではなく、名前を呼び合う。役場という公式なオフィスでも「マサル」、「ハヤト」と声を掛け合う光景が本当に平和で、それは大きな驚きだった。

 米の収穫ができない土壌であったために蕎麦や山菜、川魚、森の獣を中心とする食文化が生まれた。私が宿泊した宿のお母さんは料理上手と誉れの高い人で、23日で体重は2キロ増、しっかり堪能した。食材の貧しい土地は全国にいくらでもあるものだが、この村にはそれを何とかして美味しく食べようという、卑屈にならない前向きな楽観主義の伝統があると感じられた。実に美味い。

 また驚きはこの村には農民歌舞伎の伝統が江戸時代から、少なくとも260年も続いているのである。今も親から子へ孫へと受け継がれている。福島県の重要無形文化財に、そして奉納上演される舞台も県の重要有形文化財に指定されている。本来村の娯楽として栄えていたものが、現在は文化的遺産としての価値が認められ、おのずと専門的なクオリティの維持が期待されてくる。しかし担い手は専門家ではないのだから本業との両立が問題となっている。しかし拝見すると、観客席の若い子が先輩の本番の演技に合わせて、嬉しそうに身振り手振りを練習していたので、まだまだ頼もしい限りだ。私はこちらにも大きな拍手を送った。

 私が訪ねたのは9月、天候にも恵まれて爽やかな季節であった。本当に素晴らしい村だと思った。しかし冬になれば日本有数の豪雪地帯である。決して楽に暮らせる土地ではないはずだ。村の青年に聞くと「会津や白河の帰りに雪に降られて、トンネルで夜明かしなんてこともありますよ。」と仰る。我々旅人の驚く顔が面白いのだろうか、彼らは実にあっけらかんと苦労話をして笑い転げるのである。この楽観主義と人情にすっかりやられてしまった。

 たった23日の間であったが、村人に迎えられ、演奏して、祝杯を挙げて、したたか呑んで、食べて、語らい、笑い転げた。思い出せば何でそんな事が可笑しいのかと周りからは不審に思われるような他愛もない事ばかりなのだ。けれども楽しくて仕方がない。この仕事に誘って下さった箏曲の後輩君との帰り道でも、もはや笑いが止まらず、何につけても可笑しさが込み上げてくる精神状態はちょっと異常なほどだった。今落ち着いて思い返すと、それほどに都市に暮らす我々はこれに飢えていたのかも知れないと思った。

 今あるがままを受け止めて福と成す心の営みを日本の心だと思いたい。年明けて自民党政権となり、官僚も落ち着いて仕事ができるようになり、政治経済はひょっとして一時的な安定が訪れるのかも知れないが、福島の問題には霞がかかるのだろう。職業としての現在の政治家は常に外に向かって戦果を挙げたがるが、我々は何時も内面に向かうのを習性とする。政治家との対話は一段と難しくなる一年となるだろうけれど、何事も楽観的に行くことにしよう。

                                                                                          



大先輩の謦咳に触れて

 昨年の今頃、次の年こそは自分の演奏会を再開しようと思っていたが、箏曲の方の依頼を喜んで引き受けているうちに、気がついたら今年後半の予定はそれですっかり埋まってしまっていた・・・。それはさておき、今年はどうした巡り合わせか、思いもかけず斯界の重鎮の先生方との共演に恵まれた。諸先生方は、御歳80半ばにして矍鑠としていらっしゃる。長い年月、音楽の火を心に灯し続けてこられた先生方の言葉にはその端々にまで重みがあり、少しでもその謦咳に接することができたことは本当に有難い事だった。何気ない会話がその何気なさ故に尚私には感慨深かったので、思い出すがままにそれを書き記しておきたい。

 

  “稔るほどに頭を垂れる稲穂”の例えは、今は亡き私の恩師、山口五郎先生のためにある言葉だと思っていたが、今秋にご一緒頂いた箏曲の先生方もまさに謙虚を絵に描いたような方ばかりであった。箏曲の最大会派の頂点に立つ先生であっても、私のような者に掛けて下さった初めの一言は「どうか一緒に曲を作り込んでまいりましょう!」である。キャリアや技術に差があろうとも、お互いが心を尽くして、たった今世界に一つだけの音楽を紡いで行くのだという、ゆるぎない信念である。信念であるが故にその提案には遠慮もなければ妥協もない。高慢な命令とは全く次元を異にするのである。舞台の幕があく直前には「一緒に楽しみましょうね!」と仰って下さった。私にはそのお言葉が、澄んだ夜空のお星様のように今も煌いている。

 

「古典の歌は、ドスを利かせて良いものなのかしら・・・?」とご自身に向かって問いかけるようにつぶやいていらっしゃった先生は、1960年代に数知れない現代作品を初演なさって来られた、いわゆる“現代邦楽”の先覚者である。にも拘らず、先生は今尚一貫して古典の研鑽を怠ることがない。今は亡き諸先生方のお言葉の意味を今も繰り返し咀嚼し続けていらっしゃるのは、若気の浅読みをしていなかったか・・・との戒めであろうか。俄かに新たな発見があればそれはまるで童女のように胸躍せるのである。そしてニッコリ、私に向かって仰るのだ、「歳はとってみるモノよねぇ」と。「修行」という金言に埋没しがちな若き古典派とは、土台“魂”が違うことを思い知らされて、冷たい汗が背中を流れた。

 

またある先生は、リハーサルで門下生に篤くアドバイスなさっていた。そのお姿はいつもの静かな佇まいではあるが、伝えたい思いの深さ故であろう、いちいち曲毎にステージに歩み寄るのである。しかし決して走ったりはしない。「私が転んで怪我をすれば、周りの人に迷惑をかけるから・・・」。人の道として当たり前のことなのかも知れないが、健康管理の前提にまず周囲の人々への気配りのあることに感じ入った。沢山の人に助けられて自分は演奏を重ねることができたという思いが、多くを聞かずともこの短いお言葉から伝わって来たからだ。下合せの為に先生のご自宅へ伺うと、わざわざ玄関の外に立ってお迎え下さっていた。恐縮して慌てて小走りした私の方がつまずきそうになってしまったのである・・・。

 

先生方が旧音楽学校(現 藝大)に学ばれたのは70年も前。激しい戦争のさなか、学徒動員で召集された級友を校門で送る時に歌う『海ゆかば』が、何の指示もなく混声合唱となった時「私は音楽学校の生徒なんだ・・・」と感じられたそうだ。あの光景を思い出すと今でも胸が一杯になってと少し涙声になられたのが忘れられない。大変なこと、辛いことをとにかく一生懸命乗り越えてきた。最近やっと学校教育に和楽器が導入されることになり、それが何より嬉しいと仰った。まだまだ書き尽くせないシーンの連続だった。訥々とお話になる。どのお言葉もその何気なさ故に私の感激は増幅して止まなかった。

 

今年は私だけでなく、全体に尺八主導の活動が少なかったように思う。だから尚更、この秋に箏曲の大先輩方から授かった“温熱”は冷まさないように大切にしまっておいて、来年からまたコツコツと精進して行こうと思う。




エンジニアの勝利              百錢会通信 平成24年11月号より

 リサイタルシーズンの真っ只中である。この時期のコンサートは芸術分野の様々な贈賞の審査となることが多いので、演奏家と評論家、そのどちらにも緊迫感が漂っている。正に演奏会場は“賞獲り”の“合戦場”の様相を呈しているようだ。

 「競い合い」に必ず「判者」が立ち会うのは当り前だ。音楽家は誰が何と言おうとも、「これが私の本当の音である」ということを言い切ることが何より一番大切であるはずなのに、ひとたびコンクールに巻き込まれたならそうは行かない。芸術家としてというよりは先ず、“技術屋”としての実力が否応なく問われるからだ。この時節、演奏家は外野から、普段にも増して一段と辛辣な批評に晒されて、一喜一憂させられるのである。

 しかしこの批評というものが実に多様なので演奏者は泣かされるのだ。たとえば、A先生がある演奏家に向かって表現の抑揚に欠けると言ったかと思えば、B先生は反対にメリハリをもう少し抑制しろと言う。C先生がテンポに躍動感が欲しいと言えば、D先生はもう少し落ち着きのある時間の刻み方はできないのかと反対のことを言う。「では一体私はどうしたら良いの!?」と奏者は頭を抱えて部屋に閉じこもる。毎年こうした話を少なからず耳にすると、自分が当事者でなくとも身につまされて心が痛む・・・。

 話は唐突だが、ふと何年も前に見たF1レースのテレビ放送のことを思い出した。当時、日本のホンダが参戦していて、セナとかプロストといった天才レーサーを擁して大そうな話題となっていた。モータースポーツに詳しくもない私がその時ちょっと興味を覚えたのは、解説者によるプロストの話だった。彼の天才的な運転技術は自他共に認めるところだが、彼は加えて車のメカニズムについても大変精通しているのだそうだ。ドライバーにしか感じられない車の不具合をエンジニアに伝える際、その指摘と表現の的確さは並外れていて、どんなに精密な計測機器も及ばない程だという。故にエンジニアの整備のクオリティーも上がるわけで、ホンダチームの強さはそんなところにも起因するのだろうというコメントだった。

 ところがその放送の時は、マンセルという別のレーサー(ウイリアムズだったか・・・チーム名は失念した)が優勝してしまった。解説者は少し苦笑気味に「これはある意味、エンジニアの勝利とも言えますね・・・」と言った。なぜならマンセルはプロストと正反対で、マシーンの状態のリポートがとても直感的な表現で、意味不明なことがよくあるからだという。だからエンジニアも直感力を働かせて、抽象的なマンセルの報告から不具合の真の原因を見抜かなければならない。例えばエンジンの調子の悪さをわめき散らされても、「オーケー了解した」とエンジニアは冷静に答えて、実はミッションなど別の部位の調整をしたりする。そういうことを積み重ねてマンセルのフィーリングにあったチューンアップが実現する時に勝利の女神が微笑むというわけだ。

 コンクールに参加する演奏家も、ある意味マンセルに対峙するエンジニアのようではないだろうか。音量不足を指摘された時に、逆に弱音や音色の工夫をした方が効果的であったりすることも多いと思う。とにかく秋ほど演奏家同士、「同病相憐れみ、同憂相救う」の思いを強くする季節はない。



大  台                      百錢会通信 平成24年10月号より


 先日友人から干支を問われて、自分は今年年男だったことを思い出した。「人生五十年」も目の前なのだがこれと言って実感もなければ、大きな感慨もない。強いて言えば、さすがに頭髪の衰えが顕著になってきたと感ずるぐらいか・・・。

20年ほど前は、同年代の結婚式によく参加したものだったと思い出す。男の友人達はよく「20代も終わり、年貢の納め時だ・・・」などとケシカラン台詞を口にしていた。「いよいよ三十路だなぁ・・・」なんて言葉をしみじみ語るものも多く、そんな姿を私は不思議な気持ちで眺めていた。そういう感慨が全く湧いてこなかったのは、私が幼い頃から虚無僧尺八を吹いていて、周囲から妙に大人扱いされて来たせいだろうか。とにかく老けて見られ続けてきた。年々歳相応になってくるからと慰められてきたが、この歳になってその実感も全くない。

44歳の時に文化庁主催の芸術祭で新人賞を頂いた。当事は受賞者全員の名前が新聞に掲載されていて、それを見たらナント「善養寺惠介(64歳)」となっていた。急いで文化庁に訂正を求めたが後の祭り、共同通信社を経て全国の地方紙に60代の新人賞の快挙は報道されてしまっていた。しかしそれより驚いたのは「本当は善養寺さん64歳だったのですか!?」と真に受けた知り合いがいたことだった・・・。しかし私は少しもこういうことが不快ではなく、皆さん面白おかしく笑い転げてくれるので、むしろ好んでこのエピソードを紹介するくらいだ。

藝大の後輩さんから最近「大台にのる」といった会話がよく聞かれるようになった。特に40歳のハードルを越えることには特別の感情があるようだ。若いエネルギーが美しく、輝くように燃えていた記憶が時とともに遠ざかっていくような感覚なのだろうか・・・。私にはそういう経験がなく、ただただ想像するばかりである。私は35歳の時に、虚無僧尺八だけのリサイタルを開き、CD録音をした。予想通りの賛否両論が沸騰。業界としての音楽界の中にあっては明らかにマイナーなジャンルである。「活動は戦いだよ!」と言って、十数年来変わらぬ友情で支えてくれるスタッフとともに、今も前線に立っている。40歳を越えた時の記憶などは全くない。「一生懸命に生きて自分勝手に幸福だった」とは谷川俊太郎の詩の一節だが、まさにそんなところだろう。

最近訳もなく、心とか精神というものは、生まれてから死ぬまで何も変わらないのではないだろうか?、という思いが強くなってきた。気を若く持とうとか、少年の心を持ち続けるとか、そういう事とは全く別次元の話だ。雨だれ、そよかぜ、樹木の肌、枯葉を踏む音、雪景色の静寂。こうしたものから少年時代の五感がとらえたものは、肉体の衰えた今も全く色褪せることはない、という感覚を最近は好んで楽しんでいる。



触  媒                      百錢会通信 平成24年9月号より

今月は、何年か前に話題にしたことの、そっくりそのままの繰り返し。厳しい残暑で頭までバテてしまったようなのでご容赦願いたい・・・。

「魔女の宅急便」というアニメーションの作品があって、その制作現場についてのインタビューに答えた作者の宮崎駿が口にした、「触媒」という言葉が妙に忘れられないでいる。昔から魔女は箒にまたがって空を飛ぶもので、物語の中でも主人公の新米魔女さんは実に気持ち良さそうに空を飛び回っている。ところがある時から魔力が抜けてしまったのか、箒にまたがっても空を飛べなくなってしまうのである。この失意から立ち直り、再び魔力を取り戻して空に飛び立つシーンがこの物語のクライマックスなのだが、この時の魔女の形相たるや凄まじいものだった。一人前の魔女になる為の辛いイニシエーションを乗り越えていく、若い主人公に漲る気迫の描写が素晴らしかった。インタビュアーはこの場面について質問を宮崎に向けた。どうやってこの場面を描き上げたのかと。

その答えがユニークだった。そもそも魔女が空を飛ぶのは、箒に魔力を与えて箒が飛ぶのか、それとも魔女自身が飛ぶのかという疑問である。答えは後者だ。何故なら箒自体が宙に浮くなら、たとえ少しの時間であってもそれにまたがっていたら、間違いなく股間が痛くなって飛んでいられるはずがないと言うのだ。

つまり魔女自身の体に浮力が生じると考えるのが自然で、箒はこの浮力を生ぜしめる一つの「触媒」であるという考え方だ。「触媒」を辞書で引くと、「化学反応の前後でそれ自身は変化しないが、反応の速度を変化させる物質」とある。私はこの話を聞いて魔女の箒の様に、尺八も同じく一つの「触媒」ではないかとつくづく得心したのである。

音楽は演奏者の精神と肉体の内側に起こるのだ。この「化学反応」を促すのが「触媒」としての楽器である。私は加えてその楽器の演奏技術と、演奏される楽曲そのものさえも、ひとつの「触媒」ではないかと思うのである。佳き音楽の為に、これら楽器や技術、楽曲について精細な吟味がなされるのは当然のことであるが、注意を要するのは、「触媒」の良し悪しの議論ばかりが一人歩きして、肝心の人間の精神が不在となることであろう。箒が勝手に飛ぶならお尻が痛くなる。

 



お洒落な趣味                 百錢会通信 平成24年8月号より

尺八の友人のお弟子さんに、とてもお洒落な女性がいる。その方の身だしなみがいつも素敵なのだが、私が心惹かれるのはもちろんそんな表面的なことではない。

和服の時もあれば洋装もある。また洋装も多岐に渡って“守備範囲”は実に広い。私がそう感じたことを伝えると「先生はファッションに興味がおありですか?」と質問された。いえいえ私は女性の服飾には全く無案内だし、ファッションのセンスには自信がありませんと答えた。それなのに何故・・・と彼女はちょっと不思議そうだった。

彼女の衣服や装飾品には、その一つ一つ全てに細やかで深い愛着が注がれている。私が強く感じたのはこんなことだった。しかもそのお気に入りの品々が、決して使い捨てにならないように丁寧に選ばれているであろうことも、容易に想像されるのであった。それでいて自分の好みにひたすら没頭するのでなく、TPO(時と場所と状況)に応じて周囲への気配りも怠らず、とても立派だと思ったのである。

インターネットで公開している私のこの駄文もよく見てくださる様で、時折感想等をお聞きする。その会話から、文学や美術についても彼女の“守備範囲”の広いことが伝わってきて感心させられる。きっと芸術鑑賞が生活の中に自然に融け込んでいるのだろう。

私は益々興味を持って、他の趣味について訊ねると、何と彼女が田圃の傍らで尺八を吹いているセルフポートレイトを見せて下さったのである。荒れて放置されてしまいそうな水田で稲作を手伝うというイベントに参加されているのだそうだ。その写真は田植えか何かの折の、ちょっとしたお楽しみ会の1コマだそうだ。「上手ではありませんが、棚田の景色の中で聞こえる尺八の音は、何か良さそうな感じだったので吹いちゃいました!!」と、その笑顔に屈託がない。

昨今の流行は、正に使い捨て。時間をかけて育んで行くものは稀有と言って良い。流行り廃りのサイクルがどんどん短くなり、自分で作っておきながら、人間自身がそのスピードについて行けなくなる有様だ。そして気がつくと、周りは途方もないゴミの山なのだ。

尺八を趣味とする我々は、図らずもこうした人間の愚かしさに対して警鐘を鳴らすことになるだろう。ところが、どうも私の様な無粋な男は、ものの言い方というか伝え方が、妙に理の角が立って面白みに欠ける気がしてならない。そこへ行くと、彼女のアピールの仕方はとてもユニークで微笑ましい。だからこれからは、彼女のような女性の愛好家が増えてきて、疎外された人間性の回復を訴える場が、もっと優美に、もっとお洒落に広まっていくことを願って止まないのだ。そして男の私も女性のそういうセンスを少しでも見習いたいと思っている。



「戻って来ましたね・・・」           百錢会通信 平成24年7月号より
毎年6月に恒例となった、ある小さなコンサートで、よくパーカッションとセッションする。 “古典畑”の私にとってはとても珍しいことで、ほぼ1年に1度きりの機会だろう。よしうらけんじさんという、慶応の法学部を卒業してパーカッショニストになったという異例の経歴の持ち主。演奏はエネルギッシュだが、普段は物腰の柔らかな、お洒落で穏やかな方だ。

 楽屋でやぁー1年ぶりですねと懐かしく挨拶を交わす。そしてありきたりだが、仕事はどうですかと訊ねると、ちょっと間があって「やっと戻って来ましたね・・・」と、よしうらさんはお答えになった。その言葉に私はハッとさせられた。

 東北大震災直後、音楽業界は驚くほどに演奏の場が減ってしまった。激減と表現して不自然ではなかったようだ。 ― なかったようだ ― などと他人事のように私が言うのは、日本の古典芸能の世界は震災前から既に演奏の場が“激減”していたからだ(これは笑えない笑い話だが)。世間一般の商業音楽の世界に比べて我々の業界ではその振幅が遥かに小さかったのだ。大きく落ち込んだからこそ当然回復にも時間を要する。この時期にこの実感のこもったよしうらさんの言葉を聞いて、改めて自分の“浮世離れ”を痛感させられた。「戻って来た」は回復傾向にあるという思いが滲んでいた。完全復調ではないのだろう。

 同時に私は震災による心のショックで演奏活動が出来なくなったミュージシャンの多いことにも思いを馳せていた。音楽をやっている者は、どんなに悪ぶって見せても心のどこかには、音を奏でる自分は非力である、という強迫観念があるものだ。生きることにおいて第一義的な必需品を生産していないことは人間として無力であるという思いだ。こういうことを言えば直ぐに呑気な文化人の反論が聞こえてきそうだ。人間は衣食住が足りて満足できるものではない、文化的な創造を果たしてこそ人間として生きる意味があるのだと。しかし私は今そういう議論に興味はない。そんな理屈に居坐って溌剌と活動する音楽家を私は信用しない。むしろ自分は無力であるという負の観念が起こったなら、その中に深く沈む時間こそ音楽家は大切にしなければならないと思う。その闇の中に深く分け入って、それでも吹かずにはいられない、弾かずにはいられない、歌わずにはいられない自分をそこに見付けたなら、その時はその自分に素直に従えばいい。作品が生まれるとはこういうことだと思う。

「戻って来ましたね・・・」。それは「いい作品が生まれ始めましたね・・・」、という言葉にも聞こえたので、感慨深く、よしうらさんの穏やかな声を何度も思い起こすのである。



ポップス トップ20             百錢会通信 平成24年6月号より

 ごく最近、車の運転中にFMラジオを聴くようになった。1年前の私には考えられない事態である。FM放送は局によって嗜好性が違うものの、音楽の放送が中心となる。しかし私のような変わり者の好みの曲がかかることは稀で、大抵は当世流行のポップスなどが矢継ぎ早に流れて来るのである。興味のない音楽は人の耳と心に却って疲労を与えるものだ。だから近年およそFMラジオに耳を傾けることはなかったのだ。それが些細なきっかけから反転してしまったのである。

 交通情報を聞こうと思いスイッチを捻ったのだ。たまたまその時、今週のシングルレコード売り上げランキングトップ20という番組がかかっていた。まったく興味がなかったのがふとその時、音楽を聴こうというのではなく、当世の流行音楽をニュースとして聞いてみようという気持ちが何故か沸き起こったのである。すると何もかもがちょっとした驚きだった。感じたままにその驚きを綴ってみる。

まずはアニメーションソングの多いこと。声優自身が歌うことも多く、アニメ特有の演技罹った表現は、それがどんなに可愛らしいキャラクターであろうとも、とても猥雑なものが感じられた。また日本のアニメは世界中で大変な人気だから、その“オタク”ルートを通じてこれらの曲も世界中で聞かれているというから驚きだ。

 大人数のグループの席捲にも驚いた。「○○○48」の類が常に上位に喰いこんでいる。ラジオだからダンスは見えないが常に踊りながら、あの大人数がユニゾンで歌い続けている。この不思議なスタイルは日本独自のものだろうか。これらのグループはランキングが下がってきても、どこかで大規模なイベントを打って握手会でもしようものならそれだけでまた上位に返り咲くというから、これまた驚きだ。

 意外に演歌系が飛び込むこともある。後援者に富裕層が多く、そういうファンのレコードのまとめ買いというバックアップがその要因らしい。ディナーショーでテーブル近くに歌手が来れば、自分のしていた何百万もする腕時計をその場ではずしてプレゼントなんて光景が本当にあるそうだ・・・。

 韓国から日本へ進出というアーティストが多いことも知らなかった、流暢な日本語で歌っているから・・・。戦略的というか、したたかな色気が紛々としているという印象があるが、これは私の思い込みだろうか。

 上位20曲にランキングされるための、1週間のレコード売り上げ枚数の目安を放送していたが失念してしまった。自分とはあまりに桁が違うからだ。私の虚無僧尺八のCDは10年かけて2000枚くらい売れた。かたや1週間で数万枚だ。

 というわけで、ちょっとした浦島太郎気分を楽しんでいる。聞く曲聞く曲ごとに、驚きのニュースがある。斬新なアレンジ、今までにない歌唱法やリズム。またそれに対する聴衆の反応の仕方。たった1週間で上位20曲中の8~9割は入れ替わってしまうという、激しい競争の世界だ。20年前には考えられない変動の速さだ。聴衆の興味を惹くためにアーティストも制作スタッフもしのぎを削っていることだろう。だがその所為かわからないが、作品の殆どがかなり表層的で内面の空洞化という感は否めない。飾りつけは実に立派になったが、1フレーズのモチーフに、あるいはたった一言の歌詞に力が無い。そういう内的なエネルギーの発露を待望する気持ちは、聴衆の心の中に潜在的ではあるけれども、決して消えてなくなってはいないと思うから、今後の展開に期待したい。 



新 緑  - 5 -                百錢会通信 平成24年5月号より

 娘がこの春受験に合格して、東京藝術大学の作曲科に入学した。順当に卒業できれば晴れて親子3人同じ同窓生となるわけだが、同じ藝大といっても邦楽科と作曲科では正に別世界。娘の話を聞けば、西洋音楽に無知な私にとっては、それはもうまるで御伽噺のような世界なのである。だから今だに「よく合格できたものだ・・・」と繰り返しつぶやいてしまう。

 誠に思考回路の水準の低いそんな親のつぶやきをよそに、新入生たちの顔は引き締まっている。五線紙に向かう娘の眼に、燃えるような創作のエネルギーが漲っているのを感じて、ハッとさせられた。桜の花の感傷はさっさと通り抜けて、正に若い葉の緑は輝いている。  

 けれども中には若者ならではの倦怠に苛まれている学生も多いことだろう。「自分が本当に学びたいことがこの学校にあるのだろうか?」「そもそも自分が求めているものはこれだったのか?」「自分が生きている意味は何なのか?」 絶望しているように見えてもこうした悩みは、ひたむきに生きようとする、瑞々しい感受性が心の奥底にあるが故なのだから、この苦悩を保持することもやはり若い緑の美しさの一つなのだと思う。

 ただこうした悩みをもしも相談されたら自分はどう答えたらよいだろうと思うようになった。正直にいえば、自分の場合はただ生きて行く日々の現実に忙殺されて、二十歳前のこうした悩みを忘れてしまっただけなのだ。ただこの忘却には中々味わい深いものはある。しかしこれを言葉にすることは難しいし、と言って「そのうちに忘れちまうよ!」というのではあまりに思いやりに欠けてはいないだろうか。

 そこで私が思いついた最善の策は、何かと引用される詩人リルケの次の言葉を贈ることだった。

 

もしあなたの日常があなたに貧しく思われるならば、その日常を非難してはなりません、あなた御自身をこそ非難なさい。あなたがまだ本当の詩人でないために、日常の富を呼び寄せることができないのだと自らに言いきかせることです。というのは、創作するものにとって貧困というものはなく、貧しい取るに足らぬ場所というものはないからです。

 

 「日常の富を呼び寄せる」という言葉に感じ入ったものだった。再読繰り返し胸をうたれ、その度、我が心に若葉の緑が鮮やかに甦ってくるのだ。



  淡白であるということ         百錢会通信 平成24年4月号より

 毎年3月に京都の明暗寺(東福寺塔頭 善慧院)で、「如道忌」という献奏会が開かれている。尺八家神如道ゆかりの愛好家が全国から集い、故人を偲びまたその芸風を顕彰しようという追善会である。私はこの会から遠ざかってはや20年余りとなるが、かつて(高校を卒業した年)岡崎自修師に引っ張られて10年ほどは毎年欠かさずに参加していた。

 プログラムのおよそ7割は神如道の伝承による虚無僧尺八本曲であったと思うが、地歌箏曲との合奏曲も演奏されていた。絃方は故佐々川静枝師とその社中の方で、味わい深く、正にいぶし銀のような佐々川師の芸を間近に拝聴できることも、参会者の楽しみの1つであったと思う。

 岡崎師には、仏前すなわち神先生に聞いていただくつもりで精進せよと命じられたものの、「惠介の顔をそろそろ売り込んでやらねばなるまい・・・」という岡崎師一流の戦略あってのことだった。狙い的中で実に多くの方が毎年笑顔一杯で激励して下さるようになり、ささやかながら人前で竹を吹くことの喜びと自信を少しずつ手にしていったように思う。

 やがて藝大に入学。私は虚無僧本曲以外の箏曲との合奏にも励むようになり、ある年「今回の如道忌は合奏曲で申し込んでみようかな・・・」という気持ちがにわかに湧いてきた。ちょっと腕試しをしてみたかったのだ。そこで岡崎師に相談してみると、「そろそろそういう小生意気なことを言い出すんじゃないかと思っていたら案の定・・・」と、呆れ顔で一笑に付されてしまった。出鼻を挫かれて悔しかったけれども、今思えば赤面の至りである。これ見よがしな演奏は、たとえば茶懐石に覚えたての手料理、差し詰めハンバーグステーキあたりを持ち込んで自慢するようなものだ。諌められて思い止まり、赤っ恥をさらさずに済んだのだ。

 

醲肥辛甘は真味にあらず、真味は只だ是淡なり。

神奇卓異は至人にあらず、至人はただ是れ常なり。

(菜根譚)

 

 淡白であることの背景にどれだけの内容が蓄積されているかということの真意を知ることは、決して容易ではない。鋭い眼力の持ち主は一朝にしてそれを見抜くかも知れないが、我々のような凡夫は、甘いの辛いのと模索し続ける長い長い道のりが、逆説的にそのことを悟る縁になるようにと、祈るしかないのだ。とても時間がかかるし、時間を費やしてもその縁に恵まれないことだってあるだろう。尺八の演奏技術は格段に飛躍し続けている。超高速の運指技術や、音量・音高の厳密なコントロール力など、現代最高の技術的水準に私などはもうとても及びつかない。そうなると今から私が何を主張しても負け惜しみから捏造した“精神論”と見なされてしまうかも知れないが、なんと言われようとも次の考えは私の中で変わることがないだろう。

 演奏家とは来る日も来る日も職人のように技術を磨き続ける生き物である。しかしそれ自身が目的ではないのだ。演奏家にとっての目的、言い換えるなら夢や希望といったものは、その作業の中に勃発する、まったく別次元への跳躍なのである。その世界を「淡白」と言えば、「良きこととは、淡くてあっさりしているものだ」などという、ありきたりの解釈ではないことを、理解してはもらえないだろうか・・・。



政治闘争                   百錢会通信 平成24年3月号より

 幕末の長州藩士といえば誰もが直ぐに思い浮かべるのは、大方は桂小五郎や高杉晋作あたりの名前だろうが、並んで同じ長州藩士、長井雅楽(ながいうた)などという名前をご存知の方は相当の歴史通ではなかろうか。知らない歴史の話に触れることは面白いものだ。長い電車通勤の暇つぶしにたまたま手にした週刊誌の中に、この人物の名前とその仕事の記事を読んで、束の間移動時間の退屈から解放されたものだった。

 当時、外国の侵入を断固打ち払え!という攘夷論が、日本のほぼ全域に蔓延していた。その状況下、少数派の開国論者の中で先の長井雅楽の表明した建白書は、朝廷の孝明天皇を満足させたばかりか、時の老中安藤信正をはじめとする幕閣首脳も大いに賛同したというから、ちょっと驚きだった。

 要約すると・・・。日本の鎖国は島原の乱などの影響によるもので、歴史的には高々数百年ほどの特殊なものに過ぎず、それ以前の日本は外国人をおおらかに出入りさせていたのだ。天照大神は太陽の照らされるすべての地に天皇家の恩恵が行き届くべしと仰せであった。故に日本はまず開国、貿易により国を富まし、日本の皇威を世界に示さなければならないのだと。こうした長井の「薬」はむしろ維新後の日本にちょっと「利きすぎた」のではないかと、この記事の筆者は述べている。

 私は歴史通でもなんでもないからこの史実の真偽の裏を取ったわけではない。ただ、ちょっと心に引っ掛かったのは、朝廷と幕府の双方に賞賛されたという、この「正論」を訴えた主が、どうして幕末のヒーローとして歴史に名を留めなかったのだろうという疑念であった。「出る杭は打たれる」とのたとえの通り、それはいつの時代にもあるその後の政治闘争によるものであろう。それにしても解せないのはこの長井を実質的に「粛清」したのが、長井とほぼ同じ歴史認識を共有する吉田松蔭の弟子達であったということだ・・・。

 繰り返し断っておくが、私にとってこの史実の信憑性にはさしたる興味はない。ただ心に灰色の思いとして残るのは、いつの時代もおよそ政治闘争というものは、立派な「信義」とか「理念」を掲げてはいるが、殆どの場合それは、野心のための野心に燃える“政治家”の、単なる道具に過ぎないであろうということだ。闘争の本質を支えているものは驚くほどに空虚なものだろう。闘うものはそれに気付かぬ故に、あるいは無意識のうちにそれを認めたくないが故に、「信義」や「理念」といったものをやけに仰々しく喧伝するのであろう。

 芸術家は「信義」や「理念」ではなく、この闘争などをも含めた、人間のあらゆる行動の心の本質に向き合おうとする人種ではないかと思う。その意味において芸術家が政治闘争を経験することは無意味ではない。しかし、現実には脆弱な「信義」や「理念」に酩酊してしまうか、あるいは闘争そのものの悦楽に呑み込まれてしまうことの方が、きっと多いことだろう。年度末にはいつも、音楽大学の人事の変動にまつわる醜聞が、私のような “蚊帳の外”の者にも漏れ聞こえて来る。けれども今年の3月くらいはもう少し神妙に沈思黙考したらどうだろう。震災からの1年目の節目なのだから。



湯 気                     百錢会通信 平成24年2月号より

野ざらしの駐車場の車に朝乗り込むと、フロントガラス一面にビッシリと霜の降りていることが、この時節少なくない。それがまたカチコチに凍っていて、5分やそこらの暖気では容易に融けないのだ。ところがここに朝日が当たり始めると、瞬く間に霜はその姿を消してしまう。住宅の隙間から差し込む、入射角の低いこの光線の中で、さらに湯気となって空中に霧消していくさまを見ていたら、日光の有難さが妙にしみじみと感じられてきた。

作家の名前は忘れたが、生まれたばかりの仔馬を描いた一枚の絵を思い出した。記憶違いかも知れないが、確かその仔馬の体から発する湯気が、やはり同じような朝の光に照らされて描かれていたように思う。少しヒネていた若い頃には、およそ口にすることも文字に書くこともなかった“希望”なんて言葉を、その絵に出合った時はやけに素直に思い浮かべたものだった。

ところで、生まれたばかりの嬰児の体から発する湯気というものは、新しい生命体の活発な新陳代謝による水蒸気のように思われるけれど、実際には分娩によって流失された母の血と体液による湯気なのだ。新しい生命誕生の場面において、母胎にせまる死の影から我々は目を背けることができない。

アメーバのような単細胞生物の細胞分裂は、いわば「母アメーバ」から複数の「娘アメーバ」に変化するわけだが、この分裂によって「母アメーバ」は事実上消失する。この「消失」と有性動物における親の「死」とは簡単に同じとはいえないかも知れないが、いずれにしろ、生命の連続において存在の断絶ということを切り離すことは出来ないだろう。

 “もの”というものが西欧では主に硬質の石で製作されるのに対して、日本では木で作られることが多いということを、私は前から興味深く思っていた。木は石に比べて明らかに保存が利かないわけで、日本人はものを作るときに消失することに余り執着しないというか、あるいは消失することを前提としているように思われて、これはユニークな感覚だと思っている。伊勢神宮が二十年ごとに造営されなおされるシステムにそれが顕著に現れてはいないだろうか。オリジナルはコピーにその生命を託して滅び、そのコピー自体がオリジナルとなっていく。

日本の歌の歴史で「本歌取り」と呼ばれる法則も、これと同じ土壌に生まれたのではないだろうか。オリジナルをコピーして、そのコピーに新たな命が宿る。否、歌だけではなく、日本の芸能すべてにこの精神が流れていないだろうか。少なくとも我らが吹き鳴らす尺八の古典本曲はこのシステムの中で生まれてきたのだと思う。ただ、知的所有権の主張の喧しい現代でこんなことを大声で言えば袋叩きになりそうだから、この辺で止めておこう。寒い寒い朝、日の光の中に立ち昇る湯気を見て新たな命に思いを馳せるのは、春が待ち遠しいこの季節の気候の所為だということにして。



松柏千年の青                 百錢会通信 平成24年1月号より

サボったわけではないが、昨年は虚無僧研究会の小菅和尚が面倒を見てくださる月に一度の参禅会を欠席することが多く、残念だった。釈迦の教えには到底辿り着くとは思えない我が坐禅であるが、真剣に坐った後の清々しさは、尺八本曲を一心に吹き終えたときのそれと全く変わりがないと感じている。

坐禅会に参加すると小菅和尚は、臨済会が発行する「法光」という小冊子を折々に配布して下さるのだが、今年の新年号の巻頭言は「松柏千年の青」であった。傳燈録、石田禅師の語だそうだ。

石田禅師はある時弟子に向かって「但だ本を得て末を愁うること莫れ」(根本の教えを体得して、枝葉末節に関わってはならない)と言い、同時に示した詩が「松柏千年の青 時の人の意に入らず 牡丹一日の紅 万城公子酔う」(松柏の翠のように真理は時空を超えて変わらないが、人々はこれに目を向けようとしない。ところが一時の牡丹の紅に世間は大騒ぎで見物にでかける)である。

簡潔にして平易、誠に背筋のピンと伸びた、年の初めに相応しい言葉だと素直に感銘を受けた。が少し間をおいて、少々次元の低いある想いが込み上げて来た。それは、永年虚無僧尺八という地味なものを吹いていると、箏や三味線の合奏曲や、あるいは現代の“ポップス邦楽”など、世間に持て囃される「牡丹の紅」を、実はどこかで「羨ましい」と思っている自分がいるのではないかという疑念が湧いてくるのである。否、これはもう確実にいるという哀しい直感だ。我が尺八を声高らかに「松柏千年の青」と讃えても、そこには紛々と自己愛的な陶酔が漂っている。美文に飾られた思想はこの意味において危険である。陶酔は所詮一時の夢であるから必ず覚めて、また虚しい一人ぼっちの自分と向き合うことになる。もしもこれを繰り返すなら、いつかは自らを暗黒の独房に幽閉してしまうことになるだろう。「杜子春」のように鉄冠子に救われるならよいけれど、そこで大抵出会ってしまうのは妖しい“教祖”ぐらいのものだから始末が悪い・・・。

「松柏千年の青」と「牡丹一日の紅」を対立させて考えてしまうところに落とし穴がありそうだ。松の翠を前にして、先ずは一吹きしてみようと思う。坐禅してみてもよいと思う。先ずは心を空っぽにすることから、毎年正月の一歩を踏み出そうと私は心がけている。



窮鼠猫を噛む               百錢会通信 平成23年12月号より

 毎月の巻頭言に目を通して今年一年を振り返ってみると、福島のショックが私にとって如何に大きかったかということに気づかされ、我ながらに驚いた。直接話題に触れていなくとも、今読み返すと毎回その時の心にあった福島の憂鬱、その小さな振動が文字になって行ったことがはっきり思い出されるのだ。繰り返して宣言するが、本当に日本の国土は美しいと思うし、私はこの日本に生まれたことを誇りに思っている。この自慢の日本を我々日本人のミスで汚してしまったことに、容易に拭いきれない深い後悔を感じている。福島は人災なのだ。

 悔やんでいるばかりではいけないのに、なかなか気持ちを入れ替えられないでいる自分をこの年の瀬に発見して、ふとその昔、親によく言われた小言を思い出した。「惠介は辛い目に遭った時にメソメソして意気地がない。苦しい時は何クソッという闘争心がなければダメだ!」 私はこう叱られるのが本当に嫌で嫌で、悔しさを奥歯でかみ締めたものだった。辛くて泣いて何が悪い・・・。確かに難局を乗り越えるに闘争心ほど有用なものはないかも知れない。しかし何でも腕力で切り抜けて行くだけでよいのか?この反語は今も私の心の中に響いている。

 高校の芸術選択の授業で私は書道を選んだ。どうやっても真っ直ぐに縦の線を描くことが出来ないので何を書いてもおよそ褒められたことはない。だが卒業間際に「あなたは技がないけれど、仮名の線には魅力がある」と先生に言われたことがある。仮名は曲線が多いから苦し紛れに少し慰めて下さったのだろうけれど、魅力が有るというのだから、とにかく褒められたと思うことにしている。尺八の師匠、岡崎自修師には「惠介の尺八は優しさがあるが、腕っ節の強さ、男の激しさに欠ける」と指摘されたが、それも同じことだろうか。それから様々の方から頂いた批評も同じ傾向だったように思う。

しかし大学の同級生の一人からは「善ちゃんはたまに怒ると空恐ろしい殺気が漲るよ・・・尺八にもそれが表れてるような気がするなぁ・・・」と、他の人とはちょっと違う批評をされたことがある。自分にも雄雄しい激しさがあるのだろうか、否、それは恐らく“窮鼠猫を噛む”と同じ構造の怒りや闘争心だろう。だから私の尺八に「激しさ」が現れるとしたら、それは何か相当追い詰められている時ではないだろうか・・・。

 話が横道にそれてしまった。とにかく異口同音、表現に多少の差はあっても、要するに私の尺八は一長一短だと言われ続けてきたのだ。誠に仰るとおりである。しかし、メソメソと嘆き、悲しみ続けることによってのみ生まれる何か(たとえば包容力とか優しさ)の意味を、こういう時代には少し声高に言わなければならないような気がしている。

 国際紛争とは簡単に言えば、人間どうしの資源の“ぶんどり合戦”だと思う。地球の惠は増殖し過ぎた人間を養いきれないのであって、何とか自分だけは豊かに暮らしたいと思う「ヒト」と「ヒト」が激しく争うのだ。ロシアと中国はニコニコしながらお人好しの日本に戦いの準備を進めているだろう。しかし事の重大さに気づいた時、日本は“猫を噛む窮鼠”になりかねない。残念ながら軍備という腕力を持つ以外に有効な手立てが見つからないが、そういう今こそ、奪い合うことに血眼になる虚しさを、無理してでも身に染みて強く感じようと心がけるべきではないか。福島の事故はそういうことに直結しているから、私はまだまだ深く悲しみ続けなければならないと思っている。図らずも福島の事故の起こるずっと前から、私は東北の伝承曲をそういう気持ちで吹いてきた。



酒の名言集                 百錢会通信 平成23年11月号より

 先日酒にまつわる名言集の小冊子をもらい、電車の中で噴出したり、苦笑いしたり、感心したりしている。たまには息抜きの巻頭言ということで・・・

 

酒という文字を見てさえ嬉しきに、呑めという人、神か仏か。

  この気持ちは分りすぎるくらいに分る・・・土井晩翠の言だとか。


ほろ酔いの あしもと軽し 春の風 

 今年の春はそんな気分にはとてもなれなかったが・・・。でもこの句は、毎年のように 水害などの天災に苦しむ越後に暮らした良寛の作だ。


両人対酌すれば山花開く、一盃一盃複た一盃 

酒は知己に逢えば千鐘も少なし

 気のあった友人と酌み交わせば山一面に花が咲く。話は無限に広がる。表現のスケ ールの大きさにつられてこちらの心もつい調子づいてしまう名言だ。


ふところが痛いのは、最初の一杯だけである。

 この言に頷いてしまってはならないけれど・・・。名言集は酒を賛美するものばかりで あるはずがない。以下は酒飲みへの戒めであるが、比較的穏やかなものだけを選ん だ・・・。


酒には二つの欠点がある。水を加えれば味が落ち、水を加えなければ人が堕落する。

  度の高い研ぎ澄まされた酒の味わいは格別であるけれど、急激な酔いとはあまりに   刺激的な快楽だ。


大体お酒のみには二種類ありますね。酔いたい人と飲みたい人とです。

 自分は、酔いたい6割、飲みたい4割くらいだろうか・・・と言い訳したくなるが、どうも それは2つに1つしかないと断言されているようだ。


人は酔中に真実を吐く

 本心を明かすこと自体が悪いことではないだろうけれど、酔いの中では心の内を明  かすタイミングを制御できないところに問題がありそうだ。


酔中に書状を人に送るべからず。

  酔っているときほど余計な言を口走るものだから、ご尤もな忠言である。


酒は呑んでも呑まるるな

 山口五郎先生は学生時代にお母様から一度だけ、このようにお説教されたそうだ
 が、私は何回母に言われたことか・・・。

 

 酒の酔いと音楽の陶酔を、私は比べて考えてみることが多い。がしかし大きな発見があったわけではない。でも概ね共通することが多いように感じている。味の良さだけで、酔うことのない酒も音楽もつまらないが、陶酔はその質と程度を間違えるととんでもない事になりそうだ。いつの間にか年末の予定調整が始まった。これからの宴でそんなことを懇談してみたいと思っている。

 最後に1つ、妙に気に入った名言をお供えして、今月の駄文を締めくくる。

 

酔った男は神と語り合う

 



「もう持たないでしょう・・・」      百錢会通信 平成23年10月号より

 過疎の進んだ町で寺の住職を務める私の知人は、よろず何事も隠さず明け透けに思うことを仰る方だ。曰く、「こんな片田舎でも私のような者が住職として生きていけるのだから、徳川家康って人は本当に凄いと思いますね。だって檀家制度って400年も前に拵えたものですよ。そのお陰で私がこうして生きていられるんですもの。でもさすがに限界、このシステムはもう持たないでしょう・・・」

 江戸幕府が寺院と檀家制度を厳格に統制したのは、今で言う戸籍係的な役割を寺社に担わせていたのではないかと、素人考え乍ら私は推測するのである。また同時にその仏事法要を通じて檀家間の、或いは個々の家の中での序列までもが統制されて、むしろ儒教的な当時の身分制度の秩序が仏教寺院の中において、その末端にいたるまで整然と強化されていったのではないだろうか。この身分制度は明治維新で崩壊した。にもかかわらずこの檀家制度は絶えることなく、近代の大きな大きな戦争を経ても尚今も続いているのだから、これほど日本人に浸透力のある仕組みに眼をつけた家康の慧眼には驚かずにはいられない、というわけだ。ところが、だ。それも「もう持たないでしょう・・・」と彼は言うのである。現場の生々しい発言だと私は感じた。

 古典芸能の世界は礼儀を重んじるといわれる。否、古典に限らず日本の芸能の世界は皆そうだろう。滅多に縁はないが、まれに歌謡界の仕事を手伝ってみたりすると、楽屋の礼儀作法は現在の箏、三味線、尺八の世界に比べて遥かに厳しい。またその通路にはちょっとコワそうな人相の人たちが沢山出入りしているが、その人達の世界はまた一段と厳しい作法があるようだ。檀家制度以外にも、江戸時代の身分社会の中で編み出された様々な作法、制度は今の日本の社会のあちこちに残っている。しかしこれももう「持たないだろう・・・」と私は思う。19世紀に世界に圧倒的な力で広まった欧米的な経済の仕組みを受け入れて100年余り。日本的伝統との融和による芳しい成果は生まれなかったと思うからだ。

 世界経済のスタンダードとなっている資本主義というシステムは、キリスト教と深い関わりがあるそうだ。神による救済と勤勉に働くということの意味、神の前に人間は平等であること、契約という思想。このマックスウェーバーの説には色々な批判もあるようだが、いずれにしろこの経済の仕組みに一神教の背景があったことに疑いはないと思う。しかるに現代の世界の経済界に本当に神が生きているのかというと、とても疑わしい・・・。滑稽なのは、天照大神や八幡神を背中に背負った日本の極道世界までもがこの仕組みの中で「金」を熱心に追い続けていることだ。その姿は正に勤勉というに相応しいのかも知れない。

「武士は食わねど高楊枝」なんて言葉は死語だ。日本が鎌倉時代から400年、やっと作り上げた武家社会の秩序は、400年を経て今その幕を引こうとしているように思われてならない。世界中は「金」に向かって血眼になっている。次の社会の善き秩序をどうやって作るかを思うと暗澹たる気持ちになるけれど、これはどこまでも表層的な話である。私には尺八を吹くということがその表層に対する膨大な内面の世界に直結しているという感覚がある。だから「もう持たない・・・」という述懐には確かに一抹の寂しさを禁じえないが、これから数多の困難が予想されても、未来への希望は消えることがないのだ。

 



追憶の宝庫                 百錢会通信 平成23年9月号より

土壁に茅葺き屋根の昔の民家が涼しいのに驚いた。先日、実家の狛江市にある民家園での催しに尺八の演奏で参加することとなり、リハーサルのために会場入りした時の第一印象だ。実際に壁を触ってみたが本当にヒンヤリとしていた。屋根に触れることは出来なかったけれど、天井からも冷気が降りてくるように感じられた。外のアスファルト道路は一分も歩けば滝の汗をかくような猛暑なのにも拘らず、この涼しさはちょっと嬉しくなる驚きだった。昼食のお弁当を頂く時には穏やかな風が通り、日本家屋の魅力を束の間味わった。

催しとは、俳人山頭火との生活をその妻が語るという設定の一人芝居で、役者の台詞の背景で私は時折尺八を流すのである。暗い暗い闇を背負って放浪する常軌を逸した俳人と共に生きた妻の述懐である。台詞のどこを拾っても胸かきむしられるような悲しみが込み上げて来るから、うっかり聞き入ってしまえば出番を忘れそうになる。また尺八を吹いている時も油断をしてのめり込んでしまうと、吹きながら思わずこちらが嗚咽しそうになってしまう。平常心を保つのにちょっと苦労させられた・・・。

2時間はかかるという大作で、午後の3時と6時の2回公演である。1回目の終わった頃から日が翳り始める。いつの間にか日も短くなっていたのが妙にしみじみと感じられた。30分もすればすぐに2回目の公演の開場であるから、私は虚無僧の装束をつけたままにして、縁側でボーっと開演を待つことにした。客席からは庭の景色も眺められるようにしてあるので襖は開け放しで、座敷のあちこちに蚊取り線香が焚かれている。叢から聞こえる虫の声と、昼間の光から夜に移り変わる微妙な明かりに包まれた時、何か映画の一場面のように私の心は突然幼少期にタイムスリップしてしまった。昔から慣れ親しんだ多摩川のほとりである。眼に映るもの、耳に聞こえるもの、肌に触れる空気とその匂い、何もかもが瑞々しく感じられた。幼少期はたとえるなら王国の富、追憶の宝庫といった詩人がいたが、まさしくそうだと思い、既に緩んでいた涙腺から先ほどとは少し違うぬくもりの涙が溢れてきた。

別に誰もが出会うであろう、他愛もない感傷だとは思う。ただ福島の事故以来(否それ以前からかも知れない)、恵み豊かなこの日本が本当にほころび始めてしまったように思われてならないので、恥ずかしさをこらえて自分のセンチメンタリズムを表すものだ。土壁に茅葺き屋根の家にこれからみんなで住もう、なんてことは無理なのは良く解っている。けれども、日本らしい、人間らしい暮らしは、追憶の中だけで良いのかという気持ちも強く突き上げてくるので、そのジレンマに悩まされるのである。



老いる覚悟                 百錢会通信 平成23年8月号より

小泉改革の一つの“成果”であろうか、私の住む所沢も近隣の個人営業の店は軒並み閉店。だから買い物は大型スーパーに車で乗り付けて、日常雑貨から食料品まで一度にまとめてすることが当たり前になってきた。荷物の量が多いから車に運び込むのも一仕事で、世のお父さん同伴の買い物姿が多くなったのは、その腕っぷしの強さを買われてのことではないかと想像している。

若い夫婦が重たいペットボトルをごっそり買い込んでいる横で、老夫婦がゆっくり歩いているのを見ると複雑な思いになる。私がまだ見たこともない「買い物難民」に思いをいたす瞬間だ。

野菜売り場を見るとやはり産地によってはまるで売れ行きが悪い。放射能汚染を恐れてのことだ。この手の話になると必ず皆が口にする台詞は「惜しげもない我々中高年がせっせと食べればいいんだ!」というものだ。こういう会話を交わす時に私もそのグループの仲間入りしているつもりでいると「君はまだ早い・・・くもないか・・・、まぁ微妙なところだな。」と気遣って下さる先輩もいたりする。

老いるということを、少しずつだけれども考えるようになってきた。30代の時には40代の先輩に体力低下の加速を脅かされ、40代になれば50代の人から病気の兆しについて脅かされ、さて50代になったら、今度は何を話のネタに脅かされるのだろう・・・。いよいよ老いていく覚悟といったことが話題になるのだろうか。否、そういうことを人間はなかなか口にすることは出来ないだろう。スーパーマーケットで買い物をする人間の目つきを見てそう思う。「何か美味そうなものはないかな・・・」腹を空かした私も売り場で、さぞや爛々とした眼差しで食材を物色しているに違いない。そんなことをつらつら思っていたところにびっくりするようなエッセイに出会ったので抜書きしておきたい。佐藤愛子という人の一文だ。

 

-おしゃれをするのも面倒くさい。だから出不精になる。するとソレソレ、それがいけないのよ、それじゃ老い込んでしまいます、と説教される。老い込むのが何が悪い、と私は怒りたくなる。老い込むことが私の自然であればそれに従えばよいではないか。かつて老人が老後の幸福として願ったことは心の平安ではなかったか。

-今は欲望の充足が幸福だという思い決めが横溢している時代である。欲望は人間に活力を与えるもとであるから、欲望を盛んにするのがよいと多くの人が思っている。そう思うようになったのはマスコミが商業主義のお先棒を担いだためにちがいない。快楽は幸福であるという思い込みが価値観の混乱を招き、諦念や我慢は恰も悪徳ですらあるかのようだ。

-老人の人生経験は今は後輩たちに何の役にも立たない時代だ。人生の先輩として教えるものは何もなく、従って老人に払われた敬意はカケラもない。あるのはただ形式的な同情ばかりだ。そんな時代に老後を迎える私がこれから心がけねばならぬことは、いかに老後の孤独に耐えるかの修行である。若い世代に理解や同情を求めて「可愛い老人」になるよりも、私は一人毅然と孤独に立つ老人になりたい。

-これからの老人は老いの孤独に耐え、肉体の衰えや病の苦痛に耐え、死にたくても死なせてくれない現代医学にも耐え、人に迷惑をかけていることの情けなさ、申し訳なさにも耐え、そのすべてを恨まず悲しまず受け入れる心構えを作っておかなければならないのである。どういう事態になろうとも悪あがきせずに死を迎えることが出来るように、これからが人生最後の修行の時である。いかに上手に枯れて、ありのままに運命を受け入れるか。楽しい老後など追及している暇は私にはない。

 

 

巷間、音楽は唯の快楽の道具となってしまった。私は尺八の古典本曲を通じて小学生の頃からそう言うことの無きようにと言い聞かせ続けられてきたはずだが、たいして血肉にはならなかった。だから先の一文についてはもう少し穏やかな覚悟はないものかとつい思ってしまう。けれど彼女の濁りない言葉に私の買い物噺の感傷など一瞬に蹴散らされてしまうような思いがしたので、ちょっと心に刻んでおこうと思ったのだ。

 



折れ線グラフ                百錢会通信 平成23年7月号より

たまに20代の若い尺八家の演奏を聞くと妙に切ない気持ちになる。その理由ははっきりとしている。何を吹いても板につかないというか、何か様にならないもどかしさに悩んでいた、自分の昔を思い出すからだ。

私たちの20代の頃に比べると、今は格段に技術的な水準は上がっていると思う。しかし、どんなに技術が向上しても、精神的な奥行きとか拡がりを感じさせる音と言うものだけは、そう簡単に出せるものではない。類稀なる天才は別として、我々一般人にあってはそれ相応の時間がかかるものだ。様々な経験が心の闇の中で熟成されて、それが溢れるように音となって白日の下に姿を現すまでには、1年や2年では到底足りないのだ。そして尺八は他の楽器に比べて、この音の拡がりの有る無しが余りにもはっきりしてしまうのではないかと感じている。

周りの親しい演奏家を見て思うのだが、だいたい40代から50代になって来て漸く、それも少しずつ、音楽が自然になってくるような気がしてならない。青年期の経験が実を成すのにその位の年月が必要なのだろう。しかし身体の機能は確実に老化が進行している。折角演奏家としての中味が自然で真実味を帯びてきたのに、テクニックは衰えてしまうのだからこれまた切ない話だが、演奏家にとっては回避できない宿命だ。心の充実と体力の衰え。向きの違う2つの折れ線グラフの狭間で、急激な衰退のないようにそれなりの鍛錬を怠らず、それでも1つ減り、2つ減りして年々限られていく技を駆使して、我々は己の音楽を実現していこうとするのだろう。

話は変わるが、最近は私の門人もキャリアを積んで、履修曲の最後にしている「無住心曲」を修了する方が増えてきた。神如道の創作による「無住心曲」を今一度丁寧に味読してみると(神如道は「作曲」という言葉の代わりに「生曲」という造語を用いた)、神如道はこの曲をこの世に生み出して、そこで初めて自身の伝承するすべての古典本曲に、ひとつの大きな統一を成し遂げたように思う。西日本の伝承と思われる「虚空」と「阿字観」を下敷きにしているのは一目瞭然であるが、安易な折衷によるリメイクなどでは決してない。身体の奥深くまで染み付いた東北の音楽の形式感と歌心がそれと深く融け合っている。曲節はどこを取り上げても、竹を吹く神如道の歓喜に満ち溢れているようだ。

私は「無住心曲」を、まさにこの曲が生まれるリアルタイムで神如道に師事していた岡崎師に習った。先日久しぶりにお会いした折りに岡崎師は、それは他愛もない一言ではあるけれど、今まで1度も話題にしなかったことを仰った。「神さんも可哀想だよなぁ・・・無住心吹いても時流には合わなかったから。」それが理由であったか分らないけれど、岡崎師は“他流試合”の献奏会では決まって「無住心曲」を吹いていた。こういう義侠心の表わし方が岡崎先生らしく、私も常々見習いたいと思っている。

音楽家は、時流という、もう1本の折れ線グラフとも向き合って生きているのだ。嘘偽りのない正真正銘の自分の音楽とそれとは、生きているうちに交わることはまず稀であるので、それもまた味わい深いことだと、改めて思い知らされた。



接 待                     百錢会通信 平成23年6月号より

 我が家の近所で小さなアパートの建設が始まった。別に珍しい光景ではないけれど、家の目の前の工事だから、今日は掘削、次はベース、基礎の仮枠、コンクリート打ち、と次々に工程の進行していく様を見ないわけには行かず、少なからず私はそれをワクワクするような気分で眺めている。それは私が高校を卒業してからの数年間、父と一緒にこうした建築や土木の現場で働いていたからだろう。一日中怒られながらヘトヘトになるまで働いて辛い毎日だったけれども、自分の労働が建造物という形になっていくのを目の当たりにするのは、理屈を抜きにして嬉しいことだった。

職工の世界では、見習いは来る日も来る日もバカだマヌケだと罵倒され続けなければならない。学校で手取り足取り親切に指導をしてもらうなんていうヤワな世界はそこには存在しない。右も左もわからない青二才がいきなり待ったなしの現場に放り出されてその場で仕事を覚えていくのだ。弟子がヘマをやらかせば直接親方の儲けに響くのだから、それはなまじの叱り方であるはずがない。そんな思い出話を知り合いの邦楽囃子の人にしたら、今でも古めかしい流派ではそんな雰囲気が残っているそうだ。入門したその日に初舞台なんてことがちょっと前にはどこでもあったらしい。「いいから俺の真似してそれらしく鼓を叩いてろ!」と。そうは言ったってまともに音が鳴るわけが無いから、そこで「バカヤロー!」となる。以前に津軽三味線の名手、初代高橋竹山のドキュメンタリー番組で聞いた言葉を思い出した。「昔の師匠なんてモンはナ、めんどう臭ぇとなんでもブン殴ったモンだ・・・」

私の短い職人時代には、もうそんな古典的な指導はなかったけれど、上棟の日の現場だけは古めかしいそういう雰囲気があった。基礎の上に柱や梁を組み立てて一気に屋根を上げて上棟式となり、晴れて施主のお振る舞いにありつけるわけだ。その日に仕事がウマくいかなければ縁起が悪いし、職人の面目は丸つぶれとなる。だから見通しがつくまでの特に午前中はどの職方も喧嘩面だ。柱が立ち仕事が2階になると大工も鳶も上に昇って、下っ端の職人は下で必要な道具と資材を運ばなければならない。梁だ筋だ位は分かっても「ネダ上げろ!」「カケヤよこせ!」などと聞いたこともない言葉で命令されてもわけが分からず右往左往していると、「日が暮れるまでに棟上できねぇだろうが!!」と怒鳴られる。「だいたい言われる前に気イ利かして持って来い!」と追い討ちだ。それでも分からないものは分からない。2階の親方はついに舌打ちして下に降りてきて自分で道具を取る。「こんなモノも知なねェのか!」と今度は殴られる。もうとにかく踏んだり蹴ったりの一日で、正に身も心もズタズタだ・・・。

そうやって夕方まで何をしているか分からぬうちに時が過ぎ、気がつくと屋根が上がっている。自分が何かの役に立ったという実感がないのに、その日の朝には無かった建物の屋根を眺めると、不思議な達成感を感じたものだった。単に私がおめでたい性格だったのかも知れない。さてその頃になると親方衆の顔に漸く笑みがこぼれる。上棟式では柱にお神酒をかけて、施主や棟梁の挨拶があって楽しい宴が始まる。「おめぇがしっかりしねぇと仕事にならねぇんだから、頼むぞオイ、まぁグッといけ!」なんて、すっかり上機嫌になった親方から酒を注がれたりする。職人一人ずつに施主からご祝儀が渡され、一層機嫌を良くしてお開きとなる。そして翌日からまたコツコツと修行の日課が繰り返されるのだ。

そんな思い出話を、酒席によく付き合ってくださるお弟子さんに話すと、「接待とは本来、そういう風に施主、つまり発注主が職人に、良い仕事をして下さい、或いは良い仕事をしてくれて有難い、という気持ちでするものでしょう」と仰ったのでハッとした。今はそれと逆のことが多過ぎる。仕事の欲しい職人が施主に接待するのが当り前の世の中になってしまったということだ。佳き時代の接待という習慣は、技術というものが本来何のためにあるべきかという問題について、人間としてあるべき態度を暗示してくれてはいないだろうか。この時代の技術とは富を売るための単なる一つの手段に成り下がってしまっていて、それは健全なことではないと私は思う。

 



新 緑 -4-                 百錢会通信 平成23年5月号より

 「とても心が疲れた時は山手線の原宿駅のベンチで休むことにしています」、と神妙な顔つきで物語する後輩がいた。何故かと尋ねると、原宿駅は山手線の外側に向かって座ると明治神宮の森の緑を眺めることができるからだという。先日珍しく次の約束の時間までに20分ほどの余裕があったので、ただベンチに座ってみるだけのために原宿駅に降りてみた。暑くも寒くもない実に清々しい日和だった。若い緑が目に眩しい。ホームが心なしか他の駅よりもこぢんまりとしていて、またいかにも戦闘体勢然としたビジネスマンの乗降が少ない所為もあるだろう、なるほど束の間心がやすらいだ。ただ、売れっ子の彼がゆっくり休む間もなく、追い詰められた時にこんなところで心の浪を鎮めていたのかと思ったら、少し可哀そうな気分になってしまった。とにかく木々の緑は有難いものだ。

 ふと思い出すのは「春望」の冒頭の一句だ。「国破れて山河あり 城春にして草木深し」 安禄山の反乱とは、単なる唐朝との政権の交代ではなく、それまでに築き上げてきた秩序とシステムが根底から覆され、まさに国が“破れて”しまったということだ。人間の社会は滅茶苦茶になってしまったけれど、山河はそのままに、草木は春を迎えて生い茂る。それ故に却って杜甫の悲しみは増してしまったのかもしれないが、それでも悠久の自然に敬虔な気持ちで向き合う限り、いつか人々の心に一縷の希望の光が差し込んで来たに違いないと思っている。

 しかし福島の問題は “国が破れる”以上の大問題だ。この惨事を前にして私は杜甫のような気持ちで自然と向き合うことはとてもできない。なぜならこれは自然そのものに向かって人間がしでかしてしまった大いなる愚行であるからだ。大地が怒りだしたのではないかという妄想にかられて仕方がない。今私が一人で岩手の松巌軒や、仙台の布袋軒、津軽の根笹派などの尺八本曲を吹く時、今まで私を育んでくれた東北の恵みに思いを馳せ、今までより一層深くその中に沈潜しようとしている。しかし福島のことを思うと、逆に自分は恩を仇で返したのだという自責の念に苛まれる。地球に申し訳ない、いくら謝ってもすまない・・・どうか大地の神様には怒りを鎮めて下さいという思いである・・・。

 自分は無力であると感じている多くの音楽家が、今自分にできることは何かと思い悩みながら音を奏でていることだろう。原宿駅に佇んで前へ進む力をもらった彼も多くのステージで祈りを捧げているに違いない。被災されて亡くなられた方、あるいは辛うじて一命を繋いでも今尚辛い日々を送られている方。そういう多くの人々に等しく幸福の訪れることを祈ることはもちろん大切である。しかし一方で、古来楽器の音が地を鎮める役を担ってきたように、その気持ちで演奏する者が現代にもっと現れてよいはずだ。今どき尺八を吹いて地の神の怒りを鎮めるなどと吹聴したら、滑稽な神秘主義者として笑われてしまうだろうが、それでもいい。現代には畏れるという気持ちがなさ過ぎると思うからだ。



寒サノ夏ハ                   百錢会通信 平成23年4月号より

 目に見えない地底の怪獣にとっては寝返りしただけの事かも知れない。海面よりほんの僅か顔を出しただけの地上に暮らす人間など、地球にとっては微生物に過ぎないことだろう。理屈でいくらそう考えようとしてもこの衝撃を受け入れることが出来ないでいる。3/11の、大きな地鳴りとともに我々を襲ったこの大惨事。その瞬間震度5強程度の揺れで大きな実害のなかった関東にいてさえ、自分の直ぐそばで地獄の釜の開いたことを感じないではいられなかった。

 警報は確実に津波が来ると報じた。何の知識も持たない私でも、尋常ではないこの断定的な警報に、何もかもが根こそぎ波にさらわれてしまうことを直観して目眩に襲われた。時を追うごとに知らされる惨状についてはもう何も語りたくはない・・・。

 天災の後には人災の報道だ。福島の原発の損傷によって、私たちの生活はなお一層ぶ厚い暗黒の雲に覆われてしまった。繰り返して言っておきたいことは、あくまでこれは人災だということだ。原子力発電の是非はかつて大いに議論されていた。ところが二酸化炭素の排出による地球温暖化を切り札に、いつの間にか日本中に原発が承認された。一度議論の灯が消えてから後は、関係者の行動に厳しいチェックはなされなかった。電力会社と経産省との癒着は想像に難くない。この国家の非常事態に際して、未だに陣頭指揮に東電のトップも官僚のトップも出てこない事実一つ挙げても自明のことだ。危機管理に何の関心も責任感もない者が組織の長に君臨して、一朝有事の際にはその責任を合法的に巧妙にすり抜ける、もっとも忌まわしい官僚的組織の実像がこれから一段と明らかにされることだろう。もっとも、この人災の責任を政・財・官にだけ押し付けようとは思わない。美しい青いこの地球に火を燃やしすぎる悪魔のような生き物は、この世に増えすぎた我々人間である。そのことの罪悪をうすうす分かってはいながら、自分のところだけにはふんだんな火力、即ち電力を確保して来た。ボタン一つで暑い夏は涼しく、寒い冬は暖かに、都に上るも名所めぐりの観光もひとっ飛びの、この快適な生活が欲しさに、たぶん原発は大丈夫だろうという誤った憶測を、間接的にも直接的にも後押ししたのは、紛れも無く我々一般大衆だと思う。

 天災と人災、黙々とこの大惨事に耐え忍ぶ東北の人々の姿には頭が下がるばかりである。かつて岩手に「寒サノ夏ハオロオロ歩キ」とうたった詩人がいた。当時東北は冷害によって多くの餓死者を出したのである。その過酷な大自然の試練に打ちのめされながらも尚自然の恵みに感謝して、その身そのままに安楽の境地を見出そうとする。こういう偉大な信念を生み出した東北の精神的な土壌を目の当たりにした思いだ。この精神性をこそ、わが日本の誇りとしたいと思っている。現代の鋼鉄の文明社会にあって未だ尚、竹という自然の素朴な材を営々と受け継いで芸術を深めようとしている我々には、とてつもなくありがたい先達だ。



梅の花の香                 百錢会通信 平成23年3月号より

群馬にある私の稽古場の箕郷は、関東の中でも有数の梅の里である。東京や埼玉に比べればいくらか遅い開花だが、三月も中頃になれば山里一帯は梅の花の香に包まれる。特に夜、街灯もまばらな田舎の夜道に、花の香だけが漂って来る風情は、感傷と希望の入り混じったような、えもいわれぬ想いを催さずにはいられない。
 「なんの木の花とは知らず匂ひ哉」 これは、およそ詩歌を諳じる教養などない私が、何故か忘れない芭蕉の句だ。というよりバカの一つ覚えと言ったほうが的を射ているだろう。
『笈の小文』にある。おぼろげな学習記憶で心許ないが、伊勢神宮には当時、僧侶あるいは僧の姿をした者の立ち入りを禁じた神域があったそうだ。その塀の外に佇んでいると、内側には入れないこの身にも花の香だけは漂い来る・・・。「何事のおはしますかはしらねども忝さに涙こぼるる」という西行の短歌をふまえ、神域の神々しさを目に見えぬ花の香に託したところに、深い味わいがあると私は思う。

誠に恥ずかしい話だが、先日慌てて食事をしていて上唇の内側を派手に噛んでしまった。どんな口の動かし方をすればこんな場所を噛むことが出来るのだろうと、自分でしたことながら本当に情けなかった。口内炎や火傷の跡のように無残な傷を作ってしまい、ほんの僅かだが内側の粘膜が腫れている。ほんの僅かでもこの場所だけは傷めたら尺八は鳴らない。それもビックリするくらいに鳴らないのだ。仕方ないので唇の脇の方に風の出口を作って急場をしのいだが、思うように音を操れないことが思いのほかに重く暗い影を私の心に落とした。若い頃のように軽い事故に遭遇してしまったぐらいの気分にはなれなかったのだ。何故なら、例えば軽い脳梗塞等で指や唇に痺れが永久に残ってしまうというようなことが自分にも起こり得るということ、それをその時あまりにも強い実感として連想させられたからだ。これは年齢の所為だろう。

翌日傷口の痛みは弱まってきた。しかし恐る恐る竹を吹いてみても殆ど音は昨日と変わらない。翌々日、そのまた翌日、傷口の治癒にいつも少しだけ遅れてゆっくりと尺八の音は回復して来た。その喜びは今までに味わったことがないものだった。神如道が晩年病に倒れてしまった時、病床に伏したまま愛吹の竹を頬擦りしていたという話を父から聞いたことがあるが、この歳になって初めてその気持ちに共感した。日に日に唇の粘膜が再生されていくことがつくづく不思議で、有難いという気持ちが心の奥から滾々と湧いて来た。

 年々神社の境内の空気が好ましく感じられるようになって来たのも、これと同じ感覚だと思う。刈られてもあるいは自ら枯れても再び生い茂る草木の命の不思議に驚き喜ぶ。その清々しさに、境内に佇むと何故か包まれるような気がしてならない。草木萌える春に先駆けて漂う梅の花の香に、そんなことを想うようになった。


「生きている意味」という言葉から思うこと  百錢会通信 平成23年2月号より

「生命の泉?俺には関係ないね。永遠の命に何の意味がある」 電車の中で見付けたこのコピーは、「パイレーツ オブ カリビアン」という海賊映画の宣伝ポスターに書かれていたものだ。恐らくはこの映画の主役の台詞なのだろう。「命の意味」という一言が何故か脳裡から離れなかった。
 現代は猫も杓子も命は尊いと簡単に言う。けれど何故に尊いのかと問えば誰も簡単には答えられないだろう。この映画を見ていないから的外れの推測かも知れないが、先のようなニヒルな台詞をダーティなヒーローに言わせるのは、逆説的に命の意味を問いかけようとしているのではないかと想像している。
 “生きていることの意味”なんて深刻なテーマを大上段に構えて論じるのは、決して私の好むところではないけれど、『夜と霧』という書物をとても感慨深く読んで(へそまがりの私には珍しいことだ・・・)、以来「生きる」という言葉に対しては余り斜に構えることはなくなったと思う。
 この『夜と霧』については今までに何度か話題にしたが、何が書かれているかということを改めて要約しておこう。これは、ユダヤ人心理学者ヴィクトール・フランクルが、アウシュビッツに収容されてから奇蹟的に生存して解放を迎えるまでの、人間観察の実録なのである。捕らえたユダヤ人を、金品ばかりでなくその肉体から労働力までも搾取した後にこの世から抹消させるという、冷徹に計画されたナチスドイツのプログラムが明かされる。収容された人々はまずその思考回路から自殺という言葉すら無くなるほどに、徹底的に人間性が否定される。そしておぼろげな生存本能をわずかに留めるだけの無感覚な肉の塊と化した所で、最後の最後まで労働力を搾り取るのだ。搾取するべき何物も認められなくなった時点でガス室へ送り込む。「人の屠殺場」とも言うべきおぞましいこの収容所の中で、フランクルは最愛の妻を亡くしている。

絶望によって免疫抵抗力を著しく失い、しかも劣悪極まりない衛生環境の中でどういう人間が生き残ることが出来たのか。最終最後まで生き残ることが出来たのは、運が良いとか体が並外れて丈夫だったとかではなく、信仰を捨てなかった人間だったというのだ。クリスマスには救われる、そういう根も葉もない噂が流れてしかし結局は何も起こらなかった。クリスマスが過ぎる度に驚くほどの数の収容者が倒れていった。残った人々には依然として人間性を剥奪された只の肉の塊として存在する時間が流れるばかりである。しかしかかる極限の不幸の中にあっても自分には「生きている意味」があると、フランクルは信じて止まなかった。一体どこからその気持ちが湧き上がってくるのかは分らない。が、とにかくその信じる心が肉体の最後の免疫力を支えたのだと。私はキリスト教という宗教がヨーロッパに何故生まれたのかという理由の一端をここに見た思いがした。日本では想像も出来ないような、殺戮と略奪と陵辱を繰り返したヨーロッパの歴史の中に、信仰だけをよすがにたくましく生き残ったこうした人々が現れ、多くの弱者が共感したのだと思う。

 長々と私がこんなことを何故述べるかというと、それは私自身が持っている日本的な信仰心と、ヨーロッパのそれとはおよそ異質のものだと驚愕させられたからだ。自然界の営みに身を委ね「死ぬるときは死ぬるがよきそうろう」なんていう長閑な言葉を聞いて私は育った。私はそれにそこはかとない幸福を今も感じている。豊かな自然の恵みに感謝するという感情にやがて「無」という思想が流れ込み、明暗二元の対立を超越し自然の根源と一体となろうとする、そういう試みが日本に起こった。厳しい修行であってもそれは元より悦びから始まっているような気がしてならない。尺八の愛好家の中には、そういうことを心に秘めて一心に吹いている人も多いことだ。だから息を深く吸って吐くだけの一音の中に、味わいが尽きないのだと思う。

 坐禅は大地にしっかりと腰を据え、背筋は天を貫くように、大きく坐れと教わる。ところがロダンの彫刻「考える人」はまるで違う姿勢だ。あんな姿勢で正しい思索の出来るはずがないと我々は簡単に言ってはいけないと思う。苦悩に満ちた「考える人」の眼下には我々が見たこともない地獄が広がっているからだ。芸術は世界の共通語などと容易く言うものでない。けれどもその認識から何かが始まるかも知れないと思う。



春の海                      百錢会通信 平成23年1月号より

 我々が子供の頃に聞いた童歌など、どれを聞かせても知らないと言う今時の大学生に「春の海」を聞かせると、「あっ、お正月に流れる音楽だ!」という返事が返って来た。この曲が邦楽の中で群を抜いて知名度の高い一曲であることに疑いの余地はない。
 曲解説のトークでいつも挟む一つ噺は、この曲のお陰で一体幾人の尺八吹きの生活が潤ったことだろうということだ。この一曲があったればこそ、尺八の箏曲との連携は決定的となったのであり、後世尺八吹きの演奏の場が飛躍的に広がったのは、ここに端を発すると言っても過言ではないと思っている。そういう訳だから「春の海」を吹いたことのないプロは皆無だろう。私も数えきれない程に吹いて来た。けれど、実を言えばこれ程苦手意識の募る曲もないのである。
 尺八の音程の狂いやすいフレーズが沢山ある。それから尺八を鳴らしやすいように吹く時に起こりがちな音量や音色のばらつきをある程度制御しなければならない。そうした技術は尺八の場合かなり高度なものであるのに、この「春の海」においては、それがやけに初歩的な技術不足のように聞こえてしまうから、とにかく厄介なシロモノだ。
 私の場合はそれに加えてもう一つ大きな問題があった。ある評論家先生の前で「春の海」を吹いた時、「この曲に貴方のようなメリハリの濃い表現は相応しくない」と、短い言葉でピシャリとやられた。「メリハリの濃い」とはまだ穏やかな表現で、単刀直入に言えば「くどい」とか「ひつこい」ということだ。これは誠に尤もなご指摘なのだが、ちょっとやそっとでそれは治せるものではないことが、私には痛い程に分かっていたから、頭を抱えたものだった。田舎に生まれ育って二十年余り余所には出たことのない者が、初めて都会に放り出されてさぁ標準語をしゃべって見なさい・・・、簡単に言えばそんな状況と同じようなものだ。
 ある友人から聞いたこんなエピソードを今ふと思い出した。彼の知り合いに長くフランスに暮らしていた兄弟がいて、ある時その兄弟が友人の前で、些細なことから発作的に喧嘩を始めてしまったそうだ。興味深かったのはその兄弟は日本人であるのになんとフランス語で罵りあっていたということだ。私の友人は、彼らのフランス語は本物だとその時つくづく感じたという。
 最も激しい感情、あるいは最も本質的な内面を表すことの出来る言葉とは、単語と文法を入れ換えれば翻訳も簡単といった具合のお手軽な道具ではなくて、言葉そのものが一つの思想であり、膨大な歴史であり、その結晶としての一つの人格を備えているのだと思う。音楽にも全く同じ様な意味での言語あるいは語法というものがあって、つまり新しい音楽的語法を身につけるということは、新しい思想を我が身の血肉にしようとすることにほかならない。当然拒絶反応は起こり、場合によっては生命の危機を迎えることさえある。とても重い、危険な試みなのだ。だからこそ、それはとりわけ慎重に、長い年月をかけるべきだと思う。尤も本質的な表現を必要としない人にとってはそんな深刻な事態とは無縁な訳で、今日はフランス、明日はイタリーといった具合に、上着を取り替えるようにファッションを楽しめばいい。
 私はあと何回、正月のお飾りをくぐれば「春の海」を吹けるようになるだろうか・・・。そうつぶやきながら新春を迎えること久しい。



反対語                      百錢会通信 平成22年12月号より

 和歌を趣味とするある財界人の口癖の話は、以前にも話題にしたことがあったかと思う。彼の詩歌論は誠に明快で、私の好みの一つ噺だ。「良い歌とは平易にして奥行きがあるものだ」という。そして「僕の詠む歌は平易ではあるけれど奥行きがないんだよねぇ…」と結んで、周囲を和ませるそうだ。財界人らしいユーモアも私には好ましく感じられたものだった。

 平易と難解、奥行きの浅深。この二つの基準を組み合わせれば四つの分類が出来上がる。そしてこの分類にもしも順位をつけるとしたら、最も良とされるのはもちろん、先の「平易にして奥行きあり」となり、そして最下位は「難解にして奥行きもなし」となる訳だ。問題は「平易なれども奥行きはなし」と「難解なれども奥行き深し」のどちらを優位とするかだ。つまり平易であることと奥行きの深さのどちらに重きを置くかという選択だが、ここは意見の別れるところだろう。私なら奥行きに軍配を挙げたい。

 なぜそんな噺を思い出したかというと、先日ある演奏会の打ち上げの席で、主催者と次のような会話を交わしたからだ。私がその日に共演させて頂いた絃方の演奏者に対して彼は大いなる賛辞を表した。「彼の芸は、その性格の真面目さの中に色気が備わっているから素晴らしいのです。」と。その主催者は、芝居というものに軸足を据えた視点から、日本の芸能には誠に精通された方だったので、私は興味深くその言葉の意味を受け止めた。

 真面目と不真面目、色艶のあるなし。そんなキーワードを聞いて私は例の四つの分類を思ったのだ。最良は「真面目で色気がある」で、最下位は「不真面目で色気もない」。ならば「真面目で色気はない」と「不真面目だが色気がある」はどちらを良しとするか・・・。これは先の「平易と奥行き」対決より難しい選択だと思った。

 否、難しいというより、私の問題の整理の仕方がちょっと変なのではないかと感じ始めた。何故なら世の一般の趣味としてはむしろ「不真面目で色っぽい」の方が「真面目で色気がある」より好まれる事が多いではないか。そもそも「真面目」と「色気」とはそのお互いがそれぞれ反対語としての意味合いを滲ませてはいないだろうか。だとすれば「真面目で色気がある」はそれ自体が矛盾となってしまう…。

 明快だと信じ込んでいた、この四つの分類の論理性が、がらがらと音をたてて壊れしまった。文系の頭が拵えるロジックなんてこの程度のものだと苦笑させられた。この話題は、相反する二つの感覚を、ある種の超越的な一つの空間の中に感得しようとする、むしろ宗教的なテーマとして、とりあえず心の書棚にしまっておこうと思った。

 ところが主催者の演説は更に続く。「これからの彼に私が望むことはね、真面目なのに色気がある、ではなくて、色っぽいのに真面目だ、そういう姿なんですよ!」 その時はなるほどと合点して膝を叩いたのだが、それは単に私の酔った勢いだろう。今思い返すと中々難解だ。否、こういう科白こそ「平易にして奥行きのある」とすべきなのだろうか…。

 慣れない秋の演奏ラッシュに翻弄された私の頭の回路はいよいよ壊れ始めたみたいだから、思索の背伸びはもう止めにしよう…。二度目の苦笑だ。



秘密の扉                    百錢会通信 平成22年11月号より

 「母さんの歌」を中学生の合唱で聞いて、痛く感激した。次の出番待ちで、舞台の袖でそれを聞いていたら、思わず熱いものが込み上げて来てしまったものだから、いざ自分の本番で鼻水が収まらず、往生してしまった…。

 “母さんが夜なべをして…”という、あまりに有名な歌だ。題材がしみじみとしていて、旋律が綺麗だ。なのに私は今までこの曲に興味を持ったことが無い。正確に言えば何度も繰り返して聞くうちにだんだん嫌気が差してきていたのだ。

 故郷そして母に思いを馳せよ!という、聞かせる側の啓蒙的な意図を深読みした所為だろうか。もとから曲がったヘソがいよいよそっぽを向いてしまったのだ。またこれも私だけの思い込みなのかも知れないけれど、テレビやラジオで聞くこの歌は、プロの芝居気が却って仇となってしまっているように思う。どうせやるなら森進一の「おふくろさん」ぐらいに徹底したリメイクでないと難しいのではないだろうか。

 そもそも演奏とは、それがプロであろうがアマチュアであろうが、演技に違いないだろう。芝居と同様、作り事の世界なのだ。ところがそれがただの作り事でなくなる事があるから興味は尽きないのである。「真実は虚構の中にのみ存在する」なんていう小難しいフレーズもこんな所から生まれてくるのだろう。

 昔ある先生がこんなことを仰ったことがある。呼吸の限界に挑みその苦しさによく堪えながら、必死に息を支えている姿にお客様は感動するのだと。私には到底受け入れることの出来ない教えだった。ある時先生自らそれを忠実に実行する演奏を聞いて、案の定悲しいほどに興が醒めていったのを、私は今でもよく覚えている。種明かしを聞いてから手品を観ているようなものだから仕方ないのかも知れないが、種明かしをされて白けるなら所詮その程度のものだろう。下手な芝居はするものじゃないと思った。

 容易いことではないのだ。作り事が作り事を超えて行くということは。その扉を開く鍵は何処にあるのか?何度も舞台に立って、わかったような気になる時もあるが、結局わからなくなる…。

 その時、中学生女子の天から授かった清澄な声は、奇を衒うことなく滑らかにハーモニーを進行させた。シンプルな編曲も功を奏したのかも知れない。拙くとも折り目正しく音楽のルールを守ることに徹していたように思う。ただそれだけなのに、否、それ故に…なのだろうか、母と故郷を恋うる気持ちと、それから彼女達自身は未だ実感が湧かないであろう、それは薄暮の中で感じるような後悔の念までをも、聴衆の心に喚起させたのである。本当に秘密の扉は何処で開かれるかわからないものだ。



尊敬されるための競争         百錢会通信 平成22年10月号より

 昔、何かの興業に揉め事があって、当時武闘派で名の知れた親分さんが出張って行ったそうだ。ところが話し合いは一向に埒が明かず、そこで件の親分さんは話を打ち切り黙ってポケットに手を入れた。と途端に青ざめた相手は「わ、わかった…、」と、あっという間にけりがついてしまったという。本当にその場で撃ち殺されてしまうと思ったからだ。ところが実際は親分さんのポケットに拳銃はなかったのだそうだ。

 政治の世界でハッタリは日常茶飯事、起こっているのだろう。脅しばかりでなく、騙しもあるから、狐と狸と猛獣が入り乱れている。増してや舞台が国際政治となれば魑魅魍魎の千両役者が出揃うことだろう。中国は尖閣諸島が沖縄県下だともともとは認めていた。ところがその領海に豊富な地下資源が見つかると掌返して自分のものだと言い始める。こんな無茶苦茶を言い出すのは、中国にとって日本などは赤子の手をひねるようなもの、所詮喧嘩の相手ではないと思っているからだろう。アメリカは恐らく介入してこない。日本は今も尚、敗戦国であり続けているということを実感せざるを得ない。

 「地球の資源には限りがある。しかるに人間の欲望は無限である」とは有名な経済学者の言葉だそうだが、蓋し名言だと思う。限りある資源を、無限の欲望に呑み込まれたヒトという化け物が奪い合う。2度も大きな世界戦争を経験しながらまだ国家間のパワーゲームは終わらない。国益とは何とも白々しい言葉だと思う。国家の利益と言えば何でも美化されると思ったら大間違いだ。なんのことはない、欲望に取り憑かれた亡者の幻影に過ぎないのだ。貪るためだけの争いは未来永劫に続くのだろう。同じ欲望なら、せめて世界各国から尊敬されたいという“欲”を持つのは無理なのだろうか。私はそういう競い合いをしたいと思う。

 人間はどんな綺麗ごとを言ったって欲望からは逃れられないのだということと、そのために人間は自らが苦しみの海に沈んでしまうということは、世界中の人々が身に染みて感じて来たことで、その為に苦心してそれぞれの宗教や文化を生み出してきたのだと思う。その中にあって、日本の芸術の立場から発言すれば、簡素、質素であること、つまり過剰に求めないということに、美という魅力的な付加価値を与えた我々日本の伝統は誇らしいことだと思っている。

 ドイツのヒトラーが虐殺したボヘミアンの数は600万人と言われるが、毛沢東が粛清した自国民は桁違いで数千万人だそうだ。恐らく人類の殺人史上における最高峰に違いない。チベットを初め、周辺少数民族に対する謀殺も推して知るべしである。これが過剰な欲望でなくて何であろう。紫禁城前の広場から毛沢東の肖像画が本当の意味において外されない限り、少なくとも中国に世界からの尊敬は有り得ないと思っている。変わりに次の権力の亡者の肖像画が掲げられるのでは意味が無い。

 話は変わるが、核の査察でもっとも厳しいチェックを受けるのは、北朝鮮でもイランでもなく日本だそうだ。世界が日本を恐れるのは、その高い技術力だけではなく、もし日本がそれを行使したらということを想像する時に、その精神的なバックボーンには何が秘められているか計り知れないという、一種の畏れみたいなものが、欧米諸国の無意識の中に今尚あるからではないだろうか。日本人は表向き目出度いお人好しで今のところ安全だが、いざとなると何をしでかすか分らないと恐れられているとしたら、たとえば中曽根元首相あたりに「ここまで来たら、日本は核を真剣に考えざるを得ない・・・」などと発言させたら、先の空ポケットの拳銃にはならないだろうか。もちろん本当はそんな話題は口にしたくない。競争ならせめて尊敬の奪い合いにしたい。我々日本人は先達の遺産を大事にする限り、その競争においてはかなり有利だと思う。



打ち上げ                     百錢会通信 平成22年9月号より 

 藤井昭子さんのリサイタルに初めて出演させていただいたのは、もう十数年も前のことだ。会場はオープンしてまだ間もない紀尾井ホール。藤井家といえば地歌箏曲界の名門だから、客席にはもちろん大御所が溢れかえる演奏会である。勢揃いの大先生の前でなど吹いたこともない一“平民”の私は、まるで死刑台に登るような気分だった。吹きながら本当に軽い目眩が何度もして、どんな風に吹いたか全く記憶にない。でも何とか死なずには済んだ・・・。終演後は向かいのホテルで美味しい和食をご馳走になってしまったが、今は亡き人間国宝の藤井久仁江先生も同席されていて、お酒を頂いても緊張が解けなかったことはよく覚えている。

 久仁江先生はその席で、「私たちの頃は、演奏会の日に打ち上げなんていう習慣はなかったわねぇ」と仰っていた。演奏が終わればさっさと身支度して左様ならというわけで、それはあっさりとしたものだったそうだ。それに引き換え我々はどうだろう。良くも悪くも必ずといって良いくらい乾杯をして騒いでいる。翌朝までなんてこともたまにある。舞台の余韻を味わうなんて風情はすっ飛んでしまうし、体にも良くないし、今先生の言葉を思い出して少し反省している。

 先日、あるお茶の先生に、「茶事の別れって、いいものですよ」というお言葉を頂き、ハッとした。「別れ」という言葉の風情からはおよそ離れた今の生活に気付かされたのだ。閉められた襖の向こうの客人に対する黙礼、余情を残す茶室の佇まい、帰路につく客人の心の内を想う時。今の邦楽の演奏会には、演者にも観客にもこういう素敵な情緒が失われて来てはいないだろうか。「別れ」という一言に、大いに考えさせられた。

 演奏の良し悪しに関わらず、懸命に取り組んだ仲間とは離れがたいものだ。いつまでも手を取り合って語り合いたいものだが、別れの作法次第でその思いは却って何倍にも深くなるのだろう。私はこういうことがとても下手だ。つい未練に流されてしまう・・・。

 けれども少しは言い訳もしたい。我々のような未熟者は力がないだけに、いつも舞台は火事場の馬鹿力だけで乗り越えて来たような気がする。こういう精神状態のリセットは意外に難しく、巧く処理しないと妙な恐怖心が少しずつ蓄積しかねないのだ。こういう危険な舞台を迎えないために年月をかけた修行が必要なのだけれど、修行の足りないうちはこういう“荒療治”もたまには赦して頂きたい。



座 標                 百錢会通信 平成22年8月号より

                              

 3年前から夏に長野県の小海町というところで演奏をさせて頂いている。八ヶ岳の麓にあるとても清々しいところで、毎年訪ねるのを楽しみにしている。

 佐久と清里のちょうど中程にあって、これらを結ぶ鉄道は我々が学生の頃から行楽で人気の高いローカル線だ。だが、およそ若者らしいレジャー等に縁のなかった私は、小海町どころか清里すらどこにあるのかよく知らなかった。演奏会場に持参する小道具が多いので車で行くのが得策だから、必要に迫られて3年前に初めて私は小海町の場所を地図で調べたのだ。

 近頃“調べモノ”は何といってもインターネットだ。住所を入力すれば一瞬にして周辺地図が画面に現れる。ところが私のように小海町がどこに在るのかも知らない者には、会場の周辺図だけあっても役には立たない。先ずは私の住んでいる所沢と小海町がどういう位置関係にあるかを見渡せる広域図を見なければ、事は始まらないというものだ。これもボタン一つで地図の縮尺はあっと言う間に切り替わる。

 この時、唐突だが私は何年も前に会員の坪井さんと交わしたある会話を思い出した。高校で理数系のどういう授業を選択したかという話題だった。私は理数系がとても苦手で大学進学のつもりもまるで無かったから、文系重視のコースを選択した。文系コースで履修しなければならない理数系の科目は「生物」「地学」などで、難しい「数学Ⅲ」や「物理」は勉強しなくても良かった。坪井さんはそれを聞いて首をかしげた。

 「可笑しいですね・・・、「生物」を知るには「化学」が必要で、「化学」を知るには「物理」が必要。「物理」を知るには「数学」が必要なのに・・・。」なるほど仰る通りだとつくづく感心したものだった。

 小海町にたどり着くには、いかなる人も然るべきルートを経なければならないけれど、我々が“体験入門”してきた知識の世界には、随分といい加減な飛躍が繰り返されていると言わなくてはならないだろう。「物理」に一度も触れたことも無いのに「生物」でミトコンドリアを習って分ったような気になっているのは、小海町が何県にあるのかも知らずに、周辺図を手にして所沢から車で行けるような気になっているのに等しい。

 尺八の譜に表された、極めて表面的な運指と曖昧な表記のリズムをなぞるだけで師範の免状を取得した人は、斯界に数え切れない。そのことに疑問を持って尚研究努力する人がアマチュアの尺八界に多いのは喜ばしいことだ。自分がどの座標にあるのか、その位置を知るということはとても大事なことだ。自分の立っている座標を真面目に知ろうとするアマチュアの良心がプロを健全に鍛えるのだと思う。しかしこういう真面目な良心の持ち主の中に、何か得体の知れない“無限否定的”な迷路に陥りやすい人の多いことも私は実感している。数学から生物学まで修めた優れた科学者でも、数学の基礎に西洋哲学があって・・・という具合にその無限の広がりを深刻に受け止めるなら、眩暈を起こしてしまうはずだ。現にそうして発狂してしまった学者も世に多いことだろう。難問に立ち向かうには同志、仲間と笑顔で語らい休む時間も必要だと思う。夏の浴衣会を終えて、小海町の準備をしながら、そんなことを思った。

 



静かということ                    百錢会通信 平成22年7月号より

 泳ぐのが好きだ。水の中にぷかぷか体が浮いている感覚が楽しい。肺を大いに伸縮させるせいだろうか、かなりくたびれていても泳いだ後は不思議と尺八が楽に吹ける。運動不足解消にもなる。良い事ずくめなので、あまり頻繁ではないけれど、休みがあれば私はよくプールに行く。

 子供のころに水泳といえば夏に限ったものだったけれど、近頃プールはどこでも屋内で一年中泳ぐことが出来るようになった。小学生の頃、海開きならぬプール開きなんて言葉があったのを懐かしく思い出す。野外だから雨の日の水泳の授業はもちろん中止。でも夏の頃だから泳いでいる最中ににわか雨の降り出すことはよくあった。しかもかなり激しい雨だ。雷は落ちないだろうか、唇を青くして震えている子供はいないだろうか、授業を中断するか否か、心配顔の先生の心を余所に、私はこのささやかな天変地異には心を妙に高ぶらせていたものだ。

 ある時それは激しい雨に見舞われたことがある。先生の声を聞くのも難しいくらいの吹き降りだった。私はこの時ふと他愛も無い遊びを思いついた。どしゃ降りの最中に水に潜ったり頭を出したりを繰り返すのだ。水の中はなんと静かなことだろう! 私は驚きを通り越して言葉にならない深い感激をおぼえた。

 今私の手元に「求めない」という本がある。その中に似たような話があったので一節を紹介する。

 

求めない ―

すると 静かだ。

 

あるとき私は バリ島の海で浮いていて

スコールに出くわした ―

 

すさまじい水面にいるのが苦しくて その下のサンゴ礁に潜った。

そのときの私はなにも求めなかった サンゴもサカナもさがさなかったんだ。

するとそこに静寂と美の世界があった!

 

ただね、じきに浮きあがったのさ ―  息がつづかないんだ。

じっさい人間は 意識というサワガシイ水面に生きる存在でね、

「求めない」ものの国には長くいられないのさ。

 

面白いことに酸素ボンベをつけて潜る連中は

見つけることばかり求めて 求めない静かさや美は 感じないんだ。

どんなに深い海に潜ったって 「求める意識」でいるのなら 見えないんだ。


 

 筆者の加島祥造という人を教えて下さったのは、鎌倉で静かな宿をなさっているそれは美しい女将さんだ。私が一人でダイニングから江ノ島の綺麗な夕日を眺めていたら、コーヒーを出して下さり、話の脈絡は忘れてしまったけれど加島氏がその宿の常連さんだということを話して下さった。私の尺八を聴くと何となく加島さんのことを思い出します、と仰った。それはこの上なく静かな時間だった。

 



筒を口に当ててみれば・・・      百錢会通信 平成22年6月号より

 私は食器にはあまり凝る性質ではない。年がら年中お腹をすかして、早く食べたいという気持ちの方が勝っているからだと思う。ところが酒器となると、いくらか注文をつけたくなる。紙コップでビールは飲みたくない、清酒は白磁でいきたい、ワインは薄手のグラスがいい、ウイスキーのロックグラスは小ぶりのものが好きだ・・・等々。何で飲んだって中味に変わりはないじゃないかという気もするが、いざとなるとどうも酒だけは出来れば好みの器にしたくなる。

 先日、かなりウルサイ日本酒通の集まる店に招待していただいた。我々一行は実は余り日本酒に馴染みの無い若い女の子が中心のグループだったので、利き酒のナントカいう資格を持つ店主の、それはマニアックなレクチャーを頂きながらの宴席となった。通に人気の高い珍しい逸品が出された時は、全員に飲み方の指示が出された。まず真水で口の中をさっぱりさせなさいと。次に酒を口に含んだら舌の中央に乗せて口中の空気に香気を充分に立ち昇らせる。そしてゆっくり喉を通過させた時に鼻に抜けるその香を楽しむのだそうだ。命令に従って盃を傾けるのはいささか堅苦しさを感じて窮屈だったが、なるほど美味しかった。喉に刺すような刺激は全くない。酒の甘味を追いかけるように立ち上る香は誠に上品で、それは控えめな香木のそれのようだった。

 一口ずつ何種類もの銘酒を頂き、さながらカルチャーセンターの利き酒勉強会のようだった。若い女の子が店主に「このお酒は甘口ですよね?」と訊ねた。すると店主はしたりとばかりにニンマリと笑って「糖度という意味での甘口の酒はウチには置いてません。そのお酒は酸味や苦味が少ないのであって、甘いと感じるのはその香りの所為です。」と答えた。レクチャーは次第に盛り上がって行く。甘いか辛いかということに関して実験が始まった。同じお酒を違う器で飲み比べてみようというのだ。吸い口の平たい茶碗と、通称フルート型という細長い筒型のグラスみたいなもので飲み分けてみると、後者の方がとても軽い甘さが際立って、前者ので頂くとやけに辛く、まるで別の銘柄のように感じてしまうのだ。隣の女の子は眼を丸くしてマジックでも見たような顔をしていた。

 店主の種あかしはこうだ。人は吸い口の細い器を口にすると、何故か唇を細めてしまう。そしてこの“おちょぼ口”にして酒を飲むと、これまた何故か口の中で酒を舌の中央の道にだけ通して喉へ運びがちで、酸味等を感じる舌の両側に酒が触れずに通過するから、甘く感じてしまうのだという。私は昔一緒に土方仕事をしていたテルさんとういう、酒好きの日雇い人夫さんを思い出していた。テルさんは冷酒を飲むときは口を尖らせて、しかも酒が胃袋に流れ込むまではしっかりと息を止めていた。労働者のアオる安酒は、香はしつこく味も刺すような酸味や苦味が強い。こうして見るとテルさんはあまり上等でない酒を旨く飲むための、正にお手本のような飲み方をしていたのだと、やけに感心してしまった・・・。

 丸い筒型の器を口に近づけると人は思わず口をすぼめてしまう。この無意識の動作はお酒を飲むのには好都合かもしれないけれど、尺八の吹奏には実に忌まわしいことなのだ。唇やその周りの筋肉を収縮させて風の吹き出し口を硬くすると、どういう理屈かは分らないけれどもとにかく音は響かない。顔の中のとりわけ口の周りは複雑極まりない筋肉の集まりで、それが管楽器の微妙な音色を作り出す重要な要素になっていることは間違いない。ただ悩ましいのはそれが無意識に動いてしまいがちだということで、またその筋肉の動きは必ずしも尺八の音には好都合ではないことも多いということを、我々は知っておくべきだ。



新 緑 -3-                百錢会通信 平成22年5月号より

 尺八の難しい運指を教える際に、とにかくゆっくり動かすようにと私はお弟子さんに指示している。ところが殆どの人は体の動きの停止する時間が長くなるばかりで、いざとなると指の動きは瞬間的にとても早いのだ。気合と気迫は充分だけれども、自分の指が今どのように動いているかという実感がまるでないままに、がむしゃらな練習を反復している。どこに問題の真の原因があるかを突き止めずに繰り返す運指練習は、空襲を知らずに竹槍の稽古に勤しむのに等しくはないだろうか。私の先生はこういう時に「精神力で車は動かないのだ!」と皮肉たっぷりに仰ったものだ。

 私が「ゆっくり」と言うのは、指をわずか1cmほど動かすにも2秒も3秒もかけて、それをたとえるなら太極拳の演舞のように、滑らかで滞らずに、ということなのだ。そうすることによって、その過程の中で自分は如何に力んでいて、無駄な動きを無意識のうちにしていたかということを、初めて客観的に知ることが出来ると思う。

 今年の春の天候不順は私には生まれて初めての経験だ。昨日と今日とでは気温に10度もの落差があり、そんなことが春先の数週間に何回も起こるなんてことは、全く予測が出来なかった。けれども天候不順といっても概ねのことを言えば、例年より冬から春への移行に時間がかかっているという、ただそれだけのことだろう。冬から春への時の流れの中で、桜が咲いて、若葉が萌え始める様を、例年より拡大して眺めることの出来た年だったのだと思う。だからいつもの慌しい年度末年始には気にも留めなかったような、もっと細分化された季節の景色の美しさに、驚き感激したのだ。若葉の緑になる前の、白っぽい、遠目に眺めると木々にパウダーシュガーをまぶしたような“新緑未満”というような色を、今年ほど時間をかけてしみじみ眺めたことはない。ほんのわずかな一時の新緑の中にももっと多彩な色の分類があることを思い知らされたものだった。若葉の緑の美しさに取り憑かれるほどにこの細分化は進んでいくことだろう。

 ところで我々の認識というものは、時間の流れの中で見聞きするものを、どこまでも言葉の上で特徴付けられた段階として分類しようとする傾向がないだろうか。何日に開花、何日に落花、何日に葉桜と・・・。でもよく考えてみればこの春に長く眺めたのは、固定して動かない桜の花や若い葉の緑ではなく、実はその移り変わりを長く眺めただけなのであって、そこには始まりも終わりもない。始末のケジメをつけないと気がすまない我々の分別意識というものは、この自然の悠久の連続性というものにどうも馴染んでいないような気がする。

 尺八を譜に縛られて演奏する人のぎこちなさも、或いは難しい運指に難儀することも、このあたりにその消息がありそうだ。尺八の譜字を一生懸命睨んでいると「ロ」や「ツ」だ「ヒ」だのと、それぞれ固定された音が突然現れてくるように思われて、実はその移り変わりの狭間に起きている様々な現象を見落としてしまい勝ちだ。或いは無意識のうちにそのことを無視しようとしているかも知れない。常に変化していて跡をとどめないのが音である。「ロ」の一音の中の移ろいを味わうこと、もっと極端な観方をすれば「ロ」と「レ」はつながってその区別も無くなることを目指したいと思う。

 言葉というものは説明的であるという宿命を持っているけれど、あえてその言葉を用いて言葉自身の分別的な姿勢を超越しようとするのは、散文でなくて詩であると思う。尺八は詩的でありたい。春は花が咲いて散り、若葉が萌えるという、命のドラマティックな場面を目の当たりにするから、それぞれの一場面を固定的に象徴、抽出しがちであるけれど、もっと普遍的な連続性の中で、これを静かに味わいたいと願っている。



右目、左目                   百錢会通信 平成22年4月号より

 かつて私が尺八を教えた門人に吹き矢の名人がいる。吹き矢といっても近頃カルチャーセンターなどで流行の「スポーツ吹き矢」と言って、ダーツのように的に矢を当てて点数を競い合う競技で、忍者のそれではない。さてその人は始めて数ヶ月で連戦連勝、指導者よりも強くなってしまったようで、同輩から指導を請われてちょっと困っていたようだった。何故にそんなに容易く的に当てることができるのかと問われて、本人曰くそれが余りにも簡単な理屈なものだから、それを教えたら指導者の顔を潰すことになるから弱っているとのことだった。

 要は顔の中心に咥えた筒と、的を狙う眼の位置の横軸上のズレを考慮に入れないと、実際の筒先は的に向かって真直ぐに向かないということだった。その時は「なるほどネ・・・」と他人事のように感心していたけれど、後になってこれは尺八の吹き方にも直接関わる大事なことではないかと思い愕然とした。

 あくまで尺八は口元、唇にとって一番フィットする場所にセットするわけで、その位置が右目と左目の中心にあるとは限らない。右目と左目の横軸上のどこに尺八の歌口の中心があるのかによって、尺八の向きの視覚的な感じ方は大きく変わってくると思う。それに“利き腕”ならぬ“利き目”の優越性みたいなものがあるとしたら、自分では真っ直ぐに構えているように見えても、実は微妙な誤差が生じているということは大いに考えられることだ。このあたりについては物理的な研究が必要だと思う。

 右目だけで見てみたり、左目だけで見てみたり、次に両目で・・・などと眼をパチクリさせながら尺八の向きを気にしてみた。また楽譜を見ている時に尺八の向きを眼がどのように感じているのかなどと気にしてみたけれど、簡単に結論的な法則を見つけることは難しいと感じた。尺八の音の結果を、吹き矢のように明快に理論化することは少し危険だと思う。

 思い起こせば小さい頃から私は、右目に見える映像と左目に見える映像との差異を比べるのが好きで、そんな一人遊びをしたものだった。一つの脳の中に異なった感覚が共存していることを体感するのが面白かったのだ。学校の先生にはこの異なる映像を一体化する複雑な作業が脳の中で行われていると教わったが、分かったような、分からないような、何だか釈然としなかった。例えば人差し指をじっと見つめたとする。なるほど両眼で見ているのに指は一本に見える。ところが後ろのボンヤリ映るコップは二重に見えるではないか・・・と。ピントの合わない世界を感じようとするのも面白い。とりとめもないことを、とりとめもないように考えるのが私は好きだったのだ。

 尺八の音に関しては、私は長く古典本曲独奏だけで来たから、迷いもなく片眼一本槍だったのかな、と思ったりもする。合奏の機会が増えてきて、一つの時間の中で多重的に他の音を捉える習慣が少なかったことに恨めしさを感じることも多い。父の命令に背き合奏に“手を染める”ようになって二十余年、それは私が虚無僧尺八一筋に過ごしてきた年月の倍になった。そういう今現在、私は虚無僧尺八の独奏に新たな思いを抱くようになった。それは、独奏とはその空間の静寂と言う音との二重奏ではないかということだ。ピントの合うもの合わぬものが音の世界に共存しているような気がしてきた。



猫の無関心                  百錢会通信 平成22年3月号より

 我が家の犬は、私が尺八を吹くと深刻な表情で遠吠えを始める。それはまるで非常事態発令のサイレンのようで、とてもじゃないがこちらは稽古にならない。家人はチャイコ(我が愛犬の名前)が一緒に歌い出したといつも笑い出すのだ。

 和楽器を初めとする世界の民族楽器には、人間の耳には聞き取れないと言われる高周波を多く含んでいるそうだ。犬の耳はそんな周波数帯の音までも拾って、尺八の音を我々人間には想像もつかないような音として聞いているのだろうか。世の中には尺八の良さの分からぬ輩の何と多いことかと嘆く“尺八信者”がいるけれど、人間だって同じ哺乳動物、犬並みの聴覚の人間がいないとも限らないから、尺八の音が耐え難い苦痛をその人に与えてしまっているなんてことだってあるのかも知れない。或いは“尺八信者”の方が犬並の感覚で、尺八の音に何か特殊なものを感じ取っているなんてことはないだろうか・・・。

 尺八を聞く犬の話では、あるお弟子さんの体験談に大笑いしたことがある。ある日広い公園の一角で尺八を練習していると、目の前に大きなドーベルマンが居座り、神妙に我が竹韻に耳を傾け始めたというのだ。ところが厄介なのはその猛犬は何と放し飼いで、主人の姿はそこにない。おとなしく聞いてくれるのは有難いような気もするが、もし吹き止めて立ち去ろうとすれば飛び掛って来やしまいかという恐怖に襲われて、演奏を止めるに止められなくなってしまったそうだ。冷や汗ビッショリで吹き続けた時間はどれほどだったか記憶に無いという。長かったのか短かったのか!とにかくしばらくして飼い主が現れ事無きを得たそうだが、あれほど真剣に尺八を吹いたことはなかったという。それは得がたい経験でよい稽古をなさったと私は笑って申し上げたが、本当によい稽古だったはずだと私は真面目にそう思っている。

 私が中学生になる頃までだったか、家にはいつも放し飼いの猫がいた。この猫という生き物の尺八に対する無関心ぶりは、今思い起こすとそれはそれで興味深い。犬の反応とは正反対で、良く言えば泰然自若としていた。尺八の音に気がつけばハッとしたようにこちらを凝視するが、自分に関わりがないと思えば、悠然とその場を立ち去って行く・・・。いつもそんな光景だった。犬が己の主張を相対するものに向かってはっきりと現すのに対して、猫はその存在さえもどこか曖昧としてミステリアスだ。どこからともなく現れ、いずかたとも知れずに消えて行く、けだるく生暖かい春の風のようなところがある。

 私のような浮世離れの尺八吹きでも、演奏会ともなれば尺八の音をお客様がどのように受け止めて下さるのかをどこかで意識している。拒絶されるにしても受け入れて下さるにしても、何かはっきりした結果の現れることを想定しているのである。それは先の犬と尺八のエピソードのようにとても明快な出来事だ。ところがそれに比べて、古の虚無僧の尺八と人々の出会いは、もしかしたら“猫型”が多かったのではないだろうか?という妄想が俄かに膨らんで来たのである。予期せぬ邂逅にお互いが一瞬立ち止まりはするけれども、その後は何事もなかったかのように立ち去って行く。何でもないそういうことが来る日も来る日も繰り返される。猫のような無関心の中に韜晦する竹の音。そういう尺八のあり方もちょっと味わい深いと私は思う。



iPodを買った                     百錢会通信 平成22年2月号より
 高校1年の娘の友人に、携帯電話を持たないという今時珍しい人物がいる。自らきっぱり必要ないと言い切るところがちょっと立派だと思った。聞くとテレビはNHKだけ。タモリも知らなければみのもんたでさえ見たことがないという。耳にする音楽はクラシックだけという誠に徹底したものだ。

 それに引き替え四十半ばの私は、最近iPodという音楽も聞ければ録音も出来て手帳にもなるという、当世流行りの電子機器を手に入れた。と言っても搭載機能の十分の一も使いこなせないだろう。こういう物言いをするところ既に時流に遅れるを恥とする後ろめたさが滲んでいるわけで、進んで時流には乗らないと宣言する件の友人には恐れ入るばかりだ。

 さてこのシロモノ、手のひらサイズの本体に何百曲ものレコードを内蔵出来るわけだが、私には勿論そんな容量は必要ない。外にまで持ち歩き、折に触れて聞いてみたいと思う曲がそんなにはないからだ。数少ない私のお気に入り数曲をたまには紹介して見ようと思う。

 

 越野栄松の「雲井弄斎」という箏組歌は何時聞いても良い気分になる。江戸時代の得体の知れない囃し言葉などがあって歌詞の意味は何だか良く分からないのだが、却ってそれが想像力を掻き立てて良いのかも知れない。歌と箏だけの誠に簡素な音の織物だが、愁いに満ちた艶やかな声と柔らかな音色の織り成す世界の奥は深い。デジタルの音源を手に入れていないのでiPodにはまだ取り込んでいない。

 

 西松文一の地歌「ゆき」もつい繰り返し聞いてしまう。こちらはCDを持っているのですぐさまiPodに取り込んだ。今まで名人達人による「ゆき」の名盤を聞いたけれど、私にはどれも生々し過ぎたり、或いは体裁が良過ぎてよそよそしかったり、あまり積極的に向き合う気にはなれなかった。ところが西松のそれは理屈抜きに、心の隅々まで清水の染み渡る思いがする。それで初めて如何に自分の心が渇いていたかを思い知るのだ。盲人としての西松自身の来し方、その感慨がそこはかとなく漂うようで、その控えめな加減が余情を増幅させる。音楽はやはり聞く側に想像の余地を与えて欲しいものだと思う。

 

 当然のことながら自分の演奏は余り聞かない。演奏の出来、不出来は別としても、私自身の「独りよがり」というか、自己愛的な傾向を客観的に認識するのが辛いからだ。ただ山登松和さんと合奏した「布袋」は不思議に快く聞いていられる。この曲を演奏するに当たっては、脇役としての尺八の役割を十分自覚していたからだと思う。

 自己愛的という言葉で思い出すのがスラヴァという声楽家で、最近よく聞いている。この人には、宗教的な受難を受け止めてどこか恍惚としてしまう心の傾向を感じる。こういう宗教的マゾヒズムは、どうしても自己愛的な傾向と切り離せないだろう。そうとう甘口の歌いっぷりなので行き過ぎを批判されることもあるだろうが、私は気に留めない。人間の心の内側にはどんな人にも暗黒があり闇があるはずだ。芸術作品は決して綺麗ごとでは済まないと思う。一見高尚で穏やかな作品でも、一歩踏み込めば、近頃過剰にマスメディアに流れる過激な内容のポップスや娯楽映画より、ずっと生々しいことが表現されていることはあるものだ。

 

 ということを、娘の友人と話してみたいものだと思った。どんな音楽をどのように聴いているのかと。けれどもそれは彼らが年月を経て、色々な経験を重ねてからの方がきっと面白いだろう。



                              百錢会通信 平成22年1月号より  

  昨年の浴衣会に顔を出した父が、会場の法身寺に杖を忘れて行った。小菅和尚に言われてその杖を見ると何とも父らしいというか・・・、普通なら玄関先に置いておくのも憚られるようなシロモノだったので、すぐ私が持ち帰ることにした。

 手ごろな太さの篠竹を、只適当な長さに切っただけの杖だが、両端がそれぞれ赤と白のビニールテープでぐるぐる巻になっていて、まるで工事現場のうす汚れたガードレールに巻き付けられたテープのようだった。そしてお決まりの「一月浪士」の号が油性ペンで書き込まれている。仏法の伝承で衣鉢を継ぐという言葉があるけれど、同じような意味で杖を後継者に渡すというような話があったと思う。なるほどこんな竹棹一本にも、よくその人の思想と人間性は泌み込むものだと、しばらくその杖を眺めていた。

 昨年秋に大学でお世話になった能の先生が永眠された。終始一貫私利私欲が無く、良いものは良いと言い、悪いと思えば容赦無く刃を振り降ろすという先生だった。「潔さ」という言葉のこれほど相応しい人物に、私は未だお会いしたことがない。都内の某ホテルで開かれた「偲ぶ会」には、先生のそういうお人柄に惹かれた多くの人々が駆けつけた。

 ご親族を代表して挨拶なされたのは先生の甥御さんである。先生の厳しい指導を受けた、やはり同じ流儀の能楽師だ。歳は私より少し上の先輩で、大学では一緒に助手を勤めたことがある。この方もまた肚の据わった人物で、少々のことには微動だにしない。下手なやくざなどは舌を巻いて逃げて行くに違いない。そういういかにも堂々とした風格は生来の気質かも知れないが、きっと能の厳格な修行に依るところ大であろうと私はかねてから感じていた。

 その彼が壇上でまさかの大粒の涙を流した。先生が病に冒されていく過程を淡々と報告なされていたのだけれど、「癌の治療のための入院にあたり、伯父からもらった手紙に、見舞には来るなと書いてあり・・・」と言ったきり絶句してしまったのである。

 その思いの深さは本人以外何人といえども知ることは出来ないであろう。けれども我々列席者はこの場に遭遇して、想像するに余り有るその芸の伝承に対する情熱に、深い感動の涙を禁じ得なかったのである。満身の力を込めて奥歯を噛みしめ身を震わせていた、その心の内には哀しみばかりでなく、先生に対する感謝の泉が溢れて止むことがなかったのだと思う。

 しかるに我々はどうだろう。もちろんプロフェッショナルの世界の話であるが、これほど師弟一丸となった本気の稽古が尺八の世界で一体どれほど行なわれているだろうか。小手先の技術論、口先の精神論が蔓延していないだろうか。我が身を振り返って大いに反省させられる出来事だった。

 まだまだ足りない・・・という気持ちが、情けないことだがこの歳になって増して来た。父に印可を貰ったわけではないから、先の杖は早くに返しに行こうと思っている。



礼 節                           百錢会通信 平成21年12月号より  

 先日、湯島の稽古に通って来ている高校生のK君が、私がもう帰ろうとしていた夜の十時過ぎに忽然と現れた。こんな時間にとびっくりしている私にK君は「いえいえ、こんな遅くに稽古のお願いに来たんじゃないんです。」と、何か切実な口調で弁明を始めた。聞くと修学旅行から今しがた帰宅したようで、そのお土産を今なら稽古の時間に間に合うかも知れないと思って、大急ぎで届けに来たというのだ。そしてK君は部屋の様子を見るとすぐに「何か片付けのお手伝いします!」と言った。お土産のお菓子を日にちが経たぬうちに届けようという心遣いも嬉しかったけれど、稽古終了間際に押しかけてきた非礼を詫び、そして私の疲れを気遣ってくれる高校生の態度が、何より嬉しかった。

 邦楽の世界は「礼節」を重んじると言われてきた。K君の何気ない仕草は、親子三代に渡る民謡の専門家一族という環境に、少なからぬ影響を受けて来たことだろう。もしも私が逆の立場で、咄嗟にそういう行動が取れただろうかと考えると実に心もとない。いわゆる“業界”の常識や作法というものに私が出会ってからの歴史は、実はとても浅いからだ。

 しかし一方では、「礼節」あるいは一般的な「礼儀作法」と言うものを、盲目的に重んずるのも如何なものかと思う。思索という彫琢を受けない、つまり思想の裏打ちの無い「礼節」が表面的に利用される時、美しいはずの「作法」がとても醜い人間関係を構築してしまうことがあるからだ。研鑽も積まなければ努力もしない先生に、何でもかんでも生徒はかしずかなければならないとしたらどうだろう。

 あまり難しく考えることはないと思う。要は双方がどれだけ真剣に取り組むか否かにかかっているのではないだろうか。そうすれば自ずとお互いを尊敬する心が湧いてくるものだ。初心者は先輩の技術を尊敬するかも知れない。では熟練者は初心者に学ぶことはないだろうか?そんなことはあるはずが無い。緊張して指の震える初心者の純真さは何にも替えがたい美しさを秘めている。そのことを感じ取れないような、鈍いベテランになってはいけない。本当の意味での尊敬は、技術の優劣などという次元を遥かに超越したところに成立するものだと信じたい。

この秋から小さな短期大学で1コマだけ、尺八を教えている。恥ずかしながら実際に対面するまで、受けもちの生徒が自分の娘の歳に近いことに気がついていなかった。思い起こせば私が一人であちこちの尺八の集まりに顔を出すようになったのが高校生の頃だったと思う。どの先輩も折り目正しい態度で接して下さったものだ。だから私もそういう「礼節」を以ってこれからの若人と付き合っていきたいと思っている。

年代を超えて尊敬し合うことの出来る交流を「忘年の交わり」というそうだ。百錢会の集まりは、今までもこれからも「忘年の交わり」であると自負している。12/23は法身寺でお会いできるのを今から楽しみにしている。

 



呼吸法                          百錢会通信 平成21年11月号より

歳をとると誤飲の事故が多くなるから注意を!という呼びかけを、年末年始が近づくとよく耳にするような気がする。お正月はお餅を食べるから特に気をつけなければならないからだろうか。ある箏曲の友人から、人間が物を飲み込むという動作は、実は非常に複雑なメカニズムで成り立っているという話を聞いたことがある。その友人のご尊父はやはり箏曲家で、残念なことに四年前に亡くなられてしまったのだが、話はその介護談の中で教えてもらったことだった。

衰弱も著しくなった頃、少しでも活力を取り戻して欲しいと祈るような気持ちで食事の世話をなさったそうだが、誤飲には細心の注意が必要だったそうだ。担当医師からの指導があったのだろう。そもそも人間が物を飲み込む時に、気管の道を塞いで飲食物を食道に導くには、多様な筋肉を非常に精密なタイミングで動かさなければならないそうだ。そしてその筋肉とは咽喉付近に留まらず、肩や背筋にまで及んでいると言うので、そのことが私には大きな驚きだった。高齢者の誤飲は、体全体の筋力の衰えが少なからず影響していると言うのだ。

今私がその話を思い出したのは、演奏の際の呼吸法も物を飲み込む動作と同様に、きっと様々な筋肉の複雑な連携の上に成り立っているのだろうということを、最近しみじみ実感しているからだ。

声楽も管楽器も、呼吸は腹式呼吸でなければいけないと言われる。けれどもその腹式呼吸とはどういうものか、ということになると色々な演奏家が色々なことを仰る。どれも正しいのだろうけれど、学習者にそれが正確に伝わることはとても稀なことのようだ。最近は何でもかんでも科学的な実証が盛んだから、かなり難解な生理学用語(というのだろうか・・・)を用いた解説が増殖してきている。それは実際に良い成果を上げているだろうし、決して無意味なことでは無いと思うけれども、科学的な分析による成果というものは実際のところ「渺たる滄海の一粟なり」というほどのもののように最近は思われてならない。体のコントロールというものはかなり神秘的なことだと思うようになってきた。

近年の私の舞台で、先日のリサイタルほど呼吸に注意を払った演奏はない。色々な人の色々な呼吸法を参考に試行錯誤を繰り返してきたけれど、却って混乱することが多かった。とにかく深く吸うことが出来なければいけない。深く吸うためにはしっかり吐くことができなければならない。ただそれだけのことが上手くいかないものだ。私の場合、呼気と吸気の転換に難儀してきた。これが思うようになれば精神的な集中力は飛躍的なものになる。

その工夫の場として、私にとって有難かったのは毎月の法身寺の坐禅である。坐禅していれば誰でも呼吸法が上達するというわけではないけれど、たかだか三十分でも呼吸のことだけに集中するということが日常にはない。どこまでも自分の工夫努力であるけれど、その場を頂けるということは実に有難いことだ。十年以上もご指導下さる小菅和尚にこの場をお借りして、心より感謝申し上げる次第である。



機内誌で見つけた食の話題から      百錢会通信 平成21年10月号より  

「料理に腕を振るわない街に、旅人を誘う資格はない」。機内誌のエッセイの中で見つけたフレーズだ。地方都市を東京から見下ろす視線が無きにしも非ずの物言いだが、このライターの言いたいことは私もよく解る。

実際旅に出て地のものを食べられないことほど味気ないことはない。何も高価な特産物のご馳走を望んでいるわけではなく、その土地、その季節の、出来れば旬のものにありつけるのならもう何も言うことはないのだ。

旬と言えばその時もっとも収穫量が上がるのだから、当然価格が安くなるわけだ。北陸出身のある人物の「私の家は貧乏だったから、子供の頃のおやつは蟹ばかりだった・・・」という述懐は面白かった。やはり同じエッセイの中の 一文だ。ずいぶんと贅沢なおやつだと思ってしまうが、そう感じてしまう都市の食生活の方が歪んでいるのだろう。

地場のその時節の、リーズナブルな産物を仕入れて来て、ちょっとだけの笑顔でもてなしてもらえれば、旅人は充分幸福を味わえるものだ。料理の基本は愛情だと思う。さぁ夕食をという時に全国一律チェーン店の看板を見ると、旅情もヘッタクレも無くなってしまう・・・。

全国一律という言葉から、ふと尺八古典本曲の画一化という話題を思い出した。全国各地の伝承曲を収集した神如道が古典本曲の地方色を無くしてしまったという批判である。

けれども、一人の人間が各地の伝承曲の、土着の味わいなど出せようはずがないというのは自明のことで、神如道自身よく心得ていたのではないかと思う。当時の古典本曲はそのほとんどが絶滅危惧種であったから、その危機を救おうという意思が強くあったのは事実だと思う。しかし一方では土地の伝承者のいるところに乗り込んで行って、摩擦を起こしてしまったという話もあるから、その真意は一体何だったのか、少し興味のあるところだ。

中華料理は絶対的な権力を背景に、各地の料理を中央集権的に整理統合して、研ぎ澄まされたレシピを集大成していったようだ。時の権力者が囲った選りすぐりの調理人たち。その芸術的感性と技術をもって、郷土料理を含めたあらゆる中華料理を一大食文化に昇華させようという、中華民族ならではの野心の感じられる話だと思う。神如道にひょっとしたら、そんな気持ちが少しはあったのだろうか・・・。

それに引き換え、現代の飲食業界の全国展開、否、世界展開を目論むフランチャイズという経営方式だが、私はこのシステムの根底に文化的な創造意欲があるとはとても思えない。どこまでも営業利益の追求のみに純化していくように感じる。旅先でチェーン店の看板を見てがっかりする本当の理由はここにある。食文化といえるものが日本の大都市から姿を消し始めて、それが地方都市にまで波及していくことの証に見えてならないのだ。

今年は私には珍しく出張の多い年だった。そして幸いなことに“コマーシャル”臭くない食事をたくさん頂くことができた。この秋からの演奏予定を見ると年末まで、私は関東を出ることはなさそうだから、せめて旅先で得た栄養が演奏に現れるようにと念じている。



プラハから帰ってみれば            百錢会通信 平成21年9月号より   

先日久しぶりの海外の仕事でチェコのプラハに出かけた。聞きしに勝る美しい街で、出国前には会う人皆に羨ましがられた理由を、現地を訪れてなるほどと初めて実感した。滞在した一週間は好天続き、サラッとした爽やかな空気で、空の青さは日本ならばかなりの高地にでも赴かなければ見ることの出来ない鮮やかさで、朱色の屋根とのコントラストは忘れることが出来ない。チェコ人の誇りだというピルゼンビールの香りは絶品で、私の中では本場ドイツの味が全く霞んでしまうほどだった。

私に付き添ってくれる通訳のJ君は、チェコ語と英語と日本語を操る二十代の青年だ。自称日本のアニメおたくというとてもユニークなキャラクターだ。よく観察すると日本のアニメ好きの少年と同じ仕草をするので面白いと思った。言語に対するアニメマニア特有の知的水準の高さも興味深かった。

さて空港に迎えに来てくれた彼は、移動の車の中で初対面の私にニヒルに呟いた。チェコは旅行で訪れるには良いけれど住むのは大変だと。どうしてと訪ねると人間関係が難しいというのだ。街中を歩くと西ヨーロッパとはまるで違う顔立ちの、美男美女が多いと思ったが、なるほど手放しに幸福な顔にはなれない翳りが感じられたのも事実だった。どこか楽天的になれない風がある。

私が招待された今回の尺八サマースクールは毎年の開催で、既に6回を重ねるというので驚きだ。音頭取のM氏は、大学で民俗音楽と作曲を教える教授で、社会主義時代にインドへ留学しようとしただけで逮捕、13ヶ月に渡る拘置生活を経験したという。ヨーロッパでこんなスクールを熱心に開催する中心人物としては将に“筋金入り”だ。

フランスやドイツ、イギリスからの参加者も多く、皆一様に熱心であったけれど、尺八を学ぶ真剣さは、特にチェコの人たちに限ってはむしろ“深刻さ”が感じられた。それはJ君にかけられた初っ端の呪文の所為かも知れないけれど、とにかく滞在中はずっとそういう思いを拭うことが出来なかった。

私は英語もおぼつかないものだから、成田に辿りついた時はホッとした。母国は有難いと思う。日本の都市は本当につまらない開発が進行して最近の街は面白くないけれど、美しいところはまだまだある。その美しさは欧米のそれとは全く異質で、妙な表現だけれど、自然の恵みに可愛がられている・・・とでも言うような優しい空気を感じる。しかもその中で世界に恥じることのない、深い精神的な世界を耕してきたのだから、私は素直に我々の祖先を有難いと思っている。ところが今の日本人は少しふやけすぎてはいないだろうか。

帰国後まもなく電車の広告をみてがっかりした。「本棚で埃りを被った夏目漱石全集を○○で売り払って、貯めたポイントを提携の写真屋で使って子供の記念写真を撮った。その坊ちゃん刈りが可愛くてまぶしい!」と結んでいる・・・。

戦争で涙を飲んで降伏し、古い街並みを残したけれども、辛酸を嘗めてきたという外国の景色がまだ瞼から離れない。日本だって生々しい敗戦を味わったばかりではないか。日本の近代の夜明けの混乱はまだ続いているという意識はないのだろうか。明治期の日本人の苦悩はさっさとポイントに変えて、キャー可愛い!ではお粗末極まりない。



群馬にいて思うことアレコレ          百錢会通信 平成21年8月号より  

群馬の稽古場はご存知の通り里山の中にあるので、この時節は二週間も放置すれば一面草ボウボウになる。父が車の運転をしていた頃は足繁く通って草刈りをしてくれたが、今は私が稽古の合間でするしかなくなった。

稽古場にいると、雨後に伸びるのは竹の子ばかりではないことを思い知らされる。聞くとこの時期の雨はマイナスイオンを多く含むとやらで、草木の成長が早いのだそうだ。植物については学者並に詳しい、群馬教室の門人の斎藤説成さんが教えてくれた。

刈っても刈っても次から次へと生えてくる。それは厄介なことには違いないのだけれど、草木がざわめく様に生い茂るのを眺めるのは、それはそれで悪い気はしない。いっぱい酸素を出してくれるのだから有難いことだ。

 

駐車場の栗の木や紅葉の木の枝が、車の天井にハタキをかけるように覆い被さって来たので、これも剪定しなければならない。この季節になると所沢の自宅界隈でもあちこちで植木屋さんの姿をみかけるので、自分で鋏をいれるならどうしたら良いかを、また斎藤さんに尋ねてみた。するときっぱり「この季節の剪定は好ましくありません」と仰った。なるほど成長期に怪我させて良いわけがない。斎藤さんの視線はどこまでも植物の命に向けられている。どちらかと言うと人間の都合の方が二の次だ。人は自然と向き合う時、とかく自己を主人公と考えがちだ。その主客の反転に留意せよ!とは、我が師、岡崎自修先生の言で、そんな戒めがふっと甦ってきた。

私は教わるそばから何もかも忘れてしまう大馬鹿なのに、斎藤さんは苦笑しながらも、根気強く草花の名を教えてくれる。「名も無い花に・・・」なんて気どった台詞があるけれど、そんなものはおよそ無いことを知った。こんな雑草にまで?!、と思うほどに、どんな草花にも名前はあるもので、それは意外な驚きだった。片端から諳んじてくれる学術名と俗称を聞くのは実に楽しい。可憐、爽快、陽気、快活、倦怠、憂愁、妖艶、沈欝、清楚、純真。様々な芸術のイメージを喚起させる名前のオンパレードである。人間が自然といかに関わってきたかは芸術の重要な問題だ。もしかすると草木の名にその形跡を見ることが出来るかも知れないと思った。

 

名前を知れば情が移るものだ。草むしり一つにしても「こちらの都合でごめんなさい」と謝る気持ちが湧いてくる。こんな小さな改心に都会人は自己満足することだ。自然に還るを得たりと。しかしそれで良いのか。除草剤を撒き散らしてさんざんゴルフを楽しみ、年老いて仏心に目覚めましたでは、ちょっとムシが良過ぎやしないか・・・。群馬にいるとそんな自問自答を繰り返す。

良寛が筍可愛さに屋根に穴をあけようとして、却って己の庵を火事にしてしまった。家が火事になったのだから、恐らくその筍も燃えてしまっただろう。最近のエコロジーブームもそんな愚行にならないことを祈っている。



別ルート                         百錢会通信 平成21年7月号より

㈱目白のレッスンの空き時間によく近所を散歩する。落合付近は静かで綺麗な住宅が多いので、見物して歩くと気分がなごむのだ。小さな公園も多いし、10分歩けば小鳥のさえずる小さな森ぐらいのところもあって、気分転換には申し分のないロケーションだ。

先日ものんびりと散歩していたら、20メートルくらい先の曲がり角を長唄の先輩が歩くのが見えた。確かその先の路地は袋小路だから、今度の空き時間に先輩の自宅を捜索してみようなどと、ささやかな冒険心が沸いてきた。

それで次の散歩で改めてその路地を歩いてみたが、とうとう突き止めることが出来なかった。何故なら袋小路とばかりに思っていた、車などはとても通れないその路地は、実は四方に通じていたからで、探検ごっこはあっという間に振り出しに戻されてしまった。

ところがその数日後、宅急便のお兄さんの元気な声の聞こえる方を何気なしに見てみると、紛れもなくその先輩の表札がかかっているではないか! 秘密の捜査はこれまたあっけない幕切れとなってしまった。ご自宅は駅の改札を出てから、二回交差点を曲がるだけで辿り着くという、実に分かりやすい場所にあったのだ。

ただ訝しいのは、先日お見かけした場所である。人だけが通れるようなその路地のコースを選ぶなら、駅から数えて少なくとも8回はクネクネと角を曲がらなくてはならないのだ。舞台のお姿の華やかさとは全く対照的というべき、内向的な別ルートの選択だ。

先輩は舞台だけでなく宴会芸でもヒーローだった。某長唄三味線教授がもしも野球の三塁コーチャーズボックスに立ったなら、などという設定で披露してみせる物真似芸は絶品で、宴はいつも爆笑の渦に巻き込まれたものだった。そういう人物の華が、落合界隈の家々の、つつましい庭木のすぐ横を通り過ぎて行く。舞台人にはそういう心のバランスのとり方をする人が多いのだろうと思うと、そこはかとない感慨が込み上げてきた。 



努 力                       百錢会通信 平成21年6月号より

「この店悪くないよ、だって見てごらん、店員に馬鹿面が一人もいないもの」。合奏練習の後、恒例の寄り道で暖簾をくぐるや否や友人はこう言い放った。予言通り、誠に機敏な店員の応対は清々しく、運ばれて来る酒肴はどの品も気のこもった美味だった。
 先の言葉は、裏を返せば世の酒場に如何に馬鹿面の多いことかと言わんばかりで、痛烈極まりない。私はこの友人の、何かにつけてシニカルなコメントに前から興味を持っていた。

そういえば一年も前にやはり同じような寄り道の際、彼がこんなことをつぶやいたのも今思い出した。「最近、高いヒールの靴を履く若い女の子は、みんな膝も腰も曲がってるのね・・・」ヒールの高い靴を履いたことはないけれど、踵を高くして膝を曲げないで歩くのは中々大変だということは容易に想像がつく。けれども毅然とした姿勢がぴんと伸びた膝を介して細いヒールに繋がってこそ綺麗な線が生まれるのだから、美しく見せたいなら筋力を鍛えて歩き方をトレーニングしなければならないのだろう。ハイヒールさえ履けば美しくなると思っている安易さを彼は冷笑するのだ。というより嘆いているようだった。

「努力」という言葉の価値がこれから加速度的に下がって行くだろうという観測は、以前から私も強く感じていたことだ。彼の言葉の皮肉も根底ではこのことにそのまま繋がっている。スペインの哲学者の予言が的中しているなら、民主主義の名の下に「努力」という行為を黙殺する恐るべき大衆は膨張して行く。中学の授業で教わった「人間は生まれながらにして人間らしく生きる権利を有する」という美しい(?)スローガンが、群集の無意識にどのように取り込まれたかを想像すると、ちょっと薄気味悪くなってきた。まして現代の商業主義が、努力という刺激から無感覚になった群集の動向を虎視眈々と見張り、如何に旨味を搾り取るかに血道をあげる非常のメカニズムだとしたら、尚のこと鳥肌が立つ。

ちょっと話が大袈裟になってしまった。安易な結論だが、まずはコツコツ尺八を精進努力して、先のような「悪くない店」を探して芸談義でもするのが、差し当たりまっとうな生活ではないかと思う。



新 緑 -2-                    百錢会通信 平成21年5月号より


 春と秋、年に二回だけ鎌倉で催される小さなサロンがある。私が大学で助手を務めていた当時に、大変お世話になったある教授が主催なさる、実に和やかな食事会である。もともとは、能、長唄、箏曲、尺八等、各専攻の助手の日ごろの労をねぎらいましょう!という先生のお声掛けで始まった食事会だったが、先生が退官なされてからはご自宅でのホームパーティーに変わったのだ。実に上品で季節感溢れる奥様の手料理に惹かれて集まると、思いがけず懐かしい顔ぶれに遭遇できるので、それがまた格別の楽しみだ。だから余程のことが無ければ休まずに出席することにしている。

 開宴はいつも決まって午後の四時過ぎ、日の暮れぬ内に始まる。先日も穏やかな良い天気で、電車の窓から見える若葉の緑が清々しかった。先生ご夫妻の笑顔と、友達と、お料理にお会いするのが楽しみで、ちょっと童心に返ったような、わくわくした心持になる。

 ところが私は何故か、鎌倉という地を訪ねると独特の緊張感に襲われる。小学生の時、父に手を引かれて鈴木大拙の墓参に東慶寺を訪ねた時もそうだったし、友達とただ騒ぐだけだった中学の退屈な遠足の時ですら、そう感じたものだった。多くの侍の血が染み込んだ、武家社会発祥の地であるという思い込みの所為かも知れない。何か油断のならない妖気の漂うと言うか、一寸先に闇があるような気がしてきてならないのだ。

 やはり学生時代にご指導頂いた、別のある先生も鎌倉にお住いだった。とても立派なご自宅とお聞きしていたが、数年前に私が初めてお訪ねしたのは、なんと先生ご自身のご葬儀だった・・・。とても身体の丈夫な印象の先生であっただけに、突然の訃報に愕然とした。「朝の紅顔は夕べの白骨」という一節をこれほど痛切に思い浮かべたことは無い。

実は昨年の夏に先生も大きな手術を受けられた。先の記憶も生々しかったので、友人を通じてその知らせを聞いた時は本当に身体が凍りついた。どうかご無事でありますようにと何度も心の中で念じた。

そんなわけだから昨年の秋のサロンは中止と覚悟していたら、驚くことにご案内の通知が届いた。お会いするとさすがに体重を落とされていたけれども、気は衰えていないと感じた。眼に力がある。痛快という言葉がこれほど似合う笑い声の持ち主はいないと思う。先生のその笑い方が少しも変わっていなかったので、ほっと胸をなでおろしたものだった。

今年の春も変わらぬ笑顔で迎えて下さった。会の名前は奇しくも「若葉サロン」という。夜も更けて、次回秋の予定を手帳に記して散会となった。こうして鎌倉行を重ねる度に、若葉の緑の美しさは私の心の中で深まって行くに違いない。



「待つ」ということ                  百錢会通信 平成21年4月号より

 俳優の仲代達矢が「役者っていうのは、常にウェイティングなんです」と言っていた。役が付くのをひたすら待つ生き物であると。俳優の宿命を語った些細な一言だけれども、妙に忘れられない言葉だ。
 梨園の貴公子なら、待つ暇もなく次から次へと役が付くのだろうけれど、多くは依頼の連絡を待つ無名の役者達だ。私は芝居ではなくて音楽だけれども、やはり同じ舞台に立つものだから、彼らの一喜一憂を少しは分かるような気がするのだ。
 ところで役の付かない俳優は毎日何をしてるのだろうか。演奏家ならば例え舞台にかける曲がなくとも、発音や運指の基礎練習など、毎日欠かすことができない日課がある。それに古典というレパートリーなどは、演奏家に生涯をかけての反復と鍛練を要求するシロモノである。やるべきことは山のようにある。そこで演奏家のそれに対応するような、役者の自己鍛練のメニューがあるのなら、ちょっと聞いてみたい気がして来た。案外、演奏家にも役立つことが多いかも知れない・・・などという淡い期待があるからだ。
 一言で表現者と言っても、例えば役者と演奏家ではそれぞれの立場というか、構えはずいぶんと違うものだ。でも逆に、画家であろうが詩人であろうが共通するものは必ずある。それは一も二もなく、自己の内面に「育つ」ものと常に向き合わなければならないということだろう。この心の奥深くから溢れる泉が、音となり色となり言葉となって立ち現れる時に、それを美と呼ぶのだと思う。
 ここで私は「育つ」という言葉遣いを敢えて強調しておきたい。決して「育てる」のではない。なぜならあの純真無垢の輝きは、必然の結果にのみ備わるのであって、「育てる」という作為からは決して生まれて来ないからだ。だから表現者は、自己の孤独な内面の中に何かが「育つ」のをひたすらじっと待たなければならない。
 最後は必ず「待つ」という言葉に辿り着く。仲代達矢の先の一言にも、こんな思いが込められていたと思う。 



誕生日                          百錢会通信 平成21年3月号より

大阪の栄光時計の小谷さんは経済人でありながら、こよなく芸術文化を愛する、実に楽しい方だ。あるイベントで知り合ってから御交誼頂いてはや十数年になる。大阪で公演がある時は我が家を常宿にと言って下さるのを真に受けて、図々しくお邪魔させていただいたのが、今回で二度目である。

御自宅から車で30分も走ると有馬温泉なので、翌朝は今回も日帰り温泉に誘って下さった。道すがら目に映るあれこれを旅人の私に小谷さんは丁寧に説明して下さる。その“観光ガイド”で意外に思ったのは奈良の薬師寺の話だ。こんなところに別院でも何でもない土地を薬師寺が所有しているというので、ちょっと不思議に思った。けれども、前管主の故高田好胤師の経営手腕は有名だったから、大方“ビジネス”の一環であろうと、勝手に合点したのである。

高田好胤師の名を知っていたのは、師匠の橋本凝胤師が神如道と交流があったという話を父から聞いていたことと、私が小さいころ愛読していた「父母恩重経」の法話に高田師が非常に力を入れていたことに拠る。書店で「父母恩重経」の表題を見つけると、著者は決まって高田好胤だった。

話を戻して、意外に若い人で賑う有馬の温泉街。とある上品な佇まいの和食店で昼食をご馳走になった。そこで大阪在住のチェロ奏者の林さんを小谷さんに紹介していただいた。何とも言えず穏やかな方という印象だ。ヴァイオリン奏者の奥様も素敵な方で、気楽な音楽談義に花が咲いた。

私は林さんの人柄に接してふと、兄の高校時代の同級生だった、チェロ奏者の溝口肇さんのことを思い出していた。同じように穏やかで、どこかナイーブなところがあったように記憶している。私自身は溝口さんと親しく会話したこともないのに何故そう思っているのかというと、それは兄の誕生日に溝口さんがプレゼントしてくれた音楽テープからそういう印象を強く受けたからだろう。兄がそれを部屋で流すのを、いつしか私も引き込まれて何度も繰り返し聞いていた。お気に入りの曲と溝口さん自らのメッセージが編集されていて、しかも音響はわざわざ幻想的な深い残響に調整されていて、当時の高校生にしてはかなり手の込んだものだった。優しくてどこか傷つきやすい人柄を良く映し出しているように感じたのだ。

その中に高山厳という歌手(当時は演歌路線ではなかった)の「忘れません」という曲が入っていた。幽明を隔てた母を恋うる唄である。誕生日のプレゼントにこういう曲を選ぶ人なのだ。先の高田好胤師はお得意の法話「父母恩重経」の中で、誕生日は己を祝う日にあらず、母に感謝する日と心得可しと力説していた。この“高田節”も涙を誘う名調子であったけれど、音楽に託した溝口さんの-恐らくは無意識だったであろう-誕生日への思いもまた、そこはかとない切なさと人恋しさに満ちていた。



寿老人                          百錢会通信 平成21年2月号より

 小学生の頃、我が家に毎週のように遊びに来た尺八好きの知人は、また無類の酒好きでもあった。酔いつぶれて寝込むようなことは決してなかったけれども、ご機嫌の千鳥足はかなりのものだったので、帰り道はよく狛江駅まで送って行ったものだった。

 ある時もしたたか酩酊していて、手から煙草がすべり落ちたのに気付かずに畳が焼け焦げてしまった事があった。人間ここまで酔うものなのかと、普段大酒飲みに接することの少なかった母は目を丸くして驚いていた。幼心に不思議に思ったのは、畳を焦がされたことに母が腹を立てている風がなかったことである。腹を立てるのを忘れる程に、目の前の “酔人”の生態にびっくりしていたのであろうか。

 ずいぶん長い間その焦げ跡はそのままだった。“破れ障子に隙間風”、もともとそんな小さな焦げ跡が気になるような家ではなかったのが、母の無関心の本当の理由だったのかも知れない。“破れ障子”で思い出すのは家中のボロボロの襖だ。穴があけば経師屋を頼むでもなく、父が自慢の筆をふるって良寛の詩などをしたためて、それを“補修剤”としていた。他には禅画のカレンダーの絵だけを切り抜いたものなどがベタベタと貼り付けられていて、今思えばかなりアバンギャルドな空間だった・・・。

 中でも一番鮮烈に覚えているのは寿老人の画だ。仙崖ではなかったかと思う。賛の文句もはっきりと思い出せないのだが、確か「年明けて いくつになるか 寿老人」というようなものだったと思う。寿老人は福禄寿と同一起源とも伝えられ、もともとは道教から流れ込んだ、日本の七福神の中でもっとも長寿の神様だろう。数千歳というのだからそれだけで愉快な話だ。

けれども何故そんな画が忘れられないのか、今になって考えて見るのである。数千年も生きているから歳を忘れたという、それがどうしたというのだ。

天に向かって長く突き出した大きな頭の下の、小さな笑顔に惹かれたのだ! あれは己の長生きを慶ぶ顔ではない、時間という分別を超えて自ずからこぼれる微笑だろう。無限の優しさが溢れて見えたのだけれど、どこかに涙も隠れているように思えてならなかった。私の自由というもののイメージはこんなところに原点がある。けれども憧れているばかりでちっとも手に入らないものだから、今も忘れられないでいるのだと思う。

ふたたび“酔人”を思い出して見る。狛江の駅で見送る時、件の仙人の笑顔はちょっと寿老人に似ていなこともなかった。言われるまでもなく、成人してその真似事を私は何度も繰り返して見たけれど、出来ることなら般若湯の力は借りずに、竹を吹いて仙境に遊んでみたいものだとつくづく思う。今年もいい気になって屠蘇を戴き過ぎた反省の一言まで。



新人賞を頂いた年に               百錢会通信 平成21年1月号より
 私は今、何故尺八を吹いているのだろう? 年頭からコ難しい問いかけの積もりはない。「風が吹けば桶屋が儲かる」式の、只その因縁を徒然に遡ってみようと思っただけだ。

 父(昭三)に誘導されて小学生の時は既に、尺八の稽古と禅の講釈に耳を傾けることが私の生活の中心になっていた。父が何故尺八にのめりこんでしまったかといえば、それは神如道という尺八家に出会ったからだ。父にとって神如道は尺八の「技術屋」ではなくて、尺八という一つの「思想」である。

 では何の因縁で神如道と出会えたのかというと、そこに安岡正篤の存在があった。安岡は戦時下、東洋思想に基づく草の根の指導者(農士)の育成に努め「日本農士学校」を設立したが、神如道は安岡の依頼により、受講前の塾生に普化尺八をよく吹いて聞かせたのだという。父の兄、つまり私の伯父がこの農士学校の生徒で、父が伯父に弁当を届けた折に偶然、神如道の尺八を耳にした。落雷の如き衝撃を受けたようだ。

 神如道の尺八は禅や東洋思想的な雰囲気を醸し出す、一種独特の風であったようで、想像するに華やかな筝曲や三味線との合奏曲の世界に、その支持者を増やすことは困難であったと思う。時に世界は互いに喰うか食われるかのパワーゲームの真只中。危機にさらされたアジア諸国を憂う安岡正篤と神如道との接近には、何か時代的な巡り合わせを感じないではいられない。そこに少年の昭三がひょいと顔を出してしまった。辿り辿れば、それが私の尺八の始まりでもあったのだと思っている。

 1929年、世界中を恐怖に陥れた株の大暴落はアメリカに起こった。この経済危機をアメリカは戦争で乗り切ったとは言えないだろうか。その戦争で計り知れない血と涙が流れた。この時代に私の尺八のルーツがあるのだから、私自身は誠に平和で幸福な人生を歩ませて頂いて来たけれど、父を通して悲しみの色は体のどこかに組み込まれているはずで、好むと好まざるとに拘らず、私の尺八からそれが消えることはないと思っている。

 昨年は文化庁主催の芸術祭に初めて参加、44歳にして新人賞を頂いた。これからが大切であると思わずにはいられない。一つの大きな節目に違いないのだ。奇しくもその年に不穏な株の暴落がまたしてもアメリカに起こった。80年前の忌まわしい歴史の反復とならぬことをひたすら祈るばかりである。そう念じて尺八を吹いていこうと思う。 



バカヨウジ                         百錢会通信 平成20年12月号より

 ついうつらうつらと居眠りして、そのほんの短い間に奇妙な夢を見た。どうも宴席で演奏をしたようで、場面はちょうど舞台からテーブルに戻ってきたところだった。常套句の賛辞を頂いてさぁ食事を頂こうとした時に、同席の主催者が是非当会に入会して下さらないかと執拗に勧誘してきた。すると夢と現実がごちゃ混ぜになってしまったのだろう、夢の中でも猛烈な眠気に襲われて朦朧としながら手続きの書類に名前を書いてしまった。少し正気にもどってその書類を見ると、何と自分の名前を「馬鹿養寺惠介」と書き込んでいて、ビックリしたところで眼が覚めた。

 「善養寺」の「善」をすげ替えた仇名は、「つまようじ」に始まって随分と沢山の創作を賜り、小学生のころは常にからかわれたものだった。私は丸坊主頭にさせられていたのでまずは「ハゲ養寺」。誰かが「なまはげ」という鬼の名前を仕入れて来てからは「生ハゲ養寺」となってそれが大流行した。当時ビールの宣伝で「純生」というフレーズが多用されていて、「純」と「善」が似ているというので「善生ハゲ養寺」となり、ここに完成を見た命名者達は痛快極まりなしとばかりに笑い転げていた。

 そういう時に私の父は、どんな仇名でも物事を大局から見ればそれは友達の好意の一変種であるから、笑顔で受け応えるようにと私に言い含めた。私は素直に従ってその通りにすると、肩透かしを喰らった友達はだんだんに私を超越的な聖人として崇めるようになっていった・・。

 それからはクラスの「神様」「仏様」。聞くと父も「サマ爺」(ジイ様のこと)と呼ばれて、「ムラ」の長老に祀り上げられていたそうだ。

 私の師匠の岡崎師に「善養寺という名前に何かの力があることを忘れるな」といわれたことがあるが、善きにつけ悪しきにつけ、先祖の業を背負って生きていくものなのだ・・・という感慨が深くなってきた。夢の中で「馬鹿養寺」とくだけて見たのは、「善養寺」から少し休憩してみたかったのだろうか。夢分析に詳しい方からのご高見を賜りたいと思っている。



リサイタル雑感                    百錢会通信 平成20年11月号より

 いつのころからか、会報の巻頭言を「だ、である」調で書くようになっていた。「だ、である」だと、どこか断定的というか独断的な感じがして今だにしっくり来ないが、かといって「です、ます」だと、私の気の弱さというか、自信の無さみたいなものが滲んできて、主張に力が無くなる。いつのまにか「だ、である」を選んだのは会員諸氏に向けて虚勢を張ろうとしている無意識が働いたのかも知れない。結局は私自身の腹の据わり方の問題で口調はどうであれ、これからも自分の心のうちは飾らず、素直にありのままを現して行きたいと思っている。

 先日の私の演奏会は空きが数席しか残らない驚愕の大入りで、今でも信じ難い嬉しい大誤算だった。百錢会会員諸氏をはじめとするご支援下さる皆様のお陰で、これはとても「だ、である」で御礼申し上げるわけにはいかない。

初めての芸術祭参加公演に際しましては、ご友人やご家族など、沢山のお客様を同伴下さり、会場の雰囲気を大いに盛り上げて下さいました。本当に感謝の念に堪えません。勿体無いことです。幾重にも幾重にも御礼申し上げます。

 何度立っても舞台は緊張して震えてしまう。何か良い方法はないかと諸先輩に教えを乞うた。答えは一つ、無心になるということだという。けれどもこれほど厄介なことはない。いい演奏をしたい、格好良いところを見せたい、そういう邪心を無くそうとしても、開演の時間が近づくほどにこの妄念は怪物のように膨らんでくる。そういう自分に嫌気が差してきたりもする。動揺がおさまらぬままに何とか吹ききって、幕が下りるとどっと冷や汗をかく・・・。そんなことの繰り返しが続いてきた。

 「妄想の怪物」がもっとも暴れまわると予想された今回の舞台、これを回避する糸口を少しだけ掴んだような気がしている。正確には“回避”ではなくて“向き合う”ということかもしれない。毎月の坐禅の指導をして下さる小菅和尚のお言葉がヒントになった。それは「妄想に集中するという方法もある」ということだった。

 もちろん理屈ではなく、心というか体まるごと自分が自分の中に入っていくというような感覚で、それは不思議な静けさに満ちている。そういう心境に興味を引かれはじめた矢先に、私は次のようなある詩人のことばに出会って思わず涙がこぼれそうになった。

 「あなたは御自分の詩がいいかどうかお尋ねになる。あなたは私にお尋ねになる。前にはほかの人にお尋ねになった。あなたは雑誌に詩をお送りになる。ほかの詩と比べてごらんになる、そしてどこかの編集部があなたの御試作を返してきたからといって、自信をぐらつかせられる。では(私に忠言をお許し下さったわけですから)私がお願いしましょう、そんなことは一切おやめなさい。あなたは外へ眼を向けていらっしゃる、だが何よりも今、あなたのなさってはいけないことがそれなのです。誰もあなたに助言したり手助けしたりすることはできません、誰も。ただ一つの手段があるきりです。自らの内へお入りなさい。あなたが書かずにいられない根拠を深くさぐって下さい。それがあなたの心の最も深い所に根を張っているかどうかをしらべてごらんなさい。」

 舞台でライトを浴びて深々と頭を下げれば、頭の地肌が随分目立ってきたねと笑われる歳になった。四捨五入すればもうすぐ五十という齢の私が引用した先の一文は、リルケの「若き詩人への手紙」である。

 



忙中の閑                        百錢会通信 平成20年10月号より

 先月からずっと忙しい。やってもやっても次から次へと事務仕事が湧いてきて、永遠に続くような気分になってきた。もちろん私より数倍手際の良い家内やお弟子さん、友人が大奮闘してくれるけれども、それでも終わらない。

演奏会のチラシ作り、案内状、招待状、合奏の予定調整、下合わせ、ホールの打ち合わせ、入場券販売、打ち上げの手配、お礼状、講習会の資料作り、教材の録音、楽譜の作成、結局原案は主催者が作らなければならないから、いくら手伝ってもらってもその部分の仕事は決して減らない。つまり最近の慌しさの原因は自分が主催する企画が多くなったことにある。

「忙中に閑有り」という言葉があるけれど、出典がはっきりしなかったのでインターネットで調べてみた。するとこの言葉を引用したページばかりが検索されて、肝心の出典にはたどり着くことが出来なかった。それだけこの「忙中閑」は広く流布しているというわけだ。私のおぼろげな記憶では、陽明学者の安岡正篤の書物に紹介されていたような気がする。あるいは安岡正篤自身の言葉だったか・・・。「死中に活有り」といったような、同じ韻を踏んだ言葉の集まりの中の一つだったと思う。

辞典で調べると「忙しさの中にもゆとりはあるものだ、あるいはゆとりを持つべきである」とあるが、これではお粗末な解釈だ。「閑」という一字に込められた思いはそんなふやけたものではないだろう。もっと気迫に満ちたというか、稟とした静けさでなければここに東洋好みの人物像が浮かび上がってこない。粛々と激務をこなして静寂を漂わすなんて、どこかニヒルな感じもして格好良いではないか。

 けれどもこれは飽くまでも「道徳的ヒーロー」であって、宗教的境地とは一線を画するように思われてならない。毎月一回、法身寺で「一音成仏」を念じて坐っている諸氏ならば、きっとこの思いに共感してくれると思う。「忙中有閑」でなくて「忙即閑」でなくてはならないと。

 しかし現実の自分はつくづく情けない。気が付くと忙しいのはカナワン、イヤダ、イヤダとわめき散らして暮らしている。先日、仕事仲間の田辺頌山さん(都山流尺八)に「それでもお酒を飲む時間はあるんでしょう!」と笑われて、その時私は全く口答えが出来なかったので、そういう自分が一番お粗末だと、苦笑するしかなかった。



真面目                          百錢会通信 平成20年9月号より

 一口に真面目といっても、融通の利かない糞真面目もあれば、道徳的な真面目もあるし、社会常識人としての真面目さ等々、表面的に分けて見れば色々な真面目があると思う。ところが私の仕事を手伝ってくれる寡黙な友人のNさんは、思い浮かぶその分類のどれにも当てはまらぬ“真面目人間”だ。

 「ジブンヲカンジョウニ入レズ」という有名な一節があるけれど、それがこれ以上ないというほどに、この人にとっては当り前となっている。口数が少ない。余計なことを口走るとまわりに要らぬ迷惑を掛けるかも知れないという自重が強く働いているようだ。畢竟生ずる膨大な沈黙の時間にNさんの内省的な思索は繰り返されたに違いない。その形跡が少ない会話の言葉の端々に感じられるので、私はそれに強く惹かれて、仕事の打ち合わせが終わるといつしかNさんと四方山話したさに迷惑も顧みずについ一杯誘ってしまう。

 先日も私が無理矢理すすめたビールグラス片手に、Nさんは最近仕事で訪ねた小さなレストランでの話をしてくれた。たまたま尺八の話題になった時、その女性オーナーは、子供のころ父親が枕元でよく尺八を吹いてくれたのが懐かしいと、述懐したというのだ。ただそれだけの話だけれど、いまどき子守唄代わりに尺八を聞かせる父親の姿など想像だにできないものだから、私は思わず目を丸くしてしまった。もっと目を丸くしてしまったのはNさんの些細なコメントだ。「映画『警察日記』の1シーンみたいですね・・・」。聞くと主人公の森繁久弥が枕元で「千鳥曲」を吹いて子供を寝かしつける場面があるそうだ。

この映画は1955年が初公開だからかなり古いものだ。偶然というか、原作者の伊藤永之助は実は私の義姉の祖父にあたる人で、その縁があったからリバイバルで私も見たことがあるけれど、我々の年代でこの映画の一シーンを咄嗟に思い出せる人はそういないと思う。恥ずかしながら私は尺八吹きであるにも拘らず、そんなシーンは全く失念していた。Nさんは、50年の月日を経て日本の民衆の生活が如何に激変したかを、この尺八のシーンを見て鋭く心に焼き付けたのだろう。

石川県という土地は、人の心をして何かを深く掘り下げずにはおかない空気があるのではないかという先入観が私にはある。この土地の輩出した数多くの文化人の中に、父の敬愛して止まない鈴木大拙があることがその理由だ。Nさんも能登の生まれだと聞いて、きっとその土壌に培われた人だと思っている。

そこで私は石川県に話を振った。同県出身の画家に鴨居玲という人がいて、私はこの人の痛切な作品がとても気になって仕方がないとNさんに話した。確か鴨居の先生も金沢出身の人だったと思うけど、名前を忘れてしまったと告げると、Nさんはその場でネット検索してくれた。「宮本三郎という人だ・・・、戦争画も書いてるんですね、あっ“撃ちてし止まむ”もそうだったのか」「“撃ちてし止まむ”って・・・?」「日劇の大ポスターですよ」

そう言われてようやく、戦争記録映画か何かで目にした記憶がボンヤリとよみがえって来た。こんな風にNさんとの会話はいつもとりとめもなく横道それて、それが実に楽しい。断っておくけれど決してマニアとか好事家の類の人物ではない。歴史や文化というものにいつもその精神が“真面目”に向き合っているのだ。

翌日早速こんな短いメールが届いた。「ところで、宮本三郎の「撃ちてし止まむ」ポスターですが、ネットで検証するかぎり、日劇の巨大のものとは別のカラーのポスターも出てきますので、日劇のは違うのかもしれません。」 どこまでも“真面目”に応対して下さるのにいつも頭が下がる。



箒が飛ぶのか、人間が飛ぶのか      百錢会通信 平成20年8月号より

 もう十年も前になる。娘が、庭でウンウン唸りながら箒にまたがって、一生懸命に空を飛ぼうとしていたことがあった。そのあまりに真剣な姿に大人は涙を流して笑った。

 「魔女の宅急便」というアニメーションを見て、真剣にのめり込んでしまった故の、幼くて純真な愚行であるけれど、なんで箒が飛ぶのだろう?という仕様もないことを、大人の我々でも、何故か不思議と考えたくなるような作品だった。

 制作者の宮崎駿も対談でそのことに触れていて、何故に箒は飛ぶのだろうということはかなり真面目に考えるのだという。だから物語の初めにはなかなか飛びそうもない、そのまま箒の絵がある。ところが段々その箒に浮力が生じてくる訳だ。面白いと思ったのは、魔女は空飛ぶ箒に乗るのではないのだという宮崎氏の指摘だ。なぜなら箒だけが浮いて魔女自身に浮力が生じなければ、痛くってとてもじゃないが長時間またがって飛ぶことなど出来るわけがないではないか、と・・・。

 箒を触媒にして魔女自身に浮力が生じてくるのだ。物語の中で、一度魔力を失った魔女が力を取り戻し、再び我が身に浮力を生ぜしめるその場面には、このアニメーターの異様なまでの力が込められていたように思う。だからこそ私の娘もやって見ようという気になってしまったのだろう。

制作者スタッフの心の中の「なんで箒が飛ぶのだろう?」という当初の疑問は、この場面の“儀式”を通過していつの間にか雲散霧消してしまったようだ。絵筆を握るものの心の中で、この浮力を生じた箒と魔女が、最早当たり前のように一体となって、動画の中の主人公は、初めて空を自由自在に駆け巡るのだ。

 竹筒である尺八を箒の棹に喩えたら、先達の虚無僧に怒られてしまうかもしれないけれど、私は久しぶりにこのアニメーションを見て、魔女の箒の浮く原理を尺八に置き換えてみたい衝動にかられたのだ。尺八の音に浮力が生じる。それを触媒に吹くもの自身にも浮力が生じて、自由の世界に飛び立つという図式は、決して机上の空論ではないと思う。

 



浅草三業組合                     百錢会通信 平成20年7月号より

最近共演させていただいたお囃子の方の都合で、先月は浅草へ足を運ぶことが多かった。芸大からも近いこの賑やかな街が、私は学生の頃から好きだったので、内心下合わせの日を楽しみにしていた。

ところが、何回通ってもいつも人が少ないのに拍子抜けした。休日や縁日でもないから当然と思われるかも知れないけれど、学生時代、私の浅草の印象は年中朝から晩まで人がごった返しているというもので、それを思うとビックリするくらいに閑散としたものだ。一度夜の八時ころに仲見世通り界隈の飲食店街を通り抜けたけれども、千鳥足の酔客などトンと見かけない。活気がないというより人間がいないという空気だ。浅草に暮らしている人自体が少なくなってしまったのだろうか。

下合わせは浅草寺裏の見番の一室をお借りした。入り口のガラス窓に浅草三業組合と書かれていて、さすが浅草、日本の花里文化健在かと思ったけれど、聞くとこの業界も風前の灯らしい。この世界には縁が薄くて気がつかなかったけれども、つい最近、柳橋の灯も忽然と消えて世間の話題にもならなかったという。そういえば学生時代に同じように赤坂の見番の一室を借りて練習したことがあったけれども、その建物もその直後に取り壊されてしまった。

浅草寺界隈の路地は江戸門前町の情緒を演出するオブジェを散りばめて随分と綺麗にリメイクされたが、私はちょっと違和感を覚えた。お囃子の友人はそれをウマイ言葉で指摘した。「浅草は日光江戸村みたいになって欲しくないんだよね・・・」

友人は加えてもう一つ意味深い言葉をつぶやいた。「浅草は観音様の信仰があってこその賑わいなのに」と。

商業主義が根こそぎ文化の形を変革していくことは間違いない。背に腹は変えられぬとばかりに観光ビジネスに撃って出て街は偽物の装飾で満ち溢れる。貨幣経済は人間の作り出した便利なシステムだったのだろうけれども、実体を伴わない莫大な貨幣が目にも止まらぬ速さで地球を駆け巡る時どういうことが起こるのか、ここまで異常な世界を誰が想像しただろうか。「金」という人間の作り出した「化け物」に自分が滅ぼされる歴史の中の、今は中期なのか末期なのか、私にはわからない。できることなら末期であってほしい。これ以上の深みがないのなら、腹をすえて立ち向かう気力も湧いてこようというものだ。しかし現実はそう甘くもなさそうだ。

政財官の若いエリートは精々カラオケの喉を鍛えて、クラブの麗人に日参するのだろう。本物の芸を鑑賞できる粋人の客は次々と鬼籍に名を連ねる。もしかするとあの世で、閻魔大王をお茶屋にご招待、芸者をあげてまさしく浮世離れの大宴会でも催しているのだろうか。どの道、私には縁の薄い世界であるけれど、その根本の事情を知れば、あながち対岸の火事と、あぐらをかいてはいられないのだ。



夜雨                            百錢会通信 平成20年6月号より


 夜、明かりを消して湯舟につかるのが今お気に入りの気分転換だ、という誰かの話がラジオから流れて来て、世の中同じようなことを考える同類の仁はいるものだと、思わず失笑してしまった。夜中に真っ暗の浴室なんて気味悪いじゃないかと家人は呆れるけれど、薄暗くて何もかもぼんやりとしか見えない空間は、意外に心がほどけるものだ。ついでに窓から月の明かりでも差し込んでくれば他に言うことはない。

これから梅雨を迎えるから月夜は期待できないけれど、風呂につかりながら雨の音を聞くのも私は好きだ。特に林の樹木などに降りつける雨音は都会のそれとは違い、響きが柔らかでしかも神秘的な奥行きがある。群馬の稽古場は山林の中だから、泊りがけの稽古が生憎の雨天でも、それはそれでこうした楽しみがある。自然の音楽に時折耳を傾けることができるのは幸福なことだ。

思い起こせば私は幼少の頃から、家の中にいて雨の音を聞くのが好きだった。ちょうど鬼ごっこで安全地帯に逃げ込んだ時のような気分で、大粒の本降りにでもなれば尚更、今の自分の居場所が雨の「攻撃」から守られているように感じられて、そんな他愛もないことに、小さな胸を小躍りさせたものだった。ところがそんなワクワクするような気分がずっと長続きするわけもなく、ささやかな心の高揚が鎮まってくると、やがて雨音の中に妙な静けさが感じられて来くるのだ。群集の中にあって却って孤独を募らせるのにもどこか似た気分で、何でそんな気持ちになるのだろうと子供心にも不思議に思ったものだ。これも一種のアンビバレンスというのだろうか・・・。

織田有楽斎の建てた「如庵」という有名な茶室の写真を見た時、こういう屋根の家に住んでみたいものだと、無性に思ったことがある。確か高校生の時だったと思う。今やこの歳になれば、私のような財力ではとてもとても手の届かない家屋だという現実を思い知らされたから、もうそんなことを夢見ることは無くなってしまったけれど、写真を見るとやはり当時の気持ちが少しだけ甦って来る。「柿茸(こけらぶき)入母屋風」というそうで、要は樹木の表皮を葺いた屋根に私は憧れたのだ。

父はいわゆる草庵にこだわりのある人物だからそのことを話してみると、その時意外な答えが帰ってきたのを良く覚えている。「惠介なぁ、あの屋根は雨の音が格別なんだ・・・」。見た目の風情に感激して話しかけたのに、その応答の一言は、幾重もの心の襞を通り抜けて来たことが察せられて、私は黙ってしまった。だから父がどこでそんな経験をしたのかというような、枝葉の話はその時に聞かなかったけれど、大方、虚無僧の旅の夜露を凌ぐために忍び込んだ、当時はまだ長閑に残っていた無人の庵の中に、?葺、桧皮葺の類のものがあったのだろうと見当をつけている。風呂もなければ、もちろん電気も無い。



新緑                            百錢会通信 平成20年5月号より

                                  
 
桜が散って連休の近づく頃、目に映る若葉の緑に私の心はいつも踊り出してしまうのである。それで何度も繰り返して同じことを会報の話題にして来て、内心それが何となく芸がないような気がしていたけれど、いっそのこと毎年五月号の題は「新緑」にしてしまおうかという気になって来た。「年年歳歳花相似たり、歳歳年年人同じからず」というけれど、そう遠くない過去から今に至る、己の心の内の移り変わりというものは、自分ではなかなか気づかないものだと思う。ここでは花ではないけれど、毎年変わらぬ緑への思いを書き記し続けていれば、わずかな心の変化に気付くことが出来るかも知れないという実験を思いついたのだ。

 さて本題。百錢会の有志十数名と上野村の御巣鷹山に登ったのは、もう6年も前のことだ。雲ひとつ無い好天に恵まれて、この上なく清清しい五月の空気を満喫した。吸い込まれるような青空の下で、まさに萌える新緑に包まれた時は、本当に神様のご褒美に感謝したい気分だった。ところで、その時の楽しい思い出の中で、最近やけに思い出されてならないのが、落葉松の新緑だ。

 一枚一枚はとても小さな葉だったと思う。山道で見上げるその葉は割合に近くで見ているのに、枝と葉の繋がっている部分がどうもはっきり見えない。すると無数の葉の若い緑が、幹の回りに絶妙な距離とバランスを保ちながら浮遊しているようで、その姿はなんとも言えず幻想的だった。

「宙に浮く」という言葉が鍵だ。そう思ったら、同じような言葉を口にした、複数の知人との会話が一遍に蘇ってきたので、それを思いつくままに記しておく。

その一。つい先日発表したZEN YAMATOのCDの中に「秋風曲」が収録されているけれど、箏の山登松和さんは、初めての合わせの時に、歌いだしの「求むれど」というところに苦心していると仰っていた。「下からすり上がるのでもなく、押し出すのでもなく、フワっと浮くように唄いだしたいんだよね・・・」、と。あれから何度もこの曲を舞台で共演させて頂いたけれど、山登さんは少しずつその目標を実現してくれるものだから、私もつい嬉しくなってしまう。

その二。「虚無尺八」の照明の演出をお願いしている、小澤明彦氏の談。「明りはね、立て役者を板(舞台の床のこと)から浮かすことができたら成功。でもこれが中々出来ないんだ・・・」

その三。かつての虚無僧研究会の重鎮、故岡本竹外先生は、虚無僧についての話題が無尽蔵で、興に乗って話し出すと終わらなかったけれど、時には三味線のことを語られることもあった。「川瀬里子の三絃は凄いと思ったね。音がね、宙に浮いて目の前を通り過ぎていくのが見えるんだから!」こういう断定の言葉は何度思い出しても愉快でならない。

番外。私の周りで「霧海?」という曲をいい曲だと言って、大事に教えてくれた人はいなかったけれど、なのに私がこの曲が好きで仕方なくなってしまったのは、霧、すなわち小さな水の粒子が立ち昇る様を思い描いてこの曲を吹いていると、その内に自分が浮き上がっていくような気分になってしまうことが度々起こったからだ。もっともそれは、今よりずっと呼吸法が未熟で、酸欠による軽い目眩の所為だったかも知れないけれど・・・。

宙を舞う気分の良さに理屈はない。それは子供が夢中でブランコに揺られ続けるのにも少し似ていると思う。

そういう訳で以来この季節は、街中でも小さな葉の樹木があるとつい目が向いてしまう。緑が宙に浮いている空間。その中に佇んでいると、ある瞬間に、時空を横滑りして異次元の世界に迷い込んでしまわないだろうか、などという、更に子供じみた妄想が膨らんでくることがある。笑われてしまうだろうけれど、私はそういうことを真面目に感じ続けたいと思っている。



柿島屋 -4?-                  百錢会通信 平成20年4月号より

町田に「柿島屋」という馬肉専門の居酒屋があることは、以前にもこの会報で何度か話題にしたことがあったと思う。それで今回が何回目になるか失念してしまったので、回数に?をつけて、懲りもせずに今月も酒場の話である・・・。

この店を教えて下さったのは、私の二人の恩師である。一人は相模原市在住の小学校時代の担任で、もう一人は高校の書道の先生である。小学校の恩師は「飲み師」の選ぶ酒場の定石としてこの店を教えてくれたので、もちろん共に暖簾をくぐって、ここでは何を肴に(といっても馬肉以外に無いのだが)何を呑むべしと、有難い実地のご指導を頂いたものだった。

ところがもう一人の先生は、暖簾の内側に興味は無し。入り口に掲げられた看板の書は一見の価値ありと、正規の授業の中で教えて下さったのだ。隷書体なので、流石に「馬」の文字が含まれているのはわかるけれど、あとは何が書かれているかさっぱりわからない。けれども格調の高さと筆勢の力強さは理屈抜きに伝わって来る。以来この店に入る時は、先ず足を留めてこの書を眺めるのが習慣になっている。つまりは二人の恩師の教えを、私は今も真面目に守っているのだ・・・。

中はいたって大衆の酒場だ。店内は改装されてすっかり近代的になったが、それでも昭和の雰囲気は色濃く残っている。だいたい「梅割り」とか「ホッピー」などという酒が堂々と御品書きに名を連ねているのは、その昔、焼酎が清酒などに比べて格段に安かったころの庶民の趣向を、今に残している動かぬ証であろう。こういう店には仕事帰りの一人客が絵になる。黙って酔いを楽しんでさっさと帰って行くという具合に・・・。

ところが近年に拡張した店内は、グループ連れの客で大層賑わっている。奥には掘り炬燵式のテーブル席もあって、ここは料金が割高になるというのに結構埋まっているのだ。ある日そのテーブル席で、御歳八十も越えようかという、同期会といった雰囲気の五、六人連れが、静かに盃を傾けていた。じろじろと見るわけには行かないけれど、私はこの店の客の姿を眺めるのが好きなのだ。さて安い席に陣取った私の向かいには、客筋の“王道”を行く、定年も近づいた風のサラリーマンが一人、目をつぶって美味そうにコップ酒を飲み干していた。その前をほろ酔いに仕上がった、先のテーブル席の一団が通り過ぎて行こうとした時、突然その一人客は直立して「先生!」と声を掛けた。恩師に偶然出会ったという状況らしい。お得意の客や上司にも、ここまで深くは頭を下げないだろうというほどに、少々薄くなった頭を恥ずかしげもなく見せて深々とお辞儀する様には、彼の師に対する、一方ならぬ尊敬と感謝の念が滲み出ていた。一通りの挨拶を終えて一団を送り出し、居残った客がこぼれるような笑みを隠さず、上機嫌で酒を追加するのを見て、私は胸の奥が熱くなった。

近頃の学校の卒業式で「仰げば尊し」を歌うことは皆無に近いと聞く。現代の教育界を無責任に批判するつもりはない。ただ、この店にこんな光景が生まれることはやがて消えて無くなるのだろうなと予測されてしまうことが、少々淋しかったのだ。

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