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随 筆



考えたらアカン                百錢会通信 令和7年1月号より

 年の初めのご挨拶という習慣が減り始め、年賀状の遣り取りが遠い昔の思い出話となる日は、さほどに先のことではないかも知れない。それぞれに個性の反映された賀状に会えなくなるのは、ちょっと寂しいことだ。

 賀状の様式にはいくつかのパターンがあるが、その中の1つに紙面が一杯一杯びっしりと文字で埋め尽くされたもの、と言えば「あるある」と合点される方も多いのではないか。前は目を通すのが大変で敬遠気味であったが、最近はこういう文面に少し興味を持つようになった。

 中でも取り上げられる数々の話題に、むしろ一貫性のないものの方が面白い。政治経済・国際問題から家族のことまで、或いは娯楽・趣味などにも、それらのトピックが多岐に渡り、しかも指向性に何らかの矛盾を孕んでいるような場合は一段と興味が惹かれる。一見結びつかないような点と点の間に光を当てて、実はそれらを繋ぐ目には見えない糸に、特殊な照射を試みるのである。この作業は、虚無僧尺八の稽古に通じると感じた。初めは味も情趣も感じられなかった曲に根気強く向き合い、いつかは真味を見つけ出そうとする、その努力にとても似ているのである。

 さて私がもしもこのような、話題の羅列式の賀状を今作成したならばと想像するに、整然とまとまりある、お行儀の良い、しかし誠に面白くもないものが出来上がることだろう。見かけは聖人君子然として、世を憂い、人の愚行を憂う。それが決して意味のないことだとは思わないが、もう少し大きなスケールで行動してみたいものだ。理屈で堅牢に固められた劇場の中ではなく、目には見えない糸の張り巡らされた空間に漂ってみたい。

 たまたま眺めていたテレビドラマから、「考えたらアカン!ゴチャゴチャ抜かさんと、先に行動せな!」という台詞が飛び込んできた。正しくその通り。まずは身体を動かしてみることだ、と言い聞かせた。




桜紅葉                      百錢会通信 令和6年12月号より

 日曜日の朝、いつものように目が覚めた。母譲りで私は寝覚めの良い方ではなく、寝巻きのままぼうっと床に正座すると身体が傾いて上手く座れない。見ると右脚がパンパンに腫れ上がっている。すぐさま家内が休日当番医を市の広報で調べ出し、少々離れた町医者を訪ねた。エコーで調べると「静脈がどこかでつまっとるねぇ。すぐ血管病院へ移って。」と言われるがままに、専門病院に移ると「すぐこのお薬を飲んで!」と血液抗凝固剤を渡され即入院。「あのぉ・・・4日後は自分のリサイタルなんですが。」「それは無理でしょう。少なくとも12週間はここで療養して貰います。」と、一巻の終わりとなってしまった。起床してから僅か6時間くらいの間の出来事である。腫れの痛みは殆どないのでなおさら、私にはまさに青天の霹靂であった。

 それからというもの、家人をはじめ関係各位にはどれだけの迷惑と心配をかけたことだろう・・・。それを思うと居ても立っても居られず、黒い大波に襲われるような妄想に苛まれて、胸がキューっと締め付けられる。その度に自分は今現在循環器の疾患なのだと強く言い聞かせ、坐禅の呼吸で無念無想に専心した。幸い大事に至らず、しみじみ有難いことと、日に幾度も手を合わす。天からの罰と天からの御加護、その両方が下された気がしてならない。

 入院患者は少なく病床フロアは実に静かである。治療は血液抗凝固剤を服用するのみ。ワイヤレスの機器を装着して心臓の異変を24時間監視してくださるのは誠に申し訳ない限りだ。そして只々、静かな時が過ぎて行く。

 フロア内の歩行や読書など、日常生活にさしたる制限はない。ふと思い立ち父がよくしていた詩文の書き写しを始めた。小さい頃に住まいしていたあばら屋の破れた襖には、父が自画自賛の毛筆による詩歌がそこらじゅうに貼り付けられていた。詩歌は素読が大事と言われるけれど、書き写しも中々良いものだと改めて感じた。文字をしたためることによって詩意の真趣が染み込んでくる気がする。絵心のない私には良い遊びを見つけた。

 昼過ぎの1時間は、娘が書き下ろしの尺八曲を運指だけで練習してみよう。慣れない音並びの節はまるでシドロモドロだが、それもまた一興。思いつくがままにその日にすることを考え行動に移していたら、小学校に上がる前の生活を思い出した。私は幼稚園には行かなかったので、近所の子供がいなくなる時間は野原で良く独り遊びをしていたものだ。誰にも邪魔されない、夢想と空想の王国に生きていた。あれが自分の尺八の原点かも知れない。この度延期したリサイタルのテーマは初心を見つめ直すこと。大変なアクシデントになってしまったが、今この静かな時間を授かったのは、やはり天の忠告と恵みだったのかも知れない。

 比較的好天が続いている。窓の外に雲ひとつ無い、すっきりとした青い空の日が多いことだ。そして目の前は桜の木が紅葉している。「桜紅葉」というそうだ。

 眺めていると脳裡に浮かぶ薄墨色がかった桜の花びらが、目の前の色づく葉に重なるようで、それは遠い記憶と今が二重写しとなるような、図らずも今の気持ちを良く表していると思った。




稽古の鬼                    百錢会通信 令和6年11月号より

 生田流箏曲の人間国宝、米川文子先生が先日旅立たれた。享年98歳。私にとっては雲の上の御方だが、ご縁あって幾度か、私には忘れ難い舞台をご一緒させて頂いた。いの一番に思い出すのは2007年、国立劇場主催の新春公演での「越後獅子」。正月には誠に相応しい、20分ほどの華やか人気曲であるが、歳の瀬の下合わせではもう一度、もう一度と、部分的な小返しの他に、通しの稽古を7回も繰り返した。先達に「稽古の鬼」と畏れられた人物は数知れないが、米川文子先生は紛れもなくその内の一人である。骨折して入院なさっても個室に箏を持ち込み、次の舞台に備えてベッドの上での稽古を欠かさなかったそうだ。気が狂ったような荒業は当たり前だった時代の修行を耐え抜いた、最後の演奏家だったかも知れない。

 昭和天皇の崩御、それから程なく雲仙普賢岳が大噴火した。長崎出身の私の師匠岡崎自修師はその時、我が人生、我らが時代の大きな節目の象徴であると、深く息をついた。米川先生の訃報に接して、岡崎師のあの時の気持ちが少しだけわかるような気がした。もちろん米川先生と同じ時代を呼吸したなどとはとても言えない私だが、先生の謦咳に僅かでも触れた者として、これは大きな時代の変わり目であることを痛感しないではいられないのである。

 楽器は何らかの形で残るだろう。古典の楽曲も楽譜と音源によって全くゼロに、雲散霧消することはないだろう。しかし偉大なる人間の労苦と、その上に結晶した作品という意味での近世の芸能は、年月と共に消滅することは仕方のないことだと思う。世間の伝統芸能に対する無関心を嘆くことに余り意味はないのかも知れないと思うようになってきた。地球の気象が変わり、日本の四季の区別が曖昧になる。そういう時代に生まれ育った人に、例えば秋風の風情や情趣を理解しろといってもそれは土台無理な相談である。

 それでも米川先生は来る日も来る日も、命懸けの執念で常に次の舞台に向かわれた。楽屋で車椅子、酸素吸入をしながら粛々と出番に待機なされていたのは、今から僅か2ヶ月前の話である。-誇り高き衰滅- そんな言葉が私の心に幾度も去来して止まない。




夕べの雲                    百錢会通信 令和6年10月号より

 「逢ふごとに 時雨して深く染むる紅葉葉」。これは先日藤本昭子師の演奏会でご一緒させて頂いた、「夕べの雲」という曲の歌詞の一節である。この曲の歌詞を紐解いて思うことを述べたいのだが、これはとても特殊な様式の曲なので、なるべく簡易にまずはこの曲の成り立ちを解説してみたい。

 この曲の仕組みを理解するには、①「打ち合わせ」、②「組歌」、という二つの基礎知識が必要である。まず「打ち合わせ」について。三弦の器楽曲においては異なる曲のある部分を同時に演奏することがある。極端な場合は全曲「打ち合わせ」る場合もある。全く別の曲とは言いながら、もちろんどちらかがベースの曲となり、それに拍数や曲の進行、主だった音が調和する様に「打ち合わせ」る曲が創作されるのである。しかしそれぞれはやはり別曲であるから、合奏となると余程気を確かに演奏していないと、双方相手の演奏に翻弄されて訳が分からなくなってしまう。それぞれの楽曲を確かに演奏するための遊戯的なトレーニングだったのかも知れない。

 さて次は「組歌」。三弦・箏に用いられた楽曲様式で、本来は独立して存在する短い詞章をいくつか組み合わせて一曲にまとめたもので、糸の伴奏型はそれぞれに特有の形式が反復される。延々と似たような節が繰り返されるので、鑑賞歴の浅い人にとっては退屈で敬遠される向きもあるが、シンプルな音型の反復には聞き込むほどに奥深い世界が広がるものである。尺八古伝三曲の「虚鈴」を修行したことのある人ならば、それを理解して頂けると思う。神如道は「弦曲の『本曲』というべきは『組歌』である」と言っていたそうだ。

 ようやく話が戻ってきて、「夕べの雲」である。この曲は箏組歌の原点とも言うべき「菜蕗(ふき)」という曲に打ち合わせるために作曲された三弦曲である。歌詞はそれぞれ「菜蕗」に呼応した、謂わばパロディになっている。概ね詞章は「源氏物語」に取材していると解説されることが多いようだ。私は二十代の頃、この曲を始めて稽古した折に歌詞を紐解き、内容が余りに艶めいていることに衝撃を覚えたものだった。たとえば先の「逢ふごとに 時雨して深く染むる紅葉葉」。逢瀬を重ねるほどに深紅の紅葉のように染め上がる女心という具合だが、では「時雨して」とは一体何の暗喩なのか・・・。これは正に多感な20代の妄想ではあるが、今読み返してみても「夕べの雲」に散りばめられた詞章は、かなり生々しいものだと思う。

 この曲は地歌箏曲界に広く伝播した曲とは言いがたい。非常に複雑な三弦の手が連続するのに重みのある歌が途切れることがない、そんな演奏の難度の高さが大きな理由であると思う。しかし私はもう一つ、この曲は演奏者の解釈によってはとても品の悪い曲になってしまうということも、多くの共感を得ることのできなかった理由ではないかと感じている。安易な想定ではあるが、仮にこの曲の奏者が恋のゲームには自信家の男子だったとしたら如何なものか。真実味はおろか、嫌味を帯びる可能性が高いと思う。

 私がこの曲の合奏稽古をつけてもらったのは30数年前のこと、九州系地歌箏曲家の伊東古扇先生による。伊東先生のそのまた師匠は阿部桂子師で、藤本昭子師の祖母君、やはり稽古の鬼と言われた人物である。私は伊東先生から阿部師の「夕べの雲」の稽古の逸話を何度も聞いたことがある。ある日お稽古場を訪ねると阿部師が一人部屋に籠って「夕べの雲」の稽古をされていたそうである。その音が余りに真に迫っていて声を掛けることが出来ずに、襖の端をそっと開けて様子を見ると、阿部師が瞼から涙をポロポロとこぼしながら一心不乱に稽古なされていて、今でもその光景が忘れられないと仰っていた。

 こういう地歌箏曲家の心意気と情念によってパロディの曲もガラリと姿を変えることはあると思う。あらためて歌詞を読み返すと恋の焔を燃やす己自身の哀しさだけではなく、その罪深さもそこはかとなく漂っているようにも思う。「夕べの雲」という言葉は亡き人を送る火葬の煙に例えられることも多いそうだ。




一念岩をも通す                百錢会通信 令和6年9月号より

 中学で野球をしていた友人が、甲子園でも時折その名前を聞くことのある高校へ入学した。彼自身は野球部を目的とした進学ではないが、元から好きな野球であるから入学してから興味津々でその練習風景を見に行ったそうだ。そこで彼は度肝を抜かれた。野手の送球は放たれた弓矢のようで、それに比べて今までの自分たちの球筋はまるで羽根突きの山なりだ。バットのスイングもつむじ風のように目にも止まらぬ速さ。このような“野球部推薦入学組”の人材を揃えても甲子園の頂きに立つことはままならぬことだし、その上にプロ野球界があることが一瞬の内に連想されて、日本の球界のピラミッドの大きさを実感したことだったという。

 我々が十代の頃、高校野球で思い出すのは「怪物」と呼ばれた江川卓だ。プロ野球に進んだ後の公式試合で、江川が球速140kmをマークしたのしないので大騒ぎしていたのをぼんやりと記憶しているが、今や世界最速は170kmだそうで、半世紀近くを経てスポーツ選手の身体能力は益々上昇してきていることだろう。

 それでは我々の業界はどんな状況なのだろうかと考えた。古典芸能の世界はスポーツとは逆に年代を遡るほどに総合評価は上がるという、「常識」というか「社会通念」のようなものがあるように思う。しかしこの前提を批判なく受け入れることは問題がある。記録が数字で明確に表されるスポーツと違い、少なからず人間の主観を透過せざるを得ない評価は、多くは演者側の組織内部の口承による場合が多いので、時代を経るごとに過度に神格化されることが少なくないからだ。しかもそれが世襲の固定化した伝承システムの中に組み込まれる時に、この「集団的無意識」が実演家自らを去勢してしまう危険も孕んでいる。近代以降は録音・録画の技術も進化しているし、社会学的な視野も広げて、内部伝説による過大評価については客観的な修正も厭わない姿勢が大切だと思っている。

 ということが動機だったわけではないが、私はそれぞれに収録年代の違う、ある同一曲の音源の聴き比べを試みた。私が参加する箏曲の同人会の必要に迫られて、「三番叟」という滅多に演奏されない曲の音源を集めてデジタルデータ化したのである。30年前、50年前、70年前、3つのアナログ音源を、腰を据えてじっくりと聴いてみた。

 すると結果は(これはどこまでも私の主観ではあるけれど)「業界通念」の通り、時代を遡るほどにその音楽の総合的な圧力は圧倒的に高いと感じた。実際の演奏のテンポや音圧は決して正確に再現されてはいないだろう。しかし一節一節に込められた「念」の強さは、録音といえども明明白白に伝わってくる。

 古典は音の重なりが寧ろ斬新でオシャレ!とか、音色の湿り加減が都会に疲れた心に優しい・・・とか、改めて日本音楽に好感を持ってくださった方々の言葉を思い出してみると、それはそれでとても喜ばしい反応なのだが、どこか生活装飾品の品定め的な感覚が漂っていると感じるのは私だけであろうか。江戸時代の気骨の残る演奏に改めて耳を傾けてみると、見据えている地平が全く違っているように感じた。「肚」の力が「念」となり「祈」となる。これは日本音楽における精神と肉体との関係について重要な示唆を含んでいるように思う。




頃はまたの年の卯月に         百錢会通信 令和6年8月号より

 「少しのことにも、先達はあらまほしき事なり」。何の理由もなく、咄嗟に、或は唐突に、亡き師匠の言葉をこの歳にして思い出すことが多くなったのは誠に情けない限りではある。が、今まで取るに足らぬと捨て置いてきてしまった事柄に、実は重い意味があるのでは?と気付くには、それ相応の齢が必要で、それは仕方のないことだ・・・、と思うことにしている。

 尺八の恩師の岡崎師はある時にこんな質問を投げかけてきた。「百貨店でエスカレーターに乗って上の階に上るのだが、降りる時にも乗るこの階段をデスカレーターと呼ばないのは何故だ?」。私はescalation の反対語が de-escalation であることも知らぬ中学生だった。豆鉄砲を喰らった“鳩”がキョトンとしていると、「エレベーターはelevate するばかりで降りてこないのか??」と似たような質問をしてきた。一言の受け答えも出来ずにいると、「漢字なら『自動階段』に『昇降機』なのに、何故に欧米人はエスカレート・エレベートするばっかりなのか?」と畳みかけて来る。岡崎師の意図はその答えを言えというのではない。こういう文化人類学的、或は哲学的な問題に向き合う為に英語の学習は必要であると言いたかったのである。日本人は英会話などに現を抜かしているヒマがあったら国語と漢学を修学せよと一歩も引かなかった父に対する、ちょっとした戦線布告でもあったのだが、そのことの是非はさておく。

 東洋思想における「自主」とは何か、他に依存しないこと?否、違う。「自由」とは何か、束縛から解き放たれること?全く違う。「自主」とは「自ずから主となる」、「自由」とは「自ずからよってきたる筋道・よすが」のことで、「自ずから然あり」という「自然」とほぼ同義である。これは私が兄と二人正座させられて、夕食時に父から頻繁に受けた講義の主要な演題であった。今面白いと思うのは、英語の知識などほとんどないはずの父が、反語として取り上げた「他に依存しないこと」、「束縛からの解放」というフレーズが、英語の independence liberty或はfreedom の語源を正確に言い表していることだ。それだけ英語の訳語としての日本語が我々の常識として定着しているということであろう。 independence は、ラテン語の「in-」(否定)と「dependere」(依存する)から派生した英語の independent に由来し、 independence は文字通り「依存しない状態」を意味する。また libertyは語源がラテン語で、それがフランス語を経て英語になったもの。 意味は「強制的な労働、圧政、権力から自由であること」だそうだ。ネットで検索すればいの一番にこのような解説が飛び込んで来る。

 欧米人は「猫は四つの足を持つ」と表現するが、我々東洋人は「猫には四つの足がある」と言うのが肌に馴染む。前者は何事も主格と述語をはっきりと明確に二分して理解認識しようとするが、後者は元々がひとつであるという感覚から出発する。これは各々の物の理解の仕方・考え方の「クセ」みたいなもので、この違いをよく知っていないと、東洋で言うところの「自主」とか「自由」、或は浄土真宗でいう「自然法爾」などという言葉の概念は、意味を履き違えて解釈してしまうことになる。これは鈴木大拙の有名な講演「最も東洋的なるもの」の冒頭部分の内容で、これが父の講釈のソースだったかと、ずいぶんと時を経てから気がついたものだった。

 来年の4月中旬にアメリカのテキサスでワールド尺八フェスティバル(WSF)が開催される。いよいよその準備も佳境に入ってきているようだ。私は会場近くに娘夫妻が暮らしている縁もあって積極的にこのイベントに参加する予定である。WSF1994年、岡山県美星町で第1回目が開催されて、以来ボルダー、東京、ニューヨーク、シドニー、京都、ロンドンを経て、来年は8回目の開催となる。異国としての日本文化に憧れる者、日本文化を誇る者、無国籍的に世界を旅して何物にも縛られない者、欧米文化を深く内面化した日本人、欧米の思想に新しい局面を切り開きたいと願う者等々、数え切れないそれぞれの思いを秘めた、正に「多様性」が混沌と入り乱れる祭典となることだろう。




熊本スピリッツ                百錢会通信 令和6年7月号より

 私は、『九州スピリット』と言われているものを思い浮かべた。生活様式の素朴さと生活の誠実さは、古くから熊本の美徳だったと聞いている。もしそうであるなら、日本の偉大な将来は、生活中で簡易、善良、素朴なものを愛し、不必要な贅沢と浪費を憎む、あの九州スピリットとか熊本スピリットといったものをこれからも大切に守っていけるかどうかによると考えている。

 

 上は熊本出張の空き時間に見止めた、公園内の小さな記念館の中に掲示されていた、とある文化人の一文である。私は熊本の文化歴史全般については誠に浅学であるゆえに、そういうものかとその場は素直に受け入れた。でも思い返してみたら、私が慣れ親しんでいる熊本を中心とした九州系地歌筝曲は、歌節が入り組んでいてその音楽の構造は決して単純なものではないので、「善良」という標語はさておき、「簡易」「素朴」を美徳とするという視点が何となくしっくりしない感じがしたものだった。

 しかしその翌日、九州系地歌筝曲家の所縁の寺院で演奏した時、その芸の複雑さは言わば自然の草木の造形が精妙であるのと同じで、所謂人為作為による複雑さではないという意味に於いて、「自然」であり「素朴」であるとするべきだと悟ったのである。我々の守るべきはこの「自然」と「素朴」ではないかとふと思った。先の記念館の一文には次のような言葉も綴られている。

 

 日本の場合は危険な可能性があるように思う。それは古来の、素朴で健康な、自然な、節制心のある、正直な生き方を放棄する危険である。私は、日本がその素朴さを保持する限りは、強固であるだろうと思う。日本が舶来の贅沢という思想を取り込んだ時は、弱くなるだろうと思う。

 

 この小さな記念館は熊本に数年滞在していたラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の旧家である。「熊本スピリッツ」と聞けばピンと来た方も多いことだろう。彼は言う。ごく普通の労働者でさえ自分の将来の蓄えについて思う。政治家ならば己が死後百年の世を憂うべきであり、哲学者は千年先の全人類の世界を問うのである。彼は西洋の哲学者の立場から次のように語っている。記述は1894127日とあるので、現代までの130年を差し引いて、これから870年先の世界を思いながらこれを何度も読み返しているのである。

 

 西洋と東洋が将来競争において確かなことは、最も忍耐強く、最も経済的で、生活習慣の最も単純な者が勝ち残るだろうということである。コストの高い民族は、結果的にことごとく消滅することになるだろう。自然は偉大な経済家である。自然は過ちを犯さない。生き残る最適者は自然と最高に共生できて、わずかなものに満足できる者である。宇宙の法則とはこのようなものである。




ツーバイフォー                百錢会通信 令和6年6月号より

 和田真月師は私が大変お世話になった尺八の先輩である。船場の寝具卸売業、和田哲の元会長という実業家でありながら、日本ペンクラブ、日本エッセイストクラブ会員で、大阪船場商人の世界を描いた軽妙なエッセーでも知られる。御尊父は島根新聞(山陰中央新報)社長だった木幡久右衛門氏。竹号は「吹月」で、父子揃って尺八では神如道の門人である。

 木幡師は貴重な古管尺八の蒐集家でもあり、その「木幡コレクション」を中堅尺八家に演奏させる『古管を聴く会』が真月師の主催で開かれた。1990(平成2)年のことで私は当時26歳。真月師の特別のお計らいにより、私は最年少でその会に出演する栄に浴したのである。

 この『古管を聴く会』が今月号の話題かとご期待の方には申し訳ないが、ここから話は全く別向きに脱線するのをお赦し頂きたい。「我が父の集めた古管の中でどの楽器を演奏頂くか、ゆっくり吟味・選定のために一度拙宅へ来訪されたし。」と鄭重なお招きを頂き、不慣れな大阪の地を訪ねた時の思い出話である。

 まずは船場のど真ん中にある和田哲本社にお出でくだされとのことだったので、訪ねると立派な応接室に通され久しぶりの挨拶を交わした。程なく社用車が正面入口に横付けされ、そこから約30分ほどだったろうか、伴われてご自宅へと向かう。私には生まれて初めて乗るベンツであった・・・。

 緊張の余り恥ずかしながら和田師のご自宅の建築様式の詳細は殆ど記憶していない。掃除の行き届いた飴色の綺麗な床板に、やや仄暗い電燈の明かりが穏やかに反射していたのだけは妙に印象深く記憶している。古色ゆかしい誠に上品な和の佇まいであった。

 奥様に案内されて客間に一人静かに佇むこと数分。やがて別の襖が開き私服に着替えた和田師の登場である。早速自分が演奏する楽器の選定に取り掛かるが、私が試奏する様を真月師は何とも言えない愉悦の笑みを浮かべてじっと眺めている。鳴らすのに難儀すればするほどに愉快だったのではなかろうか。私は比較的年代の新しい西村虚空の長管を選ぶと「年少の君が低音を静かに響かせるのも悪くない!」と即決、直ぐに夕食の合図となった。料理は一品ずつ料亭さながらの給仕で部屋に運ばれて来る。個人宅でそのようなおもてなしを受けることは、私の人生の中で恐らくはそれが最初で最後の経験であろう。20代の私にとって、その時が日本文化の格式に色々な差異のあることを初めて思い知った瞬間でもあった。

 阪神淡路大震災はそれから僅か5年の後の事である。和田邸も壊滅的な被害で最早修復できる状態ではなく、更地からの新築となったようだ。「尋常の揺れではなかったから諦めるしかないが、オモチャの箱を重ねたような娘たちの家のほうが壊れずに残っているのだから不思議だね・・・」とは真月師の述懐である。私はとっさに「ツーバイフォーだ!」と心の中でつぶやいた。

 「ツーバイフォーは部屋ごとに6面で建物を支える構造なので、とても頑丈。」というのが建築屋の宣伝文句。火災にもほどほど強いらしい。反面ツーバイフォー工法は、構造体となる壁を取り払うことはできないため、在来工法のような間取りの自由度は少ないというデメリットがある。

 私が今論じようとしているのは建築物の利点、欠点についてではない。建物が変われば人間の行動様式が変わるという視点だ。客人が玄関から客間に通され、別の襖から主人が入室するといった、人間関係における秩序だった導線はツーバイフォーでは成立しない。またこうした秩序(≒制約)とは逆の、外に向かって大らかに自由に開かれた空間、例えば「濡れ縁」などはもっとも親和性のない建築様式であろう。縁側に腰かけて世間話をする老人の姿などついぞ目にすることはなくなった。半世紀前には生垣の隙間すり抜け、他人の家の庭先を横切って通学する子供は珍しくなかったし、ともすればそのついでに、水撒きをする家主に向かって「おばちゃん、お水ちょうだい!」と言って他所の家の水道水で喉の渇きを癒やしてから帰宅するなんてことも許される雰囲気だった。社会の変化によって住居が変わっていくことより、むしろ住居が変わるから人の動きが変わり、共同体が変わり、社会が変わっていく波の方が大きいのではないだろうか。自然災害や疫病の流布は、否応なく我々の居住空間に変化をもたらす。当然のことながら日常に根ざした文化の形は変わらざるを得ない。畢竟伝統芸能は非日常の中で生き延びなくてならなくなる。それは演者にとっても聴衆にとっても辛いもので、この息苦しさから何とか解放される道はないものかと思案する毎日。それが私の日常となった。




素人の手料理                百錢会通信 令和6年5月号より

 「料理は一流の職人か、丁寧な素人の手料理に限る」というような話を、それぞれ別に複数の友人から聞いたことがある。今でも時折その会話を何となく愉快な気分で思い出す。いずれの方々も自他ともに認める食通だが、痛快なほどの健啖家であったことも是非申し添えておきたい。どんなに確かな味覚の持ち主でもすぐに食傷気味になってしまう人の薀蓄などは、正直なところあまり耳を傾ける気にはならない。食の喜びはやはり食欲旺盛な人から聞きたいものだ。

 それはさておき冒頭の言葉の真意については、実はわかるような気もするがスッキリと腑に落ちるという感じにもなれない。だから今でも思い出してはとりとめもなくあれこれと想いを巡らすのである。私は子供の頃から食べることが大好きで、自家製のパン、マドレーヌ、ピザパイ、スペイン風オムレツ、餃子、中華まんじゅう、もち米をまぶした肉団子、ポークソテー、チキンライス、グラタン、ぶりの照り焼き、カレイの煮つけ、けんちん汁、などなど好物だった母の手作りの品書きは今ふと思いつくだけでも数え切れない。我が尺八の師、岡崎自修師自ら大鍋振るっての長崎皿うどんも絶品だった。それに引き換え職人の料理はそもそもそんなに食したことがないのだから、手料理を頂く喜びは語れても、職人技との比較などは土台無理なことは承知しているつもりだ。

 逆にそれ故に一流職人の料理とはいかなるものかについて、今までの僅かな体験から推量・想像・空想・妄想を逞しくするのである。趣味で料理店を食べ歩くわけではないから、私が職人の料理を頂く場面の中で最も多いのは、色々な祝賀会などでの会食だろう。帝国とオークラが上質であるとか色々な食通談義を耳にはするが、料理界の“黄金レシピ”というものは研究し尽くされているから、私にはどれもその中での僅かな優劣ぐらいとしか感じられなかった。ところがそのカテゴリーを一段跳び抜ける料理は必ずあると思う。もう10年近くも前になるが、故野坂操壽先生に招かれて代官山のフランス料理を頂くことがあった。少人数だが高名な先生方ばかりの中に若輩者は私一人の会食で、とても料理を味わえる気分ではなかったのだが、前菜を口に運ぶなり一瞬にして意識がどこかへ飛ぶ思いがした。味付けも盛り付けも簡素な野菜であったが、その根菜がかつて根を張っていたであろう大地の景色が脳裡に広がり、頬にその風を浴びたような心地がしたのである。その後に運ばれてくる一品一品全て、その度に違った景色が広がり、食後はさながら静謐で優美な美術展の回廊を後にする気分だった。おそらくはあれが一流職人の技というものではなかったのか、そんな風に思わずにはいられない、私には数少ない贅沢な食事の記憶である。

 我々演奏家同士の会話の中で「ウマイ」という用語がよく使われる。「新人の彼はとてもウマイよね!」と。ところがたとえば「君の奥様の料理はとてもウマイね!」といえば当然のことながら同じ「ウマイ」も意味が違う。漢字にすれば一目瞭然で前者は「上手い」で後者は「美味い」となる。料理も音楽も技の巧拙という意味での「上手い」はよく話題にのぼるが、一歩進んだ「美味い」が話題となる会話は少なくなってきているように感じる。もしもそこに一流と二流の壁があるとしたら、その一流に素人の手料理が肩を並べるというのは、とても興味深いテーマだといつも思うのである。




二礼二拍手一礼              百錢会通信 令和6年4月号より

 江戸時代に栄えた近世邦楽は、そのルーツを遡れば多くの曲が能楽に辿り着く。故にこの世に執着する怨霊などの悲哀をテーマとする演目も少なくない。そうした曲を上演する時には物語に所縁の神社仏閣などに参詣する演奏家の多いことは、以前にも話題にしたことがある。昨秋に続いて先月も私が当番の演目は『殺生石伝説』に由来する曲であったので、近所のお稲荷様には足繁くお参りしたのである。

 今までに何度も奉納演奏のご縁あって、「二礼二拍一礼」の参拝には慣れているはずなのに、どうも身体の動きがしっくりこないと感じている。いつもどこかぎこちない所作で参拝しているのだ。特に最初の一礼が様にならない。親に言われて参拝する小児のお辞儀宜しく、さながら覚えたての屈伸運動のようである。仏教に「仏足頂礼」という作法があるが、これは頭を地につけ、仏の足元を拝するという最敬礼である。実際に床に額を擦り着けるというこのお辞儀をしてみると、束の間心の執着が消える様な心地がした経験があるので、これに少し倣ってみて神前の二礼も思い切って礼の角度を深くしてみた。するといくらか心の澱が濯がれる様な気持ちがしてきた(「二礼二拍一礼」を「二拝二拍手一拝」と表記することもあるようだ)。が、やはりどこかに不自然さが残る気がしてならない。ところでとても不思議に思うのは、二拍手した後の一礼は誠に清々しく、迷いもなく自ずから頭が下がる思いがするのだが、それは何故なのだろう。音を奏でるという行為の源にも深く関わるテーマの様な気がして、もう何年も前からこの疑問について考えているが、未だにその理由はわからない。

 幼少の私に神社の参拝作法を教えてくれたのは父である。地下足袋に泥まみれのニッカーズボンという土木作業のいでたちであったが、今思い起こせば村の鎮守に参拝するその後ろ姿は凛としていて、何人と雖も侵すことの出来ない、清浄な静謐に包まれていた。この佇まいを身に纏うことが出来たのは、もしかしたら昭和一ケタ生まれが最後なのではないか?そんな思いがふと脳裡をよぎる。あらゆる物は変化して行く。桜の花の風情もまた然り。




三部形式                    百錢会通信 令和6年3月号より

 小学生の時だっただろうか、それとも中学生の時だったか、記憶はあいまいだが、音楽の授業で「三部形式」と言う用語を習ったことがある。一般的な解説の「A - B - Cという三つの楽節からなる楽曲の形式である。」では言われなくても分かるような説明だが、大抵の場合は次の様な補足説明が付いてくる。「三部形式で最も多用され、かつその効果が大きいのは第三部のC が第一部Aと同じもので、即ちA - B - Aという楽式であり、 単に三部形式といった場合はこの楽式を指す場合が多い。」 昔はこんな楽式の講義などトンと興味がなかったので右から左に聞き流していたが、改めてこの様な解説を読むと、「効果が大きい」というその「効果」とは何なのか?それが気になって仕方がないのである。

 この形の三部形式の内容的な構成は、主要なテーマを表す第一部のA、それとは対照的な内容となる第二部のB、そして再び主要テーマへの回帰としての第三部 A という具合で、この「A - B - A」を「呈示部 - 対照部 - 再現部」と表現することが多い様だ。因みに中間部Bの内容が「対照」ではなく、主題Aの発展形としての「展開部」として他にも様々な工夫の施された形式が「ソナタ形式」と呼ばれるものらしい。ベートーベンは生涯をこのソナタ形式に捧げたと言っても過言ではない、というような話も聞いたことがあるので、西欧の音楽文化においてこの「三部形式」の占める意味の重さは、私の想像を遥かに超えるものなのかも知れない。

 身近なところでは宮城道雄の『春の海』が「呈示部 - 対照部 - 再現部」という三部形式を踏襲した作品である。故に『春の海』は西欧音楽の佳き手法を取り入れた“新日本音楽”なのである。宮城道雄の盟友である尺八家の吉田晴風も同じような「三部形式」の「再現部」を含む『海』という作品を残していて、自らの解説で次の様に語っている。

 

(昭和6年の全米演奏旅行は)日本音楽と舞踊の名誉をかけての大旅行であった為心労甚だしく、同市(ロサンゼルス)につくと同時に重病に倒れてしまいました。しばらくは生死の間をさまよってようやく死線を越え、再生の喜びを持つ事が出来たが、未だ病床にある時絶えず私の脳裡に去来したのがこの『海』のメロディーです。個人においても、国家においても常に平坦なみちばかりとは限りません。波乱曲折は世の常です。私はこうした様を大自然の海の種々相にことよせてこの曲を書きました。

 

 宮城の『春の海』も吉田の『海』も「呈示部」「再現部」は舟唄が聞こえてくるような和やかな春の海の景色である。特にこの「再現部」を聞いて私の心に湧き上がるのは、陶淵明の「戸庭塵雑無く虚室余間有り 久しく樊籠の裏に在りしも 復た自然に返るを得たり」という心境にも似た静かな感慨である。それでは「三部形式」本家本元の「再現部」で表現されてきた感激とは何なのか、つまりその「効果」とは本来どんなものだろうか。あまり西欧の音楽を聴かない私には未知の分野なので、どなたかに教えを乞うものである。




瞳を閉じれば                 百錢会通信 令和6年2月号より

 昨年末に熊本を訪れたのは、知り合いから小学校の児童に和楽器の音を聞かせて欲しいとの依頼があったのがそもそもの始まりで、折角飛行機で来熊くださるなら他にも演奏の場を作りましょうということで、阿蘇神社奉納、熊本出身の尺八家である吉田晴風メモリアルコンサートの開催と、友人が大変お骨折りくださったのである。

 さてそのメインの小学校公演が、実は私には一番の重荷であった。最近の学校公演はなるべく若い演奏家が、爽やかに、明るく、楽しく、和楽器の音を児童に楽しんでもらうというコンセプトが主流で、年寄りが裃付けて眠たい講釈を垂れるスタイルは今時流行らないからである。必ず学校側からは児童にも馴染のある、聴きやすい曲もプログラムに入れて欲しいという要望が来る。最近の若い演奏家はそれに応えて流行りのアニメソングなどをアレンジして大盛り上がりする訳だ。何度もそうしたプログラムのピースを実際に耳にして来たが、和楽器の美しさを伝えるに相応しいと私が思える楽曲に出会うことは限りなく皆無に近い。聞けば聞くほどに古典に勝る響きは無いように感じてしまうので、最早私のそういう感受性は現代に求められていないと思わざるを得ない。

 その様な状況下でありながら、どうして私のような初老の尺八吹きに小学校公演の依頼があったのか不思議でならないが、これも何かの縁なのだから断るべきではないと思い引き受けたのである。私は箏・三絃・尺八、それぞれに別の表情をもつ、移ろいゆくたった一音の余韻に耳を傾けてもらうことにした。箏は一度爪弾いた後に、「幽けき」響きが他の絃の共振を誘い、思いの他に長く持続すること。また三絃は「サワリ」というノイズを取り込むことによって、比較的短い余韻の中に楽器内の繊細な「共鳴」を増幅させていること、そして尺八は一音に多様な倍音を含んでいて、梵鐘のように響かせることを発音のお手本としてきたことを、どうしても知って欲しかったのである。

 普通ならどう考えても“鳩に豆鉄砲”となるであろう、古典本曲の中で最も抽象的な「虚鈴」の一部を鑑賞曲に選んだ。「瞳を閉じて一音の消え方だけを聞いてごらん、心に色んな景色が浮かんでくるから。そのまま寝てしまったっていいんだよ」、と言い含めて聞かせた。34分の本当に短い時間ではあるけれど、体育館はしんと水を打ったように静まり返った。

 後日、担当の先生から送られてきた児童の感想の中に「眼をつぶって尺八を聴いていたら本当に気持ちよくなってきた!」というコメントを見つけた時は流石に嬉しかった。子供の頃に神社の境内で、風の強い日に松籟を聞けば怖い神様が襲ってきたかと思い、川のせせらぎや鳥のさえずりは里山に棲む子供の精霊の歌声であった。目には見えぬ、耳に肌に届く自然の便りは無限に広がる幻想絵画を子供にもたらし、そこは真に想像と創造の王国である。大人も昔の頃の子供と同じように遊ぶのが、音楽の時間であって欲しいと思う。




御神体                      百錢会通信 令和6年1月号より

 阿蘇山は言わずと知れた世界でも有数のカルデラをもつ火山である。この阿蘇山の火口を御神体とする肥後の一の宮が阿蘇神社である。創立は紀元前282年と言われ、およそ2300年という気の遠くなるような歴史を持つ。国の重要文化財の楼門が先の震災で倒壊してしまったが、7年に渡る修復が昨年末に終了した。この期に際して有難い縁あり、箏曲の友人と共に奉納演奏の栄に浴したのである。先ずは尺八一管で音取り風の前奏を賦して、阿蘇神社に縁ある「新高砂」の曲を捧げた。

 阿蘇の外輪山の南西に立野という地名があり、古来この地には次のような伝説が語り継がれている。神代の昔、火口原が湖となっていたころ、健磐龍命(たけいわたつみのみこと)は満々と水を湛える阿蘇谷を眺め、この湖水を干したなら民の為の良田となろうと考え、外輪山の一角を一蹴りしてその堰を蹴破った。すると湖水はごうと音を立てて流れだしたが、健磐龍命は力任せ蹴ったが故に勢いあまり、尻餅をついてしばらく「立てんのう!」と呟いたのでこの地の名が立野となったという。これが蹴裂(けさき)伝説で、今もそこは立野火口瀬と呼ばれるところで、ここに黒川・白川が合流して熊本平野を潤しながら有明湾に流れ注ぐのである。

 いくつになっても私はこういうお話が好きで、ネットで調べれば容易く知ることの出来る神話も、おせっかいにこの紙面で紹介するのである。阿蘇神社の楼門修復に東奔西走なさった権禰宜さまが丁寧に説明してくださったのだが、最後に仰ったこともまた印象深く記憶している。それは先の震災で最も激しい揺れを記録したのが立野で、やはり阿蘇には神様がいらっしゃることの証だと笑顔で言われたことだった。

 熊野の那智の滝も確か、滝そのものがお社の御神体だったかと思う。故郷の山は有り難きかなと歌った詩人もいた。我々日本人は好むと好まざるとに拘らず、また時に無意識の内に、日本の海に山に川に草に木に、それぞれの神性を感得しながら生きてきたのではなかろうか。最近私が思うのは、神道とは日本の国土が育んだ日本人の思念の結晶であって、所謂宗教とは違うカテゴリに属するものではないかということだ。

 近隣に村の鎮守があれば、ただの散歩でも良いから年の初めに訪ねて欲しい。境内にある樹木の葉に触れた時、海外経験のある人ならばなおのこと理解してくれると思う、その葉の緑が目にも手に取った時の肌触りも、とても優しいものだということを。その感性が日本の竹の音となっているのだと信じて、技の巧拙に尻込みすることなく、あらたまの清々しさの中で、丹田に力を込めて尺八を吹いて頂きたい。




猫に小判                    百錢会通信 令和5年12月号より

 昭和の家屋がまだまだ残る我が家の近隣に、昔のような野良猫は流石に少なくなったが、相変わらず放し飼いの猫が悠々とのし歩いている。人間が取り決めた土地家屋の境界線は猫にとって意味はない。どこの家の庭先だろうが心の赴くままに徘徊して、日当たりが良ければ昼寝もするし、路地植えの手入れし立ての柔らかい土があればコレ幸いと用を足していく。見つければ竹箒を手にして追い掛け回すが、もちろん我が鉄槌が猫の尻尾すらかすめたことがない。余裕で逃げおおせて次に顔を合わせても、何ら怖気づく風もない。

 「猫に小判」ということわざがあるが、猫に人間の貨幣というものほど理解不能なものは無いかも知れない。調べたわけではないが、猫と人間の共同生活は犬と同様にもう随分と長い歴史があるのだろう。我々が目撃する猫に「野良」はいても「野生」の猫はほとんどいない。日本の野生の猫はイリオモテヤマネコくらいだという話を聞いたことがある。日本の猫の大半は人間との共存の中で種を繋いできたのだから、向こうも「人間」というものの性癖を相当学習しているに違いない。でもこの貨幣の流通を成立させる人間の感受性や思考回路というものは全く理解できないのではないかと、猫を目にする日々の徒然にそんなことを思うのである。

 私は学校の授業で得意なものは何一つなかったが、とりわけ算数が苦手だった。まずa=bとしよう、と先生がいう。しかしそれが承認できない。aはどこまでもaであって、bとは文字の形も違えば発音も違う。それをどうして同じである、等しいとしてしまうのか。そこで煮詰まってしまう傾向があって、その感覚は今もずっと残っている。これは致命的だ。つまり「等価交換」という概念を肯定できなければ、社会の経済は円滑には回らない訳で、それを素直に受け入れられないが故に自分の社会生活は何時まで経っても平坦ではない・・・、という理屈だ。自分の暮らしの経済環境が潤沢に回転しない直接の理由は、労働に対する怠惰であることは薄々わかってはいる。しかしそれでも、時にはこんな言い訳を声高に言いたくなる、この世に本当に等価なもの等あるのだろうか、と。1億円の絵画があって、1億円の家屋があって、1億円の山門があって、1億円の小さな会社があって、1億円の演奏会があって、これら全てを等価とするというのは随分と強引な話だと、私は素朴にそう思うのだ。

 貨幣とは何か?という問いは全く哲学の領域であって、深くは私の手に追えるものでは無い。ただ、猫が虎のように歩く姿は凛々しいと思う、それだけのことだ。どんなにか贅を尽くした庭園でも、身体が擦り抜けられるほどの隙間があれば侵入して颯爽と徘徊し、やがて未練も無く立ち去る。小判に1ミリの執着も見せず、しなやかに身体を操る猫の無心の姿は、多くの芸術家の視線を釘付けにしてきたことだろう。




古き良き時代               百錢会通信 令和5年11月号より

 「“古き良き時代"の記憶を手繰り寄せるのが保守主義で、いわゆる“ネオリベ"にはこれが無い。」たまたま手にした雑誌のこんな文言に目が止まった。ネットで調べると、“ネオリベ"とは「ネオリベラリズム=新自由主義」の略で、「小さな政府」「民営化」「規制緩和」「市場原理主義の重視」などの、一連の表題を推進する経済思想とある。私は咄嗟に思ったものだ、“古き良き時代"の記憶を持たぬ者などいるのだろうか?と。かつて大声で郵政民営化を謳い、解散総選挙を打った派手な首相がいたが、彼の心を“ネオリベ"の理想郷がどれほどの価値をもって、どれほどの面積を占めていたのだろうか?彼の書斎にも“古き良き時代"の記憶は、きっと特別な書棚にしまわれていたのではないかと思う。

 今、ハラスメント(いじめ・嫌がらせ)に対する耐性の著しく欠如した人間が増えて来たのは、かつての地域社会にあった共同体の解体と深い因果関係があるとする論調が、ずいぶん増えてきたように思う。確かにそれが一因ではないかと私も感じている。もう何年も前に当番で町内会の理事を引き受けたことがあって、そこで見聞きしたことは私にはとても新鮮で、少し不謹慎だが興味深く面白いことばかりだった。例えば私より少しばかり“兄さん"の昔話。「オイラが町内会デビューしたのは30代の頃だけどさ、当時の“寄合い"なんて酷いモンだったよ。面子がそろってさぁ始めようかというと先ず座卓に一升瓶で茶碗酒が始まっちゃうんだから・・・。酔っぱらった挙句に若ぇモンはツベコベ言わずに昔からのしきたりに従っとればええんじゃ!みたいなオチばっかりで、じゃあ何の為の話し合いなの?っていうね・・・」とにかく恒常的に不条理が溢れていたそうだ。けれどこちらもしたたかなもので、なるべく被害に遭わぬように、時に仲間と組んで連係プレーで何とか凌いで、何だかんだ言いながら暮らし良い町内づくりに汗を流してきたものだったと、懐かしそうに語るのである。こうした人間付き合いの経験知から、様々な“災害"からの避難術を学んできたのならば、町内の酷い寄り合いも「古き良き時代」と言えるのかも知れない。

 連想はとりとめもなく飛ぶのだが、昔フランスの独立記念日にイギリスの女性首相がかなり辛辣にフランス革命を批判したことがあったように記憶している。英国は断頭台を用いること無く、伝統としての王室を残しつつ市民主権社会を実現したのだと。「脱皮せぬ蛇は死滅する」はニーチェの格言だが、保持しつつ乗り越えるという、弁証法をも連想させるイギリス保守主義の誇りなのだろうか。

 素人の社会論は既にボロが出ているだろうからこのくらいで止めておくべきだろう。保守主義が手繰り寄せる“古き良き時代の記憶"というキーワードに心が反応したのだが、自分が思い描く“良き時代"のイメージは、社会学的に言うところのそれとはだいぶ乖離があることにようやく気がついた。竹を吹くものとしての“良き時代"とは、そもそも手繰り寄せることが出来るかどうかもわからない、自我の意識が芽生えるか否かの境界に、ボンヤリと、どこまでも曖昧模糊とした景色の中に微かに微かに浮かんで来る、名状しがたい“何物か"への憧憬である。こんな言い方をすれば芸術家気取りの戯言に聞こえるかも知れないが、政治経済活動する人にとっても、これは案外重要な起点になっているのではないかと思う。




石に刻む                    百錢会通信 令和5年10月号より

 「墓じまい」という言葉を耳にするようになって久しい。それにまつわる話は施主にとっても保守・管理する者にとっても余り幸福な話題がないのだが、核家族化が進み社会の共同体の様式が著しく変化する中、今までせっかく作り上げてきた仕組みも解体しなければならない場面に遭遇することは、避けては通れない現実だろう。

 日本中で寺院仏閣の夥しい淘汰が始まる。否、既に進行しているのかも知れない。墓そのものの様式も驚くべき速さで今後は変化していくことだろう。例えばホログラムや人工知能を使って故人と架空の会話をする・・・というような墓参も、未来にはあり得ない話ではない。

 その一方で天然石に文字を刻むという従来の方式は、案外しぶとく存続するような気がしている。木や鉄よりも石に刻まれたものの保存性の高さは、古代文明の遺産を見れば明らかだろう。また揮毫・墨蹟の刻まれた石というものには、何世紀も経てそれにまみえる者に呪力を施すような、妖気というか霊気を宿すような気がしてしまうのは私だけだろうか・・・。群馬の稽古場に父が伯父に筆を頼んで残した小さな碑(いしぶみ)がある。刻まれた文字は『管中無尽蔵一音成仏』。後世、下草鬱蒼と茂る林の中でこれを見つける若者があれば、「成仏」の文字を認めた瞬間きっと背筋を冷やすことだろうと思ったりしている。

 ところで私は、後の世に自分の生きた証を残そうという衝動が極めて少ない類の人種だと思っている。一昔前には、例えば実業の世界で功成り名を遂げた人物が現役を引退する記念に、『我が半生』みたいな冊子を刷っては誇らしげに頒布しているようなことが多かったが、私にはそのメンタリティーがよくわからない。そもそも音楽家の信条として、音楽はどんなに精巧な録音を残したとしてもそれは形骸であって、本質は生の音がその場に消えて微かな余韻が人の心にいつまでも響き続けることこそ、最善と私は信じている。その覚悟において世俗の欲に恬淡であるならば少し聞こえも良いが、自分の場合は生まれながらの性分として、人生に前向きではない、或いは男としての気迫に欠けると言った方が実態の的を射ているだろう。そんな体たらくなので、ある時友人に貴兄はいずれは冥界に旅立つ者としてこの世に何を残したいか、と問われて絶句してしまったことがある。一も二もなく降参して、逆に貴兄なら何を残すを良しとするかを問うと、間髪入れずに「願わくは“道”を残すのみ!」と返って来た。ちょっと格好良すぎではないかと斜に構える向きも有るかも知れないが、私はこの言葉に素直に清々しさを感じた。権勢欲とかその名残としての名声欲の類が、快晴の青空に霧消していくような思いがしたのである。

 こう言うものは謎掛け、或いは暗示として墨跡に表し、石に刻めば尚力強く伝わり残ることだろう。ところが神如道は尺八吹きたるもの、“言いたいことは竹で言え”と喝破した。ただ今に集中するしか残された道はなさそうだ。




植物の戦略                  百錢会通信 令和5年9月号より

 「雨後の筍」という言葉があるが、雨の中でも取り分け雷雨の後の植物は良く育つらしい。知人からの又聞きでは、マイナスイオンを多く含んだ雨水は植物の成長を促すそうだ。おまけにこの猛暑で今年の庭の草むしりの忙しい事極まりない。猫の額ほどの我が家の庭ならば事もないが、この時節、群馬の稽古場で雑草の増殖を目の当たりにして思うのは、「驚き」を通り越してこれは紛れもなく「恐怖」である。人間の生活エリアが侵食されているような、自然災害が連想される慄きだ。畑や山林の手入れをしたことのある人ならばきっと共感してもらえることだろうと思う。

 また植物同士の種の存続をかけた戦いも誠に熾烈なものらしい。外来種の猛烈な繁殖は良く話題となるところだ。群馬の稽古場の駐車場に、お化けの様に伸びた西洋タンポポの綿帽子が一面鬱蒼と生い茂る様を見た時は、思わずゾーッと鳥肌が立った。ところがいつの間にかそれが余り目立たなくなったのは何故だろう。これも知人からの又聞きなのだが、外来種というものは新天地入植の際、体内に合成した毒をもって在来種を攻撃し領土を拡大するそうだ。故郷を逃れて背水の陣を敷いたが故の闘志なのか、その攻撃力たるや誠に猛々しく、瞬く間に領土を獲得して群生を誇るのである。ところが驚いたのはここから先。こうした急激な侵略者は殆どの場合、やがてその領地内で自らの猛毒をもって自家中毒を起こして自滅するらしい。そして年月かけてその毒の耐性を身につけた周辺の植物が緩やかに元の領土を回復するという。何やら人類の世界史の話を聞いているような気分になったのは私だけではあるまい。

 コンビニやドラッグストアが同じエリアに乱立しては何軒も閉店するのを思い出したりもした。もっともこれには黒幕がいて、例えば個人の薬局に共同経営を持ちかけて狭いエリアに多数開店させて、知名度を上げたところで有力店を残して他は閉めるという冷酷な戦略によるものだと聞いたことがある。話は少し横道にそれてしまった・・・。

 それはさておき、音楽の流行り廃りも、何処か植物のそれと少し似ている様な気がする。「わがままに山田を荒らす桜草」という川柳があるが、「桜草」とは、常磐津節から独立した富本節の定紋で、すなわち桜草紋=富本節を意味するのである。当時大流行の富本を取り入れた山田流箏曲をちょっと冷やかした句なのだろう。その富本も清元に押されて程なく衰退していった。飛躍が過ぎるかも知れない例えなので、誤解の無いように敢えて言い正しておくが、富本節に「毒」があったと言うつもりは毛頭無い。強いて何が毒かと言えば、「流行る」と言うことそのものに「自家毒」が潜んでいるのでは無いかということだ。ともあれ直系の伝承の途絶えた富本の遺伝子は山田流箏曲のレパートリーに今も残っている。CDZEN YAMATO IIに収録の「伏見」もそういう一曲で、そんな蘊蓄を脳裏の片隅に置いて聴いて頂くのも一興かと思う。

 音楽の話ならば平和なものだが、人間同士の種の存続を賭けた戦さは穏やかでない。近頃の国際紛争のニュースを聞くたびに、自由と民主主義と資本主義を絶対的な是とする陣営も、我が身を滅ぼす「自家毒」がその身の内に潜んでいるかも知れないことは、然と胸に留めておかなければならないことだと思う。




難解ということ             百錢会通信 令和5年8月号より

 珍しくタイトルを先に決めて、原稿を書き進めようとしたら冒頭から詰まってしまい・・・しばらく唸ったままだった。自分にはこんな哲学的な表題で何か論述できるような思考力もなければ筆力もない。「認識」とか「理解」ということの構造を考えて唸ったままやがて疲れて眠ってしまい、そのままに放置したことなど、思い起こせば今までに何度も経験してきたことだ。

 先日、一緒によく演奏する箏曲の山登松和さんと、我々が何気なく口にする「江戸前の粋」ってそもそも何なのか?という話題になった。改めて考えるといやはや説明は中々難しい・・・というか説明出来ない、解ったようで解ってなかったのだ、というオチにあっという間に辿り着いてしまった。父が晩年執拗に精読していた『「いき」の構造』(九鬼周造著)を何気なくパラパラとめくってみると、次のような一文がまず眼に止まった。

  「我々は「いき」の理解に際してuniversaliaの問題を唯名論の方向に

  解決する異端者たるの覚悟を要する。」

言っていることが何のことやらまるでわからない・・・、すでにこの短い一文だけでこの書物は多くの人の手から放り出されて来たことだろう。

 そもそも人が「解る」、或は「解り易い」とはどういう状況を差しているのか。勇気をもってそれを要約するなら、それは理解する者の日常体験に置き換えることが出来る言葉や事例によって表現されているものを、「解る」「解り易い」というのであろう。「水を飲む」と記述があれば、「水」も「飲む」ということも日常の実体験によって熟知していることだから「解り易い」という事になる。ところが例えは般若心経の「一切は空である」と説くところの「空」とは何か?ということになれば途端に理解が霞んでしまう。このように宗教的な体験や芸術作品に出会うことによる内的体験、あるいは言語そのものの中でしか存在し得ない概念のようなものが言語として表示されると、それは間違いなく「難解」のラベルを貼り付けられてしまうのだろう。さてこれ以上の「認識」についての考察は、もはや私の手に追えるものではないので、止めることにする。

 ところで私が今恐れているのは、現代は「難解さ」を攻撃的に嫌悪する風潮が過熱しているように思われることだ。「難解さ」を保留して受け入れるゆとりが欲しいと思っている。「解り易くない」ものでも傍らに留め置いて、例えば難しい本なら眼を通さずともパラパラとめくるだけでも良いような気がしている。日常目につくところに置いて、長い時間を共にすることが実は一番大事なポイントだと思っている。伝統芸能は正にこの長い時間 ―難解さに向き合う時間― の産物であって、例えば一節を削るにも一節を加えるにしても、一見意味の無いような堂々巡りの試行錯誤が何度も繰り返され、そういう積み重ねの上に成立するのである。こうして生まれた作品は平易で幼稚に見えても、実は研ぎ澄まされた直観による、想像を超えて深遠な世界を構築していることがあるのだ。こうした作品に真に向き合うには、生み出す側が体験してきたような、この「難解さ」とともに暮らしてきた時間が必要なのではないか・・・、どうもそのように思われてならないのである。故に小さい頃から、聞くともなしに聞き、見るともなしに目にする時間が必要なのかも知れない。日本の日常から日本の文化の香りが日に日に雲散霧消していく今日が、何とも寂しいことだ。




喫茶去                      百錢会通信 令和5年7月号より

 福岡の小さな喫茶店の依頼で演奏をしたことがある。藝大の箏曲の先輩に誘われた仕事で、依頼主はその先輩の個人的な友人である。聞くと彼女は実家の民家を一部リメイクしてカフェを営んでいるそうだ。元はご主人の目利きで輸入した豆を自家焙煎して淹れるというこだわりぶりのカフェで、熱烈なファンも多かったらしい。ところがそのご主人が病に倒れ若くして帰らぬ人となった。それでも故人の夢を引き継ぎ、自らコーヒーの研究をし直してそのお店を続けている。演奏の前日入りの予定がまさかの台風到来。飛行機も飛ばず、コレは中止かな・・・と思っていると、まだ新幹線は動いているし、たとえ辿り着けなくても演奏料はお支払いするから是非に!と請われて、その意気に感じて電車に飛び乗った。到着は深夜になったが無事に辿り着き、遅い時間なのに酒盛りで歓待して下さり、印象深く記憶している。店の名前は「Kissako」。淹れるお茶はコーヒーだが店名の由来は禅語の「喫茶去」である。「去」は意味を強める助詞で「まずはお茶をおあがり!」という意味だ。

 私には珍しく今年の上半期は4月から出張演奏が相次ぎ、6月末で漸く全て終了して今もまだ虚脱感というか、何となくボンヤリした気分が続いている。今までにも演奏に追い詰められたことは幾度となくあったが、ナントかカンとか急場を凌いで終わるとボーっとしてしまう。気がつくと次の仕事の準備で既にお尻に火がついていた・・・なんて事の繰り返しだ。今月の禅語カレンダーをめくるとそれは「随所に主となる」。主体性のある生活とはおよそ程遠い私には、誠に耳の痛い言葉が飛び込んで来た。

 なんとかもっと優美な心持ちで生活するための工夫はないものかと、今度は発想を転換して自分より若い人に教えを受けようと思い、やはり藝大の箏曲の後輩にメールをしてみた。すると即座にこんな返事が返ってきた。

 時間効率優先でコーヒーメーカーに頼っていた朝の一服を、ハンドドリップに。豆の様子を見守りながら丁寧に淹れたコーヒーは格別の味わいで、そういう時間を大切にしていますとのこと。一回りも歳下の後輩からのこの一言は効いた・・・。

 コーヒーの格段の味わいは余禄みたいなもの。枢要は湯を注ぐ時間の「無心」である。心を改めて秋以降の演奏に向き合う事を胸に言い聞かせた。




反 復                      百錢会通信 令和5年6月号より

 20年くらい前は、尺八の古典本曲は気楽に気長に稽古しましょう!と笑顔で呼びかけていたのに今は180度転換して、1日も早く暗譜を目指して稽古せよ!と、かなり強硬に煽っている。厳しい指導に方向転換した訳ではない。その理由は簡単明瞭だ。暗譜して演奏する方が断然楽しいからだ。その楽しみを是非知ってもらいたいと強く思うようになったのは、我々がその努力の為に使える時間は限られているということを近頃身に染みて感じる様になったからで、つまり私自身の加齢の所為なのだろう。

 「暗譜」の手順は今更改めて解説するほどのことはないが、今一度要約すれば要点は2つ。1つは夥しい反復稽古。つまり「読書百遍」である。吹くばかりでなく、聞くことも有効である。私の師匠は趣味としての稽古だとしても、月に最低100回は吹け!と発破をかけられたものである。反復という単純作業だから正の字を書いて数重ねるのは誰にでも出来る。でも50回も吹けば大抵は、つまらなくなる、飽きる、面倒くさくなる・・・。しかしこの頃の1回々々の稽古にこそ心を込めると込めないとでは、後に開かれる世界のスケールが変わってくる。上の空の反復では駄目だ。大袈裟に言えば稽古の「馬齢を重ね」てはいけない。どんなに砂を噛む思いがしても、飽きてしまったこの曲から新たな芳香が漂って来るかも知れないという希望を捨てないことだ。ここは一つ、心を無にする気迫が必要である。結果に執着しないという集中が、実は夢を叶える近道だと思う。

 2つめの要点は、音の構造を図式的に冷静に分析することだ。細部を点検し、時に離れて俯瞰する。それを何度も繰り返す。すると容易に同じ節の反復を発見する事ができるだろう。そしてその反復は必ず変容する。何が同じで何が変化したかをよくよく見極める。同じポイント通過地点で1度目は右、2度目は左、という具合にルートマップが出来上がってくると、それまでに積み重ねてきた反復練習による音曲の潜在意識への沈着効果が相まって、いよいよ1曲が空間的な膨らみを増し、1つの感動的な景色となってくる。この喜びを是非味わって欲しいと思う故に「暗譜」を呼びかけるのである。

 ところで私が色々な所で古典本曲を暗譜で吹くと、「よくあんな似たような節ばかりの曲を覚えられるね」と感心されたものだった。今はこのような反応にも慣れてきたが、昔はその言葉を耳にする度に実は内心とても落胆していた。この反復に自分がどれほどの愛着を感じているかはやはり人には伝わらないものだなぁ・・・と。様々な演奏家と聴衆の集う音楽の場面で何度も味わってきた、今でも拭いきれないこの孤独感は、尺八古典本曲を演奏する者にとっては宿命なのかも知れないと感じている。

 ところがある演奏会で偶々一緒に居合わせた津軽三味線奏者の演奏を聴いて、この人も同じ道を歩いているかも知れないと感じて、思わず胸を熱くしたことがある。佐藤通弘という津軽三味線の演奏家であった。聞くとそのコンサートに私を呼んでくれたとても親しくお付き合いさせて頂いている箏奏者の友人で、NHK邦楽技能者育成会の同期生ということだった。箏曲の会に特別ゲストという形で、簡単な解説やトークを交えながらのソロのコーナーが設けられたのであった。ステージで三味線の調子を整えながらこれから演奏する曲の説明を静かに語っているのを私は舞台袖で聞いていた。「簡単で、何とも素朴な、こんな手の繰り返し、繰り返し、繰り返し・・・」。訥々と自分の心に言い聞かせる様な佐藤師の低く穏やかな声を、今でも鮮明に覚えている。津軽の束の間の穏やかな季節の風に吹かれている様な印象が、幕が降りてもしばらく消えることがなかった。浜辺に佇めば何度も同じように打ち寄せる波も、実は一度たりとも同じ形のしぶきも無ければ向きも大きさも皆違っているのである。頬に触れる風もまた同じ。単調と感じられる反復も実は常に変容しているのであって、その微妙に角度を変えて反射する光と影の中にしか見えない、万感の思いというものは確実にあるのだ。

 エキサイティングな速弾きも津軽三味線の醍醐味には違い無いが、あの時耳にした佐藤通弘師の静かな演奏は、疑いようもなく深いエクスタシーの中から響いてくる音風景であった。「暗譜のススメ」講釈が思わぬ思い出話しに辿り着いてしまった。




一歩手前                    百錢会通信 令和5年5月号より

 竹内まりや作詞・作曲による「駅」という作品がある。1986年に中森明菜という歌手に提供されたものだが、この曲にはちょっとした曰くがあったようだ。中森の解釈に対して竹内の夫である、同じシンガーソングライターの山下達郎は違和感を訴えた。そこで山下は自らのアレンジで竹内に改めてこの曲を歌わせ、所謂“セルフカバー”を発表したことで更に知名度の上がった作品らしい。ただ、今これから私が話題にしようとしているのは、その歌詞解釈云々についてではないのだけれど、原稿の文字数稼ぎに少しだけ薀蓄を記しておく。

 さて、「サビ」というのか「Bメロ」というのか専門用語は分からないが、この曲の後半山場の歌詞は次の通りだ。

 

懐かしさ一歩手前で

こみあげるい思い出に

がとても見つからないわ

 

 網掛けで記した「の」と「苦」と「葉」の部分に、旋律的な力点があるのは音楽的な知識がなくても容易に理解できると思う。竹内の歌声にはこの部分に力強い「圧」がかかっているが、中森の歌唱法ではそれが無く、全編が物憂いハスキーな発声である。解釈は正に全く別物であるが、それはさておき。

 良いメロディーだなと感じて思わず復唱してみたのだが、巧まず口ずさんだその自分の歌声に噴き出してしまった。何とも演歌調というかバタ臭くてスマートでない!原因は直ぐに判明した。私の歌い方は、力点が正に「一歩手前」だったからだ。旋律を知っている方は試しに下記の様に網掛けの部分に力を込めて、その後を軽く抜くように歌ってみて頂きたい。

 

懐かしの一歩手前で

こみあげ苦い思い出に

葉がとても見つからないわ

 

 何故にこんなアクセントをつけてしまうのか?その理由も自分ではわかっているつもりである。それは「演歌調」というよりはむしろ「尺八古典本曲風」なのである。尺八の旋律で核になる音は主に「ロ」「レ」「リ」などであるが、古典曲ではこれらの音にほぼ毎度と言ってよいほどに装飾的な前打音をつける。すると「ハロー」「ツレー」「ウリー」といった我々には馴染み深い「尺八歌唱法」的な発音になるのだが、この装飾としての前打音に過剰な力を込めることがよくある。そうしなければ表すことの出来ないものがあるのだ。勿体つけずに単刀直入に言えば、それはその一音に込められた心象に広がる深い闇であると言ってよい。或は虚空と名付けるべきものかも知れない。その虚空を突き抜けた先に光明を見出そうとするのが私の本曲吹奏の主眼目であると思っている。そんな尺八吹きの習性というか仕草が、歌謡曲一節口ずさむ時にも表れてしまうことだ。




老人と土壁                  百錢会通信 令和5年4月号より

「 畦道の一角に崩れた土壁があった。その朽ちた様に趣を感じて眺めていると土地の者らしき老人が通りかかった。『この壁はいつから崩れていたか』と問うと『ワシが子供の頃には既に崩れていた』と。 」

 

 葉書に収まるほどの短いエッセイを時折送ってくる画人の友がある。眼を通して「ほ、ほう・・・」と感心することが多い。ところがその記憶も何時の間にか日常の中に紛れてしまう。刺激も程々に話題が穏やかなのだ。ところが忘れた頃合いを見計らったように、絶妙の間で次の便が届く。色々な意味で私にはちょっと面白い「自己アッピール」の不定期便だ。

 そんな具合に失礼ながら、中身は直ぐに忘れてしまう「ショートエッセイ宅配サービス」だが、冒頭に掲げた便の一文は中々脳裡から消えないでいる。理由ははっきりしている。日本の伝統芸能の現状を色々重ね合わせてしまうからだ。

 私が長年受け持ってきたあるカルチャーセンターが今春に閉鎖となった。「どんな芸能も寿命を迎えて衰滅することがあるのは歴史が証明している。継承のための教育は、一つの事業でもあるのだから、時に整理縮小の大鉈を振るわなくてはならない場面のあることも、避けて通ることの出来ない現実だ」。プロアマ問わず、稽古の現場からは様々な苦渋の声が漏れ聞こえて来る。音楽の実演家育成の現場は和洋問わず、極めて厳しい状況にあるのではなかろうか。

 ところがやけに明るい知らせが来ることもある。一個人が開いていたお稽古場から指導職格者が育ち、その人たちを実働部隊として子供の為の和楽器体験ワークショップが開かれた。東京近郊だけだが開催は10数カ所でそれぞれに10回、参加者もまた一度に10数名という小さな催しだが、かけあわせると僅か半年の間に延べ1000人もの子供を動員したという。終了記念のコンサートには笑顔の子供たちが100人近くも舞台に並ぶ予定であるという。陳情も怠らずに既に予算付きの行政の後押しも取り付けた。「和楽器の世界には今真に追い風が吹いている!」と、主催者は眼をキラキラと輝かせている。

 歴史と言うものは常に多層的に重層的に、極めて多様な光と影を孕んで形成されて行くものなのだろう。私が幼少より仕込まれた虚無僧尺八は『ワシが子供の頃には既に崩れていた』土壁のようだった。それが50年も経てテレビの音楽トーク番組に取り上げられたりもする。未来に何が起こるかは常に予想を遥かに上回るようだ。ふと思い出したのは親鸞の歌。

 

 「 明日ありと思う心のあだ桜 

         夜半に嵐の吹かぬものかは 」

 

良しにつけ悪しにつけ、未来に一喜一憂することを戒め、今に集中することを静かに心に言い聞かせたことだった。




想像力、或は空想力         百錢会通信 令和5年3月号より

 クラシック音楽に精通した友人が私にこんなことを告白した。「初めて出会ったアーティストの演奏を聞いた時にね、例えばその人の容姿が豊満だったとすると、演奏の音までが豊かで肉付きの良い響きの様に感じちゃうの。逆にスリムな人が例えばヴァイオリンを弾いていたとするでしょう、すると何となく硬くて切り込みの鋭い音楽を奏でているように思い込んでしまっている、そういう自分にふと気づいたりして・・・。要するに私の耳などイイ加減なものだという話なんですが(苦笑)。でもね、冷静に客観的に聴く耳を余程鍛えたつもりでも、人間の先入観というのは中々根が深いモンだと思いますよ・・・」と。

 芸能界の歌手や役者ばかりでなく、純音楽の世界も演奏家の容姿を重視する傾向は強くなってきていると思う。ビジネスとしての音楽活動の成功を目指すならば、これはもはや避けて通ることのできない、必要不可欠なファクターとなっているのかも知れない。近年の邦楽も同様に、チラシに載る若い演奏家の写真は、そのまま芸能界にスライドしても可笑しくないような、美形の女子・男子が本当に増えてきたと思う。業界の活性化という面においては誠に結構なことだと思っている。しかし反面、「美しく見せるため」ひいては「売るため」の様々な作業に、莫大な時間が費やされているであろう現場を思い浮かべると、一抹の寂しさも禁じ得ないのである。

 先日、小さなラジオ番組のトークで聞いた、ちょっと面白いエピソードを紹介したい。私の尺八の製作者である三塚幸彦氏がパーソナリティーを務める「日本!音楽紀行」という番組に、ゲストとして私が出演した際の話である。トークの流れの詳細は忘れてしまったが、音楽の感動は、聴く側の想像力を阻害しないという事が、意外に大切なことなのではないか、と私が先ず発言した。そして虚無僧尺八は、亡き人を偲ぶ鎮魂の音楽であると説明されることが多いが、演奏する側からそう限定するのは少し違うのではないかと主張したのだ。喜怒哀楽を含め、音楽によって様々に湧き上がる心模様というものは、どこまでも聴く側の内面の問題であって、全き「個」の世界、あらゆる束縛や強制から解き放たれた内面世界での、自由な想像や空想の上に成立するものではなかろうか。喜怒哀楽は音楽の中にあるのではなく、聴く者の心にあるのであって、意図して聴衆に涙を催させるような企みを持ってはならぬと、幕末の著名な尺八家が戒めている、ということを申し上げた。すると三塚氏は次の様にリアクションされた。「今の話を聞いて思い出したことがあります。僕は『遠音』というバンドを組んでいて、生まれ故郷の北海道の自然をテーマにしたオリジナル作品を演奏してますが、ある時、北海道の雪の季節の曲をアフリカの人に聞かせたんですね。そうしたら彼は後で感動してこう言ったんです。故郷のサバンナの景色をずっと思い出してました!って。」雪を表現したのにサバンナの草原を思い描いていたという状況に思わず笑ってしまったが、それは音楽のとても幸福な時間だったですねと、大きく頷いたことだった。

 痩せたミュージシャンの音が何となくキーキーと聞こえるというのは、何とも次元の低い鑑賞態度のように見えるけれど、この自由な想像力と空想力を否定してはならないと思う。その自由を失わなければ、音楽はやがてその人に瑞々しい豊かな贈り物を届けてくれるだろうと信じている。




威圧を加える               百錢会通信 令和5年2月号より

 その昔、三絃の名手と謳われていた菊岡検校は絶大な勢力を誇っていた。その菊岡と並び称されるのは箏曲の名人八重崎検校で、当時この両者に対抗する者は皆無であったという。以下はこの菊岡と八重崎との逸話である。

 菊岡は八重崎のずっと先輩格で、2人が出会ったのは八重崎がまだ検校の格に昇る前、壱岐の都(いきのいち)と名乗っていた頃であった。壱岐の都は菊岡のずっと後輩ではあるがその実力は既に広く認められていた。故に菊岡にとっては大敵、大いに威圧を加えておく必要があったので、ある席で落ち合ったのを好機とばかりに、菊岡は機先を制して壱岐の都に突きかかった。饗応の食事に出た吸い物を一口すすると、その余りを壱岐の都に突きつけ之を飲めと言った。後輩なら否応なしに吸うだろうと予期していたが敵もさる者、即座に之をきっぱりと断った。先輩から無礼侮辱を受けて尚機嫌取りをする様な意気地なしではなかったのだ。芸の技量をもって堂々と勝負することを心に決めていたのか、喧嘩口論で争うことなくその場の衝突は避けられた。文字通り、その次の手合わせで2人は火花を散らす。菊岡は三絃を取り、壱岐の都は箏をもって合奏となり、曲は「玉川」が所望された。双方共に用心して慎重に弾き始めた。やがて壱岐の都がポツポツと替手を入れ始める。更にその手に変幻を加えて三絃に肉薄すると菊岡は壱岐の都の妙腕に翻弄され、追々と乱調になった。更に壱岐の都の手が極妙に至ると菊岡は堪えきれなくなって演奏は止まってしまった。両者の初の手合わせは菊岡が壱岐の都の痛撃を喫して幕引きとなった。

 如何としても屈辱に堪えぬ菊岡は、何とかしてこの仇に報いる事を思案したが、結局は技量をもって制する他に途はないと考え、猛稽古に励んだ。やがてここ迄に鍛錬すれば何時壱岐の都と手合わせしても遅れをとることはあるまいと、心密かにその機会を待っていると、程なく両者が顔を合わせる機は訪れた。壱岐の都は益々その真価を発揮して不動の名声を誇り、その時既に昇格して八重崎検校を名乗っていた。先ずは菊岡が「玉川」をと口を切る。大方以前の復讐と察して尚動じない八重崎は異議無くこれに応じた。菊岡は即妙の替手を仕掛けるが八重崎は動かず、菊岡の替手に合わせて更なる替手を施し、見事無事に合奏を終えたのである。ここに至って八重崎の卓絶の技倆に感じ入った菊岡はついに我を折って打ち解け、義兄弟の約を結んで更に芸道の研鑽に励み、箏の八重崎、三絃の菊岡と後世にその名を遺すこととなったという。以上は大正3年、竹友社会報に掲載された、笹尾竹之都による「名人逸話」の要約である。笹尾師とその高弟の佐々川静枝師は神如道と縁浅からぬ人物であったのでこの小文が目に止まり、思わず引き込まれて読み通した。

 江戸時代の盲人の自治組織「当道(とうどう)」においては、当然のことながら世襲制は成立し得ない。身分制が隅々まで行き渡っていた当時のあらゆる職能集団の中で当道は稀有の実力社会であった、と民族音楽学者の小泉文夫氏は指摘している。その実力主義がこのように武闘的なものであったということに私は全く思いが及ばなかった。菊岡といえば「夕顔」「楫枕」「ままの川」「御山獅子」など、どの作品も清らかでしみじみとした情緒漂う名作ばかりを残した検校であるので、その曲調から想像していた人物像がガラガラと音を立てて崩れるようで、先の「名人逸話」には正直驚いた。

 動物の世界で自分の優位性を示すために相手にまたがることを“マウンティング”というが、同じような習性が人間社会においても、当たり前のこととしてまだ機能していた時代なのかも知れない。所謂「マウントをとる」人間は現代では尊敬されないどころか軽蔑の対象であるけれど、そうした人物への対処法がネットのあちこちに見受けられるのは、所詮動物としての人間から、その本能が失われることは無いという証左ではなかろうか。人を威圧することもされることも、私には考えたくもない忌まわしいことだ。けれども先のような名人達人の逸話を読むと、演奏家としてのエネルギー不足、生産力の乏しさも、そんな資質に起因するのかも知れないと、ふと思った。




伝統と革新                  百錢会通信 令和5年1月号より

 私の住む所沢の駅界隈が、大規模な再開発で騒がしい。まず道路が拡張するから周りの建物は改築ではなくて、いっぺんきれいな更地にしての新築である。もともとは西武鉄道の操車場を、その近隣も買収した広大な敷地にして随分と大きな商業施設が建設されるらしい。今は地盤工事の段階で、クレーン車などが何台も集結しているが建造物は全く見当たらない。お蔭でこのあたりでは見たこともないやけに広い空が広がった。30万都市所沢の中心部にこれだけ雄大な夕焼けの景色が眺められるのは、恐らくこの半年くらいの間だけであろう。小泉内閣の規制緩和以降、地方などは特に大型の商業施設が建設されてその規模の大きさに驚いたものだが、この大空を眺めたら、たとえどんなに莫大な資金を投入した建造物がそこに出来ても、所詮はちっぽけな集落に入れ替わり立ち替わり現れる小さな箱に過ぎないという事が、当たり前の事として感じられたのが妙に面白かった。

 今年の6月に三越の小さなイベントを筝曲の山登松和師と引き受けることになっている。30名位の会員限定で、鑑賞会と食事会がセットの催しだ。ところで三越は今年創業350周年になるそうだ。様々な形で催される記念イベントを統合するテーマは「伝統を越える革新性」。事前に提出していた、山登松和師と私の古典ユニットZEN YAMATOのキャッチコピーの「革新は伝統の中にある」がちょっと似ていたのでたまたまそれが担当者の眼に留まり、この小さな鑑賞会にも350周年の記念企画の冠をつけましょうという提案があった。こちらもそれを断る理由は無いので快諾した次第だ。

 厳密に言えば、「伝統を越える革新」と「伝統の中にある革新」は少しニュアンスが違う。我々の肉体は細胞レベルでは常に死と再生が繰り返されているのであって、固定された実体というものは実はないのだと思っている。同じように伝統と革新は一つの連続性の中でしか捉えることが出来ない概念であって、その意味においてZEN YAMATOのコピーの方が「革新」ではなく「核心」に少し近いのではと密かに得心している次第で、広い大空の下に建て替わる建物も、小さな小さな細胞レベルの再生に思われてきたことだった。以前にも紹介したことのある良寛の歌を、年頭にあたり諸兄姉の前にお供えしたいと思う。

 

「 あは雪の中にたちたる三千大千世界(みちあふち) 
                 またその中にあは雪ぞ降る 」





芸術家の日常なんて…       百錢会通信 令和4年12月号より

 あらゆる仕事の締め切りが間に合わない・・・。仕事の出来る人は任務を手の内にホールドしないそうだ。その場で処理するか、それができない案件は直ぐに他へ手渡す。持ちきれない荷物を抱えて出来る仕事も台無しにしてしまうのは愚の骨頂。誠に明快極まりない正論だ。抱え過ぎは本人の責任で、その挙げ句に何もかも雑な仕事しか出来ない自分に嫌気がさす。情けないそんな愚痴を今までに何遍こぼしてきたことだろう。すると周りの優しい友達は決まってこんな言葉をかけてくれる。「芸術家は実務家ではないのだから、それで良いのではないか・・・」と。労わって下さる気持ちはしみじみと有難い。でも自分がダメ人間に変わりは無しという劣等感の出どころが杳として知れず、よって消し去ることが出来ない。仕事を手放せないのも、人間の一つの深い執着・煩悩と識る。

 ところで、あなたの職業はと聞かれて芸術家ですと答える人がもしも目の前にいたならどう思うか。私は九割九分、手練手管を駆使した「エセアーティスト」と勘繰ってしまう。香具師のハッタリで世間を泳ぎ渡る人物も少なくない事だ。ただ誤解のない様に断るならば、多くは日々粛々と真面目に技術を磨いていて、鑑賞に堪える作品を安定して提供する。そのスキルを身に付けた人を巷間、職業としてのアーティストと呼ぶのだろう。しかし私がつくづく想うのは、職業としての真の「芸術家」というものは果たして成立するのだろうか?という疑問である。本当の芸術というものが生まれる瞬間など、本人でさえも、だれも予測することなど出来ないし、実務としてその遂行を保証することなど、とても出来るものではないと思うからだ。

 真面目に芸術に向き合う者は、どうしたって心がざわめいたり、虚ろな倦怠の時を持ち堪えなければならないのではないか。そういう同類の友がどこかで今日も同じ月夜を仰いでいるかも知れない。仕事の帰り道すがら、よくそんなことを想う。町田や狛江の稽古の帰りは、登戸から南武線で府中本町へ向かう。たまに2つ手前の稲城長沼駅止まりの電車が来ると迷わずにそれに乗る。空いているからだ。そしてその終点の稲城長沼まで乗ってしまうと、折り返しの為の別のホームに入線してしまい、府中本町まで辿り着く後発の電車への乗り換えが厄介になるので、更に一つ前の矢野口駅で降りる。夜のこの駅から見える景色は何か乾いていてやけに寒々しく感じられる。ふと横を見ると、同じ魂胆でこの列車とこの乗り換えを目論んだと思われるサラリーマンが、手にした文庫本を喰い入るように睨んでいるので、失礼ながら遠目にその文庫本を盗み見した。小見出しに「生きるじたばた」とあった。良く記憶している好きな詩人のエッセイで、たったそれだけのことで何故か急に胸が暖かくなった。駅の殺風景が夜の花畑になる。詩人の呼び寄せる日常の富とはこういうものだろう。細やかな幸福を感じた。




息は心                      百錢会通信 令和4年11月号より

 私が地歌箏曲に心を開いたのは18歳の時である。幼少の頃から母の爪弾く箏の音を聞いていて、また演奏会にもよく連れられて名人の演奏に接したこともあるはずなのに、永く心が動かなかったのは、やはり糸の音曲に対する感受性が鈍かったのだと思う。それがどうしたことか、成人式も間近の頃、西松文一という盲人の演奏録音を聞いて、目から鱗ではなく耳の場合は何と言うのだろう、一聴にして開眼という表現が決して大袈裟ではなかった。

 芸系の詳細が余り明らかになっていないところを見ると、見様見真似の自己流的な部分も少なくなかったのかも知れない。磨き抜かれた「お家芸」の正当な継承を重んじる三曲界に西松の居場所は無かっただろう。私が辛うじて晩年の生演奏を聴く事が出来たのは地歌舞の地方としての舞台だけだった。三絃の音を聴く限り、失礼ながら余り高価な楽器の音色とは感じられなかった。歌節にしろ三絃の奏法にしろ、「お家」に伝わる「型」というものも、誤解を恐れずに言えば大切なひとつの「お道具」であって、その意味において西松の境遇は、決して「お道具」に恵まれてはいなかったのではないかというのが、私の印象であり推測である。にもかかわらず、西松の地歌は深く深く人の心に響き、その芸は難解な形容を静かに拒絶する。辛さ哀しさがそのまま優しさに転じていく。呆気にとられるほどに単純な、ただそれだけのことにとめどなく涙が溢れるのである。

 西松に接した、決して多くはない人々が口を揃えて言う事は、余りに世事に「無欲恬淡」であるが故の「隠れ名人」という表現である。漏れ伝え聞く逸話も少ない。私が学生時代にお世話になった地歌筝曲研究家の故中井猛先生が、珍しい座談の録音を持っておられて、西松自身の地歌観を語ったものとしては、これが恐らくは唯一の記録ではなかろうか。地唄舞の地を演奏する時の心構えについて語った部分を下に記しておく。

 「舞う人は、私がずっと息を詰めて歌い込んで行くと、その歌う時の息と同じように息をして舞っているんだそうです。息はね、心なんです。息と心と言うものはもう、非常に密接なんです。今ちょっとハイカラの言葉で『あの人とは、フィーリングが合わないわ』なんて言うけど、フィーリングよりもっともっと大きな物ですね、息とか心とか言うものは。地唄舞は、思いを込めて、心を込めて、じっとしているんだったら様になりますけれども、気が抜けちゃってじっとしてるんだったら、そこで何してるって言われても、しょうがないですからね。」

 「息は心」。尺八を吹くものとして、確と心に留めておきたい言葉だと思う。




技巧談義                    百錢会通信 令和4年10月号より

 南こうせつというシンガーソングライターは、1949年生まれ、今年で73歳になるが、デビュー当時から歌う声の高さが殆ど変わらないそうだ。普通は声帯も老齢化に伴い劣化して、概ね声域が下がって来るものだが、南は今も同じキーで歌い続けているという。第一線の歌手として声帯を傷めない発声法を約半世紀にも渡り、堅実に維持して来たのだから、やはりそれは驚くべきことだと思う。

 南こうせつを引き合いにしたら本人は尻込みするかも知れないが、『ZEN YAMATO』でご一緒する山登松和師は、最近昔より高いキーを指定して来ることがあるので、私にはちょっと嬉しい驚きである。普段から門下の女性に合わせて更に高い声を出すことに慣れているとは言え、還暦を間近にして高いキーを維持することは大変なことで、身体能力の維持と技術の鍛錬を人知れず積み重ねているに違いない。

 高度な演奏技術を鑑賞することは理屈抜きに楽しいことだ。それが凡庸な我が身の能力からかけ離れていればいるほど、驚きと興奮が高まることに説明は要らない。プッチーニのアリアのHi Hや、レッドツェッペリンのヴォーカルのHi Eが凄いとか、マニアの“薀蓄合戦”の活況が眼に浮かぶようだ。声域に限らず、速弾きとか、即興の妙であるとか、或は頭にインプットされたレパートリーが千数百曲であるとか、常人には予測も出来ない超絶技巧の話題は、音楽愛好家の間で交わされる会話の中で、最も頻度の高いトピックではないだろうか。誰かを誹謗中傷することもないし、日常の憂さから束の間でも解放されるようで、何より平和な時間だ。

 しかし忘れてはいけないもっと重要なことがあると感じている。それはあらゆる作品の源泉にある「何か」、肉体の眼や耳ではなく、魂の眼力と聴力でなくしては捉えることの出来ない「何か」である。プラトンの言う「イデア」という概念が最も近いかも知れない。これに導かれてこその、表現における身体能力であり技術であると思うのだが、その部分が現代はなおざりにされ過ぎているように思われてならない。超絶技巧談義とは違ってこの類の話は重苦しいし座が盛り上がらないから、敢えて口にすることは皆無だ。しかし私は心の中でこうつぶやいている。世の中の本当に優れた作品の大半が、“超絶技巧談義”的な視点からばかりの評価に晒されていることは、少し淋しいことだと。マスメディアの仕掛ける「分かり易さ」の指標はいよいよここに集中してきているようにさえ感じる。そのメディアへの露出が最優先される日本の音楽界は、7080年代の、南こうせつの時代よりはるかに生産力が脆弱になってはいないだろうか。これはジャンルの別を問わない問題であると思っている。




ナルシ                      百錢会通信 令和4年9月号より

 学園祭のシーズンになった。特別苦い思い出がある訳では無いが、昔から余り人中に交わるのが苦手だったので、自分が当事者として参加する学園祭を好んで回想することは無い。けれど娘の学園祭へは足取りも軽く、楽しみに出かけたものだった。

 娘は音楽や美術の道を目指す者が集う県立の芸術総合高校に進学した。場所は私が住む同じ所沢市内だが、かなり奥地の緑豊かなロケーションで、たまに訪ねるとちょっとした行楽気分を味わえるのも楽しかった。学園祭は自由奔放にアイディア・希望を出し合って様々な催しが企画されるから、演奏が繰り広げられるステージでの生徒たちは一段と生き生きとしていた。声楽・弦楽・金管・木管・ピアノ・打楽器などなど、終日様々な楽器の生演奏をフリーで楽しむことが出来るので、近隣の音楽愛好家にも結構人気のイベントだったと思う。

 何より真っ直ぐに好きな音楽に向かう姿が清々しい。中には背伸びしてカッコつける生徒もいたがそれはそれで初々しく、どこか可笑しみも感じられて不快なことではなかった。只、今改めて思い返してみると、そういうちょっとしたカッコつけに潜む、自己愛の傾向は男子に多かったと思う。自己愛・自己陶酔、ナルシズム。心理学の研究対象としてのナルシズムは、かなり深い暗黒の世界を彷徨うことになるから余り深入りしたくないのだが、「彼はナルシだよね!」などと言う冷笑的な会話が、最も頻繁に聞こえてくるのが芸能の世界ではなかろうか。

 私の演奏・音楽についても、実は自己愛的な傾向を、今までに指摘されたことがないわけではないので、正直に白状すればちょっとだけ耳に刺さる言葉だ。心理学的には随分と難しい定義と論述がなされる「ナルシズム」だが、私が身近な音楽の世界で遭遇する「自己愛的傾向」について直感的に思い浮かぶのは、深い孤独感である。愛する気持ちと、愛されたいという気持ちがもつれて絡み合い、いつの間にか身動き出来なくなる。挙句に逃げ込んだ隠れ家が自己陶酔という砦だった・・・。乱暴な要約だがそのように感じている。

 でも単刀直入に言えばやはり「ナルシ」はいけない。辛い孤独の時がどんなに長くても、他者への愛に導かれる日が来ることを、そしてそこには見返りを希う気持ちなど微塵も存在しない、その時が開かれることをひたすら念じていればそれで良いと思う。今若くして苦悩する音楽家達がいるなら、彼らにその幸運が訪れることを祈るのである。




異文化への視線             百錢会通信 令和4年8月号より

 その事件は、1984年のニューヨークの近代美術館で開かれた「20世紀美術におけるプリミティズム」展で起こった。この展覧会はピカソなどの今世紀初頭の画家の活動とアフリカ美術との親縁性を浮き彫りにしようとする野心的な企画であったが、企画者にとってはそれが思いもよらぬ物議を醸すことになった。以下に詳述する興味深いこの話題を、私は渡辺裕著「日本文化モダンラプソディ」によって知った。

 この「プリミティズム」展では、ゴーギャンをはじめとして、ピカソ、マティス、プランクーシ、ジャコメッティなど、約150点もの「モダンアート」の作品が、アフリカを中心とする「部族美術」約200点と並び展示された。企画者の意図としては、その両者の類似性を示すことによって、ちょうどルネッサンスが古代ギリシャを発見したように、20世紀の西洋がアフリカを発見することによって、いかにして自文化中心主義を乗り越えて新局面を開こうとしてきたかが明らかになるはずであった。ところがこの企画には激しい批判が相次いだのである。

 批判の急先鋒の一人、ジェームズ・クリフォードは次の様に指摘している。この展示で特徴的なのは、モダンアートが歴史的な文脈の中で生きた存在として扱われているのに対して、アフリカ美術は年代も地域すらも表示されない、もはや消えかけた過去、静止して発展することのない文化として紹介され、現代に変容し展開されているアフリカの様々な活動が全く視野に入っていないというのである。アフリカはヨーロッパの植民地支配におかれ、その西洋との接触によって様々な新しい造形活動が生まれた。こうしたアフリカのモダニズムは使い古されたヨーロッパ文明に汚された無価値なものとしてみなされている。その背景にあるのは、「先進国」としての西洋が、自らが進み過ぎたが故に失ったと思っているものを「後進国」のうちに見出し、それを「保護」するという名のもとに、その差別を固定化しようとするまなざしそのものであるというのが、クリフォードの主張である。

 明治維新後、日本に西洋文明が濁流の様に流れ込んできた。アフリカ諸国の「モダニズム」と同様に、日本にも様々な「ハイブリッド種」の作品が生まれてきた。歌舞伎という日本の伝統演劇に洋楽や洋舞を加え、その改良による新たな国民劇の創造を目指していた宝塚歌劇もその一つであろう。我々に身近なところでは多孔尺八である。さて、ここで先の著者が着目しているのは、戦前の雑誌に掲載された多孔尺八の宣伝の、そのキャッチコピーである。「日本楽曲は勿論、流行歌、洋楽曲も楽に吹ける、国粋新楽器7孔尺八」とあるが、この「国粋」という表現が、現代の我々一般人には何かちょっと「ヘン」な印象を与えないであろうかと指摘するのである。著者は大学の講義でこの事例を紹介すると、若者の中にはクスクスと笑い出すものも少なくなかったそうだ。洋楽の影響を受けずに日本古来の楽曲と方法論を伝承して行くことが「国粋」であって、尺八を西洋化することはそれに反するのではないか、という認識がこの笑い声の根底にあるものだ。ところが少なくとも明治期以降、戦前まではこのような宣伝文句が当たり前に世間に流布していたのである。つまり現代の我々の「国粋文化」に対する意識は、何処かで変化してしまったと言わざるを得ない。

 ここから先の渡辺氏の論考を我々は慎重に見て行かなければならないと思う。~西洋から見た「異文化」~という項を渡辺氏は次のように結んでいる。『7孔尺八のように「西洋化」されたものを「不純」として排し、西洋にない「純粋」な文化を保存しようとする発想はまさに、「プリミティズム展」のコンセプトにみられた西洋人の目による「異文化」表象のありかたにほかならない。言い換えるなら、今われわれ日本人がいだいている自文化の表象は、このような西洋人の日本文化に対する視線を内面化してしまったことの結果にほかならないのである。』

 19世紀後半、欧米列強の日本進出により内乱が起こり政権が転覆した時、雅楽と能楽を除く日本の芸能は所詮遊郭の遊戯であって、最早この新しき世に無用の長物であると主張する強硬派が出現した。これに対する反発として、従来の芸能に西洋文明を取り入れた新しい「国粋」の芸術を創造しようとする運動が、日本の様々なジャンルの芸能者の中から起こった。「多孔尺八」の出現もその気運の中にある。その一方で従来の芸能を従来の方法論のままに、粛々と研鑽を積み重ね続けた人たちも勿論残存し続け、またこの三派を様々な架け橋によって縦横断する人々もあったのである。芸能はいつの時代もこのように、多層的・重層的にゆっくりと変遷して行くのだと思う。現在の身近な邦楽界を見回してみても、その温度や人口比率の差こそあれ、概ね同じような会派・同人・共同体などが今も存在し続けている。もしも渡辺氏の指摘のように、日本文化に対する西洋人の視線を内面化した人々が現代の一般の標準であるとしたら、その中心はアメリカの占領統治政策の影響を最も深く身体に刻まれた、1960年以降の日本人、正に私の年代なのではないかと思っている。そういう世代の中にあって古典に軸足を置く私の活動は、常に自己分裂の危機との闘いの中にある。何故なら私は自らの表現を「もはや消えかけた過去、静止して発展することのない文化」とする事は出来ないからだ。




露切り                      百錢会通信 令和4年7月号より

 「尺八の管尻から露が落ちる季節になりましたな」。秋も過ぎようという頃、神如道は父に言ったそうだ。それは暗に、尺八の稽古の折には、露を受ける布を前に置きなさいという教示であった。当時、同世代の師匠の稽古と言えは罵声・怒声・体罰などは当たり前。這う這うの体で稽古場から逃げ帰って来たなどという逸話も少なくないので、時にこんな風流な指導もあったものかと、印象深く覚えている父のひとつ噺である。

 およそ管楽器というものは人間の息を使うのだから、呼気に含まれる水蒸気が冷えた管の内壁に結露するので、どうしてもこの雫を無くすことは出来ない(このコロナ禍にあって管楽器が嫌われた理由の一つにこの結露があったのではないかと思う)。拠って、オーボエでもフルートでも、それぞれの楽器に使い勝手の良い、結露を拭う小道具が考案されて来たのだが、どの楽器でも似たような構造の物を使っているのではなかろうか(尺八ではこれを”露切り“と呼ぶ)。錘のついた紐を管に通し、その紐に括り付けて置いたガーゼや小さな手拭いなどを管内に引っ張り通して結露を拭う仕組みだ。

 その際に尺八の場合は、精密に薄く削られた歌口を損傷してはならないから、必ず片方の手の指でそれを保護しながら紐と布を通す所作を初心者には教えなければならない。さて、かつてその様に指導したはずの受講生の内の幾人かが、ふと見ると錘を管尻から上部管に向かって通し、無造作に露を拭っていた。なる程その様にすれば片手で歌口を保護しなくてもエッジ部分を傷める心配も無く、誠に合理的なその扱い方に、実のところ大いに感心させられた。

 そこで自分でもそれを試して見た。ところが予想外に強い違和感を私は感じた。初心者には息を管内に吹き通すイメージを持たない様にと指導しているが、音の「気」の様なものはやはり上部から下管に流す感覚がある。どうもその流れに逆目を立てる様な心地がして、どうしてもその方法に馴染める気がしなかったのだ。誠に非科学的な話ではあるのだが。

 学生時代の笑い噺をふと思い出した。我々が指導を受けた山口五郎先生は大変多忙で、締め切りを迫られた用事の連絡などで良くレッスンを中座なさる事があった(喫煙タイムの場合も少なくなかったようだが)。するとその隙に眼を盗んで机に放置されている先生の楽器をこっそり吹いてみた学生がいる。やがて先生が戻って稽古再開となる。すると先生はニヤッと笑って「私の楽器触った?」と仰ったそうだ。楽器の空気の流れが変わるのでわかるのだそうだ。逸話として多少は話を盛っている様にも思えるが、山口先生については同じ話が他の稽古場からも届いて来るので、やはり達人の世界は楽器との心の通わせ方が違うのだ!などと大いに盛り上がったものだった。

 露切りを下から上に通したところで音が変わる事はないのだろうけれど、小さな神秘的現象が起きているかも知れないと空想しながら笛を吹くのは、ちょっと愉快な事だと思う。父の時代なら秋冬の話題だが、近頃は冷房が行き渡り、夏の盛りを迎えても管尻から露は滴り落ちるので、季節外れながら束の間、肩の凝らない話題を供する次第である。




土方の指の一本や二本・・・     百錢会通信 令和4年6月号より

 連休に庭仕事をしたら、一瞬の油断で指に怪我をしてしまった。少し大きめの庭石を転がす時に右手中指を少しだけ挟んでしまった。幸い骨にヒビが入ることもない軽傷だったが、切り傷より傷口の塞がりにくい裂傷があったので、僅かな傷でも添え木をしましょうということで、やけに物々しい包帯を巻かれることになってしまった。誠に油断という他はない。三十歳半ばまで父と共に汗水流した建設現場では、外構工事で庭石などを動かす作業の経験は数知れず、重量物の形状と重心を目測して作業に当たる事などは基本中の基本。さほどに重くもない石だったが重心を見誤ったのが仇となった。墓石の下から父の怒声が聞こえたような気がした。

 虚無僧尺八吹きでは生活出来ないから、“食いっぱぐれ”の無い土方仕事と鳶仕事を身につけろと、父に言われるがままに来る日も来る日も地下足袋のコハゼを掛糸に引っ掛かけ身支度を整え続けたものだった。尺八吹きを続けるためのシノギが、何時指を損傷するかわからない危険作業の連続であるということは、何とも矛盾に満ちた話で、父の命令を腹立たしく思ったものだったが、その修行があったからこそ今度の怪我が軽傷で済んだのもまた事実である。

 現場では当然のことながら、私も父も指には細心の注意を払った。一瞬の油断で指を落としてしまうような危険な電動工具などは一切触らせて貰えなかったし、セメントや剥離剤など、酷く皮膚を荒すような建材を扱う作業には高価な皮の手袋を与えてもらった。ただし、幾ら力仕事と言ってもいつもスコップやレンチを握っていれば良いというものでは無い。時に素手の方が余程か捗るという作業が実は山ほどあるのだ。そんな時でも私は手袋を外さず、一段と要領の悪い手つきで作業にあたっていた。すると業を煮やした手練れの人夫が「アニさん代わってみな!」と割り込んできて、手の皮が剥がれようが多少の切り傷擦り傷厭わず、素手でさっさと仕事を片付けていった。そして笑いながらこう呟くのだ。「土方の指の一本や二本潰れたって世の中ちっとも困りゃしねぇよ!」と。

 「そこの青年、さしづめインテリだな」という寅さんの台詞ではないが、ヒョロヒョロの青二才をからかうというか当て擦りには違いないのだが、私はこの一言を思い出すと今でも感慨深く、ちょっと変な言いまわしだが、何故か妙に誇らしい気持ちに満たされた懐かしさが込み上げてくる。我が身を「土方風情」と自己否定しつつも、その身をもってして僅かばかりでも社会に資するという、件の人夫の無意識下に沈潜していたものは、いわば市井の良識というもので、昭和という時代にはまだそれがアチコチに残っていたと思う。

 さて治療で訪ねた近隣の医者は「成長ホルモンの分泌が活発な若いモンなら治りも早いけどネェ、年寄りは気長に待つしかないからね」とやけに楽しそうだ。80歳も半ばになろうかという老外科医の言なれば笑って頷くしかないだろう。3週間を過ぎて傷口はほぼ完治。粗忽な主にもかかわらず黙々と修復を怠らない身体に深くお詫びと礼を言いたい気持ちになった。「身体髪膚これを父母に受く あえて毀傷せざるは孝の始めなり」と孔子は言った。じっと自分の指を見る。泉下の父は「この馬鹿者が!」と叱責するに違いないが、かの人夫の母親ならどうするだろう。あの世で我が子の手を優しく握り、良くしたと誇らしく微笑むのではなかろうか。そんな空想にしばらく浸ったものだった。




春から初夏にかけて           百錢会通信 令和4年5月号より

 「むかしむかしあるところに・・・」の口上を聞けば、誰もが思い出すのは昔話の「桃太郎」であろう。子供心に不思議でならなかったのは、犬・猿・雉たちがたかだか黍団子を貰う為に、命を賭して鬼退治に参加するのは、余りに危険な代償ではないかということで、そういう荒唐無稽さが逆に面白可笑しかったのだと思う。さて、この歳になって改めてこうした説話・昔話を寓意的に解釈するなら、飯を食むためには生死をかけて戦に赴かなければならなかった、封建時代の民草の苦難の日々が、無意識下にこうした説話に投影されたのではないか?と、どうしても思わずにはいられない。

 多くの餓死者を出し、民衆の暴動も頻発した飢饉と言えば、江戸時代、享保・天明・天保の三大飢饉が思い出されるが、「今昔物語集」が編まれた平安末期から中世もまた、惨憺たる飢饉があったであろうことは調べるまでもないだろう。また興味深い事実で、少し盲点を突かれた思いがしたのは、戦国期の物故者の記録を多く持つ寺院の過去帳の調査によれば、死亡者は春から初夏に集中していたという事だ。毎年桜だ新緑だと心おどらせるこの時節もかつては、実は食糧の備蓄が最も枯渇する時であり、平常年においても民衆を襲う飢えによる死の危機は、著しい季節性を持っていたのだ。

 隅田川の左岸、天台宗梅柳山木母寺に「梅若権現御縁起」という絵巻が伝わる。隅田川のほとりを舞台とする哀しい母子の物語で、能の名作「隅田川」の題材となった。幼少にして父と死別した梅若丸は七歳の時、比叡山月林寺に入るが、山内の法師たちの妬みに合い襲われ、山中を彷徨った後に人買いにかどわかされ、奥州に向かう途中の隅田川付近で病に倒れ帰らぬ人となった。我が子の行方を探し求めて狂女に身をやつした母が、隅田川に辿り着き、渡し守から梅若の死を知らされたのが、ちょうどその子の一周忌であった。大念仏会が催され、母は束の間我が子の亡霊にまみえることができたが再びその姿は消える。母は子の墓の傍らに庵を結びしばらく暮らすが、ほどなく池に身を投げてしまう。救いようのないこの悲劇が民衆の涙を誘い、長く語りつがれてきたのは、決して他人ごとでは済まされない、その苦悩が極めて身近なものとして存在していたからに違いない。

 中世の文学にはしばしばこの人身売買の話が扱われるが、それほど民衆の生活は逼迫した境遇に置かれていたということであろう。またこの物語の舞台が、水運の要所、大きな川の渡し場という設定も、「人買い」の縁語のように暗い効果を醸し出している。そもそも川という場は、彼岸と此岸に、あの世とこの世に、或いは生きながらに、別れ別れになってしまった愛する者との邂逅という、儚い夢を結ぶ「境界」そのものではないか。そしてこの人身売買のその背後には当然、飢えによる生命の危機という現実が重く纏わりついているのだ。

 これから毎年、春から初夏というこの季節にはこの事を思い出したい。少なくとも78世紀も前から日本の芸能者がこのテーマに正面から向き合って来たのだから。人間の偉大なる苦悩そのものを内面化する芸能の進む、その道の先に何が開かれるのか、無責任なようだが私にはわからない。しかし人間としてどこまでも自己の内側に解決しなければならない問題を、何かと言えば他国への侵略に誘導する様な愚かな政治家に対して、無言の警鐘を鳴らし続けるのが我々の責務だと思っている。





寂しさの釣りだし           百錢会通信 令和4年4月号より

 20年も昔のことになろうか、私が今より更に、日々の生活に苦しんでいたころ、憐れに感じてくださったのか、何かにつけて酒場に誘ってくださる年上の友人がいた。ご自身の若い頃は箏を嗜まれたようだが、日本の芸能全般について誠に詳しく、またかなりマニアックでコアな情報を掴んでおられたと記憶している。けれど酒席の話題といえばその殆どが男色の色事噺という次第で、そんな訳で新宿2丁目のお馴染みの店にはよく連れて行って頂いた。とても上品な設えのお店で、カウンターには有名雑誌の編集長や声楽家、若く美しい歌舞伎役者を連れた演出家風の人など中々興味深い顔ぶれで、目を丸くしながら社会見学させて頂いたものだった。頂いたご本人の名刺には早稲田大学図書館の司書とあった。

 話は飛ぶが、私が年々敬愛の念を深くする詩人、茨木のり子関連の最近目にした記事を、国際紛争のニュースの喧しい今、記しておこうと思う。茨木と言えば「志の折り目正しさ」という印象が強いが、金子光晴という詩人はそれに対して七十過ぎて若い娘とロックンロールを踊り、色話に興ずるという、茨木とはずいぶん真逆の世界に棲んでいるように思えるのだが、茨木は金子の詩の解説を引受け、対談し、自身の詩にも記し、深い交流があったという。日本の現代詩に詳しくない私はその辺りの事情に少し興味を惹かれた。

 茨木の著した岩波ジュニア新書『詩の心を読む』の中で、金子の長編詩「寂しさの歌」の全文を掲げている。戦争の物理的な原因は、無限に膨張するかに見える人間同士が、有限である地球の資源を奪い合うことにある、と言えそうだが、金子は戦争の背景にあるものとして、人間が長く患って中々治癒することの出来ない持病としての〈寂しさ〉を視ていたというのである。この詩が書かれたのは1945年の5月、終戦の3ヶ月前。多くの文筆家が「文学報国会」に所属しなければ生きて行けない時代に、見つかれば即刻捕まってしまう詩を書き続けることは、どんなに勇気のいることだったろうと金子の胸の裡を想起している。「歳月がたって、いろんなことを知るうち風景も心も日本以上にさびしい国々が沢山あるのがわかってきて、寂しさの釣りだしに会って戦争のはじまるさまも、第三者として見ることができるようになりました。そして今、「寂しさの歌」は「人類の寂しさ」そのもののように見えてきます。」今、ロシアの、ウクライナの人々、また両国の芸術家たちの胸の裡を想うと心が傷む。

 さて、茨木が別のエッセイの中で、「金子さんの笑顔を私は愛していた。性格には仙と俗とが入りまじり、その配分は絶妙だったが、あの笑顔は仙そのものだった。」と綴っているのを見つけ、思わず彼の早稲田の司書氏を思い出したのだった。ある時道端でばったり遭遇したことがあり、「じゃあ飲るか!」と誘われたのは歌舞伎町でよく抗争事件が起こる風林会館近くの妖しい路地裏。辺りに憚りもなくクサヤを炙る煙を撒き散らす店先で、「今日は娘義太夫を追いかけてました!」と相変わらず甲高い声で高笑いする姿が、やけに鮮明に蘇って来た。「尺八家稼業はツライけど達者でな!」という言葉が最後のお別れの挨拶となってしまったが、あの笑顔もまた「仙」そのものだった。20年余の歳月を経て今、あの一言が「寂しさの釣りだしに会って愚行に走るんじゃないよ」という戒めの様にも聞こえてくる。




採算度外視                  百錢会通信 令和4年3月号より

 山田流箏曲の山登松和師とともに収録したCDZEN YAMATOⅡ』が、本年度の文化庁芸術祭レコード部門で優秀賞を頂いた。先日その授賞式があり、レコード制作会社の三塚幸彦氏が賞状・目録を手にする瞬間を見届けようと思い、早稲田は大隈庭園に隣接するホテルの式場へと足を運んだ。三塚氏は私の楽器の製作・提供者でもあり、商売の損益は無視、志と心意気だけで私の活動を、もうかれこれ20年に渡り陰でずっと支えて下さって来た恩人であるので、誠に感慨深く、その晴れ姿をこの目に焼き付けたものだった。

 さて帰宅後、受賞者一覧の小冊子を改めてめくると、同じく優秀賞の(株)フォンテックの作品でピアノを弾いていたのは、私の娘がヤマハ音楽教室に通っていた頃、どこそこのコンサートで一緒だった北村朋幹氏だということに、家内が目聡く気がついた。この手の話は実は珍しいことではないのだ。昨年の秋、静岡でやはりこの時も山登松和師と共に呼ばれたコンサートで、プログラム最後を飾った和・洋楽器による現代作品の作曲者も、実は娘が同じグループレッスンを受けていた仲間のご姉妹で、とても身近なヤマハ出身の若き作曲家であった。他にも例えば『題名のない音楽会』などに登場する若手演奏家が「あぁ、あの時のコンサートの何番目かの曲を演奏していた何某さんだ!」というようなことはしばしばで、この類の話題を上げれば枚挙に暇がない。ポップス系、クラッシック系、様々な日本の音楽シーンに於いてヤマハの果たした役割は甚大であったと改めて気づかされるのである。

 今思い返すと、幼い頃の娘の付き添いで見聞きしたヤマハ音楽教室の雰囲気は、若い音楽家を育てる情熱に満ちていて、むせ返るほどの熱気が充満していたと思う。それはコンサートの楽屋のケータリングの世話をする裏方の一人一人にさえ行き渡っていたと感じた。

 幼児の音楽教育に力を入れ、財団法人ヤマハ音楽振興会を設立し、ヤマハの音楽部門の礎を築いたのは川上源一という人物だそうだ。社長主導のワンマン経営とその内容に賛否は分かれたようだが、娘がお世話になった頃の音楽教室の、あの熱気はどうも川上源一から繋がってきたものらしい。ところが、風に乗って聞こえて来る最近の話では随分とそれが醒めた雰囲気になってきているようだ。経営環境は時勢の波を受けて止む無く変わったのだろうし、いまどき採算度外視というような破天荒な事業がまかり通らないのはヤマハだけではないだろう。しかしヤマハの音楽部門の瓦解が起これば、日本の音楽シーンの深刻な弱体化が進むことは避けられないのではないかと危機を感じている。純邦楽からはかなり距離の離れた世界の出来事で、我々の方はもっと深刻なのだから人の心配をしている場合ではないのだが・・・。

 話は元に戻して今回のCDZEN YAMATOⅡ』。最終的な音のバランスを取り、レコード芸術作品として磨き上げ作業にあたったエンジニアとしての三塚氏の労力を賃金に換算したとすれば、これはもう完全に採算度外視の領域である。それでもやらずにはいられないというのが表現者の性(さが)というものだ。そしてそれが経済効果を生まなくてもこの世にどうしても必要なものであるという確信がこちらにはある。大学では理系を奨励して文学部を縮小廃止せよという政治家も最近は多いようだが、我々の活動は決して止まず、淡々と静かに続いて行くのである。




「文」と「質」             百錢会通信 令和4年2月号より

 「文、質に勝れば則ち史なり」「文質彬彬として、然る後に君子なり」。訓読が出来たところで肝心の意味はサッパリわからない。何時もなら此処で原文から退散する所だが、またもや演奏会の中止・延期が相次ぎ、ポッカリ予定が空いてしまったお陰でこの清言に踏み留まる幸運を得た。

 「文」は「あや」とも読み「模様・飾り」「表面的な美しさ」を表し、それに対して「質」は「本質」「中身・核」と言った意味合いだ。「史」は「記録をつかさどる役人」の意から、やや悪い意味での実の無い「虚飾」と言ったニュアンスの様だ。表面の飾りばかりが中身に勝れば誠実味に欠ける。「文質彬彬」は四字熟語辞典にも有り、外観と実質のバランスの良い様を表し、君子たるものどちらが欠けても宜しくない。孔子の『論語』である。

 近年、尺八の生徒に対する自分の指導の要領を振り返ると、以前よりは私自身が迷い戸惑う場面が少なくなってきた様に感じる。良い意味で言えは演奏技術というものに対する分析とその方法論が、少しずつだが明確になって来たのだと思う。その反面、所謂「音楽のレッスン」においては、言葉に表し難い熱線の様なものが互いに伝播し合って作品が創造されて行くという側面もあるわけで、こうした共同作業としての「稽古」が機械的で味気ないものになって来ているかも知れない、という思いも拭いきれないでいる。

 津軽三味線の初代高橋竹山の言葉を思い出す。「昔の師匠は、面倒くさいとすぐにぶん殴ったモンだ・・・」。弟子の出来が悪ければ殴り、腕が上がって上達すれば生意気だと殴り、理不尽以外の何物でもない事がまかり通っていたようだ。自分が弟子の立場ならそんな目には絶対に会いたくないから、なるべく論理に矛盾が無い様に、そして根気強く丁寧に説明、指導したいと思う。しかし音楽に対する、言葉にならないマグマのような熱は伝わらないだろう。そのあたりが何となく味気なく感じられるところではあるが、でも今はそれはそれで良いと思っている。何故なら、このマグマは心の奥深くから各々に止むに止まれず溢れるもので、教えたり教わったりするものではないと思うからだ。

 先の言葉に例えるなら、「文」に対する「質」の部分である。先哲・賢者が戒める様に、何時の世も、質を問わずして文を弄ぶ者が世間に溢れることだ。後醍醐天皇の先帝、花園天皇はその原本が今に残るその日記の中に「近代人の好学、皆文を先にして質を後にす。悲しむべきことなり。」と記している。往聖の憂いは音楽家にとっても誠に痛烈な戒めである。然るにこの「質」は説明・講釈するものでなく、その幽かな香りを捉えた者のみが自ら工夫努力で掴み取る以外に手立てのない代物だから、そこが何とも悩ましいところだ。




道を残す                    百錢会通信 令和4年1月号より

 年末年始となるとテレビの歌番組に昔懐かしい歌手が登場したりする。全盛期を知っている中高年は口を揃えて呟くものだ。「ああ、随分歳をとってしまったね・・・」と。いくら優れたメイクをしても若い肌の艶は取り戻せないし、隠しようもなく整形手術の痕跡が露見して来たりするのは誠に痛々しいものだ。

 衰えるのは容姿ばかりではない。声が衰弱してくる。声とはある意味においては肉体そのものであるから、これも致し方ないことではある。具体的には先ず音程を支えられなくなる。概ね低くなりがちだ。それからビブラートの音高差が深くなり、必然的に単位時間あたりに声の揺れる回数が少なくなる。するとメロディの音程感が希薄になり、なんとなくトグロを巻いた様な、薄気味悪い旋律となってしまうのである。尺八のビブラートは歌のそれとかなり同じメカニズムを持つので、還暦も間近となった私には身につまされる。

 ロック系のボーカルにシャウトという、正に叫ぶという歌唱法がある。あれは声帯を痛めないわけがなく、ビートルズは「Twist And Shout」という楽曲のレコーディングをスケデュールの1番最後にしたという話を聞いたことがある。その後には確実に声が枯れてしまうからだ。このシャウトを繰り返していたら、若い時なら直ぐに回復もするだろうが、長い年月を経るならばきっと声を枯らすことになるだろう。前にも話題にした玉置浩二もかなりキツいシャウトをしてきた人で、最近はところどころ、特に囁くような部分の歌声に「掠れ」が目立って来た様に思う。しかし、矢沢永吉のように70歳を過ぎても尚叫んでギラギラしているロックシンガーもいる訳で、人間の肉体の個人差というものは様々だ。

 山田流箏曲の伝説的名人に室岡松孝(19182005)という人がある。演奏が終われば観客から唸るような「上手い!」という掛け声のかかる歌いぶりは、野武士の様な野性味ある力強さの中にも人間の深い情感が溢れていて、聞く者全て一人漏らさず魅了してしまう佇まいがあった。私が舞台を生で拝見出来たのは晩年で、その時既に声帯は限界を越える酷使の所為で、曲中2割くらいの部分は声が出ていなかった。それでも観客は喰い入る様にその音楽に耳を傾けていて、客席の異様な集中度は未だに忘れることができない。紛れもなく我々は声にならぬ声を聴き、心を打ち震わせていたのだ。

 私はある友人にこんな質問を受けたことがある。「善養寺さんは後世に何を遺しますか?或いは何を遺したいですか?巨万の富はもはや無理でしょうが()」。苦笑しながら返答に困っているとその友人は「私の好きな故人の言葉にこういうのがあります『道を遺すのみ』と」。私はハッとした。室岡師の声ならぬ声を思い出し、他にも様々に自分を導いてくれた先達の無言の面影が次々と現れてくる。

 如何に歌い方が上手いかを競うだけが演奏家の価値なら、声の出なくなった室岡師の舞台に人の集まるのは説明がつかない。声ならぬ声の先に見える地平の景色こそ肝要ではなかろうか。それを「道」と言いたい。今、永きに渡る厄災の中で多くの人が、我が身の、人間の肉体の、如何に脆弱であるかということに打ちひしがれてはいないだろうか。今世情は闇に包まれてはいても、精神の世界に光は絶えないことを、年頭に当たり私は宣言したいと思う。




金沢にて                    百錢会通信 令和3年12月号より

 今年秋からの演奏は、かねてより企画されていた催しにコロナ禍で延期となっていた演奏会などが覆い被さる形で、今までになく多忙な毎日が今も続いている。金沢では先月今月と立て続けに出張が2回となった。同じ地方都市で関連の無い2つのイベント両方に出演するなんてことは滅多にある事では無い。

 そうした今年の秋以降の動向はさておき、私は金沢を訪れると、ある独特な心緒を動かされる思いがする。父が心酔した鈴木大拙の故郷である事が大きいのだろう。他にも父と同じ歳の画家、鴨居令や詩人の室生犀星、それから変わったところでは浅川マキという個性的な歌手などを輩出する土地柄には、人をして内省的たらしめる何かがあるように思われてならない。

 「虚鈴」を吹いた。自ら企画する演奏会を除いてこの「虚鈴」という曲を舞台に出すことは初めてではなかろうか。曲目の相談はなく「是非とも虚鈴を!他の演目は心中に無し」というような、主催者からの誠に強い要望で、珍しいこともあるものだと驚いた。「虚鈴」といえば尺八曲中、これほど簡素にして抽象的な作品はないだろう。まして神如道伝の「虚鈴」は甲乙の変化まで削ぎ落としたもので、一般的聴衆にとっては究極の“睡眠楽曲”と言っても過言ではない。私の後の番組の、人間国宝山勢松韻先生による箏曲、金沢縁の中村姓の歌舞伎役者による舞踊目当てのお客様には、さぞかし“鳩に豆鉄砲”であったであろう。

 その日、2番目をお務めになる山勢松韻先生には予め、「私の曲で軽い睡眠を取られたお客様は、きっとスッキリした心待ちで先生の演奏を鑑賞なさる事が出来るでしょう!」とご挨拶申し上げたものだ。ともあれ、私は当地の舞台中央に1人、我が一音は宇宙に拡がれかしと念じ、その呼吸に没入し、久しく遠ざかっていた本曲を吹く悦びに満たされていた。

 因みに山勢松韻先生が演奏なされたのは「須磨の嵐」であった。私の母の世代なら知らぬ者はなかろうという、文部省唱歌「青葉の笛」でも馴染み深い、平敦盛・熊谷直実の物語である。敦盛の悲運故の美しさ、熊谷の悲歎、戦場の嵐、世の無常。誠に難解という言葉からは程遠い、誰にも理解し易い作品であろう。しかし反面、そうした作品はその解り易さにあぐらをかいてしまえば忽ちに浮薄な世俗性に堕ちてしまう危険を孕んでいる。山勢先生の演奏は格調高く、「西に向ひて手をあはす」のひとくさりなどは誠に深沈たるものがあり、故に物語全体の奥行きが一層深まったように感じられた。品格とはある意味における抑制で、その抑制は最も生々しい人間の情緒といったものを内省的に増幅するのである。

 次回の金沢は今月末。空気の冷たさも冴え冴えと増している事であろう。




大衆歌謡                    百錢会通信 令和3年11月号より

 古典の演奏家として活動していながら、プライベートでは気が付くと歌謡曲ばかりを聞いている。同業の友人の中にはクラシックの洋楽を愛好する人がかなり多いことだが、西洋音楽のクラシックの音がとても重たく感じられるという傾向は年々増長してくるようで、海外の音楽ならば気が付くとシャンソンやジャズ、タンゴといった類のCDを選んでしまう。しかし分量的には日本の流行歌を聞くことの方が断然に多い。

 1964年生まれの私にとってもっとも親しみ深い日本のポップス音楽と言えば1980年代の作品群であろう。メジャーなレコード会社が作詞家・作曲家“先生”に楽曲を依頼し、お抱えのタレントにそれを歌い踊らせる、というシステムに抵抗し、自作自演を基本とするミュージシャンの作品が、漸く市民権を獲得した時期ではなかろうか。私の同年代は日本の古典的な趣味嗜好に対するアレルギー反応が極めて強い年代である。その理由はわからない。例えば演歌のイントロが聞こえてくるとゲンナリするというような会話は、我々が10代から20代の頃は日常的に交わされていた。大学生になると当時の邦楽サークルの部員はどこも廃部寸前の減少傾向にあったし、私のように母が箏を嗜み、三味線の音にも親しみのあった者でさえ、“浪花節”系の演歌にはやはり抵抗があった。そして我々の年代よりも更に一回りは上の当時の若者の大半は、1970年代には海外のカッコいいポップスのサウンドに酔いしれていて、その影響を受けた日本のミュージシャン達が自らの作品を次々と発表し始めた、80年代はそんな時代ではなかったかと思う。

 いつの間にかあれから40年もの月日が過ぎようとしている。その間ずっと日本の古典音楽に携わって来たことは、逆説的な意味において世界の音楽との繋がりを常に意識する時間であったともいえると思う。少し話題が比較文化論的な方向へスライドしそうなので、この話題はここまで。

 私は別に何かの大義に突き動かされたのではなく、ごくごく普通に日本の歌謡曲に親しんできたということを話題にしたかったのだ(苦笑)。しかし、洋の東西を問わず、ジャンルも問わず、優れた音楽作品と評価する私なりの基準は「平易にして奥行きのある」をもって最上位としているが故に、大衆音楽は私にとって最も興味を惹かれる音楽であると言って良い。

 一口に歌謡曲と言ってもジャンルは多岐に渡り、その多くに精通しているわけではないが、私が耳にした戦後の日本流行歌の中でもっとも高く評価していたのは美空ひばりの歌う「悲しい酒」であった。演歌系の音楽を冷静に評価することは私にとっては多少高いハードルはあったものの、恋の悲しみを旋律と言葉は平易でありながら聞く者に真実味をもって迫ってくるこの曲は、やはり優れた作品だと思っている。

 ところが数年前に、玉置浩二の「行かないで」という曲を聞き、私の中ではこれが「悲しい酒」よりも数段上位となってしまった。旋律は更に平易である。しかし伝わってくるものは、恋人との別れというような限定的な感情ではなく、親との別れであったり、幼い我が子との別離であったり、ありとあらゆる別離の光景が走馬灯の様に流れ続けるのだ。人間の身体に刻まれた悲しい因果の絆というか、まさに「愛別離苦」の世界を想念させるものである。

 言うまでもなく、大衆音楽はお安くお手軽な娯楽として上から見下ろしてはならないと常々思っている。私の中で虚無僧尺八は平易にして、時に闇の中に分け入り、時に光を呼び込み、優れた大衆歌謡と同様に、奥行きの極めて深い世界が広がっていると思っているが、一般にはこれほど難解なものはないと言われ続けて来た・・・。まぁ、それもまた人生。




宙に浮く                    百錢会通信 令和3年10月号より

 「白い道・・・山頭火の妻」という演劇のお手伝いをしたことがある。放浪の俳人、種田山頭火の妻がその人生を独白するという独り芝居である。破天荒としか言いようのない生き様、乞食同然の行乞の旅、しかも酒浸り。その生活の果てに珠玉の作品を生み出した山頭火を表現するのに、最も適役として私の虚無僧尺八に白羽の矢が立った訳だが、その時は中々曰く言い難しの心境であった・・・。それはさておき、膨大な台詞を完璧に体に取り込み、密度の高い2時間を演じきった“岡本るい”という俳優のエネルギーを目の当たりにして、ただただ茫然としていた記憶は今も鮮明に残っている。数えて見たらちょうど10年前のことだった。るいさんは、全身性エリテマトーデスという難病と闘いながらの俳優人生で、人に語りつくせない艱難辛苦の連続であったに違いない。山頭火の妻サキノは、ひたすら耐え忍び夫を支えるのが当然という明治・大正・昭和の女性像の中に描かれた主人公ではあるが、連続する苦悩に耐える心の礎として、夫の文学を支えるという強い意志を秘めた山頭火の妻に、自分の人生を重ね合わせるところが少なくなかったのだろうと思う。そのるいさんが長年のステロイド治療が限界に達して、先日天国へ旅立たれた・・・。

 自宅で異変に気付いたご主人は倒れるるいさんを抱きかかえた。どうした!大丈夫か!しっかりしろ!の呼びかけも虚しく息絶えた瞬間、支え切れないほどにぐったりと重くなったという。身体を支える筋肉が全て弛緩すればそれは当然の現象かもしれないが、私はそういう物理の定理とは全く別の思念に満たされていた。すなわち「魂、命のエネルギーというものはそれ自身に浮力を生じている」という、精神世界での一つの仮説である。

 この話をしてくれたるいさんのご主人とは、私のリサイタルの立ち上げではステージを仕切り、その演出に物議を醸した照明アーティストの小澤明彦氏である。彼は舞台照明の極意とは、「立役者を舞台の床から宙に浮かすことなんだ!」ということを何度も熱く語ってくれたものだが、私にはこういう会話をしている時が極上の時間であった。一人芝居「白い道」のラストシーンは主人公サキノの指先が天空を突き刺し、その魂は永遠に浮遊するのである。心から冥福をお祈りする次第である。




速 読                       百錢会通信 令和3年9月号より

 私は文字を読むのが著しく遅い。生まれてこの方受験勉強というものを経験したことが無いので様子はわからないが、試験で高得点を狙わなければならない状況に置かれていたなら、全ての教科に於いてまず間違いなく、時間切れの敗北を喫していたに相違ない。何故にこんなに遅いのだろうと呟くと、それはきっと頭の中で音読しているからだろうと家内に指摘されて、初めて合点した。

 当然、音楽の楽譜を読むのも大の苦手だ。初見演奏はまるでダメ。「今現在鳴らしている音符を睨まないで一歩先を読む。音符は一音ずつではなくフレーズの塊で捉えて行く」などと稽古では“したり顔”で言っている私だが、実は自分の最も苦手なところだから、内心は本当に我が身の不器用さに呆れ返っているのだ。

 でも幸いなことに同じ曲に何カ月も何年も向き合うことが私には苦痛ではないので、否、むしろその方が楽しいものだから、あまり惨めな気持ちではない。只、ビジネスとしての演奏に際しては、この「楽譜の速読」はあらゆる場面で事を有利に導くのであって、音楽業界の競争を勝ち抜くにはもはや必須のスキルと言っても過言ではないだろう。邦楽といえどもこれからの若い専門家にとっては他所事ではないのだ。

 近頃は映画鑑賞も「速読」が当たり前になって来ているようだ。台詞の展開が無い場面はどんどん早送りするらしい。言葉のない場面の映像に込められた暗喩・黙示を読み取らずして、どうして鑑賞など出来ようものかと不思議でならなかったが、識者の分析によればそれにはそれなりの理由と背景があるようだ。まず供給が桁外れに過多であるということ。今は毎月数百円から千円前後を支払えば何百本もの作品が見放題だ。そしてその中には桁外れの駄作群がひしめいているわけだから、一々隅々まで見渡していたら、傑作に辿り着くまでには時間がいくらあっても足りないという訳だ。また、作品に対してスポンサーが分かり易さを執拗に要求してくるために、台詞を聞けば全てを把握できる様な脚本が増えて来ているという事情もあるらしい。商業に近づき過ぎた作品の末路と言っては言い過ぎかも知れないが、余白、行間、沈黙というものが包含する世界の広さを失うことは余りに寂しい事だ。

 速読は現代人にとってとても大切な技術となるであろう。それと同時に未読、精読と言うものの存在も常に意識されるべきであると思う。論説文や説明書と違って、作品の肝というものは常に言葉のロジックから別次元に飛躍したところに存在するからだ。故にこの、未読・精読に必要なものは、只ゆっくり読む、キーワードを繰り返し噛みしめて読む、と言った時間的なことばかりではなく、時に空を見上げるとか、瞼を閉じてみる、と言う様な、心の空白を作ることで、そこに何かが飛び込んで来たり、何かが開かれたり、そういう辺りに「鑑賞」の醍醐味があると思うのである。芸術作品とは味わいながら花開くものであって、「消費」されるだけであって欲しくないと思う。




とりとめもなく             百錢会通信 令和3年8月号より

 感染爆発、よく解らない五輪開催、何もかもが停滞して身動きが出来ない息苦しさがずっと続く。昨年の秋、邦楽界は「コロナに挫けずに頑張ろう!」という様な気運があったが、2年目の疲労感は流石に隠せない。とは言いながら概ね財界は堅調であるという様な話も聞こえてくるし、世の中では一体何が起きているのだろうか。多くの黒い野心家が眼を爛々と輝かせているような薄気味悪い気配がしないでもないが、警戒する気力も失せるほどの日本の猛暑だ・・・。

 兵役の経験のある我が師匠は長崎の出身で、その昔話に何度も聞いた話では、九州人と東北人はお互いのお国訛りで日常会話もろくに成り立たないのに、いざ前線となると気脈が通じて天下無敵の部隊と言われたそうである。ついでながら先陣切っての突撃に最も秀でた兵隊は私の父方の郷里の上州人で、百獣を威嚇する獅子吼の気焔は誠に軒昂たるものであったという。しかしあくまでそれは突撃まで。一進一退の戦となればすぐに腰砕けというから何とも情けないオチがついたものだ。昨年秋の演奏会シーズン、コロナ禍に次々と公演が中止となる中で、いの一番に先陣切ってリサイタルを開いた自分には、父方の上州の血が流れているのかも知れないと苦笑した次第である。持久戦における頼りは何と言っても東北出身部隊だったそうで、その逸話の刷りこみの所為か、パンデミック2年目の暗雲の中で黙々と、そして毅然と演奏活動を支える北陸・東北出身の友人達の姿が神々しく感じられたことだった。見習って地味ながら秋に向けて今、山田流筝曲の友人と共に重い腰を上げてレコード制作に取り掛かっている最中である。

 先日、百錢会門人有志と共に、銀座の真ん中6丁目に開館して未だ日も浅い観世能楽堂で「虚鈴」を奉じた。能舞台とは誠に日本の芸能の粋を凝縮した舞台で、我々能を演じるものでなくとも神事を成した清々しさがこの身に満ちてくる思いだった。客席には56名程でほぼ“無観客”。換気の為に入口は空け広げたままでとても演奏会の体を成していないが、心を一つにした我々の呼吸は地下の能楽堂から天空に拡散したことを実感したのである。

 こうして今とりとめもなく身の回りの出来事を振り返ると、ひたすらけだるい毎日を送っているようでも、折に触れて心に清涼を取り込む縁に恵まれていることを感謝しなければならないと思っている。




町の楽器店                  百錢会通信 令和3年7月号より 

 所沢に移り住んで30年が過ぎ、実家の狛江で過ごした年月より長い事となった。今駅周辺は大規模な区画整理が進み、一見町全体が明るい未来に向かっているように見えるが、中身の空洞化は隠せない。西武百貨店も自らの売り場は猫の額ほど、殆どは全国展開する量販店が大半のフロアを占拠している。かつて日本一の小売業として栄華を極めた元ダイエーのビルなどは “店子”すら入らず、空きスペースも少なくない。何軒もの小さなリサイクルショップが軒を連ねて、さながら戦後の闇市を集めて立てた集合ビルの様相を呈している。

 特に哀しいのは、娘が何度も足を運んだヤマハ楽器店がなくなったことだ。ポップスからクラシックまで、またわずかだが和楽器関連も取り扱っていて、たまに私の書いた尺八教則本などもその書棚に見つけたものだった。音楽全般、楽器や楽譜、独習書などを手に取ることの出来るお店は、今や所沢にはないだろう。今は進学塾となっている。同じ建物に出入りするのは、好きな音楽に目をキラキラさせた吹奏楽部の生徒ではなく、受験に向かう若い“戦闘員”ばかりというのはなんともやるせない。やはり社会のゆとりの無さを感じないではいられない。

 長年技術系の仕事に携わってきて、近現代の経済界の動向を次のように俯瞰して聞かせてくれるのは、私と同世代の尺八の友人である。その話の骨子は「とことん、敗北感を味わったものが強い!」というもので、最近はトンと足の遠のいてしまった酒場などで、隣のテーブルからいかにも漏れ聞こえてきそうな話題であるが、私は妙にそのテの話に聞き入ってしまうのだ。

 日本は明治維新後、その時代々々の経済を牽引する様々な産業の競争で勝ち抜き、経済大国の地位をその手にして来たが、今の日本はずいぶんと長く低迷している。そしてアメリカはなぜ今強いのか?それは、繊維で、鉄鋼で、自動車で、半導体で、敗戦国であるはずの日本に実は悉く敗北してきたことを痛感し、それをバネにしてコンピューターという新しい産業で本気で戦ったからではないか、というのが彼の見識である。また日本を追い抜いて世界経済第2位となった中国も、世界大戦後は国内での内乱で大きな危機を感じていたはずだと言う。未来の中国の繁栄を呼び寄せるはずであったその叡智を有する人材は、文化大革命で根こそぎ粛清され、自国の力で「貧困国家」から抜け出すことはもはや到底かなわない。鄧小平が開放政策に舵を切ったのもこの限界状況に追い詰められたからであろうと。

 日本もかつて明治維新後と第二次世界大戦後は本当に国家存亡の危機に恐怖を感じたはずだ。その危機意識こそ世界が瞠目する国家再建を動かしたに違いない。さて現代の日本といえば、「バブル崩壊」という出来事くらいではさほど強い敗北の苦しみを感じていないのではないか。なんとなく怪我をしたくらい・・・な気持ちでは、世界に冠たる産業はこの国から恐らく生まれて来ないだろうと。誠に判り易い解説であった。

 私は、世界経済の動向の中で我が尺八人生の先行きを模索し占うつもりは毛頭無い。私が興味を惹かれるのは、政策であれ、産業技術であれ、芸術であれ、人が稀有の「作品」を生み出す時の様々な状況についてで、芸術作品ばかりでなく多くの事例を知りたいと思うだけである。不条理な苦しみと哀しみの中から優れた作品が生まれることは、歴史の中の多くの事例が証明するところであるが、あくまでそれはきっかけであって、湧き出づる清水の源は人の心のもっともっと奥底にあると思う。所沢の町の乾いた景色への変貌から催したセンティメンタルな思いは、未だ枯渇しない我が心の泉に辿り着いて漸く安堵したのだが、やはり町の楽器店の閉じるのは寂しい。それは私と同じ様なこうした心の旅をする者にとっての、小さな道標だったように思えてならないからだ。




命 名                       百錢会通信 令和3年6月号より

 「如何に彼らが藩主の為に生命を鴻毛の軽きにして働いたか、」。普段手に取ることもない郷土史の研究書の前書きを斜め読みしていたら、聞きなれない言い回しが眼に飛び込んできた。漢文の素養の無いことが年々本意なく思われて仕方ないので、出来るだけこういう時には放置せずに意味を調べるよう心掛けている。「命は鴻毛より軽し」とは、君主、或は大義といったものの為に命を捨てることは少しも惜しくない、という気概を表す時に用いる言い回しだそうだ。件の書物は「津軽史」についての研究書で、相馬大作による津軽藩主の襲撃を未遂に防ぎ、相馬の残党の復讐を監視続けた隠密の働きぶりをこのように表現していたのだ。

 相馬大作とは元は下斗米秀之進(しもとまい ひでのしん)といい、津軽とは戦国時代から確執の続く盛岡藩南部家の武士である。津軽藩主の賄賂政治に義憤を覚え、参勤交代中の津軽藩主の襲撃を企てるが、仲間の密告により未遂に終わり暗殺は失敗。相馬大作と名を変え江戸に隠れ住むがやがて捕らえられ、小塚原の刑場で獄門の刑に処せられる。享年34歳。当時の江戸庶民は赤穂浪士の再来と持て囃し、後世、講談などに取り上げられ、「みちのく忠臣蔵」などとも呼ばれたらしい。こうしたドラマの中で脚色された処刑のシーンでは、正に斬首の直前に打ち下ろすその刀の秀抜を見抜き、厳かにその銘を尋ね、かかる名刀にて命断たれるなら悔いは無しと申し述べて潔く討たれることになる。誠に肚の坐ったこの「もののふ」像は私の父の最も好むものだったのだろう。父は長男(私の兄)に「大作」と名付けた・・・。

 父は尺八の師、神如道に我が子の名を報告した。すると師は眉間に皺を寄せてしばらく沈黙した。随分長い沈黙だったようだが、やがて高らかに笑い出し「それも良かろう!」ということになったそうだ。神如道は津軽藩の御家流、生粋の根笹派錦風流の尺八吹きなのだから、誠に失礼千万な報告である。明治生まれの師匠に面と向かってこんな申し開きをする神経が解らないが、この確信犯罪を受け入れて貰える自信が父にはあったのだろう。父と神如道師との間には「忘年(年齢差を超越する)の交わり」があったのかも知れない。

 父は次男の私が生まれて、今度は「惠之介」としたいと相談を持ち掛けた。すると神師は今時「之」は宜しくない、「惠介」とせよ!とのことだった。この仰せを父はあっさり受け入れた。この経緯をもって私の名付け親は神如道師であるということになっているが、私は「竹吹き」として生涯この名を大切にして別の号を名乗るつもりはない。誠に有難いことだと思っている。込められた意味は「恵(多き)」「介(一人)」。裃付けて「之」が挟まっていたらこれほど多くの人に助けられ、親しくしてもらえなかったのでは・・・、なんとはなしにそのように思えてならない。ただ神師が「之」を削除したのは、相馬大作の元の名の「秀之進」とは一文字も重ねさせまいと言う、密かな反撃でもあったなら、一寸楽しい気分になれる。




鳥の囀り                    百錢会通信 令和3年5月号より 

 先日、戸隠の演奏会のために下合わせに現地に出かけると、想像よりもずっと暖かで実に爽やかな気候であった。日中は肌寒くもなく埼玉との大差を感じなかったが、ただ聞こえて来る鶯の鳴き方はまだ幼く、それでこの地の春の未だ浅きを知ったものだった。我が家近隣の鶯の鳴き方はもう立派なもので、例年より明らかに仕上がりが早い。鶯ばかりでなく近年この界隈の野鳥は増えたように思う。最近少しずつ姿形と名前を覚えた、ムクドリ、メジロ、コジュケイ、オナガ、などを庭先で間近に見ることがよくある。鳴き方の判別までは出来ないが、里山を歩けば絶え間なく様々な鳥の囀りの中に身を置くことが出来るのは、こんな時勢にあってはささやかな幸福だと感じている。

 もう何年も前の話だが、ある著名なミュージシャンが心を病んでしまい、活動を休止して軽井沢に移り住んだそうだ。ジョンレノンとオノヨーコがこよなくこの地を愛したこともその選択の理由だったとか。始めは心安らぐ生活だったようだが、別荘地というのは何処も人の心にある種の孤独を呼び寄せるものだ。その所為かは定かでないが、軽度のアルコール中毒が進行したようで、すると段々と森の鳥の鳴き声が喧しくて耐えきれなくなってしまったそうだ。鳥の声がコンサート会場の客席からの罵声に聞こえてきたというのだから、これはとても辛かったことだろう。私は幸いに会場のお客様から罵声を浴びせられた事は無いが、無感動・無関心の沈黙に沈められたことは何度もあるので、自分のようなマイナーでも、舞台に立つ者としては何とも身につまされる話であった。

 「鳥の囀り」といえば簡単に「鳥の鳴き声」だと思っていたが、厳密には「囀り」とは「繁殖に関わる鳴き声」というのがその定義だそうだ。それに対して仲間同士の合図、例えば自分の位置を知らせる声や危険を知らせる声などは「地鳴き」と呼ぶらしい。「囀り」を鳥が気持ち良く歌を歌っているように感じるのは呑気な人間の思い込みで、これは種の存続をかけた真剣勝負である。そして「地鳴き」は外敵から身を守るための厳しく激しい掛け声で、こちらも真剣勝負以外の何物でもないのである。命をかけた「囀り」- 歌声 - の周りに罵声のような激しい「地鳴き」が鬱蒼と響いていたとしたら、これはアルコール中毒になっていなくても、森はナーバスなミュージシャンには辛い環境かも知れない。

 芯を貫き「無」の彼方へ誘う尺八の音というものは、それが心に強く響いた人にも、キョトンとして全く届かなかったように思われる人にも、何故か一様に沈黙を催させる。この沈黙を催促する竹の一音に、実は私は様々な場面で無自覚の内に救われてきたのかも知れないと思うようになった。尺八だろうがサックスであろうが、本物の「歌」というものは、命が振り絞られ魂が泣き叫ばずにはいられないものだ。しかし、その先に全てを包むこの沈黙がなければ心は引き裂かれたままになってしまう。

 たまの休日のレジャーで森を散策して鳥の囀りを聞いても、こんな思いには至らなかったと思う。




絶望から逃れる             百錢会通信 令和3年4月号より 

 「今年の春の訪れは10日程早い感じですね」

畑仕事に忙しい知人がそう呟いた。三寒四温、例年にも増して寒暖差の著しい毎日に目を回し、桜の開花に気がついた途端、あっと言う間に咲き乱れて散ってしまった。そんな印象の今年の花便りだ。

 毎年想うことは、物憂い桜より散った後の若芽の方が心に優しく有難い。昨年暮れ頃から近隣の里山は虫害による「ナラ枯れ」が発生。結構な大木が結構な本数、伐採される様子を枯葉道で何度も目にしてきた所為か、殊更に今年の新緑は瞼に眩しい。理由もなく「希望」なんて文字が心に浮かんでくる。

 ところが、そんな季節に「まん防」なんて有り難くない文字があちこちから押し寄せて来る。1944年の12月、ナチスの強制収容所の中で、多くのユダヤ人が病死した話を私はふと思い出した。終戦間際の収容所の中では、今年のクリスマスに奇跡が起こり自分たちは解放されるかも知れないという、儚い噂が流れた。しかし結果は何も起こらず、絶望した多くの人が一気に免疫力を落として病死したそうだ。春になればコロナの災禍は収束に向かうかも知れない。そんな淡い夢を抱いた人も少なくないだろう。

 このリポートを残したのは、ナチスの強制収容所から奇跡の生還を遂げたユダヤ人心理学者のヴィトール・エミール・フランクルである。彼の唱えた精神療法の核となるのは、「我々が人生に何を期待するかではなく、人生が我々に何を期待しているかが問題なのだ」という思念である。人間の欲望は無限だから、自分の夢や希望を叶える事に人生の意味を求めていては、永遠の欲求不満に陥ってしまう。それとは真逆に、他者の為に生きる決意をした者はどんな苦悩に直面しても自分の生きる意味を失わない。こうして絶望から逃れた者だけが収容所から生還できたのだと言う。

 仏教で言う、迷える衆生を救うために自らは悟りの世界へ旅立たず、苦娑婆に立ち止まろうとする「菩薩」の苦悩にも、こうした精神性の発露が見られないだろうか。私の父が青年時代に深編笠を被り、虚無僧の旅に出たのはほぼこれと同じ決意であったことが、父の書き残した手記から明らかで、故に貧賤の生活に甘んずることに一毫ほどの躊躇いもなかったのだ。若い情熱に溢れたその筆跡を眺めるのは、今でも私にとっては喜びのひとときだ。

 とは言いながら、人生の苦悩をこんな単純に整頓してしまうことには多くの異論反論があることだろう。けれども絶望が著しく人間の免疫力を落とすことはこの時節、改めて知っておいた方が良いに違いない。





無観客                       百錢会通信 令和3年3月号より

 私には無頼派という印象が強い、立川談志という噺家が、もう十数年も前に深夜のテレビで無観客の高座を放送したことがある。マクラで客の暖まり具合を見定めてからその日の噺を決めるなどという事もよく聞く、観客あっての寄席の話芸である。観客無しの落語など、高座に登る方も辛ければ、テレビの前でそれを聞かされる側にとってもあまり有り難くないだろう。それを敢えてするのは、落語を様式として抽出しその純粋な生命力を白日の元に晒し、言わば話芸の「イデア」を追求するというようなラジカルな意気込みが、その企画の「売り」だったのだろう。

 私には何の驚きも感動もなかった。が、それは決して批判的な衝動が働いたからではない。どちらかと言えばその逆でそこはかとない共感があった。というのは、自分は幼い頃から虚無僧尺八を吹き続けて来たが、たまたま近くをすれ違う人々の大多数は無関心のままに遠ざかって行き、私の演奏の場は恒常的に無観客だったからだ。人と交われない故に募る人恋しさは常にある。その恋慕の情は心の傍らにそっと据え置きながら、只々心を込めて吹き続ける。初めはマッチ売りの少女のように擦っても擦っても瞬く間に消えてしまう幻影が現れるばかりであるが、繰り返し繰り返しその灯りをともす内に、いつしか心の奥深くに熾火が残り、それは消えること無く凍える身体を優しくいつまでも温め続けてくれるのである。

 コンサートホールに皆が集い、生演奏の空気を共有し、お互いの気を交流させて高まって行く音楽の「場」が、人々の心に浄化をもたらす事は既に多くの人に認知されているだろう。その反対に「孤」の世界を深く掘り下げた先に立ち現れる、幽かな光明については余り話題とされる事がない。近頃よく耳にする「無観客」の文字から、私はあの温もりを連想しないではいられない。





近頃の芸能人は             百錢会通信 令和3年2月号より 

 黒柳徹子が、近頃の芸能人の衣装は地味だと嘆いているらしい。確かに1980年代の好景気に国民が浮かれていた頃のテレビには、間違っても隣近所の住人にはあり得ない“いでたち”の芸能人が溢れかえっていたかも知れない(その頃既にテレビどころか新聞にもロクに目を通さぬ生活習慣になっていたので定かな記憶はない)。畢竟するに非日常の「夢」とか「ファンタジー」を届けるのが芸能人の仕事で、毎日顔を合わす隣の優しいお兄さんや、ちょっと小綺麗なお姉さんがゾロゾロ登場するようなテレビにしたくないというのが、どうも黒柳徹子の言い分のようだ。この話題を聞いて私は、自分の連想は少し飛躍に過ぎるかも知れないとは思ったが、ある女流義太夫の友人の笑い話を思いだしていた。

 ある日その友人はいつも通りの浄瑠璃の稽古で、主人公が切々とむせび泣きやがて号泣する場面の語りに納得が行かず、それをかなり執拗に反復稽古したそうだ。段々と気がこもって来て佳境に入ったところで玄関のチャイムが鳴った。来客はどなたか?と出てみればそこには制服姿の警官が立っていたという。「どうかされましたか?不審な呻き声や泣き声が止まないと通報があったものですから・・・」友人が何と申し開きしたかは知らないが、兎に角事情を説明してお引き取り頂いたそうだ。警官に問われた気恥ずかしさと迫真の語りに達した喜びと、いずれぞ勝れるや・・・。

 文楽をご覧になった方はお分かりだろうが、様式がきっちり定められた浄瑠璃の泣き方、或いはその反対の笑い方は、間違ってもその様に泣き崩れる(或は笑い崩れる)人を現実社会の中に見つける事の出来ない、尋常ならざるものである。しかしその尋常ならざる非日常の所作でなければ表す事の出来ない何かが確かにそこに有り、そこまで辿り着かない限り「カタルシス」と言われる体験は成り立たないと思う。

 昭和の初めに制作された、伊庭 孝の編んだ「日本音楽史」と言うレコードがある。当時日本の一線で活躍する、各ジャンルの錚々たる演奏家による日本音楽の音源集である。私が復刻版を初めて耳にしたのがかれこれ30年ほど前になろうか。騒々しいSP盤のノイズに全く慣れていない頃だったが、その雑音に埋もれる事もなく、確かに伝わってくる圧倒的な気迫には驚嘆させられた。特に地歌の富崎春昇の歌と三味線には、暗幕を破り捨てて白日の下に晒された生々しい人間の喜怒哀楽を見るようで、江戸期から明治維新を駆け抜けた日本の芸能の沸点の高さを思い知らされた事だった。当時の多くの日本人が様々な大衆芸能に魂の浄化を求めていた事の証に違いない。

 ともあれ、それに比べると今の日本の芸能は、歌謡界も含めて押し並べて穏やかで、当たり障りの無いものだと言わざるを得ない。平和な日常を謳歌する現代人の集団的無意識が反映されているとは言えないか。一見過激な表現に見えるパフォーマンスも、実は随分前から使い古された手管の安定した再利用で、何度も聞いてみれば実は飼いならされた檻の中の、牙を抜かれた猛獣である事に気がつかされる事も少なくない。

 私自身は現代のこうした日々の凡庸を嫌悪しないし、そうした静かな生活を無難に飾る、調度品的な佇まいの作品が求められているという現実も肯定的に良く理解できる。しかし反面にはそうした生活の何処かに、得も言われぬもの足りなさや渇きを感じるのも正直な思いだ。人間は苦境に立ってこそ初めて気高くその生命を輝かせることがあるということも紛れもない人生の現実である。こうした自然界の波風の中で浮き沈みする人間の気持ちの揺らぎと常にパラレルに存在するのが音楽の宿命なのだろう。毒を吐くこともあれば祓い清めることもある・・・。




あは雪ぞ降る                 百錢会通信 令和3年1月号より

 昨年の春から始めた近隣里山の散策も漸く4つ目の季節を迎えた。枯葉の香りに包まれた道を歩けば寒さの中にも心鎮まるひと時だが、かつてのあの眩しいばかりの若葉全てが、今道一面を覆うこの枯葉なのだと思うと、中々に愁思を絶つことは難しい。

 我が近隣の"村の鎮守"は、里山の中腹にひっそりと佇む水天宮である。水と子供の守護であるから家内のお産前には何度かお参りしたものだ。臨月を迎えても中々気配がないのでお参りするとその翌朝に我が娘は産声を上げたので、やはり妙力が働いたのか。本宮久留米水天宮の例大祭が55日であることから日本全国5の付く日が水天宮の縁日になるそうだが、我が郷のそれは年に一度、15日のみである。普段は一日通してさえ歩く人影もまばらな参道に、何故かこの日だけは露店が数十軒は立ち並び、大層な賑わいとなる。参道の途中に少し見晴らしの良い場所が有り、下を流れる柳瀬川を挟んで南東側には八国山の尾根が視界に広がる。今ちょうど夕日が当たるあたりの向こう側にある病院は、かつては「東洋一の規模をもつサナトリウム」と言われた結核療養所であった。療養生活を送る患者の内、歩ける人は1キロほどの道のりを経てこの水天宮の縁日を訪ねたらしい。昭和20年頃の結核病者の生存率は40%ほど。2人に1人は生きて帰れなかったことを知れば、縁日に病躯をおして鎮守の杜を目指した人々の心の程が偲ばれることだ。

 どんな土地にもそこに生きた命の喜びと悲しみの涙が染み込んでいるはずだが、それは痕跡も留めず、年も新たに今は冷たく清らかな風が吹くのみである。人は口々に、昨年は受難の年であった、この禍は一体いつまで続くのだろうと嘆いてみたり、否きっと良いことがあると、根拠もない希望を信じたりすることだろう。私は今不思議な心持ちだが、とにかくその双方を広々した気持ちで肯う心こそ肝要であると感じている。

「あは雪の中に顕ちたる三千大千世界(みちあふち) またその中にあは雪ぞ降る」

「三千大千世界」は仏教の言葉で、世界を千倍し、さらに千倍、また千倍した大宇宙をいうらしい。霞掛かって的を射ているとはとても言えないが、良寛の詩を引いて敢えて霞んだままの気持ちを年頭の言葉としたい。




                          百錢会通信 令和2年12月号より

 さしたる興味もないSNSの広告を暇つぶしにクリックすると、次のような音声が流れてきた。「仮にこれからあなたがハンバーガーショップを経営するとしましょう。開業するにあたり、何か1つ希望を叶えてもらうとしたら、貴方は何を望みますか?」経営セミナーの勧誘広告である・・・。およそ自分には縁のない分野だが、このセリフに釣り込まれてついその先を聴き始めてしまった。「多くの人は、上質の肉を安く仕入れるルートとか、立地条件の良い店舗だとか、美味しいレシピを管理できる人材とかを望むでしょう。それらをすべて皆さんに差し上げて、その代りにあるたった1つのモノだけを私に与えてくれるなら、私は皆さんより圧倒的な売り上げを手にして経営に勝利して見せます。そのたった1つのものとは何でしょう・・・?それはお腹をペコペコに空かせたお客様です!」このキャッチ―な導入に、ビジネスチャンスを夢見る企業家の卵が眼を輝かせているのだろうか。

 作曲家の古関裕而をモデルにした連続ドラマは割合に好評だったようだ。私は、途切れ途切れにしか見ていないので定かな記憶ではないが、妙に忘れられない1シーンがある。確かレコード会社の古い職員が古関につぶやく場面だったと思う。「頑なに自分の信念・主義を通して才能を開花させられなかった作曲家をごまんと見て来た・・・」と。我々には身につまされる、何とも切ない科白であった。

 また話題は飛ぶが、同世代にしてもう何十年も共演させて頂いて来た地歌の藤本昭子氏が、この度今まで所属の会派、銀明会を独立して自身の会を創立なされた。雑誌「邦楽ジャーナル」誌上でその並々ならぬ決意が述べられている。さてその文中に次のような件があった。若い世代に理解しやすい邦楽の需要を訴える制作側の発言に対して「それは音楽ビジネスを漁る大人の錯覚」であると、誠に熾烈な解答を突き返している。

 恥ずかしながら私は藤本氏のように毅然と世に向かって宣言する胆力はないが、今も昔も己の心の奥底の良心に導かれて音を紡ぐ姿勢は変えようがなく、その意味に於いては同じ志だと思っている。そもそもそういう表現活動が存命中に大きく評価されて、まして経済効果を生み出すなどという事例は古来稀であって、別段それを嘆く必要はないと感じている。ゴッホが存命中に売れた絵はほんの数枚だったとか。コロナの霧に覆われた一年、人心は灰色のベールに包まれて体温は降下するばかりだ。こういう時にこそ真の芸術作品の力が必要であると叫ばれる。ドラマの「エール」もその意味ではタイムリーだったかも知れない。売れる時は売れるし、売れない時は売れない。「それは神のみぞ知る」で良いと感じている。そもそも作品とは表現者がその時どこから来てどこへ向かったか、その「道」だけであってそこから何を汲み取るかは後世の個々に委ねられていると思われてならない。否、表現者だけでなく、ありとあらゆる生命は後世に目に見えないこの「道」しか残せないのであって、増してや財産や地位名誉の記憶といったものは、実は誠に儚い幻のようなものだと思う。




内向する力                  百錢会通信 令和2年11月号より

 神如道(18911966)といえば東北系古典本曲の大家というのが尺八界の共通認識であろう。それに対して三曲での神如道の評価は実はあまり高くなかったようだ。しかし三曲における神如道の信奉者も少数派ではあったが確実に存在していて、その中には絃方の支持者も少なくなかった。そして彼らは往時三曲界の神如道に対する批判に対しても断固としてひるまぬ気概を持っていた。その神如道の三曲スタイルを最も色濃く継承したのは和田真月師をおいて他にない。

 和田師が神如道から受けた稽古の思い出話の中で私が印象深く覚えているのは、「三曲を勉強するなら自分でまず歌うことだ。歌を習わなくてはならない。」と指導されたという話だ。和田師は船場の商家に入り社長業を営む傍ら誠に芸事にも精通していて、小唄端唄は玄人はだし、清元は立派な名取の資格を持つ。その和田師が「地歌は本当に難しい・・・」と酒席でしみじみと語っていたのを私はよく記憶している。

 先月開いた私のリサイタルの模様は、各曲にコメントも織り込んで動画配信をしたのだが、その中で私は「地歌」というジャンルの魅力が成立する、邦楽の中での不思議なその立ち位置について言及した。「琵琶湖に浮かぶ竹生島、祀られた弁財天の由来を語るだけの歌が何故に現代の我々の胸の奥深くに迫ってくるのか?」。これは江戸期の他の声楽とは次元を異にする、演者の特殊なエネルギーの発露が無ければ成り立つものでは無い。和田師をして心から「難しい・・」と言わしめた根拠はそのあたりにあると思う。

 能役者は面の前に手をかざしただけでどうして、例えば我が子を亡くした親の、声なき慟哭のような激しい心情などを表し伝えることが出来るのか。親しくして頂いた能楽師の故佐野萌先生は冗談交じりに「こんな仕草だけで本当にお客さんに伝わっているのかねぇ・・・って、良く思いますよ!」と快活に笑っていらっしゃったが、その黙示する世界は観るものを圧倒する。酒席の会話に笑い転げてばかりいないで、表現者としてのその内側について少しでも教えを乞うべきであったと今更に悔やまれることだ。縁あって足を踏み入れた地歌の世界ばかりでなく、虚無僧尺八においても、言わばこの内向する熱線が逆転的な外への放射に至るまでの秘密が、今後の日本伝統芸能の重要な鍵となると思っている。

 齢六十歳を目前にして未だにこのような疑問に右往左往している私が、何故かこの秋の褒章の栄に浴する事となった。斯界歴代の受章者のお名前を見るにつけ、今の己の心許なさが身に染みることである。青年時代の私が目の当たりにしてきた三曲界の先達は、目も眩むほどの輝きを放ち、世界に向かってその活動の場を切り開いてきた。この活況を下支えした大事な要素の一つは、圧倒的な運動力に依拠するところの革命的な技術革新であったと思う。このフィジカルな技術進化は今後も更に進んで行くに違いないが、その反面で内的世界での創造的な活動が停滞しては元も子もない。そこに我が身に期待された重責を感じないではいられないのである。

 



稽古の鬼                     百錢会通信 令和2年10月号より

 久しぶりに今月、二代米川文子先生と舞台をご一緒させて頂く。大正15年生まれで御歳96歳。生田流箏曲の人間国宝。現在も矍鑠として舞台と後進の指導に当たられている。

 お菓子を頂きながらお茶を飲む時などは手を打ってよくお笑いになるし、とにかく気さくでお優しい先生だが、いざ箏の前に座られれば辺りの空気は一瞬にして張り詰める。目に見えぬ塵一つさえ消え失せたようで、私のような青二才にとっては凍りつくという表現の方がむしろ的確である。この緊迫した空間に気のこもった一点の爪音が弾かれ、放たれるのである。

 箏と三絃の合奏は、特に長い沈黙を伴う部分においては、点と点が寸分違わぬ間で交わるために、その緊迫感は互いの刃の切っ先を突きつけたような真剣勝負の趣となる。よく尺八はこの張り詰め過ぎた空気を和らげる効能があると言われるが、それはどんなに上質の技を以ってしても所詮は誤魔化しの応急処置である。三曲における尺八本来の重要な役割は、例えるなら空間に浮遊する箏・三絃という2つの点が1点に出会うまでのその精密な軌跡を言わば可視化することにある。長い年月、歴史をかいくぐって練り上げられた芸は、この点と点を結ぶ、目に見えない微かな音の軌跡に絶対的な美しさが有り、それを塗り潰してしまうなら尺八は必要ないのだ。・・・と大上段に理想論をブチ上げれば自ら首を締めることになるのだが・・・。

 今回ご一緒させて頂く曲は全曲で25分の「八重衣」。案の定、到底歯が立たぬという思いで2回のお手合わせを終えたところで先生のお顔を見ると、首筋に微かに汗が滲んでいた。これは運動による汗ではない。身体の芯から溢れる気迫の火照りに相違いない。大変なエネルギーを放出されているのだ。「2回もお手合わせ下さり申し訳ございません、先生、お疲れになられましたでしょう?」このねぎらいの一言がマズかった。

 「八重衣を弾いて疲れたなんて言うもんじゃありません。何回弾いても稽古が足りない曲なんですから」。ピシャリとやられた。かつての邦楽界の、厳しい徒弟制度の中で修業を積んだ演奏家は、誰もが我々の想像を遥かに超える鍛錬を重ねて来られたと聞く。その中でも「稽古の鬼」といわれた米川文子先生である。面目躍如たるそのお姿であった。




長引く夏の終わりに            百錢会通信 令和2年9月号より

 小ナラの木の下に、可愛い帽子をかぶったようなまだ緑色のドングリを見つけて心を動かしたのは、もう何十年ぶりのことだろう。来る日も来る日も、もう随分と永く近隣の里山を歩き続けている気になっていたが、春過ぎて夏は長引き、まだ二つの季節しか過ぎていないことに改めて気がついた。緑色のドングリを地面に我々が見つけることができるのは、小ナラの実に卵を産み付けた、ハイイロチョッキリという何ともひょうきんな名前の虫が、実の色づく前に枝ごと切り落とすからだそうで、それはドングリの中で孵化した幼虫が硬い殻の中で安全に実を食べて成長した後に、次は地中で越冬させるためだとか。これを子を思う親の老婆親切と言わずして何とするべきか。

 先日、在宅勤務も早半年になるという会員がいつもの様に稽古に訪れた。雑談の際に数週間に一度だけ出社するオフィスの写真を見せてもらいアッと驚いた。流石岩崎家の興した大企業だけにそれは立派なオフィスで、デスクは感染防止の為のクリアボードで各席がしっかりと仕切られている。ところがその広い近代的なオフィスに出社しているのはせいぜい23人だと言う。それでも業務は回る・・・そのことが証明されてしまったわけだ。このコロナ禍を機に、仕事にしろ私生活にしろ、我々の都市近郊の生活様式は加速的に変化するかも知れない。現に、多少手狭でも会社通勤の利便性を優先するという物件より、快適な在宅ワークに相応しい、広々とした郊外の不動産が動き始めていると言う話もあちこちから聞こえて来る。

 そもそも都心に聳える壮大なオフィスとは何だったのか。「砂上の楼閣」という言葉を胸に自問自答を始めたビジネスマンもきっと増えて来ていることだろう。社内で互いに顔を合わせて挨拶し、雑談の一つも交わしながら仕事に励む環境が無くなれば、社内のコミュニティーは良きに付け悪しきにつけ、様々な変化が起こるのだろう。また都市郊外の自宅での滞在時間が長くなれば、ほぼ老人会と化した町内会活動も多少若返るなんてことがあるかも知れない。私の歩く里山にも私と同様の、見るからにデビュー間もないウォーカーが増えたものだ。

 世情の変化に遭遇するたびに思い出すのは何度も引用して来た「菜根譚」の次の一節である。

 

道徳に棲守する者は、一時に寂寞たり。

権勢に依阿する者は、万古に凄凉たり。

達人は物外の物を観、身後の身を思う。

むしろ一時の寂寞を受くるも、万古の凄凉を取ることなかれ。

 

 ここまで人生折り目正しくとまでは行かなくとも、せめて、里山でハイイロチョッキリを知って、年老いた父母の憂いに思いを馳せるような時間ぐらいは取り戻したいものだと思う。




独坐観念                    百錢会通信 令和2年8月号より

「白玉の 歯にしみとほる秋の夜の 酒はしづかに飲むべかりけれ」 (若山牧水)

 私の友人に、酒場で大騒ぎしている客を見つけると、特に相手が中年以上であれば必ずと言って良いほど、内ポケットから取り出した太い万年筆で上の短歌を素早くしたため、それを突きつけて一喝する人がある。静かに嗜む大人の飲み方を身に付けよ!と。私自身、酒席で大笑いしたり熱弁を奮ったりは一度や二度ならず、自分が叱られたようで肩をすくめたものだ。緊急事態宣言が解除となって程なく、SNSに楽しそうな宴会の写真をアップする若い尺八吹きがいたものだから、我が赤面の思い出話を投稿して遠回しに苦言を呈したのである。

 「独坐観念」という言葉を茶道の人から聞いたことがあるが、これも思い出すたびに私には耳が痛い。茶席が終わり、門口で客の姿が見えなくなるまで見送りする。その後に客が帰ったからと言って早々に取り片付けするものではない。茶席に戻り心静かに炉の前に独座して、再び帰ることのないこの一期一会に思いを巡らせて、独り茶を立てて一服したりする。寂寞のうちに語らうは釜一口のみ。何故にこの言葉が耳に痛いかというと、それは宴席が終わり帰宅してからも、勢いづいて尚独り酒盛りする我が身の浅ましい姿が思い出されるからだ。このコロナ禍中でなくとも酒飲みはとにかく節操がない・・・。

 音楽界の活動再開も僅かずつ進み始めているように思われるが、依然として演奏会中止の連絡は後を絶たない。特にアマチュア愛好家による演奏活動は大人数での企画が多い所為か、殆どが中止の憂き目に遭遇しているのではなかろうか。本番が無くなってしまい稽古に意欲が湧かない・・・という呟きもあちこちから聞こえてくる。その気持ちは私もよく理解できるのだが、こういう時こそ肚に力を込めて心の眼を見開き、虚心坦懐、音を奏でる自己と向き合うことを大いに勧めるのである。この禍中に、私は幸いなことに自分がまだ十代の頃、舞台に立つことなど全く考えずに一心不乱に音にのめり込んでいた往時の稽古の時間を鮮やかに思い出すことができた。周囲の騒音から解放された静寂に浸る時間。これはもしかしたら「独坐観念」に近い心境かも知れないと思った。




遠い記憶                    百錢会通信 令和2年7月号より

 小さな男の子が右も左も確かめずに、自転車で勢いよく交差点を走り抜けた。幸いに鉢合わせる人も車もなければ惨事は免れたのだが、同行の母親は烈火のごとく怒気をこめて、その運転の如何に危険であるかを叱責した。するとその母親の横から現れた小さな妹が、何やら意味不明な言語で、けれどその仕草と形相はその母とそっくりに兄を叱りつけたのである。私は一瞬虚を突かれてそこに立ちすくんでしまった。と同時に、いくらこのコロナ禍とは言え平日の昼間にあてどなく住宅街を歩く、見ず知らずの中年男に凝視される薄気味悪さも悟ることが出来たので、何も気にしない風を装って私はその場を通り過ぎた。が、しばらくはあの言葉もままならぬ幼女のことが脳裡から離れなかった。

 その後の散策の道すがら辿りついたのは、結局大人になっても人間の咄嗟の言動などは殆どあの女児と変わらないだろうという思念であった。人間の経験と思索によって肚に据えられた道理や道義と言ったものとは全く別の源から、実はその声は発せられているのではなかろうかという思いである。発言内容の論理的な整合性についての審議というものは、どんなに弁のたつ者であっても、否、弁の立つ者ほど発言の後から帳尻を合わせていることが少なくないと感じている。この論理的思考という誠に複雑な迷路を長く歩き続けるのが人間社会の日常とも言えるだろう。そうしているうちに、声すなわち言霊を湧出する全く別の水源が、己の心の奥底にあるやも知れぬという予感を抹消してしまうのかも知れない。

 活動を再開した宇多田ヒカルというミュージシャンが、一時休止中の出産・育児を語る中で、「この子が生涯背負い続けなければならない甚大な何かが、その短い期間の内に刻一刻と、その心と身体の奥深くに彫り込まれて行くという、しかもそのことに自分が深く関わり、その時間に立ち合っているという現実」という様な発言があったと記憶している。この歌手は己が歌声の中にその遠い記憶を直感し続けてきたのだろうと思った。歌う者にとってそれはとても切ないことだと思う。

 あの女児もその夢うつつのような過去の記憶に何かを刻まれたが故に、あの交差点で毅然と兄を叱責したのではなかろうか・・・。

 真の意味における演奏家の奏でる一節、詩人の紡ぐ言葉の一句というものは、好むと好まざるとに関わらず、心の中のこうした遥か彼方の水源から溢れるものであるから、どこかに言い知れぬ懐かしさと哀しさが漂ってしまうのだと思う。




たかが道具、されど道具        百錢会通信 令和2年6月号より

 長年私が専属で楽器提供を受けている泉州尺八工房から、最新製品のメタル尺八を預かって来た。しばらく試奏して欲しいとのことだ。淡い黄金色に輝くこの新作尺八が、20㎝四方のコンパクトなケースの中のクッションにぴったりと収まった様子は、さながら高価なフルートがビロードの中敷きにしっくりと収納されている様が連想されることだった。持ち帰ると思いの外に家内が「どれどれ見せてちょうだい!」と興味を示した。その眼の輝きを見て私はピンと来た、彼女は中学生時代に夢中だった吹奏楽部の気分を思い出したのだと。丁寧に誂えられたケースからキラキラ輝く楽器を取り出す時の心はいつでも、無垢なときめきに満たされていたに違いない。

 「メタル尺八」は早くもネット上では話題で、驚いたのは既に中国では廉価版の類似品が製作販売されている。実際にこれを手にしてみたが、良く出来てはいても所詮は旅行客相手のお土産品レベルであった。そのことはさておき、新素材に夢を託す気持ちはいずれの業界も同じだろう。ゴルフのクラブなどは私のような門外漢にまでやれチタンがどうのこうのという話題が飛び込んでくる。ランナーのシューズに水泳の水着等々、スポーツの世界は使用する「道具」次第では勝てる試合も取り逃がしてしまうし、なによりその後のアマチュア層へ向けての商戦がかかっているから企業の血眼も想像に難くない。

 ところで我々伝統芸能の世界では、楽器という「固形」の道具の他にも、「型」という時間と空間の中に成立する道具がある。学生時代に偶々近い学年でご交誼を頂いた常磐津の某お家元のご子息は、芸については大変謙虚な方と記憶しているが、時折「この節はウチにしかないんだよネ」とお家の“お宝”を嬉しそうに披露なさっていたのを今でも思い出す。この“お宝”欲しさにアチコチの“いいとこ取り”したくなるのが人情だが、こういう芸の世界の「お道具」は半年や一年の修行ではお安く手に入らぬから楽ではない。

 「お道具」への執着が、その量と質においてなまじではないのは恐らく茶道の世界であろう。扱う「お道具」は自分の尺八に比べたらほぼ天文学的な数値の開きがあると思う。様々な世界の「オタク」にそれぞれの薀蓄を語らせたら夜が明けるなどという台詞は珍しくもないが、茶道の「数寄者」のそれを語らせたら三度生まれ変わってまだ足りないのではなかろうか、そんな印象である。ただ長年気になっているのは、そんな茶道の世界からよく聞こえて来る「たかがお道具、されどお道具」という言葉の本意だ。

 話を再び我々芸能の世界の「お道具」に戻そう。世に知られる一派を成したそれぞれの「家」には伝来自慢の宝がある。その最高峰が「秘伝」ということになろうか。そしてその会派に属する者たちの性としてどうしてもその関心は優れた「お道具」に集中しがちである。磨き上げられた「お道具」は名声の的となる訳だが、面白いことは世間に“お粗末”の烙印を押されてしまった「お道具」でも、それを手にし続けるうちには、そこが表舞台からは離れた片隅かも知れないが居合わせた人の心に少なからぬ感動の楔を打ち込んだ芸能者は数多くいたのだ。適切な譬えかどうか自信は無いが、「音楽と人間」を「精神と肉体」という言葉に置き換えて考えて見る。楽器は肉体の一部であってそれを含めた身体が「道具」である。そこで精神、即ち音楽は一体どこにあるのかを今一度胸に手を当てて物思うことが必要ではなかろうかと思うのである。

 ふと思い出すのは我が尺八の師、岡崎自修師の昔噺である。岡崎師が神如道に入門当時は手元不如意につきまともな楽器を買うことも出来ず、仕方なしに粗悪品を苦労して扱う術を覚えた。その力が認められ「これはロクな音が鳴らぬからオマエにくれてやる!」ということになり、かくして神家の廃品は岡崎師の元に集積したそうな・・・。この一つ噺には師の秘かな自負の念が潜んでいたと思うのだが、その反面に「弘法筆を選ばずというが、弘法は間違いなく一級品の筆を持っていたはずだ!」と強く力説していたのもまた岡崎師の言である。

 「たかがお道具、されどお道具」。少々混乱気味の脳裡にまたこの言葉がこだましている。




妙 法                       百錢会通信 令和2年5月号より

 庭仕事に使うプラスティックの霧吹きを野ざらしに放置していたら、半年も経たぬうちにパリパリとひび割れて使い物にならなくなってしまう。太陽の紫外線の仕業に違いない。人間もこれに晒され続けたなら同じ運命を辿るのだろう。しかし日光が無ければ植物は育たぬし我々の命も無いから、年の初めにこぞってご来光を拝みに大騒ぎだが、生き物は太陽によって生かされもすれば殺されもするのだから、これを何と解釈すべきか。兎にも角にもカンカン日照りの道から森の木陰に紛れ込むとホット一息、隠れ家に逃げ込んだような安堵の溜息が漏れる。木洩れ日程度が人には有難い。森は動物のシェルターだ。

 外出自粛のこの一月の間、来る日も来る日も雨の日も風の日も、ひたすら近所の森の中のすれ違う人もないような細い道を選んでは歩き続けた。3月半ばに歩き始めたころ、鶯の未だ拙い囀りが繰り返して響き渡る雑木林には、その幼い新芽の背景に桜の花吹雪がそちこちに舞い、塵界の騒ぎをよそにそれは優美な景色が広がっていた。若葉の緑は一日とて同じ色彩は無い。雨に濡れればまた一色も二色も趣が変わる。鶯も喉の調子を日に日に上げてくるようだ。時に目の前を泥の礫のような落下物が着弾して思わず歩を止めた。見上げると大きなカラスがこちらをじっと見据えてからカーカーッと声高らかに鳴きながら飛び去った。からかわれた・・・!

 足元では熊笹の生い茂る下草の中をガサガサと音がする。蛇の苦手な私は思わず身構えてその居所をじっと見据えるが、案外そこには雉がいたり時には狸の真ん丸な眼球と睨めっこしたりすることもある。長閑な晩春から初夏の森の景色に束の間心が和んだことだ。

 尺八の音が聞こえて来た!耳をそばだてて音の源に歩を進めて見ると、そこを定位置と定めて長いと見受ける“杜の吟遊詩人”との邂逅を得た。声を掛けて話し込むと同じ尺八工房のユーザー仲間であったので、「私は近所に住む善養寺です。」と名乗った。すると「同じ苗字で凄く有名な演奏家がいますよね!」と言われるので「多分、現代の尺八界で善養寺というのは私一人だけではないかと・・・」と苦笑したら、鳩に豆鉄砲といった面持ちで「失礼、演奏家の善養寺惠介氏はもっとお若い方と・・・いや失礼!」と言われて、尚大笑いした。

 数日後、尾根道には「2m以上の間隔をマスク着用のこと」という警告の札が沢山掲げられた。森に逃げ込む人が明らかに増えて来たからだ。もう少し離れて人気の少ない森にコースを変えることにした。風の音、雨の音、鳥の声、虫の音を黙して傾聴してみたいからだ。「自然の音と人為の音(尺八)とを対比してその主客の顚倒の感覚を忘れるな」とは我が師、岡崎自修師に頂いた最後の訓告である。

 そして亡き我が父は今頃どうしていることかを夢想する。下界を眺めて何をぼやいているかを想像してみることは私には少し楽しい時間である。思いつくのは小さい頃からよく聞かされた良寛の言葉で「災難にあう時節には、災難にてあうがよく候。死ぬる時節には、死ぬがよく候。是はこれ、災難をのがるる妙法にて候」。かかる時勢にぎょっとするようなこんな台詞を声高に叫ぶのではなかろうか。否、もっと突拍子もないことを言うかも知れない。ここで想念を捨てて森に紛れるこの頃だ。




道楽稼業                    百錢会通信 令和2年4月号より

 昔近所に、今となれば如何にも昭和風な、腕は良いが少々気性の荒い職人の親戚がいた。いつも話すことと言えば野球やゴルフにギャンブルと、文化芸術分野にはトンと興味を持たぬ風情であったが、夕飯時にふらっと訪ねれば「オゥ惠介、ビールでも飲んでけや!」というような誰に対してでも人懐っこいところがあり、話が噛みあわぬのも承知ながら時折立ち寄っては、当時の青二才にはほろ苦いキリンのラガービールをご馳走になったものだった。どんな話の成り行きだったかは忘れたが、「人間毎日うまいマンマに不自由しないで暮らせる以外に何の幸福がある!?所詮オマエなんザ無けりゃ無いで済む道楽稼業だろうが!」と罵倒され、血気盛んな当時、これは聞き捨てならぬと頭から湯気立てて、今にして思えば不毛な反論をまくしたてたことだった・・・

 三曲(箏・三絃・尺八)界で、恐らくは初の人間国宝となった富崎春昇の自伝には、三菱財閥の岩崎俊弥に招かれて、大阪から東京進出を成し遂げるまでの苦難談が綴られている。上京して稽古場を拵えて貰っても一向にお客が集まらない。収入がなければ岩崎が富崎の生活費を補てんしたのだが、それが一年も続いたそうだ。その月の足らず分を岩崎家に申し出ると初めは普通に取り次いでくれた執事も次第に嫌味を言うようになる。「君は偉いもんだね。日が暮れてから一寸顔を出して、カンカン火のおこつたお座敷で、ご前様や奥様をお相手にヂヤンヂヤンヂヤンと陽氣に樂しんで、それで月末になると、やれ六十圓だの、やれ七十圓だのと、全く結構なご身分だね!」「(富崎が)家へ歸つてから美喜(妻)にこの話をしまして、二人で手を取り合うて泣きました。」(『富崎春昇自傳』)

 コロナ騒ぎで喧しいこのご時世この日本で、今我々が「音楽家への緊急の補助・助成を!」と声高に叫べば、先の執事のような言葉がどこかから聞こえてくるかも知れないと思った。

 公認会計士であった私の尺八の師匠、岡崎自修師からこんな言葉を聞いたことがある。「昔は遊芸師匠税というものがあった」と。現代でも「生け花、茶の湯、舞踊、囲碁、将棋等の遊芸師匠に対し・・・」などのような使われ方がないわけではなく、幕府や朝廷の「式楽」として認められた能や雅楽は別として、他の日本の伝統芸能者に対しては、「遊び暮らす人」という印象が未だどこかに潜んでいるのだろうか?

 そうした先入観の有無はさておき。よろず「職業」と名のつくものに楽な道はない。問題は社会においてのその必要性の高低に対する認識・見識であろう。今は第1次産業よりもマネーゲームを勝ち抜くことの妄念に世界中が囚われて病んでいる。増してや莫大な金銭が動かない音楽・美術・文学にもはや価値は無い。一般大学から文学、美術、音楽は廃止せよ!などという無謀な訴えが、時折実業家や政治家から発せられる。世論に叩かれて慌てて口をつぐむものの、その本心は変わっていないだろう。「遊芸」とは「遊び惚ける」という意味ではない。祝祭、弔い、娯楽などの様々な場において、模倣、誇張、含蓄、暗示などの様々な技法を駆使して磨き上げられて来た日本の芸能における「芸に遊ぶ」という態度の根底にあるものは、「無心」への憧れである。花が巧まずして蝶を招くところの「無心」であり「喜び」なのだ。人間は妄念に囚われた苦難の日常から解き放たれ、束の間で良いから「無心」を取り戻す時間がどうしても必要なのだ。ところが現実の世界は、妄念が新たな妄念を肥大化させ、それが偏った宗教やイデオロギーと手を取り合い、何度も大惨事を起こすという過ちを繰り返してきた。

 だからこそ「遊芸」はこの世に是非とも必要なのだと叫びたい。文化・芸術に携わる我々がこの受難に際して助けを求める行動に、どうか「道楽稼業風情が!」という非難をしないで欲しい。




鋤鍬に油をひく               百錢会通信 令和2年3月号より

毎年米の収穫時期になると、通称「赤米」という自作の「古代米」を下さる門人がいる。専業農家を営む訳には行かないが、先祖から受け継いだ土地を荒らすのは忍びなく、細々と土を耕し、定年後はかなり本格的に稲作、畑作に勤しんでおられるようだ。

作業内容を聞くと既にそれは家庭菜園のレベルなど遥かに超えた専門技術であることが、私の様な門外漢でさえ容易に想像できるものだった。何の職種につけても私は小さい頃から、自分の不器用は他所に置いても、こういう「職人」の話を聞くのが好きで、尺八の稽古の前についつい農業について根掘り葉掘り聞いてしまうのだ。

父が神如道師に「雨が降ってきたら虚無僧行脚はどうするべきか?」と問うと「雨に降られる虚無僧など三流だ!」と答えたそうだが、農業の風を読み雲を読む真剣勝負に比べたら、虚無僧のお天気予報などはお遊びみたいなものだろう。種蒔きや収穫の日を決めるなどは、その道の達人と言われる古老ですら中々満足行く結果は出せないもので、ましてや自分などは数十年経っても素人の域を超えられないと、その門人は謙遜なさる。否、本当にそう思っているようだ。ところがその達人に一つだけ褒められたことがあるそうで、それは君ほどに鋤や鍬を丁寧に手入れしている百姓を見たことがないと感心されたということだった。そのことを話す時の顔は実に嬉しそうだった。私もその話には思わずハッとするような感激を覚えた。

物作りにのめり込んだ職人が、誰にも触れさせぬ拘りの道具に、拘りの手入れを施す話しは良く聞くことだが、それとは異質のものを私は感じた。作物を育むのは先ず土である。その土を丁寧に払いすすぎ、鉄の刃先に油をひく光景を思い浮かべてみたら、土と空気と水と太陽の中に、鋤鍬を介して溶けていく人の命が感じられたことだった。尺八吹きも「いい音が鳴りますように!」という類いの願掛けではなく、内側から盈ちてくる何かもっと大きなものとの繋がりの中で、竹の手入れをしたいものだと思った。




静 寂                       百錢会通信 令和2年1月号より

三曲界重鎮の先生に思いがけずお声掛け頂き、年頭のNHKTV放送に出演させて頂く幸運に恵まれた。下合わせは令和元年内末から始まったのであるが、その折に拝聴する雑談こそが我々若輩者には興味深く、話題の数々は宝の山である。が、有効に我が身の滋養とすることが出来ていない事が口惜しい。

NHKの三曲の初放送が三賀日から外れてしまったのは本当に悲しいことだという話題から、かつての思い出噺は始まった。正月初めの邦楽の収録は生放送だったそうで、時間に余裕が有ればその場で予定外の曲もオマケで演奏されというのだから、当時の大家の余裕に舌を巻いた次第だ。早朝の楽屋入りは全員正装、男性はもちろん黒紋付き羽織袴、女性は黒留袖。驚いたのはNHK重役が正面玄関にモーニング姿でそれを迎えたということだった。大晦日の紅白歌合戦華やかなりし頃、重役様も徹夜のようで、正装こそすれども流石に顔つきは眠そうだったというお話に、やけに心が和んだ。

モーニング姿と言えば思い出すのが私が小学生時代。学期末最後の朝礼台に校長は必ず昼間の正装たるモーニング姿で登壇したものだった。なのに私の担任のバンカラ教師は涼しい顔をして校長の傍らにジャージ姿で突っ立っていたから、あの時すでに日本のフォーマルというものに対する社会的認識の変革がかなり広範囲に広まり始めていたのだろう。私は自分の結婚式に際して父に紋付きとモーニングの両方の衣装を準備して、どちらかを身に纏って式に参列してくれるよう頼んだが、自分はボロボロの作務衣以外に着るつもりはないし、そもそも参列する気はないとけんもほろろに断られた。板挟みの母が廊下に走り去りながら声を殺して泣いていたのを幽かに記憶している。日本人の有職故実に対する認識と生活様式が大きく変容する中で、父はそれとはやや違う次元ではあるが、日本の伝統の生活様式に対する随分と乱暴な否定の鉈を振り回していた。ところが過ぎて見れば懐かしいそのバンカラ教師も父も荼毘に付されて実に静かだ。この静けさを噛みしめることに何か意味がある様に思われてならない。




大往生                       百錢会通信 令和元年11月号より

 父が虚無僧姿で郷里(群馬)の生家に現れると、母(私にとっての祖母)は大粒の涙を流し、「昭三が虚無僧になっちゃったよ・・・」と嘆き、さめざめと泣いたと言う。もともとは生家で百姓となる事を望んでいた父であったが、戦後の混乱で農業だけでは一家の生計も危ぶまれ、説得して焼け野原の東京に送り出し、何とか身を立てることを願っていた実家の親族たちである。虚無僧が只の“物貰い”という認識しかなかった当時、母親のその落胆と悲しみは想像に難くない。

 しかし父は「身を落としてこの佇まいなのではなく、道を求めての虚無僧行脚。大悟して今は曇りない心での旅路だから心配しないで良いのだ。」と笑顔で母を教え諭したという。そう言われてハイそうですかと納得する御仁は中々いないだろうが・・・。

 伯父の影響で東洋思想の世界に足を踏み入れた父の心の旅は、やがて「禅」一点に照準が絞られ、辿り着いたのが虚無僧である。度を越して過敏な感受性の持ち主が、戦中戦後の混乱の中で全身に浴びた苦悩は、その後の経済復興程度のお祭り騒ぎでは、到底癒されるものではなかったのだ。故に見せかけの平和に浮かれる隣人に向かって、これまた過剰な警鐘を父は鳴らし続けて、そして疎まれて行った。何もそこまでしなくても・・・という思いが私には常にあったが、諌めてもついぞそれに耳を貸すことはなかった。

 父が死ということから気持ちが幾らか離れていたのは、私と兄がこの世に生を受けてから10年くらいの、ほんの僅かな期間ではなかったか。10代からの過酷な肉体労働故に自分の寿命は短いと決め付けていて、還暦を迎えようというころから頻りに死期の到来を口にするようになる。しかし幸いそれから大病もなく30年もの時が過ぎた。その間に幾度となくそろそろ別れだから顔を出せと呼び出されては、遺言の説教を聞かされたものだったが、しばらくするとやけに勢いの良い潤筆の手紙が届く、そんなことの繰り返しだった。しかし先月末の呼び出しは母からであったので、これはいよいよだなと直感した。訪ねると床の上ではあるがいつも通りに好みの和歌を吟じ、ハーモニカを吹き、宗教について講釈していた。死期を悟ったらしい父は最近既に、近隣の親族などに挨拶回りをしていたようだが(自転車に乗って)、どうもお礼の言葉よりも講釈の方が長かったらしい。掛かりつけの医師にも今日は診療を受けに来たのではなくアンタに言っておきたい事があると一くさりやったようだ・・・。その帰り道に倒れた。医師は大きな病院を進めたが、意識を取り戻した父はもちろんそれを拒んだ。死に近づく老いの中で常に人間苦の源を問い続けてきた思索もいよいよ最後。葬式用の写真は既に選んでいて自ら引き伸ばしまで済ませている。近くのホームセンターで求めた安価な木片で拵えた自作の位牌に、自ら揮毫の号は「一月浪士」。準備万端にして先日未明、母に看取られて旅立った。

 生前は寝ている間も消えることのなかった眉間の深い皺が、不思議なくらいさっぱりと消え失せている。大往生だと母が一言呟いた。



軍艦マーチ                  百錢会通信 令和元年10月号より

 私の住む所沢を本拠地とする球団の西武ライオンズがリーグ優勝をした。たとえ優勝しなくても「応援感謝」とかこじつけて街中は一斉に特別セールが始まる。毎年恒例の景色だ。ただ今年は増税前の駆け込み客をねらった売り出しも重なって、駅周辺は例年より多くの買い物客でごった返していた。

 「♪燃えろ ライオン かっとばせー ライオン 燃えろ ライオン 西武 ラ・イ・オ・ン・ズ―!♪」

 駅前の西武デパートでは、終日、館内全フロアーにこの応援歌が流れる。買い物をした家内が店員に向かって話しかけた。「コレ、一日中聞いていらっしゃるのですよね・・・」。すると店員は「(苦笑)・・・でも、元気出ますよね。」と答えたそうだ。どんな気持ちでそんな応対をしたのか、駅周辺を見下ろすコンコースから行き交う人を眺めながら、ぼんやりと想像した。すると騒々しくて賑やかなこの景色も、もの哀しい映画の、どこか遠い世界の虚ろな1シーンのように思われてならなかった。

 このエッセイで何度も話題にしてきたことだが、私は幼少期に尺八の練習曲として軍歌を与えられて、それをかなり熱心に練習したものだった。「同期の桜」「若鷲の歌」「麦と兵隊」「討匪行」「戦友」などなど。「加藤隼戦闘隊」なんて曲名を口にしようものなら、同世代の友人は目を丸くして笑い転げた。でも当の本人、こうした曲を口ずさみ吹き鳴らすことが左程苦痛ではなかった、というよりむしろ幽かな感激を感じていたのだ。軍は兵士の士気高揚を期して軍歌を作らせたのだろう。作詞家、作曲家にどのような指示を与えたのか、その詳細を私は知らぬが、不思議に思うのは、軍の検閲を受けたはずの作品が私には逆に反戦のメッセージにしか聞こえてこなかったということだった。理不尽な死を強いられる不条理を黙って受け入れて、心から陽気に前向きになれる人間があるものか。幼い私は空想の中で、戦地の兵士の思いはどんなものなのか、遣る瀬無い心持ちで想いを巡らせていた。

 「ヨナ抜き音階」という用語がある。これは西洋音楽の長音階の第4音と第7音を抜き取った5音音階で、現在でも浪花節系の演歌などには頻繁に用いられる音階だが、正直なところこの調性の音楽が私は苦手である。この種の作品に漂う如何にも大衆的な陶酔を見下すつもりは毛頭ないのだが、何故か肌に合わないのだ。ところが先の軍歌の中で、この「ヨナ抜き」で書かれた「ラバウル小唄」だけは何故か拒否反応が起こらなかったのは自分でも不思議に思う。この曲には明らかに“負け戦さ”の無念が滲んでいる。この歌は軍が正式に認めた軍歌なのかは知らないが、もしそうだとしたら軍の検閲官達は音楽の心底を全く理解し得ぬ人物だったと言うほかはない。

 斯様にかなり捻りの効いた末の結果なのだが、私には軍歌に対する離れ難い愛着がある。シビリアンコントロールが全く機能しなかった軍部の自己陶酔のお陰でとんでもない目に合わされた若い戦士たち、その恋人、親兄弟、子供達の無念が迫ってくるからだ。またそれ故に耳にしたくない軍歌もある。ジャラジャラと騒々しいパチンコ屋店内が似つかわしい「軍艦マーチ」などは聞きたくもない。野球チームの応援歌を終日聞きながら、客も売り手も「商売」の戦闘意欲を奮い起こしている様子も、私には戦争の相似形を見る思いがして、却って足が遠のいてしまうのだった。




公の精神                     百錢会通信 令和元年9月号より

 現職を退職した竹友が、一部上場を目指す若いベンチャー企業に請われて相談役を引き受けているという。聞くとこれが結構忙しいというので、何時頃になれば上場が終わって仕事が楽になるのですかと問うと、それはいくら親しい友人といえども口外する訳には行かないと口を固く閉ざした。そう言われて初めて、なるほどこれは「インサイダー」の情報なのだと気づくという間抜けな始末に、思わず吹き出してしまった。

 昔、社会の授業で企業が株式を公開するというのは、その企業が個人のものでなく「公」のものとなることだと教わった。教わるばかりで私にはこの歳になっても尚さっぱり縁の遠い世界の出来事だ。

 「公界」という言葉をふと思い出す。禅宗の用語として日本に伝えられたそうだが、元は俗界から離れた修行の場やそこで修行する僧侶を指したのであろう。そしてそれが後には「私事」に対する「公」を意味するようになる。ただし、ここで興味深いのは、当時の「私」には主従・隷属といった社会関係の意味を含んでいるから、「公」とはそういった関係とは切り離された人や場所を指しているということだ。世俗の対立や戦乱から切り離された「無縁」の領域(アジール)がすなわち「公」で、そこに往来する「公界者」は正に我々伝統芸能者の直接のルーツである。そんな中世の景色を想像してみるに、現代においては企業や芸能家に主従・隷属の類からは独立した「公」の精神、すなわち自主独立の気概があまり感じられないのは、少し哀しいことである。

 先日、私が敬愛してやまない筝曲家の野坂操壽師がご逝去なされた。先生とご交誼頂いたのは僅かこの十年足らずの短い期間であったが、今年新年の国立劇場でご一緒させて頂いた合奏が(恐らくはそれが先生の最後の舞台かと・・・)何とも軽やかで華やかで歓喜に満ち満ちていただけに、今の私は心の中の悲憤を制御できないでいる。どの場面にあっても思い出されてならないのは、どこまでも瑞々しくしかもしなやかで力強い、清冽としか言い様のない先生の精神そのものである。あれこそが私の中での「公」そのものであったと今更に思い知るのである。昨年の私の幾つかの受賞に際して先生が送って下さった言葉は、作曲家の伊福部昭氏の「決して大衆に迎合する事なく魂を揺さぶる至高の音楽を目指せ」であった。先生ご自身が座右の銘にしていらっしゃったのであろう。真に自由で公正であることの意味を常に心に問い続けていたに違いない。荘厳なカテドラルで執り行われたご葬儀で頂いたカードにしたためられていいたマタイ伝の言葉も、私には生涯忘れられぬものとなるだろう。

 

 「心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。」



日暮里、歩道の塵、埃         百錢会通信 令和元年8月号より

 久しぶりに成田発の国際線、しかもそれが早朝発の便なので、前日の仕事の後は都内に宿を取る。予約した日暮里界隈の安価なホテルに日本人の宿泊客は私の他にほとんどいない。ホテル内に行き交うのは異国の言葉ばかりだ。ホテルの中ばかりではない。ロビーを出ても、コンビニや居酒屋、軽食屋などの従業員のほとんどは外国人である。大衆的な飲食店しか利用しない私にはもはや珍しい景色ではなくなった。ところでこの駅前はロータリーが整備されて随分と綺麗になったが、この街に染み付いた匂いみたいなものは中々消えない、たとえどんなに異国の人々がそこに溢れかえろうとも。歩道の小さな紙屑の散らばり様を見てふとそう思った。

 私は今、ヘルシンキ経由でポルトガルのリスボンへ向かっている。少しずつ昂まりを見せるヨーロッパ尺八家による夏の尺八フェスティバルに招聘されての訪欧は今年で3年連続となった。

 世界での、尺八の広がりの始まりはおそらくアメリカであろう。興味の源は、明らかに尺八と「禅」との繋がりにあったと思う。ところがヨーロッパでの広がりの源泉はもう少し多様で、かつてのアメリカのそれとは微妙に違う様な気がしている。その傾向を今ひとつ私自身は把握しきれないのだが、所謂、前衛音楽を経て尺八に辿りついた音楽家が多いのは1つの大きな特徴だと思っている。前衛音楽には全くと言って詳しくないのだが、それでも多少は耳に届くのは、かつて現代音楽界が電子音やノイズを多用していた時代、日本の作曲家達の作品にはその中にあっても何処かに、花鳥風月、自然界との一体化の傾向があり、そうしたいくつかの作品という窓口から垣間見た景色が、彼らの日本への淡い憧憬となったのではなかろうか・・・。

 近年急速な広がりを見せる中国、台湾、香港での動向については私は全く「蚊帳の外」と言って良い。私にはヨーロッパよりも遠いこの近隣アジアから聞こえて来るのは、残念ながらその「商魂逞しさ」ぐらいなものだ・・・。

 ふとここで昨夜の日暮里界隈が再び思い出されて来るのである。私にとっては、路上に佇む異形の修行者としての虚無僧の姿が、尺八を吹くことに於いて忘れられない景色なのだが、この琴線に共振する海外の動向はまだどうも少ないように感じている。




楽  家                     百錢会通信 令和元年7月号より

 今月は長い引用で原稿スペースを埋めて楽をしよう・・・とした訳ではないが、これはもうそのままを読んでいただくしかないと思った。虚を衝かれるというか、自分の日々の努力奮闘は何だったのだろうと思わず笑ってしまった。『楽家類聚』という、大層大型装丁の本の中に見つけた一文だ。楽家とは皇室の神事に御神楽を奉仕する楽人の家のことで、現代でも多くは宮内庁の楽部に所属していて、代々の世襲は千年に及ぶという。日本の皇室の継承が如何に特殊であるかということが、この楽家の歴史からも推量されることだ。以下は楽家の中の豊氏の言葉だ。

 

 「今はいいものを残すことが大切とされる時代です。音楽もよい演奏をという時代です。でもそれなりの才能ある人間がよい演奏をすることと、伝えるということとは違うと思います。ほかの古典芸能の世界とも共通することと思いますが、常識的に考えて、才能に恵まれた人ばかりと限りません。むしろ、そのような者こそが次の世代へ自分の教わったことを忠実にコツコツと、伝えられるような気がします。ですから、残るわけです。しかし、出来のいい人(特に天才)は自分で工夫する。それで変化が起きるわけです。雅楽も長い間に、少しずつ変化が起こっているけれど、かなり元の形が残っていると思います。そこが、一代限りの芸術家ではなくて、世襲のいい面です。

 もっとも、現在は雅楽が普及して、耳の肥えた人が大勢います。当然責任を感じて、いい演奏をという気持ちになります。そのためには、才能のある人を揃えなければならないということになりますが、それは伝えるということと少し違ってくると思うのです。今は才能、個性ということが尊重されていますが、継承するということにおいては、むしろ、平凡であることのほうが大事であるように思います。西洋的な、感動させる演奏という考えとは逆ですが。」

 

私が学生時代、雅楽の授業で指導をして頂いた芝祐靖先生も、南方楽所の狛氏の系譜を受け継ぐ。楽家からは初の文化勲章の受賞者となった芝先生の主張は少し違っていて、世界の芸術音楽と並んでも決して引けを取らない音楽に磨きあげなくてはならないというものだ。一般的には芝先生の言葉が当たり前だと思うが、同じ楽家の中にまるで逆の主張が、つまり、溢れる才能、豊かな個性より、平凡の方が大切、とここまで簡単に言い切ってしまう所に、何か理屈だけでは片付けられないものが潜んでいるのでは・・・との思いを拭いきれずにいる。




子連れ狼                    百錢会通信 令和元年6月号より

 まだ娘が一人歩きも儘ならぬ頃、私が彼女を背中に背負いながら尺八を練習している写真がある。中々大人しく布団の上では寝てくれぬ時に、仕方なしに「ねんねこ」であやしながら、しかし容赦なく迫って来る次の舞台の練習はしなくてはならない訳で、そんな当時の生活の一コマだ。年賀状の近況報告にその写真を載せたら、送り先のアチコチではその「子連れ狼」姿に拍手喝采だったようだ・・・。

 その娘も今や音楽大学の院生となり、時折私の演奏の伴奏を務めてくれるようになった。一般聴衆向けの催しでは、邦楽の古典曲ばかりのプログラムではなく、耳馴染みのある曲目を加えて欲しいという主催側からの要望も少なくなく、こういう時は即興にも強い娘のピアノ伴奏が大いに役立つ。

 つい先日の宇都宮の演奏会では、ほんの6分程度の小品であるが、邦楽マニアではないお客様にはとても大切なリラックスの時間で、選曲を任された私には有難い助っ人であった。

 話は「五月雨」式にスライドするが、その宇都宮の演奏会は、市の文化振興財団が、毎年45月頃に、色々な邦楽家をメインに迎える企画で、私は過去に4回も呼んで頂いた。ほぼメインゲストのリサイタルとなる訳だが、地元の文化振興・活性化の趣旨から、県内邦楽演奏家との合同曲がこれに加わる。なるべく多くの方に参加してもらえるように、箏、三絃、十七絃、尺八の他に笛や囃子も加わった、日本音楽集団のレパートリーを私は選曲した。大合奏となれば指揮者を招くのが通例であるが、残念ながらその予算はない。そこで私は尺八を吹きながら要所々々だけ、慣れない指揮棒を振ることとなった。珍事はその練習の時に起こった。

 大合奏はオーケストラと同じく、指揮者が構えると団員は息を潜めてそのタクトに集中する。その静寂の中、後方から「ふんぎゃー」という赤子の声がした。不意を突かれた一同思わず笑ってしまい、演奏を中断せざるを得なかった。声の発信地に目を向けるとそこには背中に赤子を背負った尺八奏者が済まなそうに皆に謝っていた。

 事情を尋ねると、何と奥さんは三絃で、お婆ちゃまは箏で一緒に参加していて、他にベビーシッターを見つけられなかったということだった。何度も謝るお父さんに「何々、気にすることはないですよ、これも英才教育ですから!ねぇ!?」と皆で肩を叩いて笑ったものだった。件の赤ん坊は皆に囲まれてニンマリと笑っている。20年後もこんな場面があって欲しいと願うばかりである。



ものを思うということ           百錢会通信 令和元年5月号より

 間もなく創立40周年を迎えようとしている虚無僧研究会の総会に久しぶりに出席した。例年は上半期の舞台の打ち合わせなどで都合が合わなかったが、今年は10連休の所為か予定が分散したようで珍しく休みがとれた。会友の神田可遊氏の特別記念講演もあったので応援も兼ねて本部の法身寺に足を運んだ。

 当会の草創期が懐かしく思い出された。当時は如何にも一筋縄ではいかぬという眼つきをした同人で会場は溢れかえっていた。深夜にまで及ぶ懇親会での虚無僧談義は、およそ和やかと言えたものではなく常に緊迫していて、時に胸ぐら掴み合う口論も珍しくはなかったように記憶している。以前にも神田可遊氏が講演したことがあったが、確かその時の演題は「明暗對山派の成立過程」といったものではなかったか。明暗尺八の主流である樋口對山の通説がかなり修正される内容であった為に、あの日の懇親会は例年にも増して侃々諤々の議論が白熱、場内は騒然としていた様に思う。神如道の言うように「竹は悟道である」という気概を少なからず心に秘めた人士の集まりであったが、その気力・胆力の温度差は激しく、又方向性も四方八方に散らばっていた。ある者が自流の系譜の正当性を強く謳い上げれば、悟道を語る者にあるまじき権威主義だと痛罵する者もある。私も余波を喰らって随分と標的にされたものだ。「おう、手先だけは器用なそこの天才少年!語ろうではないか、座りたまえ」と言われれば「ご高説は先日賜りましたから、たまには老師の竹による説法もお聞かせください!」などと生意気な受け答えをしていた。何とも浮世離れの時間が流れていた当時が懐かしい。

 入会当時の私は成人式を間近に控えた10代である。先日の総会を見渡すと創立期に比べたら若い会員も増えたように思うが、流石にかつての私のような10代の若者は見当たらない。変人奇人の集う当時の虚無僧研究会にあって変わり者の系譜としては人後に落ちぬ父、昭三の影響ゆえであるが、とにかく私も道を求めて止まない純白の精神に漲っていた。その後まもなく悟道としての尺八は傍らに置いて音楽の道に進むが、この原体験は私の生涯を決めてしまったと言っても過言ではないと思っている。日本の音楽や絵画には、思想・哲学そのものを作品とする歴史が薄いのではないかと感じている。思索すること、ものを思うこと自体に美はあると思うのだが、この姿勢は中々世の中には受け止めてはもらえない。それは仕方ないのだという事も今は良く解る。だからそういう孤独に耐える鍛錬を10代から始めたことは、私には幸いなことだったと今更ながらに思うのである。




 横笛と尺八                 百錢会通信 平成31年4月号より

 近年、三曲界への邦楽囃子方の進出が著しい。つい先日開かれた箏曲の大演奏では全曲39番中、尺八が賛助として出演した曲は8番。これに対して邦楽囃子の賛助も同じ8番。20年前には考えられない比率である。「尺八の縄張りを荒らすようで申し訳ない・・・」と、以前より親しくして頂いている笛の友人は楽屋でそう話しかけてくださったが、私は良い傾向だと思っている。

 能、歌舞伎などの総合芸術の中で、長い年月をかけて磨き抜かれて来た邦楽囃子は、その楽器といい演奏の型といい、超一級の「お道具」が受け継がれている。それに引き換え三曲の尺八は200年にも満たない歴史で、糸の節をなぞりながら楽譜の拍子合わせに目を白黒させて、七転八倒の最中である。まずは目の前の囃子の世界を眼に耳に焼き付けて、己が尺八との力量差を深く思い知ることが、いずれは三曲の尺八の健全な発展に寄与することになると私は思っている。

 かつて私は「君の音楽はまるで男の悲鳴のようだ!」と評されたことがある。それはもちろん私個人の音楽的傾向に対する言葉なのだが、尺八の曲節からは人の心の奥底をえぐるような生々しい声が聞こえて来ると言うのは、尺八という楽器の特性をきわめて的確にとらえた認識ではなかろうか。

 ところが囃子方の笛となると尺八とは真逆で、天から降り注ぐような、冷んやりとした精妙さが漂う。それはどこまでも透明なエネルギーであって、舞台に舞い降りるなら一瞬にしてその場面の景色となることができる。そうして主役を彩り、時にさりげなく導きながら、しかし自身は決して出しゃばる事がない。限りなく上品な日本的美意識を具現化する脇役の化身と言っても過言ではないだろう。

 さて尺八はといえば、力任せに吹けば景色となることは愚か、個性的な登場人物になってしまう。堂々と主役を張る演目ならそれで良いが、三曲の古典曲においては全く場違いとなることを知っておいた方が良い。では尺八はどのように脇を務めるべきか?笛の真似をすれば偽物と笑われるのが関の山で、ここからの独自の工夫がなければ尺八の居場所は無い。

 とにかく三曲の古典曲で尺八は、歌、箏、三絃によって既に構築されているフレームの美しさを塗り潰さぬ様に細心の工夫を凝らすことだ。その上で作品の内奥にまで臆することなく踏み込み、その内面性の輪郭を的確に補強する役を担うことは、むしろ尺八が得意とする分野ではないかと感じている。それは囃子方の笛の在り様にも通じることかも知れない。作品の深部にあるエートスとも言うべきものに共振するセンサーが無ければ、如何に優れた“武具”を伝承する囃子方とて、その作品に真に相応しい景色を現す事は出来ないだろう。

 今月の末、私の信頼する笛奏者のリサイタルに招かれて共演させて頂ける幸運を得た。曲のテーマは折しも今盛りの「桜」である。桜の精霊にお互いが如何に踏み込むか、大いに勉強させて頂こうと思っているし、多くの方に横笛と尺八のその姿を見て頂きたいと思っている。



永 訣                       百錢会通信 平成31年3月号より 

 「人の亡くなる間際の脈拍というのは不規則に間隔が広がるのですね・・・」 神如道の最後を見送ったご子息、如正師の述懐である。「止まってしまったかな・・・と思うと再び脈動が起こる。そんなことを繰り返して、また戻るかと待つが今度は回復が無い。ああ、さっきの脈が最後だったのか」と。

 葬儀が好きだという人はそういるものでもなかろうが、社葬だとか大掛かりなものとなると、その仕切り役などの中には、心なしか生き生きと目を輝かせている方がいないでもない。近年は著名な立場の御方でも、葬儀は内々にと遺言されるケースが多くなったと思う。信仰や思想、信念に基づくでもない、只の社交辞令と化した、ともすれば残された周囲の者たちの権威権力の誇示の場ともなりかねない、こうした葬儀に嫌気がさしてきたからだろう。

 世界に禅を知らしめた仏教学者の鈴木大拙が既に臨終の床にあり、危篤の知らせを受けた息子のアランが駆け付けた。「人類の教師」と敬われた碩学も、苦悩の末に思うようには育てられなかった不肖の息子の見舞に、只々「おう、おう」とうめいて手を動かしただけだったという。大拙が何を言おうとしたのかは知る由もなく、またその時のアランの言葉の記録もない。浅からぬ縁の人との別れに人は何を見、思うのか。旅立つ人も送る者も、出来ることなら心静かに、安らかに・・・くらいの願いはあるが、しかしその瞬間に立ち会おうとすることの本当の意味は漠として、簡単に答えられるものではない。過ぎて見れば今先程の、あの時が別れだったのかと、人はただ振り返り回顧することしか出来ないであろう。

 「永遠の別れは何時訪れるやも知れないからこそ、今この時を悔いの無いように生きるのだ!」という様な元気な台詞は世間によく耳にすることだが、残念ながら私の心には響かず、虚しく通り過ぎるばかりだ。ところが、ある詩人が葬式について語ったエッセイの中の、「永訣は日々の中にある」という一言は、何故か脳裡に焼き付いて離れない。「日々」とは「自分」であると思った。つまり永訣は己自身の内部にあるのであって、黙してそれを保持し続ける生涯、というようなモチーフがその時閃いた。それは漂泊の修行者である「虚無僧」そのものに思われたからだ。




時代が放つ臭気               百錢会通信 平成31年2月号より

「書が臭うと言うといささか奇異に感じられるかも知れないが、西郷隆盛、大久保利通、福沢諭吉、徳富蘇峰などの維新から明治期にかけての政治家、思想家の書は強烈な臭気を放っている。一方、伊藤博文や犬養毅、また森鷗外、二葉亭四迷、尾崎紅葉、夏目漱石などの近代文士の書にはほとんどその臭いが失われている。」(石川九楊 著「書の風景」より)

書に限らず音楽、絵画、詩歌、それぞれ多かれ少なかれ「臭気」はついて回る。維新の志士たちそれぞれの書の、「臭い」を「匂い」と表記しなかったのは、この政治革命に伴って発散される「臭気」には醜さや悪が内包されている、と著者は洞察したからである。

「近代は急速に臭気を失った。(中略)坪内逍遥の書はおそらく臭気を伴った最後の書のひとつにあげられよう。」

逍遥の墨蹟を評する小文はこのように締めくくられている。

今は全て故人となられた、「尺八三本会」の横山勝也、山本邦山、青木鈴慕、各師の演奏は、尺八の歴史の中で、一つの革命であったと言っても過言ではないだろう。時代の趨勢もこのうねりを大いに盛り上げた。石川九楊氏の言い回しを借りるならば、この革命期の臭気を伴った最後の演奏家は三世川瀬順輔師ではなかろうか。

これらの尺八の大家に熱狂した聴衆は、続く我々次世代の演奏家に対して、口を揃えて次のように評したものだ、「すべてが小粒になった」と。以来、我々はこの巨匠たちとの比較という眺望の中で常にその未成熟を批評されてきた。その論評は決して的外れではなかったが、表現活動の本質とは何か?という問いかけに照らし合わせて顧みる時、我々は自らの演奏家としての評価を、やや必要以上に貶めてきたのではないか?という思いが、今の私にはある。

我々に続く次世代の演奏はどうだろう?「臭気」という目盛りで測るならほぼ「無味無臭」である。そこで私の世代はそれを音楽の味わいの希薄さであると簡単に言いがちだが、それは心して戒めるべきで、その態度こそ尺八吹きとしての矜持であると言いたい。

歴史の大事件に遭遇した表現者によって放たれる「臭気」は、人々に大きな衝撃を与えるであろうが、そのことだけに目と耳を奪われてはならないと思う。問題は表現者の衝動が心の何処に根を張っているかである。我々が分け入るべき心の世界は、歴史の大スペクタクルよりも遥かに広大で深淵なのだ。




ふるさとの山は               百錢会通信 平成31年1月号より 

昨年の10月に岩手で「松巌軒鈴慕」を吹いた。演奏会でこの曲を吹くのは随分久しぶりだった。そして折角練習もしたので翌月の東京のとある演奏会でも吹くことにした。決してその影響ではないと思うのだが、何故か昨年末恒例の吹き納め会で「松巌軒鈴慕」の希望者が多かったのはちょっと不思議な偶然だった。

思えばCDを自主製作して虚無僧尺八一本槍の独演会を始めたのが20年前の1999年だ。当時は何かと言えば「鶴の巣籠」と「松巌軒鈴慕」ばかりを吹いていたような気がする。何か特別な意味をこれらの曲に感じていると思い込んでいたが、いま冷静に振り返ればそんな大袈裟なものでもなく、今よりは僅かばかり傷つきやすかった心を慰めていたに過ぎない。憂愁を誘うその曲節が人心を退廃へ導くとして、遊郭での吹奏が禁止されたとの曰く付きの「松巌軒鈴慕」である。束の間その悲劇に浸ることで却って心の平衡が保たれるという、この曲を吹くことは私にとって一つのカタルシスであった。

話は戻って昨秋の岩手の演奏会。当日は四方見渡す限り雲ひとつない快晴で、霊峰岩手山をしっかりと拝むことが出来た。昨年設立75周年を迎えた岩手三曲協会の会長は仰った。岩手のシンボルたるこの山は、我々が旅立つ時は「頑張って来い!」と送り出し、帰郷すれば「無事でなにより、お帰り!」と迎えてくれる、親のような存在です、と。私はその言葉に少なからぬ感銘を受けた。故郷の山はありがたきかな・・・。

「松巌軒鈴慕」が私にとっての故郷の山であることを岩手のステージ上ではたと悟った。「お帰り」と迎えてくれたように思われて、素直に有り難かった。20年、長いような短いような一巡り。これから新たな一歩、前途は決して平坦な道とは思われないが、あまり眉間にシワは寄せないように生きて行こうと思う。




鶯 谷                       百錢会通信 平成30年12月号より 

箏曲の下合わせの為に、学生時代以来とんと利用することも無くなった鶯谷駅に降り立った。最近稽古場を移された御社中の最寄駅である。鶯谷駅は少し変わった構内で、寛永寺の高台にある改札から、山のふもとのホームに降りるには長い廻廊を歩かねばならない。その通路の窓の外の景色をボンヤリ眺めながら歩いていると、ふとその壁が板張りであることに気がついた。何枚も並べ連ねた短冊の板は、幾重にも塗り固めたられた安っぽいペンキのあちこちがヒビ割れて剥がれ落ちたりしている。東京の冠動脈たる山手線の駅にまだこんな「昭和」が取り残されているのが意外だった。

駅の東はその昔は正岡子規など、文人墨客も好んだ風光明媚の地、根岸である。大正から昭和にかけてはお茶屋、置屋、料理屋の賑わう花街もあった。更に歩を進めれば浅草・吉原と、江戸時代から続く芸能のメッカへと連なる。しかし日向があるなら影が必ず出来る訳で、たとえば吉原の北には江戸の細民を束ねた弾左衛門親分の屋敷跡があり、またその北には哀れな娼妓の末路たる浄閑寺があり、そうした社会の周縁の痕跡を見つけることが出来る。また近代には根岸から上野寄りの地域に、明治期には名高い帝都のスラムが有り、吉原近隣の日本堤も、今でこそ外国人旅行客に安価な宿を提供する街になったが、昭和の高度経済成長時代には日雇労務者の溢れる街で、私が父と共に働いた建設現場の仲間もここの住人が少なくなかった。太古の昔から現代に至るまで、芸能が社会の貧困と表裏一体の存在であることを、この地の歴史は私に暗示するかの様である。

江戸時代の古地図を見ると丁度この鶯谷辺りに「善養寺町」という記載がある。『善養寺は天長年間(824834)に上野山中で開基され、上野寛永寺の末寺となった。当地はその門前町として、「下谷善養寺門前」と呼ばれた。善養寺は「薬王山」と号し、天台宗上野寛永寺の末寺で、天海僧正が後の寛永寺境内に創建、寛永年間(16241645)に上野山下に移転した。』と歴史書にはあり、この善養寺が当地の町名の由来ではないだろうか?と教えてくださったのは、生まれも育ちも根岸という、私の尺八の知己である。

鶯谷駅からの景色に足を思わず留めてしまうのは自分のご先祖の町かも知れないという因縁だろうか。いずれにしろ、妖しく華美なネオンの灯りが煌々と照り渡る狭い路地裏に、うら若い女性が音も無く消え行く後姿も珍しくないこの地に佇めば、人間苦の歴史に思いを馳せずにはいられない。明くる年は元号も変わり、社会の仕組みの変化も一層加速する事だろう。比例して生活の苦難にあえぐ人々はきっと増えると思う。いつの世も繰り返すこの苦闘の歴史の中で、芸能は育まれてきた事を忘れてはならないと思う。平成の世が過ぎても「昭和の尺八吹き」は、この想いを変えるつもりは無い。



クラフトジン                   百錢会通信 平成30年11月号より 

とあるテレビ番組の制作担当者が、お手伝いした番組のクランクアップ後に慰労会をしましょうと言って誘って下さり、束の間歓談した。撮影現場の裏話に始まり、あらゆる雑学に精通したその方の話題は汲めども汲めども尽きず、続きは次回にということになった。それはちょうど8月に開かれるロンドンの尺八フェスティバルの前だったので、次はロンドンの土産話をお願いしますと言われて、その場はお開きに・・・とその間際に、イギリスの酒の話題になった。

イギリス人の酒の感性は特異だ、何故ならウイスキーには炭を、ジンには松ヤニをと、そんな香り付けを思いつく民族は余り例がない、というような会話だった。因みに私は、尺八の師匠の岡崎師に仕込まれて、人生初めて経験した洋酒がそのジンで、とても良い香りだと感じたものだった。そして調子に乗っていい気分になった時は見事に足腰が立たなかったというオチをつけた所為か、その担当者は面白がって、つい先日の再会の約束を果たすまでの数ヶ月間、国内外のジンを相当数買いあさり、製造所の因縁に至るまで調べ上げたそうだ。番組のネタ探しに余念の無い「制作方」の習性なのだろう。

聞くと北欧系の物は薬草の香りの強烈な物が多く、日本人にはちょっと手強いのではないかという。またクラフトジンの類いは程よい甘みのあるものが多く、最近は女性の人気も上昇中だという。そう言えば百貨店などでも、最近やけに「クラフトジン」というコーナーを見かける事を思い出した。クラフトビール同様、要は原材料や香料、製造法のこだわり故に、概ね少量生産、価格も少し高めで、その希少性と品質の高さが消費者の心理をくすぐるというものだ。

何故クラフト系の酒が流行り始めたかという理由も熱く語って下さった。まずもって世界的に酒の消費が落ち込んで来ていることが大きな前提だ。食事の度にワインというイメージのフランスでさえその消費量は激減だという。つまり今や酒の大量生産、大量消費戦略は斜陽で、そこで希少性の高い逸品を高価格で売ろうとするベンチャーが増えてきたのだという。

それから何故酒の消費量が減ったのかという調査がまた面白かった。それは飲酒を戒律によって規制されたイスラム教信者の、世界規模での増加がその真の理由であると。因みに先進国の軍事費はほぼ酒税で賄われるわけで、イスラム教信者の増加が先進国の軍事予算を追い詰めるかも知れないとすれば、この相関図は中々興味深いと思いませんか?と眼を輝かせる・・・。なるほど、こうした情報収集力は、番組制作者の嗅覚と洞察力によるものだったのかと、あらためてここで得心した。

はやくも記憶に薄れ始めたこの夏のロンドンの尺八フェスティバルを思い出してみる。EU離脱を巡ってイギリス国内は混乱している最中だった。その渦中のフェスティバルで発表された作品群は、ノスタルジックな日本文化の枠組みを遥かに飛び越えて多角的に展開している。尺八が世界に伝播していく根底には、国際政治の視点から眺めても見逃せない複雑な事由が、ひょっとして潜んではいないだろうか?などと、クラフトではない、今は亡き岡崎師愛飲のロンドン産のGordonのジンを傾けながら、妄想をたくましくする秋の一夜である。



那須野ヶ原から・・・            百錢会通信 平成30年10月号より 

 私の尺八の恩師、故岡崎師は2,000メートル級の山々を重装して歩く、かなり本格的な「山男」だった。それに引き換え私はもっばら軽装でも済む丹沢あたりのトレッキングくらいが関の山だったが、何度か師匠に連れられて、近場の山歩きをしたことがある。夜営の時などに焚き火の傍で、スコッチを片手に話す岡崎師の山の思い出話を聞くのは楽しみだった。中でも雪山でのある事件が余程痛快だったと見えて、その傑作噺を何度も繰り返しご開帳しては大笑いしたものだった。

 ある晴れた早朝、山小屋に宿泊の登山者たちは、雪の山道を意気揚々と各々に出発して行ったそうだ。とその時、とある若者の2人連れが道端で小用を足していた。そこには小さな道祖神が祀られていることを知っているベテランの岡崎師は、「そんな所に立ち小便する奴があるか、この不届き者!」と恫喝するも、件の若者は古い迷信とばかりに聞く耳も持たず、鼻でせせら笑いながらその場を立ち去ったそうだ。数日してその山小屋に戻ってみると、例の2人組が目を瞑り身動き取れずにいた。聞くと雪に反射した強い紫外線にやられて眼が見えなく(雪盲)なってしまったのだという。「それ見たことか!このバチ当たりのバカモンが!!」岡崎師は容赦なく鉄槌を下したそうだ。

 建設現場でも、石仏の撤去などで粗忽な扱いをすると、思いもよらない事故が起きたりするという似たような話を、私は父から何度も聞かされてきた。神社仏閣で尺八を演奏することは少なくないが、だからそういう時に私は御神体や御本尊への拝礼を欠かしたことがない。実際、お参りをしなかった共演者が、風邪でもないのに本番中に咳が止まらなくなったなどというアクシデントに見舞われたことは一度や二度ではない。

 先日、NHKの収録の際にもちょっと不可思議な事件が起きた。録音開始後の1分も経たない内にディレクターのストップのアナウンスが入った。聞くとかなり大きなノイズが入ってしまったという。再生するとなるほど「ボン!」という何かがぶつかったような音が、ホールの残響までも含んで録音されていた。ところが演奏者は3人とも全く気づかなかったのだ。いくら演奏に集中していたとしても気づかぬはずもない程のノイズなのに・・・。原因を突き止めることは結局できなかった。一同、一瞬戦慄が走った。

 山田流箏曲の中で、物語の主人公の霊を呼び寄せると噂される曲が3つあって、いずれも名曲中の名曲である。その曲を舞台にかける前は、それぞれ所縁の神社や墓前に詣でて潔斎を怠らぬ演奏家も少なくない。先日の収録曲もその1つで、能の「殺生石」に取材した「那須野」であった。今では演奏されることのない前歌の、荒涼とした那須野ケ原の雰囲気を尺八の前奏で表せないかとの依頼で、1分ほどの短いイントロを拵えたのだが、その竹の音に呼ばれて「玉藻前」は現れたのだと、共演者は口を揃えて私の所為にする。しかし良く話を聞くと私がスタジオ入りする前に箏の糸が切れたりなど、どうも予兆は既にあったらしい・・・。

 「この世」と「あの世」、「日常」と「非日常」。私の「ご先祖様」たる芸能者とは本来この境界に立ち、俗世に聖なる世界を喚起するのをその役目とする漂泊民であった。彼らは何らかの機縁で常民の共同体を追放され、賤視の憂き目に晒されたが、神話と文学を与えられて聖化され、この境界に英雄的位置を占めたのであろう。今時、験を担ぐとか迷信を信じる演奏家を、何と非科学的なと嘲笑されるかも知れないが、こういうファンタジーに心躍らせる感受性がなければ、なかなか古典芸能を堪能することは難しいと思う。

(放送は、NHKFM 邦楽のひととき 10/22()1120~ 再放送 10/23()520~)



 スノッブの愉悦               百錢会通信 平成30年9月号より 

 私が藝大に入学したての頃は、正規のレッスンこそ古典中心だが、時代の優勢は明らかに超絶技巧を駆使する現代邦楽の作品群であった。そんな中で古典嗜好の学生はやや影を潜めて小さなコミュニティを形成していた。「君の好きな演奏家は?」「地歌の西松文一です。」「君は西松を知っているのか!それは凄い!西松はいいよねぇ!」というきっかけからそれぞれのお宝の音源の交換などが始まる。「ところで君、○○年に放送、越野栄松の『葵の上』は聞いたことあるかい?」「え!知らないです。そんなのあるのですか!?是非聴きたいです!!」てな具合である。マイナー街道まっしぐらの私としては珍しくもない光景なのだが、思い返せば平和な学生時代の1シーンである。

 歴史は繰り返すと言えば大袈裟だが、よくよく聞くと20年も30年も後輩の中にもやはり同じような“マニア”は存在するらしい。現代のネット社会のお蔭で情報の収集や交換が我々の頃とは比べ物にならない位に迅速だから、貯めこんだ“お宝”の量と質の高さにはきっと驚嘆させられることだろう。

 洋楽の世界に進んだ娘に聞いてみると、彼女の周りもそういう“音楽オタク”で溢れかえっているというので、何だかとても愉快になった。一歩外に出れば金銭欲と権力欲にまみれた獰猛な獣の世界だ。多少の貧乏はしても、こんな夢うつつの生活を送れるのは平和なことだと思う。

 世界的に著名な音楽家の中にもかなりの数の“音楽オタク”がいるに違いない。知れば知るほど、優れた音楽家=音楽情報の大資産家、とでもいうような定義が世の中に定着するかも知れない・・・などと時折空想したりもする。しかし情報蒐集に取り憑かれた好事家の心理は、「歌わずにはいられない」という真の表現者にとっての必要条件ではない。「一字不識、而有詩意者、得詩家眞趣」という中国の賢者の言葉を、ここで良く思い出しておきたいと思う。

 

三島 「今日は、いわゆる鏡花ファンというのはいやらしさを感じるんで、いやらしくない鏡花を理解してくれるであろう澁澤さんを引っ張り出したんですよ。」

澁澤 「鏡花ファンのいやらしさとは結局どういうんですかね。」

三島 「お互いにしか通じない言葉で喋り合う都会人だとか、いやに粋がっている人間だとか。それから鏡花自身が田舎者で、金沢から出てきて東京にかぶれて、江戸っ子よりももっと江戸っ子らしくということを考えた。またその周りに集まるのは通人で、「鏡花はいいですね」という時に、もうすでに淫している。そういう鏡花支持者というのは好きではないですよ。」

 

 上記は作家の三島由紀夫がフランス文学者の澁澤龍彦と泉鏡花を語った対談の冒頭の引用である。「~はいいですね」という言い回しから、ふと自分の学生時代の会話を思い出した。一寸悪ぶった三島の、鏡花支持者に対する軽い挑発なのだろう。罪のない好事家も澱めばやがてスノッブの臭気を漂わすだろう。三島の批判は、古典芸能愛好者全般に対するアイロニーのように思われたことだった。



W S F                       百錢会通信 平成30年8月号より 

 WSF=世界尺八フェスティバルがロンドンで開かれていて、今その最中でこの原稿を書いている。海外で初めて尺八のフェスティバルが開かれたのは今からちょうど20年前の1998年だ。この時強力なリーダーシップを発揮したのはアメリカの尺八家達で、日本の尺八の大家を全て巻き込んで、壮大な規模の尺八の祭典がコロラド州のボルダーで開かれたのだ。当時34歳で参加した私は、その時、そこはかとなく漂っている空気は「ヒッピー」のムーヴメントに連なるものではないかと想像したものだった。ヨーロッパからの参加者は少数だったと思う。

 ところが今ではヨーロッパ尺八協会なるものが立ち上がり、まだまだ小さな流れではあるけれど、毎年参加者を募りサマースクールを重ねて、ついに世界尺八フェスティバルを主催するまでになった。私が東京藝術大学の助手を勤めていた頃、日本で尺八を学んでいたヨーロッパからの留学生たちが、その中心人物となっていて、とても感慨深いものがある。

 もう一つ、世界の尺八の動きとして見逃せないのが中国の動向だろう。こちらは一度火がつけば未だ尺八界が経験したことも無い好景気も夢ではないだけに、久しく商売として明るいニュースが無かった業界の期待も大きいことだろう。もっとも、儲け話にはいつも縁遠い星の元に生まれた私にはやはり遠い国の出来事としか思えないのだが、先日目の前を中国マネーが動いているのを見た。私が目撃したのは、尺八に大層な資金を注ぎ込み、尺八のドキュメンタリー映画の制作やコンサートの企画を始めたという中国のある投資家で、尺八に惚れ込んだそもそものきっかけは仏教への傾倒であるという。そのことだけが何故か妙に気になって仕方がない。

 アメリカ、ヨーロッパ、中国での尺八の隆興は、それぞれに違う動力を源としているに違いない。尺八の縁で世界中の人々と友達になれるのは誠に結構なことではあるのだけれど、何か手放しで喜んでもいられないような、漠とした胸騒ぎがするのだが、どうかそれが杞憂であって欲しいと思う。



半端ない                     百錢会通信 平成30年7月号より 

 とある祝賀会のスピーチを指名された男性が、近頃話題のフレーズの「半端ない」を使って座が和んだ。

「半端ない」という若者言葉が生まれたのは恐らく私が中学生の頃だろう。当時の「ツッパリ」連中の中で盛んに用いられていた。「中途半端ではない」転じて「並外れて凄い」と言う意味に変わりはないが、この言葉が使われていた状況は今とだいぶ違っていた。どちらかといえば硬派、武闘派の不良グループから盛んに聞こえて来る「半端ない」はどことなく不気味で凄味があったものだ。

 大道具さんや照明さんなど、舞台の裏方さんの会話に耳をすますと、面白い用語が沢山ある。例えば「笑う(舞台状の道具、セットなどを撤収する)、「はける(俳優が舞台から退出する)、「嫌う(避ける)」、「跳ねる(興行が終わる)」などなど。裏方さん同士の現場のコミュニケーションを迅速にする効果があるようだが、外部の者に内容を悟られまいとする隠語、或いは符牒的な気配を感じるのは、私の思い過ごしだろうか。

 最近すっかり一般用語となってしまった「やばい」。語源に諸説あるのだろうが、牢獄や看守を指す「厄場(やば)」、つまり泥棒などにとっての「危険」を表すと言うのが当たっているのではないだろうか。泥棒が人前で「捕まったら大変だ、逃げろ!」と言ってしまえば自分は盗人だと言い触れ回っているようなものだ。だから「やばい、ずらかれ!」でなければならない。明らかな隠語である。こういう犯罪者にとっての「危険」が一般市民の普通の用語として定着した例は他にもきっと沢山あるのかも知れない。更に最近の「やばい」は「危険なほどに魅惑的」という意味にも使われ始めている。何年か前に野球のワールドカップで勝利した時の会見で、イチローが胸中の喜びを、確か「やばい」と表現していたように記憶しているが、パブリックな場で使う用語として、私は少し違和感を感じた。

 話題を元に戻して「半端ない」。私の中では「半端ではない」と「半端ない」は大きな違いがある。「では」のたった2文字の省略によって当時の不良少年たちにとってこの言葉は一つの呪文となっていたように思うのだ。喧嘩で命を落とすことも恐れないという、魂の純化に対する憧れと、それを実現する呪力を持つ言葉としてこの「半端ない」を連呼していたとしか思えない。そんな記憶が今でも鮮明に残っているから、今アチコチで「半端ない」を耳にするととても複雑な気持ちになってしまうのだ。



う ま い                      百錢会通信 平成30年6月号より

 なんのかの言っても贅沢な時代ではないか。テレビをつければすぐにグルメ番組だ。次から次へと、タレント達がそれぞれの仕草でご馳走を頬張る姿が眼に飛び込んでくる。当たり前のことだが、食べた後はその感想を言葉にしなくてはならない。ありきたりのコメントでは番組にならないから、ひと頃からやたらに素材そのものの香りや旨み、食感(歯触り・舌触り)などについて長々と語る場面が多くなった様に感じるが、的確な表現はなかなか難しいことだ。心に響いた感興を言語化するという事は、科学的な成分分析ではあるまいし、どうしても詩的な言語センスが必要になるからだ。だから苦し紛れの説明をするよりは、身振り手振りを添えて一言「うまい!」というのが得策ではないかと、私は思う。

 「うまい」と言えば、同業の演奏家の噂話をする時に「あの人は上手いね!」などと咄嗟に口走っている事を思い出した。料理を「美味い!」と言うのと同様に、この「上手い!」も1つの感嘆詞的な意味合いが強いのだが、同時に技術の習熟度に対する専門家としての評定が見え隠れしている。音程、リズム、運指、ダイナミクスなどの的確なコントロール力が主な評価の項目であるが、私はどれをとっても自信がなく、学生時代に嫌と言うほどに身に沁みこんだ劣等意識は未だになくならない。

 劣等感と言えばもう一つ思い出さずにはいられないのが母の言葉である。「惠介はアタシに似てどうも字がマズイ・・・」中心線がヨレる乱高下する、縦の線が曲がる、文字の粒が揃わない、などなど。

 一度始まったら中々収まらないのが自己嫌悪の連鎖だが、犬も歩けば棒に当たるのたとえ。最近出会った救いの言葉は次の通りだ。

 

『塾や通信教育の宣伝文句は「あなたも字がうまくなる」などと煽る。しかし書は、「うまい」「へた」というような粗雑な網にかからない。人がそうであるように、書もまたその生命は多種多様な魅力のうちにある。それは稠密な網目で丹念に掬いとるしかない。その中で歴史の風触に耐えたもののみが古典の1ページに加えられる。』(「書の風景」石井九楊著)




春の観桜会                  百錢会通信 平成30年5月号より

 毎年四月に新宿御苑で、内閣総理大臣主催の「桜を観る会」が開かれる。内閣府から私のもとへ招待状が届いたのはこれで2度目だ。一度目は2010年、そして今年の2018年。いずれも文化庁の芸術祭で私に何らかの受賞があった翌年であるから、その情報が内閣府にもたらされるのだろう。当日新宿御苑に集まる人の総数は1万5千に上るという。同伴者は配偶者とその子供(未成人)に限られ、12名までとあったので、少なくとも5千人近くの人に招待状が配られたのだろう。招待者がどういう基準で選考されるのかを私は全く知らない。

 はじめて参加した2010年当時の総理大臣は、退陣間際の鳩山由紀夫氏であった。生憎の雨模様で足元はぬかるみ、なんともしめやかな観桜会であったが、雨に濡れた園内の樹木はそれはそれで風情に溢れていた。

 さて今年の観桜会、通常園内の飲酒は禁止であるのにこの日は樽酒と記念の檜の桝がふるまわれる。自他ともに認める「呑助」、これに呼ばれていそいそと出かけて来た。

 受付につくと何やら前回とは様子が違う。名前を言うと特別招待エリアとやらに誘導された。前をやけにスタイルの良い若い男性群が颯爽と歩いている。同行した娘がいち早くそれが芸能人「EXILE」のメンバーだと耳打ちしてくれた。我々が歩く道はロープが張られていて一般招待者は遮られている。両側から嬌声の飛び交う「花道」を、有名人の直近で歩く居心地の悪さといったらなかった・・・。

 木陰を通り抜けてメインの広場に辿り着くと、さらに驚いた。我々のエリアに集まる人々は、女優、男優、歌手に有名棋士、バラエティ常連のお笑いタレント、噺家、オリンピックメダリストのアスリートに溢れ、さながら年末の紅白歌合戦の楽屋廊下の様相である。やはりロープで仕切られたその特別招待エリアの周りは1万人余りの一般招待客が騒然と叫び声を上げている。芸能人たちはお互いの顔見知りを渡り歩きながら談笑しているが、聞くともなしに漏れ聞こえて来る話題は抜け目ない営業合戦も少なくない。若いタレントも真剣勝負といった顔つきだった。

 「総理!こちらにも1枚!」という声が突然聞こえて来る。これまた大勢駆けつけた報道陣の声がまるで怒号のように響き渡った。安倍総理大臣と昭恵夫人の登場である。すると私の周りの芸能人たちも急に色めきだって最前列へと詰め寄っていった。総理に向かって持ちネタを振って決めポーズを取ればすかさず事務所の者が記念撮影をする。そんな時間が1時間あまり続いた。桝酒に多少上気していた私は、呆気にとられてその光景を、どこか遠い国の景色のように眺めていた。

 誠に、日本の微笑ましい平和な1シーンではある。しかし反面、これで本当に良いのかという疑問の気持ちも拭い切れない。なぜなら私が目の当たりにしたものは、日本に民主主義の成熟はあり得ないという、確たる証左であるからだ。




花の便りとともに・・・           百錢会通信 平成30年4月号より 

                       

 今年の桜の知らせは何か唐突な感じがして、しかも瞬く間に通り過ぎてしまった。人間、齢五十も過ぎれば、花の便りとともに届くのは寂しいことの方が多いのは致し方ない事だが、ただでさえ物憂いこの季節には少々身に堪えることだ。

 嬉しいにつけ哀しいにつけ、人は心の奥深くに響く出来事に遭遇して、身動きも出来ぬほどに立ちすくむ時、目には見えない何か精霊のようなものに向かってひれ伏し、拝み、そして祈る。人間が太古の昔、自然の脅威の中で何とか調和を見出し生きている時には、自然の背後にある神々を拝んでいればそれで事は済んだ。ところが異民族が侵入してきたり、大きな戦争が起こったりして、自然も何もかもがぐちゃぐちゃに壊れてしまった時、もう手ごろな神様が役に立たなくなってしまった時に、世界の宗教が生まれてきたのだろう。仏教は宇宙の真理を究める「悟り」に主眼を置き、儒教は自然や人間社会を管理する政治的リーダーの養成に重きを据えた。日本人である私にとってこの二つの精神的な営みには多少の馴染があるのだが、今一つ心に沁み込んでこないのが西欧社会を中心に広まる一神教の世界観だ。

 9.11の時も3.11の時も、多大な犠牲者を前に世界中の人々が祈りを捧げた。人間社会の幸福を願う気持ちは一つなのだろうけれど、一神教における「祈り」は、私には非常に独特な行為として映る。なぜなら彼らの「祈り」とは、絶対に自分に向かっては言葉を発しない神に向かって不断に語りかけることであって、つまり未来永劫に応えてくれない神との共同作業の中で、矛盾と不条理に満ちた社会を合理的に理解しようとする、断固たる決意があるからだ。この心の決裁に漲る力強さには目を見張るものがある。

 それに引き換え我々の「祈り」とは何だろう?長い歴史の中で、仏教と儒教を受け入れて来たものの、未だに多くの日本人の無意識に根を卸すのは「八百万の神」にご利益をお願いする、実に長閑な礼拝ではないか。桜の花が散れば親しい人の旅立ちを憂い、若葉の芽吹きを見れば我が子が健やかに育つことを信じてみたりする。この感受性が私には一番しっくり来る。安倍政権が何度も選挙で勝っても、中々9条を改正できない背景には、日本の有権者にこんな無意識が漂っていることが無関係ではないと思う。世界の人々からは、有耶無耶の態度を小馬鹿にされたり、時にその優しさが愛され感謝されたり、またある時は誰も見抜くことができなかったようなものの背後を深く見通す洞察力が尊敬されたり・・・。日本人の魂はこれからどこを彷徨うのだろうか。




ネパールの写真               百錢会通信 平成30年3月号より

 1998年、私が初めて出したレコードのジャケットを見た人は、皆一様に目を丸くしたものだ、「これが尺八のCDなの?」と。如何に想像力を逞しくしても、そのカバーの写真から尺八を思い浮かべることが出来ないというのだ。

 撮影地はアジアの何処かだろうと誰もが推測できるだろう。粗末な小屋のなかで女が煙に目を細めながら家事をしている。その傍には、竹のようにも見える太い柱に手を添えて佇む少女が、振りむきざまにカメラのファインダーに視線を合わせた。家事をする女と少女の顔の相は随分違って見える。中央アジア系と思われるその少女の、黒くて大きな瞳の奥深くから、一瞬何かがキラリと光ったように思われて、初見私はこのフォトグラフの虜になってしまったのだ。私はレコードのタイトルを既に「虚無僧尺八  鶴の巣籠」と決めていたのだが、この一葉の写真に確かな親近性があると直観したのである。柱は竹かも知れない。フレームの中の2人は親子なのか、そうでないのか?場所は日本にそう遠くないアジアのどこかだろう。全てが曖昧な連想に過ぎないのだが、その曖昧さこそが尺八との確かな絆であると思われて仕方がなかったのである。

 撮影したのはウィーン生まれのフリーのカメラマンである。虚無僧研究会にも所属していた変わり者で、そもそもは尺八の縁で知り合った。件の写真は何処で撮影したのかと聞くとネパールだと答えてくれた。何でも、商業写真を撮る仕事に嫌気がさして世界を放浪していた時の作品だそうだ。以降私が出版した3枚のCDの表紙の写真は全て彼に依頼したのだが、どれもみな素晴らしく、心から感謝している。

 この写真の所蔵者にして彼を私に紹介してくれた人物も、同じ虚無僧尺八愛好家の友人である。彼は芸術全般に誠に造詣が深い。決して風評に踊らされない、実に的確な審美眼の持ち主で、殊に無名作家の名作を発掘する達人である。世評に騙されないという気骨は、戦後社会の政治に眼を光らせ、純粋な心で生きてきた中で培われたものだろう。政治の時代が理不尽な灰色の雲に覆われて葬り去られ、その心の空白が芸術の世界に向かったことは必然であったに違いない。故に団塊の世代の感受性がその後の芸術、学術の世界に及ぼした影響は甚大であると思う。私は彼に、沢山の美しい音楽を、沢山の優れた絵画を、沢山の味わい深い工芸品を教えてもらった。

 春浅くまだ肌寒いこの季節に、私は大きな2つ賞を頂くことが出来た。戦後の経済成長の最中に、天蓋を被り托鉢乞食の虚無僧を志した男の息子が、文化庁最高位の授章式に登壇することなど、誰が想像出来ただろう。審査室にはきっと先のような団塊世代の気概が漂っていたのではないだろうか。否、もっと色々な風が吹き込んだに違いない。私ひとりの努力による受賞ではないことは言うまでもない。

 先日の授章祝賀会では金工作家の先生が乾杯の音頭をとった。「皆さん、喜んでばかりじゃダメなんですよ!」という、笑顔の言葉がいつまでも耳に残っている。

 

平成29年度 第68回 芸術選奨文部科学大臣賞(音楽部門)

尺八演奏家 善養寺惠介 「善養寺惠介 尺八演奏会」ほかの成果

(贈賞理由)

 平成29年は、善養寺惠介氏の充実した活躍が、ひときわ印象に残る年となった。氏の演奏家としての原点は、尺八吹奏を禅の修行とみなし、深い精神世界を探究した虚無僧尺八にある。その真価が最も発揮されたのが「善養寺惠介 尺八演奏会」である。古典はもちろん現代作品にも通じる音楽の本質に迫る演奏が生み出した感動の記憶は、多くの人の心に刻まれたに相違ない。地歌箏曲の名手たちとの共演も数多く行い、合奏における尺八のあるべき姿を示し、豊かな表現の可能性を開いたことも特筆に値する。



虚無僧の心得                百錢会通信 平成30年2月号より

 虚無僧が登場する或るテレビの時代劇で、演じる役者に尺八指導をする仕事を引き受けた。実際に流れる音は当然吹き替えとなるのだが、聞けば以前にサックスの経験があるという件の俳優、演技の指さばきは中々にこ慣れたものである。早速、虚無僧が商家の前に托鉢するシーンのロケに立ち合った。作り物の野外セットの中での芝居ではあるが、時おり小雪もちらつく寒々とした曇り空の下、商家の娘に喜捨を受ける虚無僧の姿は、私には何とも侘びしいものに感じられた。

 徳川家康による宗教統制政策の中で、如何にも怪しげな普化宗という虚無僧の組織が存続を認められたのは、戦国の世の終末、大量に発生した浪人の受け皿としての利用価値があったからだろう。何時の世も競争、すなわち戦はなくならない。必然の結果として、勝者と敗者とが分けられる。しかし敗者をそのまま見捨ててはならない。勝者は勝ち誇り敗者を跪かせるだけでは必ず巡り巡って我が身を滅ぼすことになる。否、たとえそんな因果応報の憂き目に遭わなくとも、勝者であれ敗者であれ、所詮は老いて病に倒れる儚い生き物なのだ。同じ人間として助け合う気持ちを持てぬとしたらそれは愚かしいことだ。

 現代は苛烈な競争社会である。経済のグローバル化とは端的に激しい競争社会を是認する。それに対してナショナリズムとは国と言う小さな単位の中で相互扶助を実現しようとするものであるから、今の政治家の政策はこの二つの流れをこき混ぜて大いなる矛盾に満ちている。しかし問題なのはその矛盾を感じていないということだろう。

 競争原理と弱者を社会で支えようとする社会保障の理念は根本において相容れない。しかしその両者を共存させるのが人間の叡智であり文化である。それを実現するために避けることが出来ないのは、人間の精神の自立であって、そこには既に社会の勝者弱者の別はない。

 ふと思い出したのは小学生の頃、私と兄が共に父親の強制で暗唱させられた「虚無僧の心得」である。出典は甚だ怪しく近代に誰かが創作したものかも知れないが、「敗者」としての虚無僧の精神の自立を鼓舞する文言としては面白いと思うので、以下に記しておく。

 

虚無僧心得

虚無僧は礼儀を重んじ、古法を守るべし。

善を積み、悪を絶ち、良く苦難に耐へ、恥を忍び、悟道専一と心得べし。

およそ貧賤は住まひにして、一文たりと雖も有るは之富裕と知るべし。

歳月人を待たず。しかれば現今に人を為さずして、来日に行を求むるは誠に愚者と知るべし。

一字不識而して詩意あるものは詩家の真趣を得る。

一喝不参而して禅味あるものは禅境の玄機を悟る。

不立文字教外別伝は禅家の看板にして、

秋風常に寥々、汝、一介の乞食虚無僧なるとも、

この儀深く心得、一人只よく悠々たるべし。




宝生流の袴                  百錢会通信 平成30年1月号より

 袴の膝上あたりは、正座の度に手を置くから、気を付けていないとあっと言う間に手のひらの汗沁みが付いてしまう。そのことに気付いてからは袴の汗染み黄ばみには注意しているが、それでも長い年月の内にはどうしてもついてしまう。ここに、うっすらと汗染みのついてしまった、私にはとりわけ愛着のある袴がある。藝大の邦楽科で大変お世話になった宝生流能楽師の佐野萌先生に頂いたものだ。2008年の文化庁芸術祭で新人賞を受賞した折に先生が、お祝に、宝生流仕立てで誂えて下さった。嬉しいより恐れ多いという気持ちの方が勝り、シドロモドロに「先生にこんなにして頂いたら困ってしまいます・・・」とご挨拶申し上げると、「人が困ることをするのは大好きですから!」と豪快におっしゃった。その笑顔は生涯忘れられない、私の大切な宝物だ。

 先生はユーモアも茶目っ気もある方であったが、芸には誠に厳しく、良き意味での保守主義を徹底された能楽師として知られる。平成8年から長きに渡り、雑誌「宝生」に辛口のエッセイを執筆され、平成18年に一冊の本にまとめられた。そのあとがきに「改めて読み直し誤字等にも気付きました。でも、内容を書き改めなければと思ったことの無かったことを嬉しく思っています。」とあり、胸のすくようなその潔さに改めて感服した次第である。以下、年頭にあたり、先生の一文を掲載して、私の心の戒めとしたい。

 

『謡曲敦盛の「然るに平家、世をとって二十余年」は意味深に受取っています。どんなに栄花や権勢を誇っても、と解するのでしょうが、私はもう少し違って考えています。戦後能楽は存続できるのか、とさえ思われていました。あれから五十余年の間、能楽界にも栄枯盛衰もありました。あの混乱と失望の時代、只管後進育成に勤めた流儀(能楽師個人)は、胡座をかいていた流儀(能楽師個人)は、その結果は大体二十年程ではっきりして来たと思うのです。だから戦後二回位現象をみているのでしょう。今現在やっていることが、間違いなく二十年後には結果となるのだと思っています。「当時」は大切にするべきです。「二十一世紀」は放っておいても来ますから。(平成10年 1月)』(佐野萌 著「謡うも舞うも宝生の」)

 

 先生に袴を頂いて9年目の昨年末、私は芸術祭の大賞を頂いた。常世の国の先生に報告するつもりだが、快活な笑顔で「まだまだ!」とおっしゃるに違いない。今日の舞台をつつがなく勤められますようにと祈るような気持ちで、幾度となくこの袴を付けさせて頂いたので流石にほつれも出て来たが、これからも大切に身に付けさせて頂くつもりだ。まだ20年目の結果は出ていないので。

 

平成29年度(72)文化庁芸術祭 音楽部門(関東参加公演)

区   分:大賞

受賞対象:「善養寺惠介 尺八演奏会」の成果

受賞理由:歴史を尊重し、独自の工夫も交えて探究する姿勢が、特徴の異なる4作品の個々の魅力を存分に引き出した。全ての演奏の根底には、尺八を通して自己に向き合った虚無僧にも通じる深い精神性があり、その精神性が、豊かな表現力と高い技術力に結びついて、会場全体を包み込む深淵な響きとなった。特筆に値する密度の濃い演奏会であった。




歌を作って救われるか?        百錢会通信 平成29年12月号より

 年の瀬にその一年を振り返ってみて、「今年は本当に良い一年だったなぁ」と思ったことが無いのは、何事も悲観論に過ぎる、私の思考的偏重の所為かも知れない。しかしこれほど身近に国際紛争の緊張が高まっているのだから、今年を私と同じ不安な気持ちで暮らしてきた人も少なくないだろう。

 音楽家や文筆家、あるいは画家を含む様々な造形家が、戦争の危機に直面して反戦の運動を起こす。そうした意図の作品を発表したりする。そうしてプロパガンダの形成を試みたりする。いつの時代にもよくあることだ。悪い事ではないと思う。ところでこうした社会現象の繰り返しによって、いつしか一般に芸術家の究極の目的は世界平和の実現にあると思われている節はないだろうか。しばしば芸術家が連帯して起こす反戦運動は立派な政治活動であって、芸術活動とは峻別されるべきものだと私は思う。乱暴な要約かも知れないが、芸術家にとってもっとも必要なものは、この世のことをすべて忘れ去る程に、遊び(=創作)に没頭する時間であって、戦争ほどこれをにべもなく踏みにじるものはないから故に抵抗する、ただそれだけのことだと思う。

 歌は人の心に幸福をもたらすものであるべきだ!と主張する人が大勢いる。では絶望の歌に意味はないのかと反論する少数派が黙っていないから、時に議論は加熱する。またこの他にも存在する、あらゆる視点における多数派と少数派は、地域や世相によってはいとも容易く逆転変動するものだ。そもそも幸福とは何か? 私が今まで目撃した「自称芸術家」達のこの手の議論は、結局最後は対立勢力に対する論破の欲望の衝突程度のことに堕落してしまうことが多く、もうそうした場には居合わせたくないものだ。これも小さな一つの戦争と思われたからだ。希望の歌であれ絶望の歌であれ、喜びのハーモニーであれ、哀しみの単旋律であれ、人は歌わずにはいられない衝動にかられて歌う、それだけで良いと思う。歌うこと(=表現すること)は、自ら歌う人にも聞く人にも、その心の悩みに幾許かの治癒効果をもたらすものだ。ただ、それを背伸びして無理に人間の幸福論に結びつけることもなかろう。真の幸福を語るなら、どうしても宗教的精神世界に足を踏み入れなければならない。

 

 「科学や芸術で、たとえば一つの歌を作っても救われるか、という問いに対してだが、宗教的に科学でも救われる。芸術でもなんでも救われる。ただそれには一隻眼(いっせきがん)ということがあるが、それなくては駄目だ。一隻眼があれば雨の音を聞いても救われる。つまり芸術なら芸術だけの生活をやっていても仏智(神の意志ともいえよう)の動きに対する一つの意識、自覚があれば何をやっていてもよい、その自覚によって見る、それが一隻眼だ。」

 

 これはある仏教学者のエッセイからの抜書きだ。「雨の音にも救われる」と言う言葉に強く惹かれた。虚無僧尺八はこういう視点を意識した、世界にも珍しい音楽かも知れない。何を今更・・・と思われるかも知れないが、そうした感覚が私の心の内側から自然に湧き上がって来たのは、恥ずかしながらここ数年来のことだ。




芝 居                       百錢会通信 平成29年11月号より

 狛江の稽古の帰りに、晩酌兼夕飯にいつも立ち寄る居酒屋のカウンターで、常連らしい女性が一人、随分勇ましい手つきで酒を煽っていた。歳の頃は40前後だろう。私の鈍い嗅覚もその時は珍しく働き、きっと舞台に立つ人間だろうと直感した。ミュージシャンの匂いはしなかったので、さしずめマイナーな演劇界の俳優だろうと目星を付けたら、案の定それは的中した。遅れて到着した相棒が合流するや否や乾杯もそこそこに、堰を切ったようなもの凄い勢いで劇団の制作や演出批判がおっ始まった!

 「アンタよくあの場で芝居の「シ」の字もワカらんトンチキ野郎の指図を黙って聞いてられたわね、ホトホト感心するわ!」の“台詞”を皮切りに、あの怒りの暴発は恐らくは小一時間では収まらなかったであろう、そんな勢いだった。受け答えする相方も中々の凄み様だった。「アタシあの時は妙に冷静でね、手に持っていた熱いコーヒーをぶっかけてやるのもいいけれど、裏に手回して恥かかせてやる方法が他にはないか、けっこう思案を楽しんでいたわね(薄ら笑い)」。はしたないことだが、彼女たちの遭遇した事件は何だったのか?気になって仕方がなく、事の次第を知りたい衝動に襲われてしまった。

 「常務のバカヤロー!」を叫ぶ、怒りの収まらない酔っ払いの大啖呵は大衆酒場では珍しいことではない。しかし、その日の彼女たちの会話に思わず聞き耳を立ててしまったのは、実はその「演技力」にあったのではないかと後になって気づいた。遠い昔に私も芝居のバンドの仕事で一月くらいの巡業に出たこともあったが、思い返してみればその手の話は舞台の現場では日常茶飯事で、衝突というよりはむしろ折衝程度の話である。それをあたかも全人格を否定された屈辱的な大事件として表現できるのは紛れもない演技力だと思った。きっと純粋に真面目に芝居にのめり込んだ人なのだろう。些細な喜怒哀楽の心の波も、丁寧に肉体表現をする習慣、つまり日常の「稽古」なのではと思われて仕方ないのである。

 邦楽、洋楽含めて、演奏家という種の人間は、意外にこの手の「稽古」をしている人は少ないのではないか?と、はたと思ったのである。台詞の発声、発音練習、メイクや衣装の吟味にぬかりがあってはならないが、もっと核心の部分に対する意識とは何か、ということを考えさせられる、酒場の一コマであった。




お椀の蓋を盃に               百錢会通信 平成29年10月号より

 昨年の初夏の頃だったか、春の舞台がひと段落した頃に、練馬に住む岡崎自修師を訪ねた。小学生の頃から神如道の伝承する虚無僧尺八をみっちり仕込んで下さった恩師である。御歳97歳、奥様もご高齢なのでご夫婦で有料の介護ホームの日々を送られていた。

 私の姿を眼にすると「おぅ、惠介久しぶりだなぁ!」と割合に元気な声だ。私は日頃のご無沙汰を詫びて岡崎師の近況を尋ねると、「ただ喰って寝るだけの生活だ!」とだけの明快な答えが帰ってきた。腰痛が酷いらしく鎮痛剤を塗っては床に横たわっている時間が長いようだったが、その境遇にあって卑屈な様子は微塵もなかった。老衰とはそんなものだという覚悟を秘めた静かな表情である。耳はかなり遠いようだった。補聴器もあるのだが「補聴器の音は精神衛生に宜しくない!」と言ってまず使わないと言う。補聴器を使わぬ理由にしてはちょっと大袈裟なことだが、岡崎師はこうした日常の他愛もないことに、諧謔味を込めながらも大上段に精神論を振りかざす癖があり、こうした言い回しをかつては稽古の度に面白可笑しく聞いていたので、遠い昔の私の微笑ましい修行時代を懐かしく思い出したことだった。

 尺八が一本だけ手元にあった。肺気腫が進行してどうにも音が鳴らぬが、手元に無いのは張り合いがないからなぁ・・・と笑う顔には、自らを軽く冷笑する余裕が漂っている。私は失礼して、岡崎師が散々にいじり倒して調律したその楽器で数分、思いつくままアレコレの曲のさわりを吹き鳴らした。師はどこか遠くを見つめている。奥様は傍らで瞼いっぱいに涙を浮かべていた。

 しばらくすると出前の寿司が届いた。岡崎師はまだ酒が飲めるのか解らなかったが、混ぜ物の少ない良質の日本酒を一応一本は持参して行って、駄目なら失礼して自分が飲むつもりでいた。気を遣って遠慮するより、景気よく飲み干して帰るくらいが良いと思っていたからだ。かつては度の強い洋酒のボトルをロックで軽く空にしていた師匠である。が、卒寿のころには清酒をコップに精々半分くらいが適量だと言っていた。その日は予想通りに黙々と食事だけをなされていた。

 ところが、食事を終えてそろそろお茶にするかという時、岡崎師はやおらお吸い物の椀の蓋を返すと酒をなみなみと注ぎ、震えもしないしなやかな手つきで一滴もこぼさずにこれを飲み干した。一言「旨い!」と言ってまた注ぎ、瞬く間にこれも飲み干した。あっと言う間の出来事だったが、私は思わず見事!と思い、手を打って快哉を叫んだ。そしてこれが別れの盃になることも私は秘かに確信していた。「老醜は晒さぬ」ときっぱり言い切っていた岡崎師は「今際の際」に何かを知らせてくることはきっとないと感じていたからだ。

 今年になって師の元に送る郵便物が返送されるようになり、虚無僧研究会会長の小菅和尚の問い合わせを受けて、私はホームを訪ねた。案の定、既に旅立たれた後であった。ベッドはとうの昔に片付けられていて、やけに広くなった岡崎師の部屋には、普化禅師の鐸の音が鳴り響いたような心地がした。





美味いモンが食いたいなら       百錢会通信 平成29年9月号より

 「料理屋の品書帳を広げてこれから食べるものを思案しているような御仁は、間違っても美味いモンになんかありつけやしませんよ。本当に美味いモンを食いたかったら、昼過ぎから思案し抜いて今夜はあの店のアレを食いに行こう!と店に飛び込まなけりゃダメに決まってますさ。」つい数ヶ月前の梅雨の頃、天麩羅屋に誘ってくれた食通の友人は、手入れの行き届いた綺麗な白木のカウンターで、如何にも愉快そうな顔つきで演説をぶった。きっとその日の料理は満足だったのだろう。カラッとした衣の香りは爽やかであるとさえ表現したくなるほどに上品なもので、故にどの品も旬の素材の香りが口一杯に広がる。店主が選んだ白ワインは当然のごとく、一品一品の繊細な味と香りを塗りつぶさない。それでいて後に香る余韻は神秘的で奥行きの深いものだった。

 ところでその友人に久しぶりに会えたのは、たまたま彼の自宅近くの演奏会場で私が出演することになり、声を掛けたら急な誘いにも拘らずに駆けつけてくれたのだった。しかしその日の私の演奏は実はちょっと不甲斐ないもので、私が理想とする、唄や箏や三味線に寄添い、それでいて余韻にしっかりと竹の記憶が残るというような演奏からは程遠く、つまり私にとっては正に演奏のお手本の様に思えた今宵の晩餐のワインの味は、私の心の味覚にはほんの少しだけほろ苦かった。

 それにしてもその友人の食に対する執念も凄いものだなあと、あの場面を思い出しては今でもつい独り笑いしてしまう。また気取らない食通としてのあの気概はあっぱれなものだと感心してしまうのである。ただ何故そのことを自分は繰り返し思い起こすのだろうという、ちょっとモヤモヤとした気持ちもずっと引きずっていたのだ。

 その謎が先日、忽然と解けた。余りにも簡単な理由である。自分はこの何十年もの間、今日はこの曲を吹いてみたいと心躍らせて竹を手にする喜びを忘れていた、否、諦めていた、ということに気がついたのだ。

 職業音楽家は料理人と同じ職人であるから、自分が何を食べたいかでは無く、お客様の要望に応じて常に良質の料理を提供するのがその責務なのかも知れない。しかしそれだけではどうしても作品の拡がりに何かが欠けてしまうのではないか? そんなことを考えさせられる友人の一言だった。




人間の居場所                 百錢会通信 平成29年8月号より

 極道の伝統と習慣というものには、何故か昔から興味があった。例えば盃事。その手の話題に詳しい週刊誌の写真などを見ると、古式に則り列席者は紋付羽織袴の正装である。また、「天照皇大神」「八幡大菩薩」「春日大明神」など、大抵は三幅の軸が掛けられている。その系統によっては「神農皇帝」が混ざったりするらしい。あまり詳しくないがいずれにしろそのルーツはとても古いものに違いない。

 江戸時代末期には既に、追放刑などで人別帳を離れた者などが、表社会から外れたところで一家組織を形成していたようで、それが最も近い直接的なルーツだろう。主な収入源は博打や、港湾、建設現場の人足の手配、興行の仕切りなどが知られている。維新後は主に保守系の政治家お抱えの暴力装置としても組み込まれたものもある。また敗戦後の混乱期には弱体化した警察に代わって街の治安維持に一役かって出たが、今や警察と自衛隊のお陰で出る幕はない。それどころか警察にはパチンコの景品買取の類の利権までむしり取られてしまった。芸能はテレビと大手プロダクションが仕切り、政治家の用心棒役も官僚派の政治家の台頭によって余り仕事が無い。極め付けは暴対法だ。

 この暴対法は近代法の精神に照らし合わせるとかなり危うい法律だという指摘も一部にはある。ヤクザと認定されれば住宅の賃貸契約も結べない、銀行口座も作れないし、社会保障制度から締め出される。口座振替が出来ないからヤクザの子供だけが学校給食費を現金で納める事になる。当局に「身分」を決められた時点であらゆる市民としての権利が剥奪される、差別法としての危うさを孕んでいるのも事実だろう。

 若者が暴力団の構成員となる動機の大半は貧困である。これは売春と同じ背景だ。貧困が無くならない限りヤクザと売春は無くならない。しかもヤクザは社会に居場所が無い。街には半グレと呼ばれる、いわば非正規雇用のヤクザが満ち溢れてくる・・・。ヤクザ社会もかなりな格差社会のようだ。

 もう既にお気付きの事と思うが、江戸時代の虚無僧の歴史も、ほぼ同じ様な生い立ちと末路を辿って来たであろうことは想像に難くないのである。そして後世に虚無僧の末裔が反社会勢力に発展したという話を聞かないのは、明治維新当時の社会による普化宗の抹殺が如何に呵責なきものであったかということの証なのだと思う。今はただ、世の矛盾を背負って生きる哀しみというものに対する感受性だけが、「虚無尺八」の音の中にいつまでも消えることなく残っているのではないだろうか。

参考文献「人間の居場所」田原 牧 著  集英社新書

 



純真に出会う                 百錢会通信 平成29年7月号より

 鳩が2階の窓近くを横切り屋根の方へ飛び去るのを何度か目にした。珍しいことだがその時は大して気にも留めなかった。が、翌日もまた何度も飛んでくるのでそこで妻がピンと来た。「どこかに巣を作っている!」

 窓から身を乗り出して屋根の方を見ると案の定、ひさしの上にせっせと小枝が運ばれている最中だった。そこは東向きのひさしと南向きのひさしが交差する場所で、巣にとっては丁度床と天上となる。屋根の傾斜と言い雨風を凌ぐには誠にもって好都合な、これほどの「物件」をよくぞ見つけ出したものだと、ちょっと感心してしまった。しかしその階下は我々が頻繁に出入りする場所で、「糞害」を蒙ることは必至であるから、運搬中の資材(小枝)は強制撤去させてもらった。可哀想なことをするという気持ちはもちろんあったが、それでも取り払うことに躊躇いはなかった。

 ところがその数時間後、向かいの離れの屋根に番いの鳩が並んで、今しがた営巣を定めたはずの場所を、身動きもせず黙してじっと見つめる姿を目にした時、私の無意識の部屋に封じていたはずの、やるせない想いが溢れて来て止まらなくなった。

 箏を弾き竹を吹く暮らしはこの歳になっても試練の連続であるけれど、所帯を構えた時はもっと酷い逆風の中にいて、良くここまで生きて来ることが出来たものだと思う。小枝を一本一本運び続ける営々とした努力も徒労に終わる虚しさは何度も味わってきた。そういう越し方の想いが一気に蘇ってきたのだ。

 若い世代の苦労は人生の砥石であって必要なものには違いないであろうが、しかしこの歳になってようやく気付いたことは、この世には欲に目の眩んだ老練の大人の如何に多いかということであって、そういう輩に翻弄される若者は本当に可哀想だと思う。世界を震撼とさせるテロもその現場の先端にあるものは行き場を失った若者の純真の誤った自死である。テロは断じて許さないと連呼する政治家とその取り巻きの世界には、決して自分の手は汚さずに裏では彼らに武器を流したり、その駆け引きで禄を食む俗物が跋扈していることだろう。

 私の敬愛する画家の友人はかつて、野辺の草を喰っても「売り絵」は描かないと言っていたが、先日久しぶりに会うと彼の信念は更に研ぎ澄まされていて、ついに自分の絵は売らないときっぱり言い切った。欲得に駆られてめしいた芸術家も世の中には多いことだが、それでも我々の業界が幸福だと思うのは、決して自死させたくない、或いは自死させてはならないと思える「純真」に出会える場が、今でも意外に多いという事だ。だから今まで頑張ることが出来たのだと思う。



暗幕のゲルニカ               百錢会通信 平成29年6月号より

 日本最大の暴力団の山口組が3つに分裂したそうだ。本家の山口組と袂を分かった神戸山口組、そこから更に離反したのは任侠団体山口組。任侠とは弱きを助けるためには体を張ってでも強きを挫くという、そういう精神的傾向、あるいはそういう人物を指す言葉であるが、最後の離反組の実態が果たして現代の任侠を目指すのだろうか、甚だ疑問である。根底にあるのは、“経営”の逼迫により激化した、今日日の暴力団の内部権力闘争なのだろう。

 権力闘争といえば北朝鮮のトップが異母兄を暗殺してしまったニュースを思い出す。驚いたことに実行犯はたった2人の若いお姉さんで、後ろから飛びつかれてあっという間に仕留められてしまったというのだから開いた口が塞がらない。しかもそのニュースはまるで三面記事に載った場末の殺人事件の様に、今では世界の人々の記憶から日に日に薄まっている事だろう。

 またこの暗殺には中国のトップの血みどろの権力闘争も絡んでいるという記事もよく目にする。現主席の習近平派と江沢民派の覇権争いだそうだ。ヒトラーのユダヤ人虐殺を遥かに上回る規模の殺人を犯した毛沢東の遺影を、紫禁城に今尚掲げる中華人民共和国ならば、さもありなんの話だ。

 アメリカもなんのかんのと言っては他国にミサイルを打ち込むし、そうした世界各国の動向を冷静に観察して、漁夫の利を虎視眈々と狙うロシアなどは、国際社会にその強面を隠そうともしないかのような態度だ。

 かのピカソがドイツの無差別空爆に激憤して描いたゲルニカは、そのタピストリーが国連総本部に飾られてあって、全世界の人々の心に今もなお平和への熱い思いを喚起し続けていることに、私は称賛の拍手を惜しまない。しかし!である。2003年の2月、イラクの大量破壊兵器疑惑をめぐってアメリカを中心とした連合軍がイラク空爆に踏み切ることを、当時のブッシュ政権のパウエル国務長官が国連安保理会議場のロビーで会見した時に、その背景にあるべきゲルニカのタペストリーには暗幕が掛けられていたというが、それは本当の話なのか。

 世界中どこもかしこも欲にまみれた話ばかりで、もうウンザリだ。任侠もヘッタクレもあったものじゃない。



新 緑  - 10 -                百錢会通信 平成29年5月号より

 群馬の稽古場の草刈りに手を焼いて、昨年初めて除草剤を使った。駐車場のスペースだけに使ったのだが、冬を迎える前に枯れた草葉の色を眼にするのは、予想外に哀しいことだった。稽古場の土地を求めて初めてこの地を訪ねた時の鮮やかな若葉の緑色が、今も脳裡に鮮烈に焼き付いて離れないからなのだろう。

 あの時の感激がきっかけで毎年5月の会報の題を「新緑」と決めてから早、干支も一巡りしようとしている。毎年同じお題で心に浮かんでくることが年々どう変わるだろうか、自分で自分を観察してみようと思いついて始めたことである。そして結果はどうだったかと言うと、結論から言えば芯は何も変わらなかったのである。

 私のような、人生に対して重度な悲観論を提唱する者でも、5月の新緑に命の喜びを感じるのは今も昔も変わらない。否、重症の悲観論者であるが故にそう感じるのかも知れない。この根幹にあるキーワードは「母性」であって、芸術も宗教もこの「母性」を離れては、寸秒の間も価値を持たないのではないかと、5月の新緑に包まれてはこの10年余り、ずっと思い続けて来たのである。

 「母性」と言えば一般には「子を思う母の無償の愛」と括られてしまうが、私が想念するのはもう少し広大なものだ。あらゆる苦悩を内包しつつも産み育み続ける宇宙の大きなうねりのようなものと言うべきか・・・。

 親の気持ちは子を持って見て初めて思い知る、とは巷間よく耳にする常套句だが、広大無辺の宇宙に思いを馳せて感得するこの「母性」の視点から眺めるならば、必ずしもそれは真実を言い表しているとは思えない。異論も多いことと思うが、母を慕う幼児には実は既に「母なる心」が漲っているのだと、私は敢えて断言したい。閻魔大王の前で鞭打たれる母の首に取りすがり「お母さん!」と叫んだ杜子春は、我が身の命をも忘れて母と一つになった姿ではないか。

 「母性」は子を持つ親の専有物ではない。子を持たぬ人はいるが親の無い子はいないのであって故にあらゆる生命は「母性」を有するという事は、私の中では自明のことなのだが、中々共感してくれる人は少ないものだ。毎年初夏の新緑を眺めて確信することはこの一点に尽きるのであって、「新緑」と題したこの定点観測はその任務を完了した感があるので、ここで終止符を打つこととしたい。



アレだから・・・                百錢会通信 平成29年4月号より

 私は小さい頃から、多くの大人が口にする「アレだから・・」という言い回しが気になって仕方がなく、それは今もずっと続いている。

 「あれ」とは、「これ」や「それ」に比べてやや遠くのものを指す代名詞だ。例えば「正面に真っ赤な車があるでしょ?アレは今日本一加速の良い車なんだ」この場合「アレ」が指し示すのは明確な物体で、こういう使い方に何の不自然さもないだろう。「四川料理によく使う山椒の実をそのまま噛んだことある?物凄く口の中が痺れるのだけど、アレが段々癖になるんだよ!」ここで言う「アレ」は物ではなく状態を指し示すものだが、この使い方にも私は違和感を覚えない。ではこんな使い方はどうだろうか。「面と向かって批判するのもアレだから・・・」

 正面から批判することが憚られる原因・理由を指す代名詞の「アレ」だ。が、全く不明確なのに、えてして暗に同意を求められたりする場合が多いので厄介である。誤解のないように「アレ」の意味を問い正そうものなら、次からはもう話しかけてくれることも無くなるだろう。

 日常の会話の中で、白黒はっきりさせ難い、揺れ動き戸惑う気持ちになることは多いもので、私も無意識の内にこんな言い回しで話をしていることだろうから、とやかく人の言葉尻を捕らえるつもりはないが、自分自身にはこうした言葉遣いをしてしまう姿勢があれば、戒めていきたいと思っている。

 上の例文で言えば、心の中での批判精神と、あからさまな諍いを避けたいという気持ちとの葛藤が滲んでいるわけだか、それならばあの時迷い戸惑ってしまったとだけ言えば良い。「アレだから」という言葉には、そうした葛藤に向き合うことを拒否したままに我が身を正当化してしまう細やかな強引さと、またその問題を指摘された時には、「そういう意味では無く・・・」と、どちらに転んでも自己弁護できるという、したたかな逃げ道までも用意されているのである。

 暇つぶしのお茶飲み話でなら目くじら立てる程もない事だが、音楽の表現活動の現場ではこのような灰色の会話は好ましいことではない。天才の表現はもとより迷いがなく、自ずからなる明らかさに満ちているが、凡人はそうは行かない。いつも迷いながらの試行錯誤の連続であって、その一つ一つに丁寧に根気強く向き合う以外に道は無い。その過程に「アレだから」と曖昧に乗り越えて良いステージは無いのだ。



それぞれの歌枕               百錢会通信 平成29年3月号より

 多少花粉症の気のある私は、症状は軽微であっても演奏や稽古に差し支えるので、しっかりとマスクでこの季節の風には備えている。しかし梅の花の香りが運ばれてくる時だけは「エイッままよ!」と多少のクシャミも厭わず、花の香りを満喫しないではいられない。誕生月であるこの季節への郷愁なのか、梅の花にはその姿といい香りといい、何か特別な思いがある。和歌には歌枕、縁語、掛詞など、修辞法のルールとして言葉に着せられた共通のイメージがあるが、動物や植物、季節や土地、この世のあらゆるものに、十人十色で、そしてその人が如何なる状況にあっても必ず決まった想念を起こさずにはおかない、言わばそれぞれの「歌枕」があるのだと思う。

 ここで話題は全く別の事に転換。今年は山田流箏曲の流祖、山田検校没後200年の年となるそうだ。当然の事ながら山田検校の作品を取り上げたイベント、コンサートが沢山に企画されている。残念ながら現在は限られた少数のリスナーの世界でのみ鑑賞されているのだが、その当時は大名から町娘に至るまで、山田検校の作品と演奏に熱狂したというのだから、今迄余り馴染みのなかった方にも今年は少し耳を傾けて頂きたいと思っている。

 山田検校の作品で最も格式の高い曲は「奥四つ物」と言われる長大な4曲で、どの曲も味わい深い名曲である。次に山田流箏曲で大切とされるのは流祖作による「中七曲」と呼ばれる作品群である。家内の箏の師匠は数年前に先の「奥四つ物」を全曲演奏するという前代未聞のリサイタルを成し遂げられたのであるが、今年はそれに続いて「中七曲」を一挙に、“走破”ならぬ“奏破”するという、誠にエネルギッシュな演奏会がこの4月に開催される。有難いことに、私も一番プログラムに載せていただくことになっている。

 しかもその演目は、菅原公が「東風吹かば・・・」と歌った庭の梅が一夜にして太宰府まで千里の道を飛んだという、飛梅伝説を題材にした「千里の梅の曲」で、私個人的にはテーマだけで大変に惹かれるのである。が・・・、曲趣は源氏物語や平家物語のようなドラマティックなソースに取材した作品に比しては明らかに抑制が効いていて、名人芸のみが味わいを醸し出すという、玄人好みの難曲である。テーマへの憧れだけでは如何ともし難い壁が立ちはだかるのだが、元より覚悟で選んだ“物狂い”の道は進むしかない。

 

 私の手元には家内の先輩が分けて下さった正に名人の「千里の梅の曲」の録音テープがある。その名人の名は室岡松孝師。異論は多々あるかも知れないが私は名人と信じて止まない。

 

 〽 常(とことわ)に、吹かせてしがな家の風、世を経て仰ぐ文の道、

 

と一節唄えば、世俗の権勢争いを遥かに超越した悠久の風が流れて来るようだ。

 

〽 行手の袖の薫るまで、思ひを運ぶ思ひ川、

 

拙を守りて貫く文の道というも、何処かに恋の誠を貫く悲哀に似たものが、「思ひ」の一節からそこはかとなく漂って来る。

 

〽 掬(むす)ぶ手に吹く春風は、今日如月の神事に、夜の鼓の澄みのぼる、

 

「夜」のひと声が私には忘れられない。ここが前半部分の唄のクライマックスなのだが、室岡師のこの「夜」の一節に私はいつしか目を閉じ、光から音の世界に誘われて、そこには常に梅の花の香りが漂っていたことに気付くのである。

 これは飽くまで私個人の空想というか、むしろ妄想と言うべきものだろう。しかし聴く者にこうした強い想像力を喚起することこそ芸の力であろう。室岡師はこの一節に何を感じて生きてきたのだろうか? その具体的な想像は時に大いに的はずれとなるかも知れないが、その当たり外れは大きな問題ではない。音を奏でる側に、それぞれに固有の、言わば広い意味での「歌枕」の強いイメージがあって、それが演奏に乗せられているか否かということこそ、大切なことではないかと思うのである。



手元 手子                   百錢会通信 平成29年2月号より

 昨年も多くの舞台を共にした箏曲の友人と、年明け早々にあるイベントで一緒になったので、軽く新年の盃を交わしますかということになり、小一時間の寄り道となった。

 昨年も髄分アチコチで失敗をやらかしちまったなァー・・・などという気楽な会話を交わせるのも学生時代からの馴染みの誼、そんな“痛切”な反省もそこそこに、次の合奏ゲームは誰をターゲットにしようかなどという相談にとりかかるのだから、呑気な極楽トンボたちである。

 音楽の合奏は、相手がコウ来ればコウ応える、或いはこちらがコウ仕掛ければどう応えるか?その出方によってはコウ受ける・・・といった駆け引きを楽しむゲームとしての側面がある。その意味で合奏相手は“ターゲット”なのだが、それは気の置けない仲間内の会話での悪ふざけである。我々がチームとなって迎えるゲスト出演者は、皆本当に素晴らしい演奏家ばかりであった。それに引き換えこちらと言えば所詮は俄仕込みの策士、三流の自策に溺れて返り討ちに合うのが関の山なのだが、この手の「作戦会議」が何故か止められない。今まで、山勢松韻先生や富山清琴先生と言った人間国宝の先生にもご出演賜った。とても歯が立たないのは十分承知しているのだが、先生の心を一瞬でも揺るがすことが出来たなら幸せだろうなぁ・・・などといつも夢見ているのである。

 建設現場には、「手元」あるいは「手子」という職人用語がある。1人前の職人を手助けするために、その職人の下につく補助者のことである。主に修業中の職人が、親方にはやれ間抜けだノロマだのとどやされながら、この手子を務めて仕事を覚えたものだった。今は人件費などの理由でこの習慣は消滅したらしい。

ところで私が興味を覚えたのは、かつては手元専門の職人がいたという話だ。私は見たことがないから、一流の手元職人とはどんな仕事ぶりなのだろうと想像を逞しくしてしまうのである。手元は作業に必要な道具や材料をタイミング良く職人に差し出すのが主な仕事だが、決まった手順で指図のままに動いているのでは駄目なのである。職人の技が必要とされる現場とは、一見単純な作業が繰り返されているように見えても、実は常に変化する状況への繊細な対応であって、作業の事故を防ぎながら一品物の作品を仕上げる真剣勝負の場である。そういう現場にあって、何事も先回りして職人の最良の技を引き出すことが手元職人の肝要であるからだ。

 友人と新年の祝杯を挙げてほろ酔いの帰り道、つらつらと束の間の会話を思い浮かべてみた。そう、我々が目指しているのは一流の手元職人かも知れないと、ふとそう思ったことだった。



後ろ向きに後ずさりする        百錢会通信 平成29年1月号より

「ヨーイドンの銃声と共に周りの友達は、突如猛然と一斉に走り始めた。僕は余り近所の友達と深く交わることもなく、かといって孤立していたわけでもないが、どちらかと言えば野原を一人歩いては空想に耽ることが多かった。ねこじゃらしを引っこ抜いたりして、それを耳の後ろにこすりつけては自分でくすぐったがったり、或いは目に見えぬ大人が目の前にいることにして、自分は透明人間になってその背後からイタズラしたり、何につけても空想の王国の中で自由に暮らしていた。そういう私を周りの友達は横目に時折クスクスと軽い軽蔑のまなざしで嘲笑っていた様にも感じていたが、別段危害を加えられることもなかったから、それはそれで平和な毎日だった。ところが突然に勃発した群衆の集団移動に呑み込まれて、僕の王国は一瞬にして胡散霧消してしまった。みんなはギラギラした眼つきでひたすら前を向いて、走っている。何が起こったかもわからず、僕はひるんで後ろを向いてしまった。するとみんなが僕に向かって突進してくるようで、それが恐ろしくてたまらなかった。」

幼稚園にも通わず、6歳になったばかりの桜の花散る4月、小学校へ上がった時の衝撃を今綴って見ればこんな告白文になるだろう。それからというもの、学校の先生は口を揃えて前向きに生きろと言い続けたのだが、一度後ろを向いてしまってからは中々身体の向きを変えられぬままに、いつの間にか半世紀近くも経ってしまった気がしている。後向きになってはしまったが、それでも周りにジリジリと押されて後ずさりしたので、結果、同じ方向に進んで来た。マイナスにマイナスをかければプラスになるといった具合だ。当然“進軍兵”に押されて何度も転んだものだが、ヨタヨタ立ち上がろうとする私にわざわざ立ち止まって手を貸して下さる人が、この世の中にこんなにも沢山いるとは思いもしなかった。こうした心優しき人々のお蔭で今日の私があるのだが、こうした恩人に永訣のご挨拶を申し上げなくてはならぬ場面が、近頃は本当に多くなってきたことだ。

    私が6歳から手にして今だに手放さずに来た虚無僧尺八は、誤解を恐れずに言えば「後向き」の芸能であろう。私は空想の王国の輝きを心に失いたくないが為にこの「後向き」を辞めなかったとも言える。しかしもっと正確に言うならば、本当は後ろ向きも前向きも無いのだ。私は同世代の友達から奇異の視線を浴びることはあったが、概ね同じ方向に、しかしちょっと違う景色を眺めながら流れて来ただけの話である。

  しかるに世界はそれぞれ少しばかり違う生い立ちを辿った者たちが(「勝ち組」「負け組」もその分類の一つに過ぎない)、極端な二極に陣取ってその対立が一層深まっている。私は幸いにも、「前向き」のみを是と確信してやまない“進軍兵”に、押し倒されたり踏みつけられたりしたこともないわけではないが、今まで概ねその甚大な被害者になることはなかった。そういう私だからこそ、人生には色々な景色のある事を、そしてその多様な楽しみ方のあることを知らせるのが役目なのかも知れないが、それには余りに己が非力を痛感せざるを得ないのが、今の世情の現実である。毎年、年頭に思い願うことは同じである。大きな諍いがこの世に起きないことを。



大統領選 グローバリズム 国際紛争  百錢会通信 平成28年12月号より

今年も振り返ると、一度には思い出しきれぬほどに沢山の、箏、三味線との合奏の床に座らせて頂いた。毎度、年の瀬に思うことだが、思い起こせば30余年の昔、現代の虚無僧になれという父の言い付けに背いて三曲の世界に飛び込んではみたものの、そこには畳半畳すらも私の居場所などはなかったのだが、様々な人の心優しきご縁に恵まれ導かれてこうして生きていられる幸せを噛み締めている。

三曲における尺八の立ち位置について、斯界の人々は口を揃えて「糸を生かしつつ竹も主張する」というこのフレーズを復唱し続けるのだが、私は専ら糸を生かすことだけを考えていれば良いと思っている。正確には「歌を活かし、糸を活かす」ことだ。場に応じては身を引くことを知る見識こそが、むしろ三曲合奏における尺八の出発点であると私は思っている。

 とは言え、言葉で総括するのはたやすいが、実行はそんなに簡単なものではない。まず筝曲界では、ある一つの曲が、それを伝承する会派や演奏家によってはまるで別曲と言ってよいほどに傾向が違ってしまうことも珍しくない。あらゆるタイプに万能であるオールマイティの鍵はあるかも知れないが、残念ながら今の私は、その都度ごとに細かな試行錯誤を繰り返して、それぞれの音作りに苦心して対応しなければならないのだ。

 ましてや合奏する糸方が複数で、互いが他流試合であったりすると一層厄介である。あからさまに我が道を押し通す人がいて合奏が険悪になることはまずないが、それぞれの伝統に誇りを持って日々修行をしてきているのだから、腹の内側では断じて譲らないという態度があっても、頭からそれを非難することは出来ないのである。音楽は喧嘩ではないと言いたいが、譲らぬ信念と信念が一つの場を共有しなければならない時に、火花の散ることが実際にはある。

 トランプが大統領戦に勝利した。あの無謀な過激発言をする者が大統領になるとは思いもしなかったが、それが現実となって寒気がした。実際には選挙戦中の公約は修正されて政治を行うのだろうが、一般有権者に露骨な排他性が噴き上がるほどのフラストレーションがここまで高まっていたということに私は戦慄したのである。中産階級が落ち着いていて、その良識が政治に反映していれば、おおむね民主主義は安定していたと思うが、そこが崩壊したとは言えないか。グローバリズムという言葉を私は余り好まない。なぜならそこには人間の欲望の過剰な肥大という問題が潜んでいるからだ。「グローバリズム」と「帝国主義」という用語の間に、余り大きな違いを私は感じられないでいる。「勝ち組」と「負け組」の格差は否応なく拡大して世界に憎しみと怒りが充満する。大きな戦火がその後にやって来ることは、過去の歴史を振り返れば明らかではないか。

それに比べれば三曲界の火花などは平和なものかも知れない。しかし、それぞれの会派の磨き上げて来た伝統が一堂に会した時、それぞれが優位性を主張して覇権を競い始めるなら、それは紛れもなく世界の紛争の相似形であって、深く戒めなければならないことと思う。幸か不幸か、現在の三曲界は内紛を起こしている場合ではないという空気があるから、当面大きな諍いは起こらないだろうと楽観している。我々演奏家という己の心の奥深くに分け入ることを宿命とする人間は、政治活動に参加しなくても、世界の空気が決して平穏ではない時代にこそ、果している役割があるはずだから、まずは来年も業界内の平和を祈っている。



職人芸                      百錢会通信 平成28年11月号より

長年、尺八を趣味にしているある自転車屋さんの言葉が、最近忘れられずにいる。歳をとってくると若い時のようには中々身体が動かないという他愛もない話題の中の一言だった。「これでもたまにはお客さんから、今日は良い仕事を見せて頂きました!と感謝の言葉をもらったりしたこともあったんですがねぇ・・・、今はとてもあの頃のような仕事は出来ません。」と笑いながら謙遜なさるのである。私は急に懐かしさが込み上げてきて感激した。そうだ、私も子供の頃、パンク修理、ブレーキやギアの調整など、様々な整備の様子を、自転車屋さんで飽きもせずに眺めていたものだった。職人さんの無駄のない、しかも繊細な体さばきによって、不具合のポンコツが見る間に蘇って来るのがとても痛快であった。他の職種でも、たとえば大工さんのカンナから向こうが透けて見えそうな位に薄い削りカスが舞い上がるのを見るのもワクワクしたものだし、畳屋さんの所作はまるで踊りを見ているような心地がして、とにかく職人の仕事を眺めることの、理屈抜きの楽しさに共感してくれる人は少なくないと思う。我々の幼少期には街のあちこちにこうした職人芸のショールームが溢れていて、スマホのゲームは無くとも子供の愉しみに事欠くことは無かったのではないだろうか。「良い仕事」という言葉が何故か私の心にいつまでも響いたのは、鑑賞に値する「良い仕事」の数々を思い出したからだ。

優れた職人の動きは、まずその軌跡の残像が直線と曲線を織り交ぜた幾何学模様となっていて、これはすでに美術である。またその動きから伝わる音とリズムも心地よいもので、それはまさに音楽である。しかも職人の技は、明確な目的に向かってその精度と時間効率を上げなくてはならないから、絶対にシンプルでなくてはならない。

つまり無駄のない簡素な美しさはいつの世も人々の心を惹きつけて、しかも何かの浄化作用があると思うのだが、近頃はやたらと複雑怪奇な音楽や美術が多過ぎやしないだろうか。もちろんそういうものがあって良いけれども、過剰な氾濫は、必ずや人々の心身を疲弊させると思う。



「いにしえ」に憧れる           百錢会通信 平成28年10月号より

虚無僧尺八愛好家には馴染みの無い用語であろうが、生田流地歌箏曲の世界で「九州系」と言えば、その言葉を知らぬ者はいないだろう。地歌箏曲はもともと京都、大阪が中心であったが、名古屋、中国地方などの各地に伝播してそれぞれに特徴的な芸風を醸し出して来た。中でも九州熊本の芸は独創的で、三味線の左手の繊細な技巧や、流麗な歌唱法などは巷間つとに話題となるところである。明治期以降、東京に進出した多くの「九州系」名人達人の芸は、三曲合奏全盛期の琴古流尺八家を巻き込んで大好評を博した。虚無僧尺八しか吹いたことがない私が三曲の手習いを始めたのは1980年代、まさに最後の「昭和」であるが、その頃でさえ「九州系」に非ずば地歌に非ず、と言った空気は業界に満ち満ちていて、大変な勢力であったと思う。

あの賑やかな時代から早30年、当時の立役者たる巨匠は次々に身罷り、往時の隆盛を知る人の寂しさやさこそとの思いもあるが、「九州系」のみならず、伝統芸能全般が著しい衰退の状況下にあっても、この世界に足を踏み入れてくる若人の動向にも、私は興味を惹かれるのである。

次世代の牽引役は私より一回り下の40代の演奏家だと思う。彼らは「九州系」の栄華を知る最後の世代であろう。その卓越した芸を目の当たりにして来て、その素晴らしさに皆今も敬意を抱いている。しかし自分の本芸にとって最も重要なものはと問えば、それは「九州系」ではなく、むしろ大本の大阪、京都である、という人たちがとても増えて来たように思う。こうした傾向の根拠は私には良く解らない。自分が惹かれる古典芸能のルーツへの漠然とした憧憬か、或いは技術の改革がもたらした芸能の高度な様式化によって希薄になってしまったかも知れない人間性への回帰なのか。恐らくもっと複合的な理由が集合した結果なのだろう。驚いたのはそうしたメンバーの中から平家琵琶を伝承しようという人物まで現れて来たことだ。平家琵琶(平曲)は盲人の職能集団であった当道の検校たちの本来の表芸であった。しかし三味線の隆盛という時流の中で止む無く自ら手放してしまったのである。その系譜は僅かに名古屋の芸系にだけ残されていたかと思う。こうなると、希少なジャンルにおけるマニアの悦楽も漂ってくるが、いずれにしても平家を語る芸能の保存は日本文化において大きな意味があり、若者がその役に名乗りを上げたのは、世間からすれば物好きなと一蹴されてしまうほどのニュースかも知れないが、私にはとても頼もしく感じられたことだった。

私がここでちょっと寂しくなってしまうのは、尺八界にそうした動きが起こらないことだ。しかし、その責任を次世代の若者に押し付けてはいけないと思う。むしろ戦後の隆盛期を味わった尺八界にこそ問題があったのではないか。若者が憧れるような尺八の「いにしへ」を誠実に検証し、伝えて来たと言えるだろうか。私を含めた50代以上の尺八吹きはプロアマ問わず、過去の自慢話を控えて、胸に手を当て思索する必要があると思う。



心配事                       百錢会通信 平成28年9月号より

 夏のオリンピックが終わった。メダル獲得のニュースがあればその快挙の映像を「凄いね~」などと呟きながら眺めもするが、私は夜なべしてまで観戦するほどのファンではない。こんなことを考えては身も蓋もないかも知れないが、過激にヒートするオリンピック利権のことを思うと妙にしらけてしまうからだ。

 アテネ五輪の後にギリシャは破綻したし、中国だってあの鳥の巣のような競技場もその後の管理に手を焼いていることだろう。ブラジルも今後深刻な経済危機が訪れるのではないだろうか。利権にまみれた者たちは自らの仕業を何の反省もせずに、その後の国家を如何に荒らすことになろうとも、知らぬ顔の半兵衛を決め込むに決まっている。

 オリンピックはスポーツと共に文化の祭典とも言われる。東京都ではオリンピックに向けて様々な文化プログラムが始動しはじめていて、伝統文化が注目されてきていることは誠に喜ばしい状況ではある。しかし、周りを見渡せば背に腹は代えられぬとばかりに、オリンピックという巨大ビジネス向けの“商品”としての芸能の売り込み合戦が始まっていることを聞くと、余り手放しで喜んでばかりもいられない。コンペに向けて技を競うのは良いとしても、その最終目的が、かつての芸能のように神事として崇高な世界へ止揚するというようなことでは無くなり、結局は富と名誉の追及であるという、飽くなき人間の欲望の世界に堕しているとは言えないだろうか。

 戦後70年を経て様々な政治的機密情報が公開されてきているようだ。終戦記念日近くにはそういう特集番組もあるにはあったが、テレビは国民的アイドルグループの解散の話題でもちきりだった。これは只々情けないの一言に尽きる。「マスコミが、芸能ネタなりスキャンダル事件を連日連夜、執拗に報道している時は注意しなさい。国民に知られたくない事が必ず裏で起きている。」と指摘したのは政治評論家の竹村健一だが、確かにマスコミが煽る芸能スキャンダルの乱痴気騒ぎの中では余程の情報網でも持って無い限り、国民はどんな悪法が制定されていても気づかないだろう。

 それはさておき、日本のアイドルを見ていると、何か怪しい事務所の放った網に捕獲された子供が獅子舞もどきを踊らされているように見えてならない。オリンピック選手の自らを厳しく鍛錬する姿は美しいけれど、その後ろ盾に誰がいるのかを想像すると、その昔、親方が子供に獅子踊りを仕込んで巡業させていた悲話を思い出さずにはいられない。今後の4年間、政治家、メディア、広告代理店の周辺には甘い汁を求めて数知れぬ多くの芸能事務所が蠢くことだろう。古典芸能の世界は余り縁が薄いにしても無関係ではないし、また大げさかもしれないが、国家の動きにも繋がっていることだから、注視の眼を光らせていなくてはならないと思う。



バルセロナ、尺八スクールで    百錢会通信 平成28年8月号より

 ヨーロッパ尺八協会(ESS)に招かれて、夏の特別スクールに参加した。10周年を記念する今回の開催地はスペインのバルセロナだった。片言の英語すら話せぬままに単身飛行機を乗り継いで行く16時間余りに渡る渡欧は、お笑いになるだろうが私には決死の覚悟を持って臨む旅路である。到着ロビーに迎えに来て下さった知り合いの顔が見えた時は、正に九死に一生を得る思いだった。

 現地到着は既に23:00を過ぎていた。トランクを開くのもそこそこにとにかく床に着く。翌朝早速9:00から怒涛のような行程が始まるからだ。20:30までぎっしりのスケデュールだから初日でヨレヨレに疲れると思いきや、さに非ず。まるで疲労感が無いのはどうしたことだろう。夜の21:00にようやくありついたタパスと呼ばれる小料理の数々、ワインが実に美味い。疲労に対する不思議な無感覚はとうとう最終の4日目まで続いた。それはきっと受講生の純粋な熱意に依るのだと確信している。それぞれの綿密な予習による習熟度はこちらの予想を遥かに上回るもので、慌ててレクチャーの内容を増量しなければならず、私には嬉しい悲鳴だった。

 そして今回のオーガナイザーは終始ユーモアを忘れない素晴らしい仕切りである。またイギリス、ドイツ、スウェーデン、デンマーク、ギリシャなどの各地から参加する幹事の、それぞれのお国柄溢れる笑顔のサポートが、実に和気藹々とした空気を醸し出し、よってスクールの成果は確実に増幅されたのであった。

 そうした穏やかな人間関係が確かに構築されているにもかかわらず、私が強く感じたのは、洋の東西を問わず、尺八を手にしようとする者は、中々に容易くは譲らない一家言の持ち主が多いということだ。今回のカリキュラムに盛り込まれた、フリーのディスカッションの場で、その事実は顕著となった。伝統音楽の教育の問題、古典と現代の意味、楽譜とは何か、などのテーマが提出されたが、表層的な見解では納得しないという鋭い眼光が、会場のあちこちから発射されていた。私にはどのテーマに対しても、演奏家がムキになって、言語という1つのロジックで解決しようとすることそのものの虚しさを常日頃から感じているので、どの話題を振られてもシドロモドロ・・・、何とも格好が悪かった。

 直行便の無い、バルセロナからの帰国はドイツのフランクフルト経由で全日空の便だった。機内誌に日本語のあることにヤケに安堵したので、およそ私は国際的な人間ではないなと苦笑した。さてつらつらとページをめくると突然に鈴木大拙の名前が目に飛び込んで来た。数年前に大拙の故郷、金沢にオープンした記念館にまつわるエッセイだった。中でも文中に引用された、大拙に長年師事して助手役を務めた岡村美穂子さんの述懐は、私には何かとても感慨深いものだった。

 《コロンビア大学での大拙先生の講義で、先生が「この世の中は神様が出てこられて、そして世の中を創造されたというけど、神様はそれ以前はどこにおられたのですか」って質問されたんです。「何をしておられて、どこにおられたんですか。皆さん、誰かわかった人がいたらちょっと立ち上がって下さい」って。もちろん誰も立ち上がれなかった。そうしたら、静かにご自分が立ち上がって、「ここにある」とおっしゃったんです。このインパクトはすごかったです。そこには哲学者もいたし、コロンビア大学の先生方もみんなおられました。》

 存在とは何かという、途方も無く大きな問題にこんな短い言葉を言い切ってしまう大拙の静かな佇まいに、皆が蒼ざめたのだろう。私にはもちろんその言葉の心底など分からない。ただ世界の人々に向けてこうキッパリものの言える人物は、尺八界にはいないものだなぁ・・・とつくづく思った次第だ。



芸のためなら・・              百錢会通信 平成28年7月号より

演奏も教授も、何事をも前向きにこなす活動的な後輩が、珍しく、今年は少しノンビリしようと思っていますと言ったことがあった。「アウトプットばかりでは枯れてしまうからインプットの時間も作らないと!」というのがその言い分だった。演奏も生徒に教えることも音楽的エネルギーの放出だからそれがアウトプット。その為には自分の音楽に実を結ぶ原材料をたくさん仕入れなくてはならない。例えば多ジャンルの音楽の名演や、演劇、美術、文学などを積極的に鑑賞する、旅をして自然の素晴らしい景色を見る、地の美味しい料理を堪能する、すなわち豊かなインプットであると。なるほど誠に明快なロジックだ。しかしその後輩君が半年後に辿り着いた心境は、やはり演奏家は演奏し続けてないとダメなのではないかという想いで、「豊かなインプット生活」は意外に空疎な感じがなきにしもあらずといった様子だった。私は心の中で膝を打って共感したものだった。

昔、藝大の助手をしていた頃、京都の花街に育ったという一寸ませた学生君に「善さん、もっと女遊びしなくちゃ芸に艶がでないよ!」と説教されたことがある。噺家の春団治を描いた演歌の台詞、芸のためなら女房も泣かす〜なんて言うフレーズが思わず頭に浮かんできた。なるほどそれも一面においては間違いでもないのだろうが、遊びをすれば芸に艶が出るなら何も苦労はない。インプットからアウトプットへ移行するプロセスとはそんな単純なものではない。

「それはすべての進歩と同じように、深い内部からこなければならぬものであり、何物によっても強制されたり、促進されたりできるものではありません。月満ちるまで持ちこたえ、それから生む、これがすべてです。」とは、私が敬愛してやまない詩人リルケの言葉だ。「もしあなたの日常があなたに貧しく思われるならば、その日常を非難してはなりません、あなた御自身をこそ非難なさい。あなたがまだ本当の詩人ではないために、日常の富を呼び寄せることができないのだと自らに言いきかせることです。」

こういう視点に立つなら、テレビ番組によくあるような、売れっ子アーティストに旅をさせて、その感動をのせた演奏シーンで締めくくるなどという企画が、実に皮相浅薄な作り事であるということがわかるだろう。自らの心の「深い内部」に分け入ることの意味を、表現者は忘れてはならないと思う。否、忘れる、忘れないという次元ではなく、そうせずにはいられないということが、芸術家の証なのだと思う。



フィクサー                    百錢会通信 平成28年6月号より 

かれこれ十数年前、親しくしていたお箏奏者に誘われて、ある音楽事務所の企画に参加した。事務所の代表は歳の頃は還暦を越えているであろうに、その出立は皮のスーツにスキンヘッド、ドスの効いた良く通る声で、どう見ても“その筋”の人としか思われない人物だった。周りの友達は「善ちゃん、その事務所は大丈夫?」と心配顔であったが、そのプロジェクトが頓挫するまで、私はその事務所から社会的に不誠実な待遇を受けたことは無く、決して非合法な事業ではなかった。

しかし彼はプロフィールに田中清玄のもとにいたことを明言していたので、尋常の経歴の持ち主ではないことは確かだ。田中清玄は戦後の実業家にして政治活動のフィクサーとしれ知られた人物である。私はその名を父から聞いて良く知っていた。戦後の焼跡整理から父の土建屋稼業は始まったのであるが、ある組の待遇が不満で飛び出し、移った先が神中組(後の三幸建設)で、その創業者が田中清玄である。父の話では、過激な共産主義者であった田中は母の自死などを契機に投獄中、天皇制に転向を宣言、獄中で知り合った極道系の人物と共に、戦後に興した組らしい。父と一緒に移った仲間はやはり「善ちゃん、この組は大丈夫なのかい?」と心配顔だったそうだが、切った張ったの修羅場は日常茶飯事の、当時の現場を渡り歩いてきた度胸もあったのだろう、父は構わず飛び込んでいったようだ。「善養寺さんのお父さんは横浜神中にいたんですかぁ!いゃー懐かしいなぁ!」田中の元にいたというその社長は「神中組」の名を良く知っていて嬉しそうに私に握手を求めて来た。何か妙な因縁だなぁ・・・と心の中で思いながら苦笑いで応えたのを覚えている。

恵比寿のお稽古でお世話になっている松泉寺の廊下に山本玄峰老師の色紙が飾られていたことをふと思い出す。三島の龍沢寺住のこの名僧は、若くして失明、四国霊場巡礼の途中に行倒れ、雪蹊寺住職に拾われて仏門に入った。戦前戦後、山本による政界への進言はよく耳にするところである。この山本玄峰に田中清玄は傾倒した。山本に田中を繋いだのは血盟団事件に連座した四元義隆である。「非利権右翼」の異名をとる。私はある高名な禅宗の師家の法要の場繋ぎで尺八を吹いたことがあるが、そのビップ席にいたのがかの四元氏だと教えられたことがある。四元義隆は山本玄峰に師事することによってその後の人生が転換したと言われるが、その四元と獄中で出会った田中清玄も同じ道を辿ったのかも知れない。

ところで、尺八の神如道の葬儀で導師を務めたのは山本玄峰の愛弟子、中川宗淵老師である。またその葬儀で語り草になっている、見事な弔文を寄せたのは陽明学者の安岡正篤で、政界への進言者としてはこちらもつとに有名な人物だ。先の四元は戦前、安岡の主宰する金鶏学院に学んでいたが不満を持ちやがて離れていったそうだ。田中清玄も安岡正篤とは、ともに政界中枢への影響力を持つ立場にありながら、遂に志を共にすることはなかったようだ。

因みに私の伯父は安岡の興した日本農士学校の生徒であり、それが縁となって父は神如道の尺八に傾倒した。結果、私の代になっても安岡正篤ゆかりの方々との交流が今尚続いている。尺八を縁に今では愉快に文学を語り、音楽を語り、酒を酌み交わし、実に平和な時間を過ごさせて頂いている人間関係も、そのルーツを一代二代と遡れば、戦前戦中戦後の激動、流血の時代が見えて来る。尺八を愛する人々の周りではどうかこの平和が続いて欲しいと祈るような気持ちが、年々いや増さるばかりである。



新 緑  - 9 -                百錢会通信 平成28年5月号より

  我が家に最寄りの所沢駅は、西武の新宿線と池袋線の2つの路線が、地図で上から見るとちょうど方程式に用いるxの文字のような曲線で交わっている。ホーム階上に昨年完成した広いコンコースには、新宿、池袋、川越、秩父の各方面、それぞれの地に向かう人々が縦横無尽に行き交う。その多くはすれ違うだけの広場だが、さらに一階上の休憩所から見下ろすと、アチコチにやはりそれぞれの小さなドラマが思い浮かばれるような、出会いと別れのシーンが繰り広げられている。まさに人生の縮図を見るようだ。

 その夜、私が目にしたのは、嘗ての恩師と教え子か、或いは定年を迎えた上司と歳の離れた部下のようにも見受けられる、初老の紳士と青年であった。楽しい会話の弾んだ酒宴であったらしく、特に老人の笑顔は満足気で「君は本当に頼もしい大人になった!」という様な台詞が聞こえてくるようだった。

 しばらくの立ち話の後に二人は別れの挨拶を交わしてそれぞれ別のホームへ降りる階段へ向かって歩き出した。二人の姿が各々の視界から消える寸前に、初老の紳士はもう一度彼の方を振り返った。それに対して若者は真っ直ぐ前だけを見て颯爽と階段を降りて行った。老人はそれを見届けてゆっくりとにこやかに階段を降りて行った。

 老人の見たものは目に目映ゆいばかりの若葉の緑である。しかしそれは老人の感傷的な追憶の彼方に遠ざかった他者ではなく、実は己自身の心に今まさにある若緑であって、その存在を初めて見た瞬間だったのではないか?こちらも酔いに任せてそんな思いがよぎったのである。自分のことは自分が一番良く解っていると断じるのは若気の至りというもので、わかった積りの自分とは精々過去の思い出の中の自分であって、所詮はセンチメンタリズムの域を越えるものではないと思う。普化宗に思いを致す尺八吹きとして意識しなければならないものは、的確な言葉が思い浮かばないが強いて言うならば、過去を持つ者が、今に至るまでの息つく間の差し挟む余地もない連続性というものに対する集中力ではないだろうか・・・。さすがにここまで言うと、自分で発した言葉の意味が解らなくなってきた。ここは潔く良く解らないと白状する。



人工知能の勝利              百錢会通信 平成28年4月号より

  先日、下合わせの帰り道に、夕食を兼ねて一杯飲んで行きませんかとお誘いしたところ、快く同行して下さったお弟子さんは、コンピューターの情報処理に詳しい方だった。相手が邦楽の演奏家仲間であれば、酒場の会話はどうしても同業者として仕事の延長になってしまうけれど、それがアマチュアのお弟子さんならば必ず尺八以外の世界がある訳で、盃を片手にその方の専門分野のお話を根掘り葉掘り聞くのを、私はとても楽しみにしている。

 さてその日一番の話題となったのは、コンピューターソフトが囲碁でプロの棋士に勝利したということであった。これはかなりなエポックメイキングな“事件”だったと仰るのだ。私はとっさに何故?と思った。その昔はまずオセロゲームでコンピューターが人間に勝利し、以来、チェス、将棋と、より指し手の複雑なゲームにおいて、コンピューターはハードの技術革新に伴う形で人間に勝利して来たのだから、いずれは囲碁でも・・・と思っていたからだ。しかしここがきっと素人の浅はかさであろうから、説明されてもチンプンカンプンかも知れないのに例によって根掘り葉掘り質問したのである。

チェスは想定される次の手は平均数十手、将棋はとった駒の再利用などのルール上の理由によって指し手は更に複雑さを増す訳だが、囲碁に於いては指し手の可能性がもともと数百と桁外れである。この膨大な量の計算を処理し尽くすことは最新のコンピューターでも不可能なことなので、従来のような可能な指し手を高速に検索するという演算性能に依存した方式では、プロの棋士に勝つには少なくとも10年はかかると言うのが通説だったようだ。囲碁こそ難攻不落の最後の砦であると言われた所以である。

 ところが今回、グーグル社が開発した人工知能ソフトはあっけなくプロの囲碁棋士を破ってしまった。何故?何故?と“根掘り葉掘り”は一段と熱気を帯びて来る。しかしここからは説明されても私のポンコツ頭では良く解らなかった・・・。とにかく要はコンピューターに深い学習機能を与えて、より勝利の可能性の高い指し手だけを短時間に絞り込ませるのだそうだ。ではコンピューターに直感力を与えたのか? 否、そういう事ではないらしい。飽くまでもデータの集積が前提のようだ。でもどうしてそんな事が可能になったのか? 実は開発者自身も良く解っていない部分もあるらしい。ここに至って私は何かとても怖くなって鳥肌が立った。優れた科学者の中に演繹法を積み重ねる者は殆どいないという話をアチコチで耳にする。アインシュタイン然り、正にプロの棋士のように、直感による何手も先へのジャンプが、ソフト開発者にもあったのではなかろうか。

 経済学者が説くように、地球の資源が有限であるのに対して、人間の欲望は無限である。アインシュタインが如何に世界平和を叫んでも、人間の欲望故に広島に原爆は落とされた。人工知能技術の発展は、かつての物理学の革命が人間界に巻き起こした悲劇の再来を連想させて私は空恐ろしくなる。

しかし同時に私は野党よろしく批判だけして善人を決め込むつもりはない。私は演奏活動をしていて、どうしたら日々質の高い演奏の再現率を高めることが出来るかを考えていて、そのノウハウを私のお弟子さんに開示して日々の糧を得ている。こうした私の生活は一見人畜無害のように思われるが、実は本質的な意味においてはこれもまた紛れもなく人間の欲望の無限性に属する話だと思えてならないからだ。



自校史教育                  百錢会通信 平成28年3月号より

  私が大学生の頃と言えば早30年も昔の事だ。1960年以降、特に70年代に邦楽界を最も沸騰させたのは学生邦楽サークルのメンバーであったと思う。ところが80年代後半になると大学の邦楽系サークルの部員は激減、廃部の話がアチコチから聞こえてきたものだった。思い返せば私の同世代には「日本的」であるものに対する“不本意さ”というような意識が強く漂っていたと思う。今だに私の演奏会に足を運んでくれる同級生は皆無に等しい。ところが我々から一回り下の年代あたりから、徐々にではあるが復調の兆しが現れて来ているように感じている。何故こんなことが起きたのかということは、私にとって長年の謎である。様々な社会情勢などを手掛かりにその原因を今まで考えて来たが、確固たる結論には至らない。そして、また同じようなうやむやな結末になるのかも知れないのだが、最近再びこの謎に挑む気をそそられたキーワードが「自校史教育」である。

 「自校史教育」の理念をざっくりと要約すると、次のようなことらしい。日本の学生は入学試験という関門によって明確に序列化された学校に在籍していて、多くは、本当はこんな学校には来たくなかったという“不本意入学者”である。こうした学生に、不本意ながら在籍している学校の歴史をレクチャーすると、それがどのような学校であっても、学生の勉学意欲は高まり、成績上昇の傾向が認められるというものだ。これだけ聞くとそんな簡単にいくものか?と思ってしまうが、その要点には意味深いものがあると感じた。このレクチャーの核とは、その学校の歴史の良いことも悪いこともまるごと教えるということだ。単なる発展史や顕彰史ではなく、その学校がどういう理念を掲げて社会に向けて何に成功し、何に失敗してきたかを知ることにあると云う。このレクチャーを受けて自校に誇りを持つ者もあれば、失望する者もあるだろう。むしろ後者の方が多いかも知れない。しかしいずれにしても今自分のいる位置を知る手掛かりにはなる訳で、それは実は希望も失望もない無気力という牢獄からの脱出とも言えるだろう。

 この話を知ったのは、私の友人の三味線奏者が主宰する会のある女性の門人が、その会報に投稿した記事によってであった。その方のその後のひらめきが面白い。「自校史教育」の話を聞いて一月ほど経て、突然あることに気が付いたというのだ。それは、自分は“不本意日本人”であったと。以来、日本史に親しむようになり、いつの間にか音楽の趣味はシャンソンから邦楽へ、気が付いたら和服で緋毛氈の上で、嬉々として三味線を弾き唄っていたというのである。

 1970年代に邦楽界を大いに盛り上げた世代も、80年代後半に邦楽を最も嫌悪した我々の世代も、実は根っこは同じで、多くは “不本意日本人”ではなかったか?という思いが込み上げてきたのである。ここで明言するが、私自身は日本人であることを不本意だと感じたことは未だかつて一度もない。その理由を一言で説明することは出来ないが、結論だけを言えば、それは私が幼少の頃から虚無僧尺八と共に生きて来たからであると信じている。それ故に同世代の中にあって私はどうしても孤独を強いられて来たのであるが、それも私の背負った因縁であって、これから語り合える友人は増えてくると楽観している。



玄  冬                        百錢会通信 平成28年2月号より

  四季のイメージを色で表すならば、とはしばしば耳にする話題であるが、何度聞いても不思議に思うのは、古代中国の五行説で言うところの「白秋」と「玄冬」である。「白秋」は何とも美しい言葉だが、現実的には秋はやはり色づく木々の黄葉を思い浮べてしまうし、「玄冬」に至ってはそもそも「玄」とはどんな色?と頭をかしげてしまう始末だ。辞書で調べてみると、奥が深過ぎて光の届かぬところの「黒」ということらしい。

  昨年に引き続いて今年も南相馬市の小学校で演奏させてもらうことになった。震災後に南相馬を訪れるのは今年で3回目。常磐線は未だ休止中であるから、今回も福島駅から車で入った。3年前、福島から南相馬へ向かう道すがら、飯館村の景色を目の当たりにした時の衝撃は今も忘れることが出来ない。人ひとり無く、全ての灯りは消え去り、凍りつくような沈黙だけに覆われた死の村であった。昼間であるのにあの景色は、正に光の届かぬ闇以外の何物でもなかった。

  それから2年の月日が流れて再び訪れてみれば、村のアチコチには除染の為に削り取られた膨大な表土が、不気味に黒い特殊なシートに包まれて、行く宛ても無く、意味も無く、廃棄せられた巨大な文鎮のように重く地面を圧していた。小学校にたどり着いて子供達のつぶらな瞳に逢えなければ、息の詰まるようなこの胸の苦しみからは逃れられなかったかも知れない。

  以前の拙稿でも書き記したことだが、この地にこれからも暮らして行こうと決めた人々の心には、言葉にはならない大きな覚悟があるという。敢えて言うならそれは諦念と言う言葉が一番相応しいのではなかろうか。とかく現代は何でもかんでも前向きに生きろ、諦めるな、己の可能性を最大限に生かせ、夢に向かって頑張れという。もちろんそれが悪いことではないし、我々の日々の生活に大いなる歓喜をもたらしてくれるのは確かなことだ。しかしそういう集団的無意識ともいうべき価値観が 、人間が生きるということの根源的な哀しさに対する無感覚を助長してはいないだろうか。人間は無力であり未来永劫に悲哀と共にあると言うことを正面から受け止め受け入れ、その上でなお人生を肯定的に生きようとする東北の偉大なる人間苦の歴史とは、およそ次元を異にすると言わねばならない。

   20歳の頃、初めて東北線に乗った時、福島入りして程なく視界に広がった一面の雪景色もまた私は忘れることが出来ない。自然の猛威でありながらその色と静寂の所為であろう、雪には清浄、浄化の念を催さずにはいられない。その崇高さ故に冬の色として多くの人が白を思い浮かべるであろう。「玄」いう文字は、ただ奥深いという形容ではなく、森羅万象の根源としての意味がきっと大事なのである。白色の雪(芸術がそれでありたい!)が黒い人間の欲望の闇を浄化してくれること、そして「玄」の世界へ人間が正しく導かれる、そんなことを頻りに思い願う今年の冬である。



夢の中で逢える人             百錢会通信 平成28年1月号より

  昨年の後半に今までずっと親しくして頂いていた方とのお別れがいくつもあった所為だろう、今年のお正月、心の内は何時になく静まっていたように思う。またこうした思いが年々増してくるのは、歳を重ねれば自然なことなのだろうと思っている。昨年末の押し迫ったあるご葬儀の帰り道、故人を偲んで献杯しようと友人と立ち寄った寿司屋のカウンターで、「自分みたいな酒好きが長生きするのは難しいかなぁ。」と冗談交じりにぼやけば「善ちゃんそんな話をしないでよ!」と笑いながら友人はその会話を制止してくれた。その何げない気遣いが嬉しかった。「自分の死期は案外近いかも知れない・・・」と父が頻りに呟き出したのはいつ頃だろうかと思い返して考えてみると、50代も半ばの頃だったと思う。それからかれこれ四半世紀、有難いことに両親が元気でいてくれているので、最近時折脳裡をよぎることのある、「自分はあと何年で旅立つのだろう?」などという思いも、やはりどこか他人事のように消え失せてしまうのである。

 父方の郷里の群馬に、私が小さい頃から本当に世話になった伯父がいた。その伯父も尺八を嗜んでいて、主に箏や三絃との三曲合奏を楽しんでいた。誰からも好かれる心優しい人物で、私の群馬での教授活動も本当に親身になって応援してくれた。「ウチの甥御は尺八の達人ですぜ!」と愛嬌たっぷりに宣伝してくれて、お陰で私は群馬で沢山の竹友と知り合うことが出来たのである。その伯父が他界して何年経つだろうか。実はお別れしてからこのかた、私は墓参に未だ一度も訪れていないのである。そんな不義理な話があるものかとも思うのだが、私の中では永遠の記憶の中で「しばらく逢ってないけど元気かな・・・」などと呟き、たまに夢の中で逢って言葉を交わすという、錯覚の中に伯父さんと共に生きているという気分が心地良いので、何としても墓前に向かう気がしないのだ。

 私が伯父の墓参に行かない理由は、裏を返せば、足繁くお参りする人のそれと実は同じだということも良く承知しているつもりだ。「墓参」とは、「墓所」というものが、実在する“現世”から“異界”を垣間見ることの出来る“境界”であるという前提の上に成り立つ、土俗的な信仰儀礼であろう。「首を回らせば五十有余年 是非得失一夢の中」と良寛が言ったように、そもそも“現世”が「実在している」ということすらも疑い始めた浮世離れの尺八吹きに、「墓参」の意味が薄れてしまうのを、どうか赦して頂きたい。尺八を吹くということはすなわち夢を見ること、夢に生きること、最近はそう思えてならない。

「吾子すべからく多く古書を読み、古人と晤言して、以て胸間の汚穢を蕩除すべし」と言えば少々堅苦しいが、夢の中で逢える人は別段偉大な聖人でなくとも、きっと心の清涼剤となるだろう。故人と逢えるのは眠りの床や墓所ばかりではない。その心構えで今年も大いに竹を吹きたいと思う。



前略、かしこ                  百錢会通信 平成27年12月号より

  招待状、案内状、出欠の連絡、御礼状。この秋も演奏会関係の、数え切れぬほどの手紙が私の前を往き来した。さてその中身の文面の話。受け取る側は、日時や会場などの要点は確認するが、時候の挨拶文など、所謂書簡の“定型”部分については、大概は何気なく流し読みされることが多いのではないだろうか。しかし送り手は、きっと流し読みされるであろうことが解ってはいても、その部分の文面の作成に、結構、唸りながら悩んでしまうものである。

 誤字脱字に注意するのは言うまでもないことだが、一番苦労するのは、その用語、言い回しが適切であるか否かの判断であろう。「中秋」なのか「錦秋」なのか?に始まって、「拝啓」か「謹啓」か?などなど。要するに我々の実生活にはその意味が極めて希薄となってしまった有職故実の縛りが、書状の世界には今も尚 “棲息”しているからである。

 大袈裟な考え方かもしれないが、こうした様々な約束事は、「身分制」という仕組みがその秩序を支配している社会に有効なのであって、国民の平等を謳った戦後教育を受けた我々の世代以降、その実用性を実感できない人間が加速して増加することは免れない。

 邦楽の世界には僅かだがまだ身分制は現存している。そして若い世代を中心としたこの仕組みに対する反発もある。しかしいずれはその対立すらも忘却された時代が日本に訪れることだろう。杞憂かも知れないが、その時に何かの事件が起きなければ良いが・・・という思いが強くなってきた。

 それはさておき、我々身分制の良さを実感出来ない者が、その身分制の産物であるところの書状の約束事を守るために、ことに及んでは文例集をめくりながら、肌に馴染まぬ拙い手紙文を書き続けるのは何故だろう?と、この秋、山のように届いた演奏会の案内状を眺めながら考えた。答えは簡単なことだ。こうした古き日本の仕組みの中で生まれた美の世界を、その上澄みだけを要領よく掬って残すことの難しさを、肌で感じているからだろう。後輩たちの、私より更にぎこちない挨拶文を読むたびに、そのジレンマが伝わってくる思いがした。

 今年の夏の終わりころ、「長引く残暑お見舞い申し上げます」という書き出しの、人間国宝の先生から頂いた葉書を私は今でも大切に保管している。書状を差し上げれば翌日には返信の葉書が届くという、誠に厳格な礼儀作法に徹底されていて、あらゆる場面において毅然とした、胸のすくような思いのする先生である。「長引く」のたった一言で、使い古された残暑見舞いの常套句も、まるで先生の張りのある力強いお声が今ここに聞こえてくるような思いにさせられたものだった。葉書に僅か数行にして、我々の手紙文とは既に格が違う。有職故実の染み込み方が違うのだ。こうなると、「前略」の一語でも威厳に満ちていて、いつの間にか書状を上に頂いて低頭している自分がいたりして、思わず失笑した。旧仮名づかいの「かしこ」の筆跡も余閑を残し、正に余人をもって代え難き先生のような人物は、今後三曲界に輩出されることは無いだろう。後に続く我々はこうした先達の後姿を瞼に残しつつ、新しい秩序と音を紡いでいかなくてはならないのだ。



信仰の原点                  百錢会通信 平成27年11月号より

 毎月の巻頭文はいつも小難しい・・・という声が聞こえてくる。そこでたまにはくだけた話を、と考えてみたが元々が堅物故に中々思いつかないものだ。妻との会話の中で、こちらは笑い話のつもりではなかったのに、やけに妻の笑い転げたことがあったので、それで今月の余白を埋めてみたい。

妻が言った。あなたに“モテ期”はなかったの? 残念ながらトンと思いつかなかった。強いて言うなら・・・、小学校1年生の頃。久しく思い出すこともなかった昔話だ。

同じクラスにまるでお人形さんかと思うほどに可愛らしい子がいた。まつ毛が長く、真ん丸の愛らしい大きな瞳で、髪毛はいつも丁寧に編み込まれ、緩やかにカールされた耳元のそれは栗毛色で、日に当たると眩しいほどにキラキラと金色に輝いていた。その小学校の学区には、歓楽街と呼ぶ程ではないが夜の賑やか繁華街があり、その付近の家の子の中にはちょっとませた男子も多く、彼女は常にそうした男どもに取り巻かれ、その渦の真ん中にあって、まるでマリーゴールドのように華やいでいた。もちろん私はそんな光景をいつも遠くから眺めているだけの少年だった。

そんな私が彼女に最も近づくことが出来たのは、朝礼などで男女2列に整列する時だ。身長の低い者順に並ぶと彼女も私と同じ、前から4番目。だからと言って仲良くお話できる訳でもなく、やはりただ真面目に黙して立ち尽くすだけの時間が徒らに過ぎて行った・・・。

さて入学して程なく、初夏の遠足の近づいたとある日に担任の先生から衝撃的な申し渡しがあった。「遠足は背の順に並んで隣同士手を繋いで歩きましょう!」この私が彼女と手を繋いで遠足に?!と、考えただけでも心臓が高鳴り、何を話して歩けば良いのだろうという不安とときめきの入り混じった甘い興奮は日に日に昂まっていった。ところが当日、彼女の前の女の子がまさかの病欠、1人繰り上がって結局私の遠足のパートナーは彼女の1人後ろの女の子となった。失礼ながら落胆したのは確か、しかし「それもまた人生・・・」。まさかそんな悟ったような言葉を当時思いついた訳ではないけれど、安堵の気持ちの方がいくらか優っていたように覚えている。

その小学校は2学期まで通い、引越しの為に年明けの3学期には転校することになっていた。教室に漂う秋の空気の所為もあったのだろう、漸く馴染んできた学校を変えるのが何となく寂しい気持ちがして、校庭の落葉をボンヤリ眺めたりすることがあった。

その小学校で過ごす最後の大きな行事は秋の学芸会。事件はその時に起きた。暗幕の張られた体育館の中、昼間なのに暗闇の中にいるという非日常が児童たちの心をワクワクさせたのだろう、演目と演目の幕間は皆大騒ぎではしゃいでいる。私は騒いではいけませんと先生に言われたのだからとクソ真面目に大人しくしていた。すると後ろから何者かが覆いかぶさるようにぎゅっと力をこめてしがみついて来た。本当は遊びたいのを我慢していた私は堰を切ったようにケラケラと笑いながら「やめてよ、やめてよ、誰?!」と叫んだ。ふと見るとそれはあの愛くるしい彼女ではないか!体育館の暗闇の中で頭の中は真っ白に。生まれて初めての甘い目眩。彼女は次の演目が始まるまでその手を緩めなかった。

家に帰っても相当のぼせていたようで、すぐさまそれに気付いた母は「惠介お前どうした?」と問い正してきた。それでかくかくしかじかだと素直に答えると、母は腹を抱えて笑い転げていた。喜んでくれたのだと思う。夢のアクシデントは、あとにも先にもそれ一回きり、彼女の“お戯れ”の真意は今も謎のままだ。

謎のままで良かったのだと思う。それ以来成人するまで、およそ女性には縁のない淋しい青春時代だったが、ひどく落ち込むこともなく生きてこれた理由の1つは、この謎だったかも知れない。自分は自分のあずかり知らぬところで誰かに慕われているかも知れない、誰かに愛されているかも知れないという空想は、あらゆる信仰の原点であって、人間の思考の中での美徳の1つではないだろうか。



孔子の言葉は・・・             百錢会通信 平成27年10月号より

  孔子の言葉は正直に言えば苦手である。仰ることは至極御尤もで返す言葉もなく、わが身を振り返ればひたすら反省の独居房に閉じ込められるような気がするからだ。敷居が高いという、過剰な先入観もあるのだろう。だからこれを読もうとする時は何となく腰が引けてしまうのだ。しかし “おっかなびっくり”に覗いて見ると、不思議なことにあちこちで音楽の記述によく出会う。不思議に思うのは、音楽はすなわち享楽という図式で礼節の世界からは反対にあるという印象があるからで、これもまた誤った先入観なのかも知れない。

 

「子、斉に在りて、韶を聞く。三月、肉の味を知らず。曰わく、図らざりき、楽を為すことの斯に至らんとは。」

 

(しょう)とは伝説上の聖帝である舜(しゅん)が作ったとされる曲。孔子はこの曲を聴いて、音楽が人間をこのような高みに導いてくれるものとは思いもせず、その感応の深さは三月も肉の味を忘れるほどであったというのだ。私の師匠はこの話を幾度となく解説して下さったが、「この“肉の味を知らず”とは美味い肉の味のことではなくて“女色の味”という意味だ!」と、その部分に随分と力が籠っていた・・・。確かに肉料理の味では様にならないから、やはり人間の肉体の、日常的な欲望を忘れるほどであったというのが、適切な解釈であると思う。

 

「詩に興り、礼に立ち、楽に成る。」

 

人はまず詩によって心の感激を知り、社会の摂理を学んで自己を律することを学び、そして最後は音楽によって全ての調和の何たるを知る。ド素人の論語解釈で甚だ自信はないが、こんな意味ではないだろうか。日本でも荻生徂徠の一派は盛んに自ら音楽を奏で、孔子の「礼楽」の実践を試みていたようだ。ただしその音楽は一世を風靡していた三味線音楽ではなく、折り目正しき雅楽であったようだ。

 その昔、テレビ出演を頑なに拒んでいたロックシンガーの矢沢永吉が、珍しくNHKの教育テレビに出演したことがあって、今ふとその時のある台詞を思い出した。「ミュージシャンになろうなんて思うヤツは大体ナンパなわけよ。ところがね、続けてると音楽ってのはね、別世界を開いてくれるんだよね。」確か、こんな文句だったかと思う。江戸の三味線音楽を淫靡の楽として拒絶した荻生派には受け入れられない言葉かもしれないが、矢沢の言葉は「礼楽」の思想のある一面を語ってはいないだろうか。音楽が人間を深く化する力を秘めているということを直感的に感じ取った人間の生の声だったと記憶している。

音楽による感化の問題は、自己陶酔や精神の崩壊をも孕んでいて簡単に話をまとめることは出来ないことだろうが、子に曰く、

 

「これを知る者はこれを好む者に如かず、これを好む者はこれを楽しむ者に如かず。」

 

あまり難しく考えずにまずは楽しむのがよかろう。けれど私は今月の緊張の舞台をどのくらい楽しむことができるだろうか・・・。やはり孔子の言葉は苦手である。



来る日も、来る日も            百錢会通信 平成27年9月号より

 小学校時代、少年野球に夢中だったことをよく話して聞かせてくれる筝曲の友人がいる。あるトーナメントの決勝戦で運悪く筝曲の総浚いと日程がぶつかってしまったそうで、彼はレギュラーの主力選手であったにも関わらず、交渉の余地もなく箏の師匠からは決勝戦の欠場を命ぜられたという。泣く泣くグラウンドを去って合わせの会場へ向かい、後で聞けば試合は敗退・・・。彼の筝曲家として生きていく覚悟の奥底に、この出来事が無意識のうちに深く関与しているという。

 彼が進学した高校の野球部は甲子園での優勝経験もある有名校だ。その野球部員を見てその水準の高さに愕然としたそうだ。基礎体力、技術力、センスの良さ、どれをとっても自分などは遥かに及ばない。努力を必要としない天才的な資質に恵まれた選手も稀にはいるのかも知れないが、リトルリーグやシニアリーグなど、小学生から既に硬式ボールを握って専門トレーニングを積み重ね、幾度もレギュラー獲得の試練を勝ち抜いて来た猛者たちであろう。しかし、そういう人材を擁しても全国制覇はままならないのだ。増してやその中からプロの世界に入ることのできる選手は一握りだから、一般聴衆からは何気なく見られているであろうテレビの中のプロ野球選手は、注目のスターでなくても自分には十分偉大に映ると、しみじみ彼は語るのである。

 水準の高さ、ステージの違い、といった言葉から私が連想するのは昔の芸人のレパートリーの膨大さと、その体への染み込み方の深さ、そしてその稽古の激しさだ。昔盲人の筝曲家が、たとえ町の師匠レベルであっても専門家として立つには、いつでも演奏できる曲が少なくとも7080曲はなければならないという話を、何かのエッセイで読んだ覚えがある。能楽などは一演目があの長大なものであって、しかもそれが200曲を越えるというのだから、一体どんな稽古をすれば一人前の能楽師になれるのだろう。

 私のレパートリーといえば、どれも10分前後の尺八本曲が僅かに30曲ほどである。しかし残念ながらこれらの尺八本曲の演奏依頼を受けることは本当に稀だ。頼まれることの多いのは筝曲との合奏曲だが、こちらのジャンルで頭に入っている曲は僅かに10曲あまりしかない。一度覚えても瞬く間に記憶の用紙は真っ白になってしまう。先日も、ある浴衣会に持参したずっしりと重い楽譜の山を眺めて、いつもの事ながら苦笑いしたものだった。

 お浚い会の当日、昔の師匠は手ぶらで出かけて「今日は何を弾いたらいいんだい?」と仰ったそうだが、自分も一度でいいからそんな台詞を言ってみたいもんだね、と仲間とはよく笑い合うが、兎に角やるべきことは一つ。来る日も来る日も稽古を積んで心と体の奥深くに芸を染み込ませて、やがてそれが新しい光を放って溢れ出す日を夢見ることだ。かつて友人の師匠が決勝戦の野球グラウンドから彼を無理やり引き連れ戻したのは、この稽古の積み重ねの、その重い意味を知ればこその愛の鉄槌であったに相違ない。



日本音楽、男、戦争。          百錢会通信 平成27年8月号より

  ある女性奏者が言った。「地歌なんてとても真心こめて歌う気にはなれないわ。だってあんなに男に都合よくメソメソ泣く女がいると思う!?」なるほど!と思わず膝を叩いて大笑いしたものだった。

 地歌に「末の契り」という曲があって、尺八吹きには人気の曲だ。手事(器楽演奏部分)の懸りのゆっくりした部分に、誠に尺八吹きには堪えられない情の籠った節が付いているからではなかろうか。この部分をしみじみと吹く男の尺八吹きは、末期哀れの人生を背負った薄倖の佳人を、脳裡のスクリーン一杯に映し出していることだろう。男のナルシズムが捻出した、妄想上の女性以外の何物でもない。

 但し、ここで妄想の行き過ぎた己自身をニヤリと笑ってから吹く手事と、その妄想を抱えたまま吹く手事では、全く趣が変わってしまうだろう。私は前者で行きたい。遊び心で手事を渡り歩いた方が、次に来る後歌に膨らみが出ると思う。

 ところが例えば「雪」なんていう、全編通して中々悲恋の深刻さから抜け出しにくい曲もある。曲中に本気で涙する人もあるだろう。だがこうした曲でも私なら、最後の一撥の余韻が消えたら盛大に拍手して、束の間20分弱の妄想から抜け出して、笑顔で会場を後にしたいものだと思う。緊張というエネルギーも適宜ガスを抜いて緩めてやらないと、楽しみにメリハリがつかないと思うからだ。しかし、哀しみのエネルギーをずっと胸に秘め続けずにはいられないという鑑賞態度もあるだろう。小難しい言葉を使えば“無限否定性”のロマン主義といったところだろうか。いずれにしろ同じ作品に対して、人それぞれの解釈や楽しみ方が保障されている社会に生きていられることは、つくづく幸福なことだと思う。

   人それぞれの解釈がなどと呑気なことを言っていられないのは、今時の憲法の議論だろう。私はここが私自身の政治信条を述べるための場ではないと思っているので、ここで改憲の是非を論ずる気はない。ただ、芸術の表現と鑑賞の自由が未来永劫に人間社会の基礎として担保されることを心から願って止まない一人として、最近一読して忘れられない言葉を記しておきたいのだ。それは自衛隊の前身、警察予備隊の指導にあたった、コワルスキーというアメリカの軍人の述懐である。

 「私個人としては、あの恐ろしい戦争のあと、大きな希望と期待をもって生まれ変わった民主主義国日本が、国際情勢のためやむをえないとはいえ、みずからその理想主義憲法を踏みにじり、国民がきっぱりと放棄した戦力を再建せねばならなくなったのは悲しいことであった。」

 ここでいう国際情勢とは朝鮮戦争のことだ。日本の再軍備は実質上アメリカから日本へ下された命令である。繰り返し断っておくが、私はここで自分の国際政治に関する信条を表すつもりはない。かつて日本軍に、日本国民に銃口を向けて引き金を引いたアメリカの軍人が、太平洋戦争を「あの恐ろしい戦争」と表現して戦慄し、未だ世界に戦火の止まぬことに涙しているということを、記しておきたいだけだ。戦争の根底には人間の底知れぬ欲望が横たわっているのは考えるまでもない。また同時に、戦争という人間の欲望の大規模な暴発には、主に男の自己陶酔が深く関与しているのではないかということを、私はかなり確信的に感じている。おやっ・・・、僅か10数分の近世日本の音曲にも同じものが潜んでいるかも知れない、ということを思い出したら、背筋がヒヤッとした。



3つの話                     百錢会通信 平成27年7月号より

   酒場を賑わすサラリーマンの会話のクライマックス、それは社内政争の話題に極まるそうだ。それに引き換え演奏家の皆さんは高邁な芸術のお話とかをなさるのでしょう・・・? と、聞かれることがある。が、恥ずかしながら、我々も同業者が集まれば必ず業界内の政治闘争の話ばかりだ。“すったもんだ”の揉め事の話なら枚挙にいとまが無い。これが1つ目の話。

  世の実業界のそれに比べたら可愛いものなのかも知れないが、どんな些細なことでも人間同士の切った張ったの話を聞けば哀しくなる。出来ることならいつでも気楽な趣味の話で盛り上がりたいものだ。これが2つ目の話。何でも知ることは本当に楽しいし、それを糧に創作するのは尚面白い。例えば、どうしても上手く吹けない箇所があって、それを克服するヒントが話題に上ったならどんな気持ちになるだろう。またそのテクニックを使って今までに誰にも聞かせたことがないような即興演奏ができたなら!などと想像を膨らませたら、どんな大人だって目をキラキラと輝かせないではいられないだろう。「童心に帰る」ということが趣味の世界で幸福を掴むキーワードではないかと思う。

  しかし、そんな風にただ無邪気にはしゃいでいる内は良いのだけれど、専門技術屋張りに技と理論を掘り下げて、余りにマニアックになるとこれまた食傷気味になる事があるから、注意が必要だ。知識や教養、技術の水準の高さによる優越感が目的になってしまうという精神状態は誰にでも起こり得るだろう。その瞬間に趣味の純粋な光彩は翳り始めるのではなかろうか。清廉なはずの趣味の話も、いつの間にかゴシップ、スキャンダルにまみれた権力闘争の話と同じレベルに成り下がってしまうことは、実は決して珍しいことではないのだ。

  だからどうしても3つ目の話、少し大袈裟だが、例えば真実の幸福とは何か?とか、美とは?とか、更には宗教、哲学といったことにさえ、正面から向き合おうという話に辿り着くのはごく自然の成り行きだと思うのだが、一般にこの手の話はまず間違いなく敬遠される。というより寧ろ嫌悪(ゝゝ)されると言った方が正確かも知れない。こうした話題は時に難解な用語の多用も免れないから嫌気が差すのは致し方ないとも思うのだが、人間の精神文化について知的な思索を試みるということを全く拒絶することが、現代ほど圧倒的な多数を以って市民権を得てしまっていることに、私は何か空恐ろしいものを感じないではいられないのだ。

 

  先日ご招待頂いたある地方の演奏会で、尺八のキャリアは私などよりもずっと古い地元の先生と、23日という僅かな滞在ではあったが親しくお話する機会を得た。尺八を始めたきっかけを尋ねると、ラジオから流れてきた竹の響きに魅了されたのが始まりだと仰った。辛い辛い大学の受験勉強の最中の出来事だったそうで、それだけに、合格の暁には是非とも稽古を始めよう!との思い止み難く、以来50年に渡って尺八への情熱は冷めたことがないと言われた。私はこの話に率直な感激を覚えた。たかだか半世紀前の日本にはまだこんなことがあちこちで起きていたのかという驚きと、現代の大衆の感動の質に対する一抹の寂しさの入り混じった感慨であった。

  またその先生には、どこの演奏会にも連れ立って出演して、ともに切磋琢磨して来たという、 “竹馬の友”ならぬ“竹の友”がいらっしゃって、その先生の話も私には味わい深かった。静かにきっぱりと仰った。私は人生のいかなる時も尺八から離れずにいたことが幸せでした、と。辛い時も吹き、嬉しい時も吹く。辛いことがあれば悲しみや怒りを吐き出すように、嬉しいことがあればありったけの歓喜を込めて吹く。「今の家内にプロポーズして了承してくれた時も吹きましたよ。嬉しくて嬉しくてですね!」

  こういう話は私にとって、先の話題の分類の中では紛れもなく3つ目の話のカテゴリーに属することに気がついた。こうした平易な話題にも、奥行きの広い世界への扉が開かれていることはあるものだ。ここに着目すれば、難解と敬遠される、芸術や宗教、思想、美の世界についても、もっと多くの人と言葉を交わすことが出来るのではないかと思ったのである。



熾  火                        百錢会通信 平成27年6月号より

「夢と知りせば覚めざらましを」、というような甘い夢などトンと見たことがない。見るのはいつも、電車に遅れて本番に間に合わないとか、着物の準備が出来てないのに開演の時間になってしまうとか・・・。覚めてホッと胸をなでおろすような夢ばかりだ。

つい先日見た夢は演奏にまつわるものではないが、やはり自分の心に沈殿している一つの悩みに端を発している。それは私が父の前で焚き火をしているという夢だった。これから暑さも厳しくなろうという季節に暑苦しい話のタネだが、場面は寒い冬の朝なので、ご容赦頂きたい。

建設現場の冬の朝、父も私も地下足袋に手甲シャツ、ニッカーズボンという出で立ちである。私の鳶職人時代の思い出が夢に出てきたのである。今は余り見かけなくなったが、冬の現場の朝は始業前のひと時、決まって焚き火をして職人達は暖をとったものだった。半人前の私は一日中仕事のヘマをどやされ続けるのであるが、それはこの焚き火の時から始まるのである。「惠介、一斗缶に火を起こしておけ!」。先ずは焚き付けの新聞紙や紙くずなどに火をつけて小さな木屑などを燃やそうとするのだが、これが中々燃え移らない。紙だけがパァっと燃えては直ぐに消えてしまうのである。ここで怒鳴り声が飛んでくる。「焚き火の火ひとつも起こせねぇのか!よく見てろ!」。癇癪を起こした父が荒い手つきで木屑を組み直すと、あら不思議みるみると炎は燃え盛るのである。そこですかさずもっと大きくて硬そうな、一寸やそっとでは燃えそうもない薪木を焼べると、パチパチと音を立て始め、いつの間にか熱くて近寄れないほどの炎が勢い良く立ち昇るのである。「山で遭難したらおめぇみたいなのが一番先に凍死するんだろうよ」。私は返す言葉も無く、惨めにその場に立ち尽くしている・・・。現実にこんな場面が何度もあったのだ。

要は熱を外に逃がさないようにして薪木に炎を這わせるだけなのだが、私がやれば中々燃え移らず、父が焼べれば不思議とよく燃えた。

私が父と一緒に働いていた頃はおおらかな時代で、現場の廃材をその場で燃やしてしまうことは当たり前だった。時には処分に困った庭の生木を燃やしてしまうこともよくあったが、特にこういう水分を沢山含んだ大木を燃やすのは容易ではない。しかし父の手に掛かれば、時間はかかるが必ず灰となるまで綺麗に燃え切ったものだった。こういう木ほど一度火が起これば消えること無く、炎は無くなっても煌々と紅い熾火として永くその熱を失わない。す放っておいて、10時、正午、3時の休憩の時となっても静かに燃え続けていて、その上に新たな薪木を乗せれば真赤な炎が瞬く間に甦るのだ。

なぜこんな記憶が今更夢の中に蘇ってきたのか。その理由は私には考えるまでも無くよく分かっている。今、日本の伝統文化の火を起こすためには何をするべきか、侃々諤々の議論がなされていて、様々な試みが実行されているにも拘らず、中々大きな炎とならないでいる。そのジレンマが、あの冬の現場の朝の記憶に重なっているのだ。

今の邦楽界の多くが、否、日本全体の音楽界が、瞬く間に燃えては消えてしまう薄い薄い紙っぺらを燃やし続けているように思われてならない。鍛え抜かれた古典芸能は生木を燃やして出来た熾火のような存在かも知れない。しかし中々消えない熾火も正しく配置しなければ途中で消えてしまうことだってあるのだし、それにそもそも燃え尽きてしまえば元も子もない。正しく次の大木に火を移すのに、焚き付けの紙ばかりを焼べていても始まらないと思う。



新 緑  - 8 -                百錢会通信 平成27年5月号より

   丸一日の休日は久しぶりだと思い、ふと手帳をめくって見て驚いた。もう3ヶ月も休み無しだったからだ。今年ももう3分の1が過ぎてしまったのか・・・というなんともやるせない気持ちに、中高年の方々なら共感して頂けるのではないだろうか。そう思うと少し焦るような心持がして、この珍しい休日をどう過ごそうかと気もそぞろとなってしまった。ただ、幸いその日は暑からず寒からず、爽やかな空気が殊の外に心地良かったので正気を取り戻し、近頃は随分とご無沙汰となっていた近くの森の散策に出かけることにしたのである。

 新緑に“盛り”という言葉は相応しくないが、刻々と変わる葉の緑色の中で、その日の森は私の好む新緑の“頂点”だった。若葉の擦れ合う隙間から射す木洩れ日の中に佇むと、いつもの事なのだが私は軽い目眩にも似た浮遊感の中で快い幻覚に襲われるのだ。時間の感覚が束の間麻痺するかのような。

 突然「こんにちは!」という元気な子供の声がして私は陶酔境から現世に引き戻された。見ると近くの幼稚園児達が森の中の広場でお弁当を広げるところだった。保育士も笑顔で挨拶をしてくれるのはマニュアルによるものだろうが、それでも理屈抜きに幸福な気持ちになった。園児たちの笑い声こそこの新緑の景色に相応しいと思った。

 ところが広場を通り過ぎて数分も経たぬうちであろう、辺りはそよ風と鳥の声のみとなってしまったことに気付くと、急に淋しくなってしまった。何故か秋の枯葉の道の景色が脳裡をよぎった。少し雲が出てきたようで、僅かな日の光の陰りが緑の色を大きく変えたことは確かだったが、夏を飛び越して枯葉の径を想うのは些か気が早すぎやしないかと苦笑した。径に積もったままの枯葉の匂いの所為かも知れないと思った。とその時「アニさん若いね、流石に坂道でも足取りがしっかりだ!」と言う、しわがれてはいるが腹に力のこもった声が耳に飛び込んできた。歳の頃は70代と思しき職人で、どうやら市の委託か何かで森の手入れをしている人のようだった。

 いくら歳下だといっても50過ぎの“オジさん”を“アニさん”と呼ぶ習慣は、昔気質の職人の間でも無かったように思うのだが、もしもこの気さくで健康な老人の気持ちが瞬間50代に戻っていたなら、私は紛もなく“アニさん”なのである。虚を突かれた思いがした。何故なら私の中には、迷子になって泣き叫んでいた幼年の私も、草野球のボールを無心に追いかけていた少年の私も、人生の進路の選択に奥歯を噛みしめて苦悩していた青年の私も、只の記憶ではなく、むしろ今に生々しく生き続けていると思われてならないからである。今しがたすれ違った園児や保育士の声や笑顔も俄かに蘇ってきた。普段は当たり前に感じていた時間の秩序が信じられなくなった私はしばらく森の小径に立ち止り、デジャヴ(既視感)や、そのまた逆の日常的な体験が未知のものに感じられるというような未視感の、不思議な錯綜を体験したのである。

 尺八の古典本曲を聴いて青春の讃歌であるという人は皆無だと思うが、巷間ささやかれるように古典本曲は人生の老境を表したものでもなければ弔いの曲でもないと感じている。私の森の中の先日の恍惚境は、脳のメカニズムから説明のつくことかもしれないが、あの感覚を保持して、謎は謎めいたままにして尺八を吹いてみるのも楽しそうだと思っている。



母の訓示                    百錢会通信 平成27年4月号より

  その昔、私は自分のリサイタル活動のスポンサーを募った事があった。今思うと、よくそんな大それたことを考えたものだと思う。80年代のいわゆるバブル好景気を背景として、「企業は芸術家を須らく支援すべし」という様な言葉があちこちから聞こえてきた時期だった。そんな文化人気取りのスローガンに迂闊にも私は浮かれていたのだろう。財界や国家が芸術家を支援するのは誠に結構な事だ。ただし、芸術家の側から進んでそれを訴えることに全く恥じらいが無いとしたら、それは芸術家の本来的な純潔からは逸脱していて、既に淫しているとは言えないだろうか。今はそんな思いが強くなってきた。

  しかし当時の私は時代のムードに飲み込まれて、生来の“引っ込み思案”は何処へやら、虚無僧尺八を世に売り込むことに腐心していた。否、売り込もうとしていたのは、己自身であったのかも知れない。生きることに必死で、やみくもに一生懸命だったのだから悪事を働いたとまでは思わないけれど、今思い返せばやはり尺八吹きとして決して美しい姿では無かったと思う。

  そんな若気の至りを責めるでもなく、当時から今も変わらぬエールを送って下さる私の恩人の一人が、虚無僧研究会顧問の高橋峰外師である。実業界では日本郵船の副社長まで務め、海運の「サムライ」として世界に名の知られた人物である。退職後はその剛腕を見込まれて学生時代からの親友、石原慎太郎元東京都知事の要請で首都大学理事長に就任、大改革を成し遂げた後に、昨年無事に任期を終えられたようだ。今を遡ること15年前の2000年に、私はなんと高橋氏に企業の協賛を得る手立てはないものかと、とんでもない相談を持ち掛けたのである。

 もちろんそんな事が出来るわけがない。企業の協賛というものが個人のコネで何とかなるものではないことを実に快活な笑顔で教えて下さった。全く赤面の至りである。ところがその代わりに高橋氏は個人的な知り合いに呼びかけて喜捨を募り、「虚無尺八」と題した私の演奏活動を宣伝するための、プロモーションビデオの製作費を全面的に支援して下さったのである。しかもその名簿に名を連ねて下さった方々はその名を広く知られた各界の著名人ばかりである。ここへ来て初めて「エライことをしでかしてしまった・・・」と気が付いた。以来、高橋氏には、会う度に感謝の念と共に、自分の未熟さを恥じる気持ちが高まり、今でも顔が赤らんでしまうのである。

  しかしそれにしても、ちょっと不思議だったのは、二つ返事で協力して下さった時の高橋氏の態度が実に淡々としていたことだ。あの余裕というか、心のゆとりは何処からやってくるのだろうか・・・。それがつい先日贈呈頂いた高橋氏の著書を読んで、その謎が解けたような気がした。

  先月の3月に講談社から出版された著書のタイトルは「喧嘩の作法」。郵船時代、アメリカと繰り広げた丁々発止、或いは首都大学理事長時代に単身、教授会に乗り込んだこと等、様々な戦の話がとにかく痛快である。石原慎太郎氏との60年に渡る交友の逸話なども面白い。話はそれてしまったが、私がその著述の中で、あの高橋氏の心のゆとりの源はコレだ!と確信したのは、今も人生の指針となっているという、幼少時代にお母様から叩き込まれたという5つの訓示の中の1つであった。

  「人生の価値は立身出世・成功・栄華ではなく、どれくらい他人に奉仕し、何人かを幸せにしたかだ。貧乏は恥ではない。」こういうシンプルな訓示を生涯をかけて貫くのは並大抵のことではない。高橋氏を通じてお母様の信念と気迫が私にまで伝わって来た思いがして思わず胸が熱くなった。私は多くの人に助けられて生きている。宮沢賢治が望んでいたような、「自分を勘定にいれずに」人の幸福の為に力を捧げる人があれば、その後ろ盾には、きっとこうした日本の母の心があるのだろうということを、心して忘れてはならないと思う。



25年間                      百錢会通信 平成27年3月号より

 群馬の稽古の帰り道、車中の眠気覚ましに何か賑やかな音楽のかかるラジオ番組はないかと思い、何故か必ず流すようになったのがK's TRANSMISSIONというFM番組だ。ロックバンドのTHE ALFEEのメンバー、坂崎幸之助氏がパーソナリティーを務める。ロックやポップスには全く疎く話題の半分も理解できないのに、坂崎氏の中々マニアックな嗜好性に引き込まれてしまい、それなりに興味を持って聴くようになった。彼は1954年生まれで今年還暦を迎える。私より十歳も年上だ。ロックバンドのTHE ALFEEは昨年デビュー40周年を迎えるというから、浮き沈みの激しい芸能界で大したものだと思う。

 ところで、我々の業界ではリサイタルのチラシに、「開軒30周年記念」とか「芸道60周年」といったサブタイトルを目にすることが殊に多いのではないだろうか。古典芸能はその位の年月をかけないとどうも一人前という風格が備わらないというのが定説であるから、修行に費やした長大な年月というのが、演奏会の重要な宣伝材料となるのは至極当然のことなのであろう。

 それに比べるとTHE ALFEEデビュー40周年を迎えた坂崎氏のコメントはやけに淡々としたものだった。「年明けは少しのんびりして、3月に恒例のビートルズのイベントやって、それが終わったらすぐ春のツアーに出かけて、真夏に一発でかいイベントやったりやらなかったり、その間に新曲仕込んだりしなかったり・・・(笑)、んで秋のツアーが終わったらすぐ年末のイベントや年始の収録が怒涛のように押しかけてきて・・・。全部終わったら正月の豚の角煮を作ってハイお休み! 40年同じように過ごせたのが、それが幸せ。特別でないことが一番じゃないかなぁ!」と。辛いことも沢山あったのだろうけれど、そういうものはどこかに置いてきてしまったというような気楽さである。

 これが演歌の世界となると、少し古典芸能の雰囲気に近くなるような気もする。「下積み時代の紆余曲折あって今開花する芸の花道!」と言ったところであろうか。キャリアを積み重ねた年月に対する思いというか感慨みたいなものが、はたから眺めるとそれがアーティストによって随分と違うように映って見えるのは、それぞれのジャンルの違いによるのだろうか。否、古典芸能の血の滲むような修行を重ねてきた大家の中にも案外気楽な人はいるかも知れない。意外に簡単に結論付けることは難しい話題だと思うので、今は余り深く追求するのは止めておこうと思う。

 会報が今月で300号になった。1年間12か月で割り算してみると25年の歳月となる。創刊当時はバブルの絶頂期で世の中皆浮かれていた。企業が文化戦略とかメセナとか言って文化関係にお金を使っていた様だが、私には全く縁が無かった。来る日も来る日も、新しいお弟子さんの訪れることを祈り、一人入門すれば喜び一人去れば黙して寂しさに耐えた。小さなお浚い会の助演の依頼を受ければ小躍りして手帳に書き込み、合奏相手の喜ぶ顔が見たさに一生懸命に練習をした。虚無僧研究会の本部、法身寺をお借りして開く浴衣会、納会では、お互いそれぞれの演目で冷や汗をかくも、お楽しみの打ち上げではその労をねぎらい、愉快に杯を交わしてきた。25年間、殆ど変わりがない。それが一番有難いことだと思っている。



一字不識                    百錢会通信 平成27年2月号より

先日、卒業以来初めて、母校の尺八専攻の学生の公開試験を聞きに行った。上野駅の公園口の改札を抜けると、左にはクラシックコンサートの殿堂、上野文化会館、右にロダンの彫刻の並ぶ国立西洋美術館。真中を通り抜けて東京藝術大学を目指して文化の杜を歩めば、意気揚々と歩を進める私の姿を思い浮かべる方も多いことかと思うが、現実は正反対だ。劣等意識に苛まれ続けた学生時代の記憶が生々しくフラッシュバックして、今だに心安らかにこの道を歩むことが出来ないでいる。

公開の試験演奏などはまるで13階段を登る死刑囚のような気持ちで臨んだことが、昨日の事のように思い出されて来るのである。だからこそ、私にとっては息子の世代となる今の学生には、音楽を奏でる喜びに満ちた舞台をのびのびと務めて欲しいと祈りながら、ホールの席についたのだった。期待に違わず皆良い演奏だった。技術的水準は間違いなく我々の学生時代のそれを遥かに凌駕している。楽器の性能の向上や、藤原道山師を初めとする若い演奏家の大活躍が後進に大きな影響を及ぼしたと思われるが、何より、今の若者の尺八に対する偏見のない、真っ直ぐな感動が、演奏水準を押し上げたのだと私は思っている。

行きとは正反対の清々しい気持ちで歩む上野駅への道すがら、個人的に親しくしていた現役学生数名に私は直ぐにお祝いのメールを送った。いい舞台を見せてくれて有り難うと。ところが、数日も間をおいて返信してきたある学生の一人のメールには、最後まで演奏の構想が決まらぬままに舞台に臨んだことを恥じる文言が綴られていた。いろいろ言い尽くせない思いがあったのだろうけれど、私は彼の言葉を制して、たとえ拙くとも自分の美意識を信じて演奏すればいいと思うとメールを返した。

「一字不識」という四文字に始まる古今の名言がある。「一字をも識らずして、而して詩意ある者は、詩家の真趣を得る」。たったの一文字も知らずとも、詩の真の趣を身体に秘めたる者は既にその時点で詩人なのである。私が件の学生の演奏に観ていたものは、その演奏のフォルムの造形美であるとか技術の巧拙などではなく、その人そのものからしか溢れだすことのない、その人自身の「詩情」以外の何物でもないのだ。演奏家はどこまでも職人として技術を磨き続けることを宿命とするけれど、「詩意」あるものは自ずとその磨きようがそれぞれに違って然るべきだ。その過程は最短距離で駆け抜ける者もあれば、大きく迂回することだってあるはずで、必ずそれぞれの必然性を持っている。その意味において、若者は大いに伸び伸びと自由に演奏して欲しいと思っている。



「浚い」と「稽古」              百錢会通信 平成27年1月号より

昨年の秋に、思いもかけず、人間国宝の山勢松韻先生と同じ床で演奏させて頂くという幸運に恵まれた。能舞台であったので緞帳はない。我々三曲の人間は、舞台の定位置につくまでの立ち居振る舞いが観客の視線に晒されることに慣れていない。しかし先生は凛として動じなかった。文字通り板について一節歌い奏でれば、会場は瞬く間に別世界となる。その冒頭の一瞬を間近に体感させて頂いたことが何よりの勉強となった。

 何故その日の会場が能舞台であったかと言えば、その会はやはり人間国宝である狂言師、野村萬先生の傘寿のお祝いの会であったからだ。能二番の他に先生の狂言、また琉球舞踊もあり、山勢先生の箏曲を加えて誠に賑やかなプログラムであった。しかも数えてみれば出演者の中に人間国宝が7人も揃うという、これほど豪華という形容の相応しいキャスティングはなかったであろう。

 野村萬先生は、私にはご挨拶することさえ恐れ多い方である。しかし先生のお名前を聞けば並んですぐに思い出さずにはいられない、親しくお話しもさせて頂いたもう一人の能楽の先生がある。それは宝生流能楽師の佐野萌先生である。佐野萌先生と野村萬先生は確か藝大邦楽科の同期生で、互いに歯に衣着せぬ痛快な会話の数々は、我々のような下々の後輩にまで漏れ伝わって来たものだった。佐野萌先生は私が学生時代の邦楽科の主任をなさっていた。良き意味での保守主義と評され、とても稽古に厳しい先生であったが、流儀から離れると、当時邦楽科の助手を務めていた我々には実に思いやり深く接して下さったのだ。

 野村先生のご縁で佐野先生を懐かしく思い出したので、佐野先生の書き残された随筆を久しぶり紐解くと、思いもかけない文章が目に飛び込んで来た。

ある年の新年早々、稀曲の地謡の地頭を務められた先生がまさかの絶句!誰もが予想だにしなかった非常事態に衝撃を受けて、地謡全員までもが絶句してしまうという大事故を起こしてしまったそうだ。地頭として事態収拾の出来なかった時間は、身の縮まるというより、舞台から逃げ出したくなるほど長く感じられ、大切な宝物が手から滑り落ちて粉々に砕け散ってしまったというような、まさに悪夢のような現実であった・・・。 楽しみにしていた終演後の新年会も欠席。食欲は全く無くなり親子丼の半分も喉を通らなかったという。「二度とこんなこと起こさぬように」と誓う自信もなくなり、「二度あることは三度ある」という恐怖心がいや増すばかり。

この気持ちは張り詰めた舞台を真剣に務めて来た者でなければわからぬであろう、巨大な闇に吸い込まれてしまうかのような絶望である。責任の負荷が多くなるのに反して衰退していく我が肉体の現実を思い知らされる悲しみといい、何もかもが舞台人にとっては身につまされる、苦渋に満ちた言葉のオンパレードであった・・・。

 脳細胞は毎日10万単位ずつ消滅するそうだが、人間は生まれた時に約60兆単位程持っているそうで、これだと毎日10万単位消えても死ぬ時にはまだ残っている計算になるそうだ。しかし覚えた節もその10万単位に含まれていたら、それは消え、残った細胞に新たに記憶させなくてはならず、結局頭と体に叩き込むためには稽古しかないと、先生はその一文を締め括られていた。

 我々はよく下合わせの別れ際に「次回までにまたよく浚っておきます」という挨拶を交わすものだが、この「浚う」という言葉は「復習する」という程度の意味で些か迫力がない。それに引き換え、語源に「古を考える」という意味をもつ「稽古」とは、「稽古照今」という四字熟語としても用いられ、つまり本来は「今に照らして古を考える」という意味を持つ。昨秋目の当たりにした人間国宝の至芸は、過去から未来へと不断に続くこの「稽古」の上に成り立つものに違いない。もう天国に旅立たれて久しい佐野先生の、我が身を切り刻む思いで残して下さったこの苦言を敢えて年頭に噛み締めて、併せて同好の諸氏の発奮を促したいと思うのである。



二人の名人                  百錢会通信 平成26年12月号より

 邦楽囃子方の世界で、その名を知らぬものはないであろう二人の名人がいる。四代望月朴清師と三代堅田喜三久師である。確か一歳違いの兄弟で二人とも重要無形文化財(人間国宝)。認定の年度も一年違い、兄の朴清は既に亡くなられている。この二人について尋ねると誰に聞いても「不世出の名人」という言葉が飛び出す。しかし芸風は対照的であったそうだ。その違いを実に面白く教えてくれた友人の話を紹介してみたい。

 邦楽囃子方にも幾つかに分かれた芸の流儀が有り、同じ曲でも細かいところでは随分と手の付け方が違うそうだ。ところがその違う流儀の者同士が同じ演目を打たなくてはならない場面が時に有り、そこで手付けの違いの摺合せをしなければならなくなる。そういう時に、堅田喜三久師は「いいよ、俺が引っ張るから適当に付いて来いよ!」と仰ったそうだ。随分と乱暴な摺合せだが、いざ舞台に並んで見ると喜三久師の圧倒的な機動力に飲み込まれて、気が付いたら聞いたこともない手を打たされていたという。それと対照的なのが朴清師で、「大丈夫、お前の好きなように打てば適当に付いて行くから!」と。ところがその「適当」は誤魔化しでなく、本当に吸い付くような「的確」さであったというのだ。この話を教えてくれた友人は、これは楽屋話で明らかに場を盛り上げるための面白おかしな誇張があるはずだが、あの二人なら本当にあり得る・・・と内心は誰もが思ってしまうのだと言い添えた。

 最近、柔術の神様と称えられた三船久蔵の映像を見て面白くなり、合気道の名人達人の映像もインターネットで漁って見た。それを見れば、技が美しく決まる時にそこにあるのは、決して力とスピードではないということが、私のような素人でも一目瞭然と分かる。適切な言葉が思い浮かばないが、その源にあるものについて敢えて言えばそれが「気」というものだろう。「気」の流れに添う、とか、「気」の流れを呼び込む、とかが正しい表現なのか解らないが、とにかく「気」というものと渡り合わなくてはならないのは音楽も同じだと思う。そこに辿り着くならば朴清師や喜三久師の逸話も俄然、現実味を帯びて来るはずだ。

 尺八の世界はそういう話題がずっと以前からあったはずなのに、実際に演奏でそれが実現されたことは、残念ながら皆無に近かったのではないだろうか。あったとしても、それはかなり希なことだったのではないかと思う。現代の虚無僧尺八に限って言えば殆どが講釈ばかりのハッタリと言っても過言ではない。虚無僧尺八にしても、三曲の尺八にしても、ポップス系にしても、このあたりの研鑽がこれからのキーワードとなるように感じているが、さて来年はどんな年になるのか。



香                       百錢会通信 平成26年11月号より

  先月はやけに旅公演の多い月だった。たった一月の内に北は山形から南は沖縄まで、6箇所も飛び回るというのは、私には生まれて初めての経験だ。滅多にない遠出の旅路なのだからついでに観光も・・・と思ってはみても、そうは問屋が卸さない。この季節に我々にそんな贅沢は許されないのだ。空港からホールへ直行、即リハーサル、ホテルに宿泊、翌日本番、急いで飛行機に飛び乗り帰京。そうしないと次の仕事に間に合わないからだ。唯一夕食だけはのんびりとれることが多いので、旅ではそれが何よりの愉しみの時間だ。

 よく旅公演で一緒になる後輩のT君は美食家で中々の食通である。しかもクダクダと薀蓄を垂れるタイプではなく、食の興味も高まる的確なガイドをしてくれて会話は実に愉快だ。だから私はそんな彼と食事をするのを楽しみにしている。私などは「美味い、美味い!」の一本槍で誠に能がないが、彼の料理に対するコメントにはいつも感心させられる。例えば肉汁豊かなステーキを口にして「この肉の脂はとても多いのにあっさりしているのが驚き!」と言った具合に、その一品の最も際立った特色を瞬時に言い当てるのである。調理法にも通じていて「下作りに手抜きがない料理は格が違いますねぇ」と言った台詞も、調理人の面影が浮かんでくるようで心憎い。

 ところで薀蓄のひけらかしで嫌われるのが酒の通に多いのではないだろうか。やれ酒米がナントカで山廃だ、ひやおろしだナンノカンノ・・・酵母菌の種類まで説明されてはこちらはキョトンとするしかない。そういう専門用語が味のイメージとして定着している人同士なら楽しいのかも知れないが。しかし逆に味の分類が余りに単純化されるのもつまらないと思う。日本酒の好みを「甘口ですか?辛口ですか?」と問われることも少なくないが、仮に「辛口です」と答えても希望のお酒に辿り着けることは先ずもってない。同じ辛いにもヒリヒリする辛いもあれば痺れる辛さもある。少なくとも舌に感ずる味覚は他に、苦い、酸っぱい、渋いもあって、どんな味も複雑なハーモニーで成り立っているのではないか。

 人の心に最も強く、深く影響を及ぼすのは、味覚の刺激よりむしろ香りではないかと思う。

香りのイメージは味覚にある種の混乱、時には錯乱すらも催させる力を持っていないだろうか。糖度の低いお酒でも果実の香りが漂えばとても甘く感じることは誰でも経験のあるところだろう。舌には甘いはずの酒もアルコールの刺激臭が強ければ辛口でまかり通ることだってある。何より香はその人の人生の重大な記憶に結びついていることも多いから、決して疎かにはできないのである。

 嗅覚、味覚、視覚、聴覚、触覚といった五感は相互に絡み合い混沌としてくるところが何につけても面白いと私は思うのだ。尺八は少なくとも、色を放ち、香り立つ音でありたいと思う。



慣れてから・・・               百錢会通信 平成26年10月号より

モノは何でも慣れである。そう思うようになったのは、作曲を専攻する娘のお陰である。今までチンプンカンプンで聞くのが苦痛でさえあった現代音楽も、今は普通に聞いていられるようになったからだ。それは車で出かけた家族旅行の時だった。小学校高学年だった娘が、旅の途中でも勉強のためと言って車に持ち込んだCDはヒンデミットであった。その旅も最終日、家路へ向かう途中に娘がそのCDをかけた。すると助手席の家内はもちろん、本人までがたちまちに深い眠りについたのである・・・。残された私は、慣れない土地での運転の最中にCDを取り出すのも憚られて、休憩までの約3時間、ひたすらそのCDを繰り返し聴き続けたのである。その経験を境に、私は現代音楽というものが怖くなくなった。

最近の若い人に人気のポップスも、私には騒々しいばかりだったが、これも腰を据えて向き合ってみれば何とかなるものだ。もっとも今流行りのアニメソングや、制服みたいな衣装をお揃いで身につけて歌い踊る“団体芸”と、ヒンデミットを同列視するわけには行かないのだが、兎に角慣れれば少なくとも苦痛はなくなる。

しかし中にはふと心を奪われる作品だってある。これも娘に教えてもらったのだが、私が強く関心をそそられたのが椎名林檎である。「本能」「カリソメ乙女」「茎」「凡才肌」といった曲を、気が付いたら自ら進んで繰り返し聞いていた。何とも爛れた甘さと悲哀に満ちている。時折聞こえるビブラートは精神病理的な痙攣を連想させ、声色の変化は担当医師を嘲笑う多重人格のようだ。私の学生時代、詩人の大岡信氏が授業の雑談で、サザンオールスターズの桑田佳祐の作詞を“日本語の破壊”と評して、その根には若者の深い苦悩があるのではないかと仰っていたが、この椎名林檎に至っては桑田の何倍も、その闇は深いと感じた。

歌詞の意味は全くと言って良いほどわからないが、「おこのみで」という曲が妙に気にかかり、そのことを娘に話してみた。すると「あの曲には他にはない、“惨めさ”が漂っている」と間髪入れずに返答してきた。このコメントには少なからずショックを受けた。私が小学生の頃から虚無僧尺八に向き合ってきたその心の葛藤の中には、紛れもないこの“惨めさ”があったからだ。

 尺八の音を聞いて、或は奏でることによって起こる、心の浄化作用に感激する人は少なくないが、その前提として、残酷なまでの苦悩が尺八のその一音に含まれていることを、痛切に感じる人はどれだけいるであろうか。

何事もまずは慣れてから。それからその一歩先に踏み出してみないと分からない世界はあるものだと思う。




雑 草                      百錢会通信 平成26年9月号より

 群馬の稽古場の庭の手入れを父がしなくなって何年経つだろうか。庭木の剪定と草刈だけでもかなりの労働量になる。加えてわずかだが野菜作りもしてくれていて、私は稽古の合間に小腹がすけば、呑気にキュウリやトマトをかじっていたものだった。

 86歳になる父にさすがにその体力は無くなり、菜園はもちろん閉園。庭木の剪定は通路や駐車場など、私の空き時間に手のかけられる必要最小限の場所だけで、ほかの庭木の枝は伸び放題である。しかし地面に生い茂る草だけは放っておくわけには行かない。冬の雪掻きと同じで草刈をしなければ、車の駐車も出来ないし玄関に辿り着くのもままならぬ。実質、草を刈らなければならない面積は100坪ほどにもなるだろうか。これはとても稽古の合間にできるものではないので、ひと夏に少なくとも2回は早起きして作業にあたっている。

 稽古場は山里の緩やかな北斜面である。そういう土地を平らに均すために、最も経費のかからない方法として地主さんが薦めてくれたのが川原の造成現場から出る残土による盛土だ。したがってここの地面には大小さまざまの石が埋もれている。こういう石の多い地面には、ナイロン製の紐を高速回転させる方式の草刈りが最も適しているようだ。ノコギリ式の草刈機では石ですぐ刃を傷めてしまうからだ。この草刈機は、小石や細かく刻まれた草がものすごいスピードで体に向かって飛び散るので、前掛け、顔面の防御マスク、麦藁帽子など、装備にぬかりはない。人間、いでたちを整えるとヤル気が出てくるものだ。近頃は作業にもなれて4時間はかからぬようになった。紐式の草刈機は重量も軽く、力の要るものではないから、実際にはそれほどの重労働ではない。しかしこの時期の気温であるから、びっしょりの汗である。綺麗に刈られた地面を眺めて汗をぬぐう時の達成感と爽快感は何ものにも代え難い。

 庭の手入れを日課とする人と話をすると、「雑草の生命力は本当に強い!」という台詞が必ずと言って良いほどに話題に上るものだ。「本当に強いねぇ・・・」と相槌を打つ。しかし花壇の雑草をむしっている程度の人に、この会話の真意はわからないと思う。私はこの数年、夏の草刈りを年中行事とするようになって、雑草の生命力を「強い」というより「怖い」と感じるようになった。八畳一間の稽古場などはあっと言う間に飲み込まれてしまうという実感があるからだ。最近の日本の亜熱帯化ということも影響しているかも知れない。草花が動物に見えてくるというのも大袈裟な表現では無くなって来た。とにかく雑草の「侵攻力」は凄まじいものだ。

 その「猛威」も9月の声を聞くとハタと穏やかになる。夏の雑草との格闘があればこそ知る秋の気配の静けさである。我々尺八吹きはこういう“音”の移ろいこそ聞き逃してはならいないのだと思う。



お辞儀                      百錢会通信 平成26年8月号より

 私が藝大に通っていた学生時代、学内の勉強会では舞台マナーを注意される時間が実に長かった。尺八の持ち方や姿勢など、一から十まで、何から何まで“ダメ出し”の連続であった。私は緊張した時の目つきが人一倍に厳しい所為か、目の動きが特に目立つようで、視線についてやけに注意された記憶がある。そして気が付くと演奏については何も触れられないこともしばしばで、それが「演奏に見込みはないのだからせめて見た目ぐらいで点を稼げ!」と言われた心地がして憔悴したものだった。

 舞台の所作で何度教えられて、いくら工夫してみても様にならないのがお辞儀ではないだろうか。猫背にならぬように腰から頭までをまっすぐにして約15度から30度くらい傾けて静止、しかる後にゆっくりと体を起こす・・・、と誰もが同じように教わるのだが、その所作が板についている演奏家はほんの一握りではないだろうか。ベテランといえどもまるで器械体操をしているロボットのようにしか見えない、そういう一礼に接することは少なくない。型というものに心が通うというか、気が流れるというか、寄って来る自然の流れが備わるには、別次元の何かが必要なのだろう。

 私は学内で指導を受けた故山口五郎師の静かな佇まいの一礼が脳裡に焼き付いて離れない。誤解を恐れずに言えば、それは舞台という神聖な場にあって何か大きな力に身を委ねるというような、敬虔にして静謐な無力さが漂っていた。親しい演奏仲間では、よく舞台を共にする山登松和師の一礼にも山口師のそれに近いものを私は感じることがある。こうしてみると、代々芸能を継ぐ家系に生まれて、演奏家という職能を運命として受け入れた人物には、何か特殊な気が流れるのではないかということを、いくら真似してもそれが様にならない私は妄想するのである。

 それでも、茶番になるのは覚悟の上で、私は山口師のお辞儀を姿形だけでも真似てみようと心掛けている。その中で気付いたことは、首の曲がり方である。インターネットで「美しいお辞儀の仕方」を検索すれば一様に腰から頭までを一直線にと説明されている。しかし私はこの一直線がどうしても不自然に感じられるのである。これから果たし合いの真剣勝負に臨む前の一礼ならともかく、それとは逆にこれから己の何もかも討たれてしまおうとの思いの方にむしろ近い、天への一礼は自ずと“首を垂れ”ずにはいられないわけで、従って首には僅かな湾曲が生じるのが自然の姿だと、私には思えてならないのである。

 話は脱線するが、この首の曲げ方にもいろいろあることを、尺八の“顎メリ”の奏法を教えていて知ることとなった。頸椎は七つの骨で構成されている。脊椎の中でも最も可動性が高く上下左右など様々な方向へ動かすことができる。この可動性をふんだんに駆使するのが尺八の奏法で、“顎メリ”はその中でも必須のテクニックである。伝統的に“顎メリ”は「顎を引け!」「顎を引き締めろ!」と厳しく指導されてきた。しかしよく観察すると、こうした指示を受けたお弟子さんは首を硬直させるばかりである。もっと具体的にいうと頸椎の上方半分くらいだけが曲がっていて付け根部分はまっすぐに硬直している。この動かし方では“顎メリ”の効果は殆ど期待できないのである。その理由についての詳述はここでは控えるが、とにかく結論から言えば“顎メリ”は頸椎の七つの関節を根元から僅かずつ曲げる方が効果的なのである。すると視覚的にそれは首や顎を大きく動かしているという印象の少ない所作なのである。

そこでふと思い付いたことは、「首を垂れる」お辞儀の首の曲げ方がコレではないか!という閃きだった。尺八の“顎メリ”の所作が天に向かって「首を垂れる」姿となるならば、それは尺八音楽の内面においても理に適っていると思うのである。



文体模写                    百錢会通信 平成26年7月号より

とかく伝統が重んじられる邦楽の世界では、師匠の芸を「真似る」ということが第一義というか、伝家の宝刀のように語られる。しかしそれに対して、必ずと言ってよいほどに、ラジカルな革新派から「では真似るだけで良いのか」という批判が起こる。そこまでは熱い議論が交わされるのに、何故かその先いつも有耶無耶で、この世界に何か新しいムーブメントは起こらずに、じわじわと衰退していくのは何故だろうといつも不思議に思っている。情けないが私自身も確たる意見が中々固まらないままに貴重な時間を取り逃がしているような気がしてならない。

そんな不甲斐なさの中で少し気になったある対談を引用して、同好の士の会話のタネにでもなればと思う次第である。以下はフランス文学者、澁澤龍彦と出口裕弘による三島由紀夫についての対談である。

 

出口 やっぱりずいぶん早くからあの人、日本の古典というのは読んだんでしょう。

澁澤 そうだね。『大鏡』なんかすごく好きだっていうことを、書いたりしてた。

出口 やっぱりそれは、三島さんの世代がどうこうというより、ま、あの人個人の問題だろうけど、ものすごく読んだんだね。

澁澤 それはものすごいよ。

(中略)

出口 あの人は、自分で自分の文章を練り上げてきた過程というか、手のうちを早いうちから明かして・・・

澁澤 そうね。ああいうのはおもしろいね。

出口 堀口大学訳の何々に影響されたとか全部やるじゃない。

澁澤 そう。まず鷗外だろう。それからスタンダール。

出口 モーリアックであり・・・

澁澤 最初は日夏耿之介や堀辰雄から始まってるけどね。

出口 そうそう。全部明かして見せるでしょう。《私のはそういうもののアマルガム(合金)である》と。潔いというか、ま、自信のあらわれなんだろうけどね。

澁澤 だけど、いまそういう風潮ってないよ。自分のスタイルを磨くためにね、先輩作家のまねをするという風潮は、全くないでしょう。

出口 極端な場合は、プルーストのバスティシュ(文体模写)みたいなことになるわけか。

澁澤 うん。そうそう。

出口 ああいうことを、僕ら、意識的にやったとは思わないけど、好きな作家なんか、入れ込んでると、もう似ちゃってさ。無意識のバスティシュみたいなことになってた。ああいう風潮はなくなったな。

澁澤 いま、ないよ。

出口 それは何かものすごく違っちゃった部分だね。

澁澤 ものすごく違ってる。

 

 この対談は19862月とある。思い起せば同時期の尺八界は、山口五郎、青木鈴慕、横山勝也、山本邦山といった巨匠を最高峰とする模倣に満ち溢れていた。一見それは当時の尺八界におけるその“文体模写”が出口や澁澤のいわんとする事とかなり似ているように思われるかも知れないが、私には決定的に違っていたと思われてならない。それは、その“模倣”が「自分のスタイルを磨くため」という前提、或はその自覚が余りにも希薄であったと思うからである。



体重の増減                  百錢会通信 平成26年6月号より

 「子供の肥満は親の責任です!」と保健の先生に叱られたのが、母はよほど堪えたらしい。私が小学生の頃である。2人兄弟の私は兄とは比べようもないほどに食べっぷりがよく、何でも「美味い美味い」と喜んで食べてくれるのが嬉しさに、せっせと料理に腕を振るったのであろう。その挙げ句が先の警告で、まさに晴天の霹靂だったようだ。以来、舞台の私の姿を見て体重の増加を察知すれば、誰よりも先に警告して来るのが私の母である。

 よくストレスの増幅は食欲に影響すると言われるが、心労で食事が喉も通らないとか、逆にイライラして大食いしてしまうと言った経験が私には無い。気に病む曲を抱えていようがいまいが、時間が来ればいつもと変わらずにお腹はすいて美味しく食べる。「空腹は最善の調理師である」という言葉の意味を私ほど理解している者はいないだろう。

 しかし仕事が立て込んで来ると、体力を落としてはならないということを口実に、どうも食べ過ぎるようだ。また疲労を貯めないようにとの思いから運動量は減っている。昨年の9~12月の演奏会シーズンで私は2キロも体重を増やしてしまった。年が明けて慌てて減量したが、春からまた演奏会が続くと何時の間にか体重は増えていて、何とも情けないことの繰り返しだ。

 よく体重を増やすのはあっという間で、減らすのにはとても時間を要すると、肥満に悩む人は口を揃えて言うけれど、それは快楽の時間は短く、苦痛の時間は長く感じるからではないだろうか。いくら一度に沢山食べてもそれが本当に“貯蓄”という形で体に固着するまでの時間と、一度蓄えた“貯蓄”を消費するまでの時間はそれほど変わりがないのではないかというのが、太りがちな生活を長年経験してきた私の実感である。

 ところで尺八の練習も、これと同じような事が言えるのではないだろうか。上辺の体重の増減と同様に、即席で仕上げた指使いや曲節の暗譜などは消えてしまうのもアッという間だ。それとは別モノで、長い年月をかけてしか得られない技術とうものが確かにある。体重は蓄えたくなくて消費してしまいたいのに、尺八の技術は蓄えたくて手放したくないというところが逆の例えになってしまうが、とにかく時間をかけて手にしたものはそう簡単に消えて無くなりはしないのである。しかしそれを手にしていく実感は、日々の稽古のその場その場で目に見えるようなものではないから、快楽の感覚とは結び付きにくい。苦痛とまではいかなくてもやはり時間が長く感じられることだろう。でもやがて手にするものは確かな技術。またそれは技だけではなく、心にとても豊かな何かをもたらしてくれると思う。先ずは気長に腰を据えることだ。



新 緑  - 7 -                百錢会通信 平成26年5月号より

 毎年会報5月号の題目を定めて「新緑」としてみようと思い立ったのは、調べてみると平成20年からであった。若い葉の緑を浴びる喜びを書き留めておくことによって、なかなか気づかない自分の心の内奥深くの変化を顧みることが出来るかも知れない、というのがその動機だった。いつの間にか6年の月日が流れた。

 平成20年、萌える緑の色が空間に溢れる思いがして、その浮遊する感覚に陶酔する。平成21年、恩師や先輩との別れの辛さと不安を、若葉の緑に癒そうとしていた。平成22年、葉の緑色の僅かな移り変わりに気づき、時間という連続性や永遠性に思いを馳せた。平成23年、福島の大事件、緑の祖国を破いてしまった自責の念に苛まれる。平成24年、若人の羽ばたきを祝福することによって、震災の苦しみから立ち直ろうともがいている。平成25年、心の奥底より自ずから滾々と湧き出るのは、日本の国の緑を伏し拝む気持ちであることに気付く。

 やはり東北の震災は心に大きな打撃であった。自然の猛威に遭遇して人間の無力と愚かしさを思い知らされた。だからこそ、自然の育む生命に歓喜する気持ちが強くなったのは言うまでもない。またこの数年の間に、影に日向に教え導いて下さった幾人もの先生をお見送りしなければならなかった。そして気が付くと、嘆く間もなく、自分のすぐ後ろには更にその教えを乞う、目をキラキラと輝かせる若者が立っていた。先達との別れを惜しみ、若人の活躍を祈る気持ちが起こるのも、元をただせばその根は一つ、大自然の中では余りにちっぽけな存在である自分でも、この世に生きている意味があるという、小粒でも一顆の宝石はこの身に刻まれているという、漠とした確信である。

 しかし反面に、毎年5月の新緑に感じるものが、大自然への畏敬の念であり、大自然に育まれる生命の喜びであるとするだけなら、尺八吹きとしてはいささか洞察が浅いのではないかとも思われてならないのである。その自然の源とは何か?目の前の緑の葉は本当に緑なのか? 呼気と吸気の循環にあらゆる想念を沈潜させるを行とする尺八吹きは、どうしてもこうした問いに向き合い続けなくてはならないであろう。願わくはそこを潜り抜けてこの季節の喜びを噛みしめたいものだ。

 振り返るに6年とは余りに短い歴史かも知れない。今しばらくこの定点観測は継続してみようと思っている。



桜花の下で                  百錢会通信 平成26年4月号より

 花の便りと共に届くのは、案外悲しい知らせの方が多いように思う。しかも、これから折角夢に向かって羽ばたこうとの思いを、誰もが胸に秘めたこの季節だけに、人・モノの別を問わず、様々な離別に遭遇した時の憂鬱は、中々に形容が難しい。視界は薄墨色の霞に覆われて、心には鉛のような重りが沈殿してしまう、とでも言おうか・・・。

 私の尺八の友人に、頑なに古典音楽しか認めないという“一刻者”がいて、彼は会えば必ずというほど、山本邦山師の批判をしていた。その論拠は矛盾に満ちていて私には全く納得のいかないものだったが、とても議論が成り立つ人物ではなかったものだから、いつも適当にお茶を濁して、早々にその場を退散したものだった。ところがその彼から先日久しぶりに電話があり、山本邦山師の訃報を聞いて殊の外に落胆しているという。彼の名誉の為に断っておくが、それは決して攻撃の標的を失ったという類の失意ではない。時代の脚光を一身に集めた巨匠の逝去に、斯界の落日を思わずにはいられなかったのだ。彼はこよなく和楽を、尺八楽全部を愛して止まない人物であったのである。

 純邦楽の衰退の危惧は、もう数十年も前から囁かれていた。しかしその折れ線グラフの下降する傾斜は緩やかであったから、はっきりと言えば皆呑気だったと思う。学校教育に和楽器を導入させる運動をしているだけで何となく安心していた。そしてその運動の一定の成果は得られたにも関わらず、事態は好転するどころか衰退の傾斜は日に日に急勾配となり、一番先に悲鳴を上げていた和楽器商は一般愛好家のすぐ隣で続々と暖簾を降ろす事態となった。

 何故邦楽は衰退したのか? 議論をすれば手っ取り早く悪者をでっち上げたくなるのが世の常であるが、実の有る分析は見当たらない。文化の衰微の真因は歴史の深い古層にまで根を張っているはずであるし、況して増してその地層は極めて複層的である。難解な解析は頭脳明晰な方に任せて、何があろうととにかく我々は日々学んで生み出すしかないと思っている。特に古典主義の“一刻者”は学ぶけれど生み出すことに怠惰であったことは否めないと思う。否、一番足りなかったことは生んだ後に育むことではなかったか?

 夏から冬への移行は考えようによっては緩やかな衰微である。その逆に冬から春を迎えるのは、その心は希望に満ちていても、体への負荷はむしろ重篤なのである。故に、春浅く花の便りと共に届くのは、志半ばにして思いを遂げずというような、薄倖の報せが多いのであろう。毎年4月に乗り越えなくてはならない試練は、桜花の下で迎える薄墨色の憂鬱である。



雪の沈黙                    百錢会通信 平成26年3月号より

 雪の降った朝、その静けさに胸騒ぎして眼の覚めることがある。先日の降雪は楽観的な予報であっただけに、朝窓を開けた時は思わず息を呑んだ。先ずその雪の量に驚いた。そして今日一日の都市生活の混乱を想像して「これは弱ったことになった・・・」と思った。交通機関のマヒや仕事の遣り繰り、食料の確保等々。しかし不思議なことに、心は妙に落ち着いている。雪の純白と静寂をむしろ快く受け止めている自分がそこにいた。

 雪の沈黙は、人の心の憂いや迷いを只そのままに包み込み、決して消し去るのではないけれど、その痛みを鎮静せしめる何かがある。「雪」という文字の「雨(あめかんむり)」の下は本来「彗」という字で、清らかな美しさを表すという。雪は天より舞い降りて大地の汚辱を祓い清めるの意があるという話をどこかで聞いて、私は大いに頷いたものだった。

 

 尺八は一音をもって、むしろその音の消え去った後の無韻を支配する。よく息継ぎの間に譜面をめくる人があるが、本曲を吹く時に私が口やかましくそれを禁じるのは、この無韻の含蓄をもっと深く味わって欲しいからである。それはさて置き、この尺八の無韻と雪の静寂には何か通じるものがないだろうかということがふと気になった。一面の雪景色に清められた思いでいたその時の私は、尺八の音とその音故の無音の世界が、雪による「浄化」と同質のものであって欲しいという希いがよぎったのである。しかし残念ながらその二つは似ているが実は異質のものであろう。何故なら、尺八は(耳に聞き取ることの出来る)音が消えた後も、肌には幽かに感じられるような空気のうねりが連続しているが、雪を取り巻く空間にはそれが感じられないからだ。無音と思われる時間さえ何かが動き続ける尺八に対して、雪に接した空気は静止する。雪の沈黙とは、「仮の死」ではないかと思われてならないのである。

 

 先の大雪から2週間。公道の除雪完了の報を得て、私は漸く群馬の稽古場を訪れた。気温も少し上昇したから残雪の雪掻きもさほどではなかろうと踏んで出かけたが、辿り着いて再び息を呑んだ。敷地に一歩足を踏み入れればズブズブと太ももまで埋まってしまう。先ずは人が一人の通れる道を掘り進まなければ玄関にも辿り着けない有様であった。覚悟を決めて予てより用意の作業着に着替え、2時間は越えるであろう労働に取り掛かったのである。土方用語では作業の正しい構えを“腰を切る”という。長丁場に備えて腕だけを酷使することのないように腰を落とし、下腹に力をこめて雪にスコップを突き刺す。すると思いの外に雪は柔らかく、難なく地面まで掘り起こすことができた。誰も踏み固めることが無かったので凍結を免れたのであろうか、これは不幸中の幸いであった。ただし、表層の雪は軽いが地面に接する層はさすがに重い雪だ。慎重に“腰を切”って再びスコップを突き刺すと、真っ白な雪の中に焦げ茶の土の色が鮮やかに現れた。そして春の土の香が立ち昇ってきたのである。雑草の葉の色もしっかりとした緑色である。

 雪による仮死からの再生、春の息吹き、漂う梅の花の甘い香・・・。少々バタ臭い台詞でも、私には一年の中でもっとも心しみじみとする3月の言葉である。そういうことに心動かされるようになったのは加齢の所為であると笑われるが、こういう気持ちになれるのならば歳を重ねるのも悪いものではない。今月私は満で数えて50になる。



初舞台                      百錢会通信 平成26年2月号より

もう長い付き合いになる私のとある竹友は、十年一日の如く次のような演奏評を私に向かって繰り返すのである。「善養寺に未だあの初舞台を超える演奏はない!」 この“決めゼリフ”が飛び出したら最後、観念するしかない。襟を正し坐を直してご高説を賜わなければならないのである・・・。

その初舞台とは私が確か18歳の頃である。とすればそれからかれこれ30年にも渡る私の竹歴は一体何だったのか。身も蓋もない話だが、しかし何度考えてもそれは肯わざるを得ない真実だと思っている。

乱暴な言い方ではあるが、演奏家とは音楽を再生する機械、ある一面においてはCDプレーヤーみたいな存在であると思う。このことを第一義としない演奏家を私は信用しない。楽曲の情報を精密に読み取り、高度な技術をもってそれを音声化する。その技術を支えるのはもちろん生身の肉体である。トレーニングによって鍛えられた身体が、高度な制御システムにコントロールされて作動する時、個々に散在する音は初めて組織化された「音楽」となるのである。また機械の金属疲労と同様に肉体も劣化して行く。メンテナンスを怠ればすぐに故障する。だから一見平易に聞こえる演奏でも、準備や補修を含めると実に様々なプロセスを経なければ曲がりなりにも音楽作品として成立しないのである。増してや何につけても人並みより不器用な私である。演奏マシーンの整備と補修に明け暮れて30年が過ぎてしまったと言っても過言ではなかろう。しかしそれにしてもこうした“事務仕事”に過剰な時間を費やし過ぎたという思いは否めない。心の闇の奥深くから幽かに聞こえて来る、己の本当の声に耳を傾ける時間が少な過ぎたことは紛れもない事実である・・・。

世に音楽の鑑賞とは、作曲家或いは演奏家の職人芸的な技術の完成度の高さを楽しむというのが、恐らくは大半なのではなかろうか。フィギュアスケートの採点項目ではないが、音楽性や芸術性と呼ばれるものはこの技術分野というものからは一般には区別されているように思われるかも知れないが、こうした音楽性、芸術性と呼ばれるものさえも、実際には職業音楽家によって分析、理論化されて、既に技術的なプログラムとして新しい作品に組み込まれていくのである。そういう音楽業界の中にあって、今その瞬間、本当にその表現者の心の奥底から溢れ出す真実の歌声に彩られた演奏というものが実現されることは実は稀なことであって、聴衆もそれを見抜くためにはそれなりの一隻眼を持たなければならないだろう。知識や技術も無く、只々若かったあの頃は曲意も何もお構い無しにひたすら、心の声だけで奏でることしか出来なかった。若き日のそうした「拙なる誠」のみをもって臨んだ私の舞台の印象を、30年の長きに渡って心に留めて、今も尚私に語り続けてくれる友を、つくづく有難いと思う。


稀曲の会                    百錢会通信 平成26年1月号より

昨年の暮れに、国立劇場主催による「稀曲の会」という演奏会に出演させて頂いた。尺八、常磐津、地歌、長唄などそれぞれのジャンルから、今では演奏されることが余りなくなってしまった隠れた名曲を発掘しようという、国立劇場ならではの興味深い企画である。尺八の出し物は「一閑流六段」で、当日配付の有料プログラムの解説はお馴染みの神田可遊氏。何時もながらの簡潔にして的を射たキレの良い解説文は、同じ“尺八チーム”として何か誇らしい気持ちになったものだ。またこの「一閑流六段」は制作担当者の肝煎りの選曲で、尺八を当企画の代表として新聞社へ売り込んで頂いたお陰で、私の顔写真が随分と大きく紙面を飾ることになった。これは少々気恥ずかしかった…。

 そんな経緯もあって、私としては普段とは違った気持ちの高揚をもって舞台に臨んだのである。が、予想はしていたとは言え、残念ながら観客の動員は伸びず、興業としての成績は芳しいものではなかった。もとよりそういう成果が期待できない催しであるからこそ国立劇場が気を吐く訳で、改めて制作の担当者(原田亮一氏)に感謝申上げる次第である。

 さて演奏会では稀曲の披露だけではなく、最後に出演者による座談会があった。一番若輩の私の発言などは意味の薄いもので諸先輩のお言葉に比すべきもないが、中でも盲人の今井勉師のお話を印象深く覚えている。

 今井師は名古屋系の地歌箏曲家で、また平曲についてはただ一人の伝承者である。私が特に面白かったと思うのは、師匠になにがしかの曲を教えてもらおうとお願いした時「スマン、忘れた!」という返事が還ってきたというエピソードだ。楽譜という道具を使う習慣のない環境が、そう遠くない時代の日本にまだあったということに、妙に新鮮な驚きを覚えた。忘れたら最後、絶滅してしまうとはなかなか野性的な世界ではないか!! この“野性味”の中で残されてきたものは一体何だったのだろうということをこそ、我々は良く良く考えなければならないと思う。音楽の形式は楽譜に残せるが、それとは別次元の何か、人の心と心が触れて醸される何かが妙味ではないだろうか。

 時代の推移は目まぐるしく、生活の土台が変われば音楽文化も変容するのは免れない現実だ。社会全体から見れば、所謂純邦楽の古典は全て既に稀曲と言っても過言ではないだろう。しかし、人から人へ何かが伝わる場がそこにあるなら、芸能そのものは社会の大きな流れにはならなくとも、いつの世にも存在する意味があると思う。



「オメエ」 「バカヤロー」        百錢会通信 平成25年12月号より

 昔私が土方稼業に明け暮れていた20代の頃の仕事仲間に、面白い口癖のあるオジサンがいた。山谷の住人で少し東北の訛りがあったような記憶がある。さてその口癖とは、とにかく何につけても「オメエ」という言葉を挟むのである。

 

 「朝起きたらオメエ、空が曇ってるからオメエ、雨降って仕事は休みかってオメエ、テレビの天気予報をよ見たらオメエ、すぐ晴れるからってオメエ、がっかりしちまったよオメエ!」

 

 誇張は無く、本当にこんな調子でおよそ品の宜しくないこと甚だしいのだが、思い出すと何とも懐かしく、そのリズムは私にはとても心地良く響くのだ。ところでつい先日、町田の稽古の帰りに良く立ち寄る立ち呑み屋で、そっくりの口調の人物と隣り合わせた。私のかつての仕事仲間はいつもニコニコと穏やかだったが、こちらの客人は少々怒気を含んでいる。

 

 「だからオメエ、そういう時はオメエ、ビシッとオメエ、ハッキリとよおオメエ、言ってやりゃなきゃオメエ、駄目なんだよオメエ!」

 

 相方は逆らわずに静かに頷いていた。テンポ良く文句をまくし立てる件の御仁は、きっと昔からそういう勝気な気性で、また相方も昔から穏やかな聞き役だったのだろうなぁ・・・と、そう思わせる空気が2人の間に漂っていた。ただ、気性は変わらなくとも身体は衰えたのだろう。焼酎一杯でたちまち酔いが廻ったと見えて、頻繁に繰り返される “接尾語”の「オメエ」の他に「バカヤロー」が加わった。

 

 「バカヤローオメエ!今日はオメエ飲むったらオメエ、飲むんだよバカヤローオメエ!」

 

 ここまで来て相方はついに笑い出しながら、なだめすかし始めた。いつものことなのだろう。周りの見知らぬ客たちもそれを見て微笑んでいた。私はその時ふいに映画「男はつらいよ」の1シーンを思い出していた。柴又の団子屋のオイチャンが、甥の寅次郎の狼藉に呆れて「馬鹿だね、お前は・・・」としみじみ嘆く場面だ。

 「オメエ」と「バカヤロー」。私が耳にしてきたこの二つの言葉には、それが勢い余って口から飛び出てしまう時も、情けなくて思わずつぶやくように言う時も、裏を返せばどちらも相手に対する深い愛情を汲み取ることが出来るのだ。そういう思いがあるから、品が良くないとは思いつつ、ついつい私もこの言葉を使いがちな傾向がある。しかし現代の都市社会にそれが通じる人間関係は激減、否、皆無に等しいかも知れない。生活共同体の解体がその大きな原因であろう。たかだか50年も前には当たり前のように存在していた庶民のこういう会話が、いつの間にかノスタルジーの世界にだけ封じ込められてしまうのは淋しい限りだが、致し方のないことだ。取り急ぎ、これから年末に増える宴席での言葉遣いには注意しなければと、心もとない戒めを我が身に言い聞かせている次第だ。


なまはげ                     百錢会通信 平成25年11月号より

 あっという間に年の瀬だ!と何か騒がしい気持ちになるのは、毎月欠かさず稽古に来られるお弟子さんの月謝袋の、11月の升目に判子を押す時だ。12月になれば多少は観念してくるようだ。私にとって40代最後の年末。例年になく慌しい毎日なのは何かの巡り会わせなのだろうか。不思議なのは、仕事の最中にも拘らず時折心が現場から遊離して幼少時代を回想することが増えてきたことだ。その場その場の仕事に追われているのが辛さに、束の間、現実逃避をしているのだろう。

テレビはほとんど見ることが無いが、今月あたりから年末行事の話題が増えているのであろう。ふと目にしたテレビの画面に秋田の「なまはげ」が映っていた。一年の災いを祓う、確か、大晦日の有名な民俗行事ではなかったか。私は小学生の頃、「なまはげ」という仇名をつけられていたことを思い出した。仇名の由来に別に深い意味はない。単に私の髪型が丸刈りのクリクリ坊主であったからだ。戦前の小学生の写真を見ると男は全員丸刈りだが、昭和39年生まれの小学生の中に、そんな頭をしているのは私の他に一人としていなかった。正確には「丸刈り」と「はげ」は意味が違うのだが、そんなことにはお構い無しの無邪気な小学生である。私の頭を面白がって「はげ!はげ!」と持て囃し、やがて誰かが見つけてきた「なまはげ」という言葉が、子供たちに興奮を一気に盛り上げたのである。話したことも無い他のクラスの子供も、私の顔を目にすると「なまはげ」と呟いては笑い転げていたものだ。

 そんな訳で私は学年中の笑いものであったが、高学年になると私の仇名はいつの間にか「神様」になっていた。文字通り尊敬と崇拝の的となったのは、本来の「なまはげ」の意味を知って畏れをなしたのであろうかと、今となっては苦笑するのである。

 父は自分を「はげ」とあざ笑う者に向かって怒るのはつまらぬことだと私に諭した。弱いものいじめをして悦楽を感じるのは愚かしい人間の性(さが)ではあるけれど、それも自然の摂理であって、この「自ずから然ある」中に自由をつかむには、回りと一緒になって笑えばよいと言った。当事の私は真面目にそれを実行に移した。さしたる悲壮感もなく、その頃から“浮世離れ”の面目は現れていたのだろうか。こうして時に残虐な子供の悪戯も飄然とかわす異形の小学生は、やがて「神様」と崇め奉られてしまったのである。

 さてあれから40年経った今はどうであろうかと思ったらハッとした。あの頃とは比べようも無いほどに、つまらぬことに一々腹を立てているではないか。自然に逆らって生きている。「なまはげ」を目にして妙に反省させられたことだった。



順応性                      百錢会通信 平成25年10月号より

 私が生まれて初めて本物のコーヒーというものを口にしたのは、確か小学4年生の頃だったと思う。それまでインスタントか牛乳屋さんのコーヒー牛乳しか飲んだことのない私に、尺八の岡崎師匠が面白がって入れてくれたのである。布製のドリップで、お湯には沸かす時から少量の砂糖が入っていた。その方がお湯の沸点が上がって美味しく入れることができるそうで、岡崎師は何につけてもこうしたヒネリの効いたアイディアの考案者であった。

 何はともあれ、“おっかなびっくり”頂くことにした。本物のコーヒーは苦くて子供には無理と思い込んでいたからだ。ところが口に含むとどうだろう、今まで味わったことのない深い香が口一杯に拡がり、何て美味しい飲み物だろう!と驚き感嘆したものだった。

 兄は私に比べて好き嫌いが多かったように記憶している。その点「惠介は食い意地が張っているから!」と母は笑っていたが、確かに自分でもそう思う。ちょっと変な味だと感じても、それを如何にも美味しそうに食べている人を見るとその幸福が味わえないことが何となく悔しいというか、面白くなかったのだ。そこで多少痩せ我慢をしても「美味い!」と言ってしまう変な子供だった。ただそう思って食べているうちに段々にその本当の美味しさが不思議と分かってくることに、実は私は早くから気がついていたのだ。だから同世代の多くの子供が苦手とする、セロリやミョウガなどの香のつよい野菜も、クサヤやホヤや生臭い塩辛なども嬉々として食べては、いつも周りを驚かせていた。岡崎師が仕掛けてくる食の悪戯もむしろ楽しみにしていたのである。

 成人して演奏で海外に出ても、旅先で初めて食べるものには好奇心旺盛で、和食を恋しく思うようなことは全くなかった。私の異文化に対する順応性は、幼少の頃からの食に対する感覚に由来するのではないかと思っている。「美味いと思って食べていれば何時かは分かる」という原理・原則である。

 ところが40代の初めころ、中国の7都市を回る演奏旅行でちょっとした事件が起きた。連日続く晩餐会で土地折々の特別料理を頂いても、どうも美味しくない。美味いと強く念じてみても最終日までとうとう美味しいとは思えなかった・・・。やはり順応性は体力の衰えに並行して衰退していくものなのかな・・・という、ちょっと淋しい気持ちが込み上げてきた。初めて海外で日本の食べ物が恋しくなったのである。

 ただ、少し言い訳がましい気もするのだが、恋しくなったのは煮物や漬物、白米、味噌醤油といった純和食ではないのだ。早く日本の中華が食べたいと思ったのである。お互いの一流店を比較したわけではないから余り自信をもって訴えることは出来ないが、フレンチでもイタリアンでも、日本で食べる方がどうも美味しいような気がするのだ。日本の風土、気候と、日本の職人の優れた感性が生み出す異文化の融合、つまり“作品”はとても高い水準だと思う。だから演奏旅行で食が進まなかったのは体力が衰えたからだけではなく、ちょっと口が肥えてきたのだと思いたい。

日本は古代より自国に異文化を取り入れ独自の作品を生み出す“名人”であったに違いない。たとえば中国で尺八という楽器の伝統は、恐らくはその音量の少なさ故に跡形もなく絶えてしまったが、内面に世界を拡大することが出来るという楽器として驚くべき可能性は、日本でなければ発見されなかったのではないだろうか。

逆に異文化として日本に接する多くの海外の人は体力の衰えとは無関係に、様々な日本の作品の素晴らしさにきっと順応してくれるだろうと思っている。



スズメバチ                   百錢会通信 平成25年9月号より

 蜂に刺された。群馬の稽古場の草刈をしていたら、不覚にも後ろから右足のふくらはぎをやられてしまった。激痛を感じて振り返り足元をみると、大きさが3040mmはあるスズメバチ十数匹が群がっている。私は首からぶら下げている草刈機をはずす間も惜しんで一目散にその場から逃げた。後で調べて解かったことだが、私のこの行動は正しかった。1匹のハチに刺されると毒液(興奮物質)が空中に撒き散らされるため,その場に止まっているとさらに多数のハチの攻撃を受けることがあるからだ。5メートルほど離れて振り向くとまだ追いかけて来る。その時私は、怒りの焔の燃え上がる蜂の眼が見えたような気がした。全身に凍りつくような戦慄を覚えた。しかし必死で逃げた。30メートルも離れたところで傷口を水でよく洗い流し、しばらく安静にしていた。アナフラキシーのショック症状が起こる気配はなかったので、そこで漸く胸をなでおろした。が、もちろん激痛は治まらない・・・。

 もう一度“現場”をおそるおそる見回してみたが蜂の巣らしき物が見当たらない。しかし飛び交う蜂の数は尋常ではなかったのでその動きを追跡すると、物置の扉の下の僅かな隙間から無数の蜂が出入りするのを発見した。間違いなく巣は物置の中だ・・・。

 高崎市の指定業者に依頼して駆除に私も立ち会った。扉を開くと直径50cmはかるく越えた巨大な巣が現れた。「久々の大物だなぁ・・・200匹じゃきかねぇよ!」と業者は不屈な笑みを浮かべた。私は10mほど離れた所で身構えて(というより及び腰でおっかなびっくり!)、この駆除の様子を興味深々で観察した。

 防御服を着ていても一斉攻撃を受けたら極めて危険なのだそうだ。そこでどうするかというと、非常に強い粘着剤を一面に塗りつけたボード振り回し、まず数匹の蜂を捕獲する。そのボードを巣への通り道に置くと、他の蜂達は仲間に吸い寄せられて次から次へとこの粘着剤に捕まってしまうのだ。40cm四方のボードがビッシリ、真っ黒くなるまでに10分とかからなかった。「これで200匹は越えてるよ!そろそろ大丈夫かな・・、作業に取り掛かるか!」。手早く駆除された大きな蜂の巣は、専用の大きなビニール袋にサッサと放り込まれた。「夜になるまで、働きに出た蜂がまだまだ帰ってくるから、ボードはこのまま置いていきますよ、では次の現場があるので!」と、ベテラン作業員はニッコリと笑って早々に立ち去った。

 日没頃、抜き足差し足でボードに近づいてみた。粘着剤に張り付いてもがく蜂を見ていたら何とも申し訳ないような気になってきた。こんなに勤勉に働く蜂たちの生活を理不尽に踏みにじったのは人間の方ではないか。遅くなってもまだ帰還する蜂がいて、粘着ボードに捕まるその様子を観察していると、それはまるで仲間を助けに行くかのようだった。昼間、怒り狂って私を追いかけてきた蜂の姿を再び思い出したら、今度はどうにもやり切れない思いに駆られて涙が湧いてきた。世界中の彼方此方で起こる戦争も、この状況とどこか同じかも知れない・・・

 小さい頃母親に叱られて(何の悪さをしたかは記憶にないが)、線香でお灸を据えられたことがある。久しぶりに蜂に刺された痛みは、患部の痛みも心の痛みも、母のお灸のそれと同じように思われてならなかった。



新人類                      百錢会通信 平成25年8月号より

 「昔、先生の前では手帳を開くなんて許されない空気が漂っていた・・・」とは、山田流箏曲を専攻していた家内が、学生時代を振り返っての述懐だ。たとえば下合わせや総浚いの日程を相談していたとしよう。先生や先輩から○日の○時はどうかと訊ねられたなら、既に決まっている舞台の本番や下合わせと重ならない限りは「承知いたしました。」と答えるしかなかったというのだ。他に断ることの出来る理由があるとすれば親の危篤か親族の葬儀くらいなもので、都合の良くない日時の約束から体よく逃げるために、親戚には何人も死んでもらったなぁ・・・、などという笑い噺があったものだ。

 ところが「その日は彼と旅行に行くので予定を合わせられません。」と、平然と答えるような後輩が現れてきた。所謂「新人類」と言われた世代である。「新人類」とは、従来の価値観、道徳的常識などが通用しない、独自の行動規範を持つ若者を揶揄するために拵えられた造語だ。ところがその定義を改めて調べてみると1960年以降生まれの若者を指すようで、つまり私は新人類に括られる訳でちょっとそれは驚きだった。はっきりとした理由もなく、何とは無しに自分は「旧人類」と勝手に思い込んでいたからだ。それぞれの生まれ育った環境によって大きな個人差の生じるのは当然だが、しかし落ち着いてよく自分を振り返るならば「旧人類」と「新人類」、どちらかと言えば私は「新人類」寄りのグレーゾーンに生きてきたのではないかと思うようになった。親に孝行、師を敬い勉学に励み、私心を抑えて公に尽力する。確かにこういう指針を人間としての美徳と教えられてそれを信じて生きてきたが、反面には例えば「長幼の序」といったものを盲目的に信奉する階級主義、あるいは権威主義といったものに対する強い反抗精神も同時に、自分の心の中には培われているという自覚が、小学生の時には既にあった。どちらかと言えばこの抵抗精神の方がやや強いように思うので、だから自分は少し「新人類」寄りのグレーゾーンではないかと思うようになったのである。

 ところで、最も階級性が厳しい組織は、かつての鉱山会社であったという話を聞いたことがある。鉱山会社というものは、現場で事故が起きたならばその危険度と損失が桁外れに大きく、そうした危機に際して組織の指令系統に一糸の乱れもあってはならぬからだそうだ。会社内での上下関係の厳格さはそのまま社員の奥様社会にまでそっくりの相似形で反映されるというので、これまた舌をまいた。まさに軍隊なのだと思った。どんなに平和な社会が続いていても、生命の危険と常に背中合わせであるということが即ち生きていくということなのだと思う。そういう危機に対して組織で立ち向かおうとする時、厳しい階級性というものを取り除いたシステムはまだ発見されていないだろう。だから一朝有事の際にはこの厳しい身分制がいつ復活しても不思議ではない。しかしこの身分制が固定化されれば、人間は愚かなものでこの制度にあぐらをかいた腐敗が必ず生じて来て、新たな諍いの種となる。延々とこんなことを繰り返すのではないだろうか。

ただちょっと心配なのは「新人類」が旧制度の腐敗に対する抵抗勢力になり得るかということである。「新人類」が親世代となった1990年代に「モンスターペアレント」という言葉が生まれた。「新人類」は“怪獣”になったというなら不名誉なこと極まりない。しかし何の責任も果たす気配もなく一方的に自分の要求だけを連呼する人間が増えて来たことも紛れもない事実である。もしもそれが「新人類」の定義とされてしまうなら、私は一刻も早くそのカテゴリーの中から脱出したいと思っている。

そもそも私は、自分の心の中に静かに宿る「抵抗精神」の源は、生まれた年代やその時代の世相ではなく、幼少から慣れ親しんだ虚無僧尺八にあると思っている。その手ほどきをしてくれた父は、真実・真理の前に上下左右もヘッタクレもありますかい!といった気風があったし、岡崎師は外に向かって私を弟子と言わず、常に“親友”だと紹介し、徒党を組まぬ単独者であり続けた。思い起こせば創立当時の虚無僧研究会の“猛者”たちも、一様に眼光鋭く、一筋縄ではいかぬ“変わり者”の集団であったけれど、心の自由をこよなく愛するが故の反骨精神が強く感じられたものだった。だから、こうした一風変わった環境に育まれた私は虚無僧尺八を通じて、命名以来この「新人類」という造語に帰せられた不名誉を払拭したいと思うようになったのである。



ある社長の訓辞              百錢会通信 平成25年7 月号より

 船場のある時計輸入会社のオーナー社長が、息子に職を譲る時にこんな戒めを口にしたそうだ。「社長になったら、別荘と2号さんは作るな」と。私には何とも奇妙な訓辞に思われたのでその理由を尋ねると、「どちらも手にした時が喜びの頂点で、後は感激が薄らいで行くばかりだから、そういう物をなるべく所有するべきではない」というのだ。成る程それはそれで仰る通りだとは思ったが、何もこの別荘・2号禁止令が、これから社長職を譲ろうという時に、後継者に向かってわざわざ言い含めておかなくてはならない程に重要なことなのかということが、私にはどうしても理解出来なかった。でも、考えてみれば私は会社組織に所属したこともなければ、増して会社の経営とは無縁の生活をしている訳だから、解らなくて当たり前と思い、とりあえずはこの話題を放置することにした。
 けれども(2年前に聞いた)この言葉が何故か妙に気にかかり、忘れられないでいた。度々思い出しては、この言葉を自分の生活に当てはめてみたら・・・などということをとりとめもなく空想するようになったのである。ただ別荘も2号さんも相当な財力がなければ手には入れられないから、これは私には中々想像しにくい状況だ。突然世界で空前の虚無僧尺八ブームが起こって、夢のような印税生活が訪れたら!!と無理に思い込んでみたが、余りに馬鹿馬鹿しくて、一人で笑いだしてしまった。
 逆に、手に入れた時より喜びが増してくるものは何だろうということを考えてみたら、これは意外に楽しい作業だった。一寸恥ずかしいが、一番に思いついたのは、自分で選んで入手した酒器である。私の小遣いで買うのだから高価であろうはずもないが、気に入って使い込む程にこれは間違いなく愛着が増してくる。お気に入りの道具とは皆そういうものなのだろう。毎日手にする、アメ色に変色した我が吹き料の尺八もそうだ。眺めているだけで心に音楽が聞こえてくるほどだ (もしも聞こえてこないならば、それは使い方が足りないのだ!)。だから自分の楽器への想いは、とても言葉で言い尽くせるものではない。
 考え出したら楽しくなってきて、時を経るにつれて愛着の増してくるものがもっと他にはないだろうかと思いを巡らせた、たとえば道具以外のものでも・・・。そう自分に問いかけてみた時、ふと「家族」という言葉が思い浮かんできた。そしてそう思えることの出来た自分は今幸福なのだということを、改めてその時しみじみと感じたものだった。ここまで来ると、船場の商人も浮世離れの尺八吹きも、大した別もなく思われてきた。
 近ごろ雑誌を賑わす若いIT長者達は、その特集記事を見ると揃いも揃って、フェラーリ、ベントレー、高級マンション、芸能人などなど、まさに手に入れた時が喜びの頂点というものばかりによって、その身は覆い尽くされている。創造的な仕事をする者は、出来ることなら時と共に感激の薄らいで行ってしまうものはなるべく所有しない方が良いという、かの社長の訓辞を噛み締めて欲しいと思う。



自己陶酔症                  百錢会通信 平成25年6月号より

 「どうして男は何かと自慢話をしたがるかね?」 「そうそう! 退職後、『我が半生』なんて自叙伝を自費出版する人がいるけど、そんなことするのはまず間違いなく男だね・・・。恐怖の自慢話の連発!」「それがどれほどツマラナイ読み物だか本人はまるっきりわかってないんだよね。アッハッハッハ!!」

 酸いも甘いもそれなりに心得た中高年女性の、こんな会話を耳にしたことが何度かある。戦後の高度経済成長時代、男は男でそれなりに体を張って生きてきたわけだし、その苦労を思うとそこまで声高らかに笑わなくったって・・・という気持ちが半分。でもやはり的を射ているというのが私の実感である。

 たとえば我が子の出来の良さを吹聴してしまうそそっかしい母親も世には多いことだが、男にありがちな自慢話は、精神的背景において母親のそれとは本質的に違う。母の自慢は、我が子に無限に与え続けようとする母性の盲目性がその背景にあるけれど、男の自慢の根底には「自己陶酔・自己愛(ナルシズム)」が深く関っていることが多いように思う。そして、この男の自己陶酔にはいくつかの心理学的な類型があるのだろう。自分の狩猟の成果を並べて悦に入るのは可愛いものだが、私が気にかかるのは、自己の苦悩を露出するという、少し複雑な構造を持ったものだ。

 被虐嗜好(マゾヒズム)は本質的に自己愛(ナルシズム)と深い関わりがあると言われる。先の『我が半生』の類の多くは、構成力や文章力などその稚拙さ故に、その殆どが哀れにも隣人の笑いの種になってしまう。しかしその構造だけをよく観察してみれば、優れた芸術家の耽美派も好んで取り上げるのと同じモチーフがあると思う。それは他者からの攻撃を受けた我が身の苦悩を露出することにある。これを読者にドラマティックに知ってもらおうという甘い欲望と悦楽に、被虐的な自己愛を感じないではいられない。

 尺八吹きににこやかな笑顔で演奏する人は皆無に近い。逆に眉間に皺を寄せて苦悶しながら節を奏でる人のなんと多いことか。この苦悩の表情の中にも、程度に差こそあれ、先と同じナルシズムの悦楽が潜んでいるように思う。私もその一人である。この心境から出来ることなら早く抜け出したいと思っているが、なかなか願いは叶わないでいる・・・。

 浪速っ子の司馬遼太郎は、江戸っ子の池波正太郎と意外にも親しく交流していたそうだ。司馬は池波の何に惹かれたのか。池波の死去に際して司馬はその追悼文のなかで、「自己陶酔症(ナルシズム)という臭い気体のふた」をねじいっぱいに閉めていたと評しているそうだ。先の大戦で「自己陶酔」した軍部のお陰でひどい目にあったことが司馬の創作の原点というならば、頷ける話である。今の世間には、ナルシスティックな政治家も多ければ、その言動に一緒に酔ってしまう大衆も増えてきてはいないだろうか。尺八吹きの自己陶酔もまったく無関係ではないかも知れない。自戒を込めてこの風潮を警戒したいと思っている。



新 緑  - 6 -                百錢会通信 平成25年5月号より

  ユダヤ教やキリスト教、イスラム教などの一神教は、八百万の手近な神様に頼らないという点においては仏教や儒教と共通している、という一文をどこかの雑誌で読んで、そんな簡単に言ってしまってよいものかなぁ・・・と一瞬ためらいを感じたが、やはりなるほどその通りだと思った。そういう視点を押さえておくことは日本人には大切なことだと思う。

 神話に登場する神々は、お酒を飲んだり好色だったり、よくしくじったりもするし、必ずしも人間に対する圧倒的な超越性は感じられない。つまり人間よりはちょっと特殊な呪術力や、創造力、生命力などを有する程度の存在で、そんな神々がワイワイガヤガヤとやっている。神話は人間社会の拡張を天空に投射したような一種のファンタジーのようだ。

 こんな神々を拝む信仰は、おそらく自然との調和の中に暮らす人々に湧きあがって来たものだろう。そこに命を育む山林原野や海があり、共同体は何代にもわたってその地に生まれ育った人間が殆どで、大きな諍いもなく、だから自然の背後にある神々を拝んでいれば事は済んでいたのだと思う。

 ところが世界すべての地に、そういう集落の存続が安堵されていたわけではない。世界史の教科書を開けば、大規模な異民族の侵入や戦争、帝国形成といった話ばかりではないか。この戦争は、小さな部族同士の諍いとは規模が違って、その地に形成された社会を根こそぎ壊してしまう。そしてその社会はもともとその地の自然との調和の上に成り立っていたのだから、同時にその地の自然を壊すことになるのだ。何もかもがぐちゃぐちゃになって、自然の神々はもう頼りにできなくなってしまった。このぐちゃぐちゃの中でも何とか人間らしく生きていきたいという背景から、世界の一神教や仏教、儒教といったものが生まれてきたのは恐らく事実だろう。だから世界の名立たる宗教を語るに、そこにいかなる愛や法悦があろうとも、まずは人間の深い悲しみを思わずにはいられないのだ。

 人間が神々と共存していた世界中の社会と自然を、もっとも多く破壊したのは日本を含めた先進国である・・・、とまで断言する胆力が私にはないが、疑問を呈するかたちで訴えたい。しかし不思議なのは先進国の中で、日本に八百万の神の信仰が現在も続いているという現実である。日本の仏教寺院は院内に神々のおわすことを拒まないようだ。江戸時代に禅宗の一派であった普化宗の虚無僧にも、安産祈願の曲があったり、清め・厄除けのまじないがあったり、そこはかとない自然神崇拝やアニミズムの匂いが消え去らないのは何故だろう。それは、日本独特の自然の豊かさに由来するのではないかと私は感じている。

 昔、初めて訪ねたドイツ南部の都市で、小さな森を散策したことがあった。天気もよくとても爽やかであったけれど、なぜか心の扉を大きく開く気分にはなれなかった。硬質で輪郭の鋭利な木々の葉を眺めているうちに何とはなしに身構えが堅くなってしまうのである。草木も厳しい気候と闘っているかのようだ。それがどうだろう、我が家の近隣の雑木林を歩くと、木の肌や一枚一枚の葉の柔らかさが空気に融け出して、私の体はそれに優しくくるまれている様な気持ちになる。新緑の中に佇むととにかく理屈抜きに心の底から喜びが溢れてくる。自然が人間の心に与える感化の力は計り知れないものだ。日本という、これほど幸運な場所はないのかも知れない。



春の水                      百錢会通信 平成25年4月号より

    春の水 すみれつばなを ぬらしゆく

現代語訳:春の川水が、スミレやチガヤを濡らしてゆく

『蕪村遺稿』より

 

某大学受験予備校で、古文の講師をしている友人が発信している、「**毎朝3分!心が目覚める『古文サプリ』**」というメールマガジンからの孫引きである。

冬の間、川に水量が少なく、草も枯れて寂しげだった川岸に、山の雪が溶けて水が増えてくると、スミレやチガヤなど、春の草たちが、若々しく生えてきて川岸を彩る。豊かになった水は、その草たちの根を、しっとり柔らかく濡らしていく。ただそれだけの景色なのに、思い浮かべたら、しみじみとした喜びが込み上げてきた。

正直に白状するなら、かつては春という季節を晴れ晴れとした気持ちで迎えたことはなかった。桜がいくら艶やかに咲き乱れても、瞬く間に散ってしまうのが悲しかったし、何よりも年度変わりによる環境の変化はいつもいつも不安に満ちていた。父は陶淵明の「田園の居に帰る」を好んで諳じていたが、冒頭の「少にして俗韻に適するなく、性本丘山を愛す(自分は若い時から世俗に馴染むのが下手で、生まれつき丘や山の方が好きだった)」という件に私はいたく共感し、物憂い気持ちで父の朗唱に耳を傾けていたものだった。いつになったら心安らかな暮らしが出来るのだろうか…と。

幸か不幸か、尺八古典本曲というマイナーな世界に足を踏み入れたが為に、年度の変わる4月に、世俗の習慣に巻き込まれてあたふたすることは少なくなった。その代わりに私の稼業はいつ仕事が無くなるか分からないという不安に一年中苛まれるのであるが、逆にそういう日常故に年々歳々、春の訪れ、新しい命の息吹に感激するようになったのかも知れない。いつしか春の訪れを、細やかではあるが喜びの気持ちで受け入れることの出来る心境の変化が起きていた。

「春の花」ではなく、「春の水」という言葉が心から好ましかった。天から山が受け止めた水が、春、大地を潤し、命を育み、大河となってゆっくりと海へと注がれる景色の何と美しいことか。震災のあった2年前の春に、雲ひとつない上空から日本の山河を見下ろしたことがあったが、思い出すと今でも涙が溢れてくる。つくづくこの自然を汚したくないと思うのだ。



雛祭りの日に                 百錢会通信 平成25年3月号より

 箏曲のお浚い会のハイライトは、なんと言っても子どもの舞台である。可愛い着物を着せてもらい、無垢な心で歌い爪弾く姿は、疑いもなく清澄であって、こればかりはどんな名人達人も真似ることが出来ない。つい先日も目にした小さな子どもの舞台は、時節がら演目が「雛祭り」で、とにかく掛け値なしに可愛らしく美しかった。またその時は伴奏の篠笛がしみじみと郷愁を誘い、心に清水の流れる思いがした。
 「雛祭り」で思い出すのは実家の雛人形である。兄と二人兄弟である我々には、元来必要無かったはずなのに、毎年3月になると何故かいつも、当時のあばら屋には似合わぬ華やかな雛壇が飾られていた。母は4人姉妹の二女だが、どういういきさつか、実家の雛人形は我が家に持ち込まれていたのである。母がどんな思いで飾っていたのかを聞いたことはない。娘が欲しかったという無念かも知れないが、間違いなく思い出されたであろうことは、亡き母(私の祖母)の面影だと思う。雛段に向かい、人形に託された、子を思う母の心を思い出さぬ者があるだろうか。
 おりしも今年の雛祭り、33日に私は、震災後初めて福島の被災地へ慰問の演奏を届けにあがった。誘って下さった芸大の先輩のご両親の郷里が、南相馬だったというご縁であった。津波被害を受けたご両親のご実家の近辺は、放射線量が高く、立ち入りが制限されていて復興は遅々として進まない。今だに横転した車がそのまま放置されているという生々しいお話を現地で伺い、胸が潰れる思いだった。
 政財界、マスコミなどの様々な思惑が絡み合い、この地の現状は必ずしも正しくは国民に伝えられていない。言葉少なにそのことを仰ったのは、今回のコンサートを主催、アレンジして下さった南相馬の文化財団の担当の方だ。この地にとどまった人は皆、こうした無念を抱きつつも、前を向いて生きて行こうという、名状し難いある覚悟を心に秘めているのだということを、実に穏やかな口調でお話し下さった。
 覚悟。そのひとつの例として、被災したある小学生の作文のお話を伺った。要旨をかいつまんで言えばこういうことだ。震災と原発の問題は自分の子どもの代になっても、解決の道筋は恐らく見えて来ないだろう。その時に大切なことは、震災でこの地に何が起きたのか、本当のことを子どもに伝えなければならないということだ。その為に自分はこれから一生懸命勉強するのだ、と。
 次世代の為にと口先だけでがなる代議士センセイは、襟を正してこの作文を神棚に供えて伏し拝むがいい。なまじに目を通して分かったような気になってもらうのは迷惑千万だ。未だ見ぬ我が子のことを思う、幼くとも気高い、これは紛れもない母性の萌芽なのだ。そのことに気付く大人たちが一体どれ程いるだろうか。
 この澄んだ瞳の冷静な認識力と想像力を見習いたいと思う。つくづく反省させられた、今年の桃の節句であった。



幻 影                       百錢会通信 平成25年2月号より

国の借金が何百兆を超えてしまったというニュースを私が心に留めたのは、確か小泉政権が誕生する少し前だったと思う。そんなことになっていたということも知らずに生きていたのが、流石の私もその時とても恥ずかしく感じたので、私のような“浮世離れ”にも、国の財政について分かりやすく解説して頂けないかと、国政経済に明るいお弟子さんに酒場で訊ねた事があった。

そのお弟子さんは実に簡単に説明して下さった。「簡単に言うとですね・・・、たとえば一家の主、つまりお父ちゃんの年間の給料が500万円の家庭があったとしましょう。毎日の衣食住はそのお父ちゃんの給料で賄うわけですが、たまたま気安くお金を貸してくれる人がいて、ちょっと贅沢になっちゃったんです。部屋が手狭になったからちょっとだけ広い家に住み替えよう。入院しているお爺ちゃんは今まで苦労してきたのだから、差額ベッド代は多少かさんでもせめて病室くらいは快適な個室にしてあげよう。子供たちが良い大学に入学できるように塾に通わせましょう。社会に出てグローバルな仕事をこなすには今から英会話教室にも通わせなければ。互助会の会費のほかに特別の寄付もあちこちからお願いされて、喜ばれるものだからつい気前良く払ってしまう。家の修繕も出来栄えがよければ家族も喜ぶし、ついつい高額になる。犯罪や災害に備えて防犯防災グッズ、保険も入らなくちゃ・・・。気がついたら年間の出費は年収の倍近く。累積した借金は7000万円。だけどかつては順調に上がった給料も今は上がるどころかボーナスカット。それでも昇給し続ける前提の消費生活を見直せずにいる、一種の中毒みたいなものかも知れませんね。国の財政を身近な家計に振り替えて言えば、今日本という国はこういう家庭みたいなものなんですよ。」

 このショッキングなお話を伺ってもう何年経ったことか。何の改革も起こさぬまま、そんな会話があったことも忘れかけていたこの頃である。先月末、新聞に「国の財政をアベ家の家計に例えたら- 年収431万・支出926万・借金7500万円」という記事があったので、一瞬この記事はそのお弟子さんが書いたのではないかと、本当に目を疑ったものだった。あの酒場の会話で「どうするべきだと思います?」と逆に私は問われて「当然、収入に見合った生活にもどすことが第一でしょう。」と答えた。まずはボロ家に住んで隙間風に震えながらも歯を食いしばって借金の返済に立ち向かうべきではないのか。しかし今更そんな生活は出来ないという。借入金で支えている豊かな暮らしはそのままに、何とか立て直すには・・・。景気さえ回復すれば何とかなるという発想は、借金返済の為に本気で競馬場へ足を向ける父ちゃんの思いに似てはいないだろうか。

 こういう世の中だから、音楽家は真っ先に仕事がなくなるのではと戦々恐々としている。とかく芸術は裕福な社会が保障されてこそ花開くと言われる。それは一面の事実であることを私は否定しない。しかし、単に文化的な生活を彩るだけの装飾品ではない、本物の芸術の本質的エネルギーの発露というものは、実はとうの昔にその次元を超越しているのである。だから真逆の環境の中にあっても、機が熟せば作品は生まれるべくして生まれて来るのだ。経済の景気の良し悪しによって変動する感覚的な幸福や恐怖というものは、所詮幻、儚い影だと思う。だからこういう時勢の時こそ佳き芸術に触れて、心を強くしたいものだと、つくづく思う。



 桧枝岐村                   百錢会通信 平成25年1月号より

昨年は私には珍しく出張演奏の多い年だった。どんな平凡な街でも掘り起こせば深い歴史があり、それを知れば全てが思い出深い演奏旅行になるものだ。秋の過密スケデュールを経ていささか放心気味で迎えた年始だが、今でも印象深く忘れられないのが、昨年9月に訪ねた桧枝岐村である。

 福島県の南西にある小さな村とだけ聞きいていて、演奏の前日の夕方までに都内の仕事を済ませてから移動すれば良いだろうと思っていた。ところが一般の交通機関の時刻を調べてみると、とても半日で辿り着けるような場所ではなく、大慌てでその日のレッスン等を振り替えなければならなかった。

 尾瀬への観光地で、群馬、新潟、栃木と隣接する。駒ケ岳と、燧ケ岳、帝釈山に囲まれ、特に燧ケ岳(2356m)は、東北地方で最も標高が高い山だそうだ。それらの間を通る檜枝岐川沿線の国道沿いに位置する。村役場に隣接した集落の他は、村の面積のうち約98%を林野が占めている。村民は約700人弱、福島県内で人口が最も少ない市町村であり、日本一人口密度の低い市町村となっている。村民の姓名の大半は星、残りが、平野、橘、と続く。村全体が親族みたいなものだ。だから村人はお互いを姓ではなく、名前を呼び合う。役場という公式なオフィスでも「マサル」、「ハヤト」と声を掛け合う光景が本当に平和で、それは大きな驚きだった。

 米の収穫ができない土壌であったために蕎麦や山菜、川魚、森の獣を中心とする食文化が生まれた。私が宿泊した宿のお母さんは料理上手と誉れの高い人で、23日で体重は2キロ増、しっかり堪能した。食材の貧しい土地は全国にいくらでもあるものだが、この村にはそれを何とかして美味しく食べようという、卑屈にならない前向きな楽観主義の伝統があると感じられた。実に美味い。

 また驚きはこの村には農民歌舞伎の伝統が江戸時代から、少なくとも260年も続いているのである。今も親から子へ孫へと受け継がれている。福島県の重要無形文化財に、そして奉納上演される舞台も県の重要有形文化財に指定されている。本来村の娯楽として栄えていたものが、現在は文化的遺産としての価値が認められ、おのずと専門的なクオリティの維持が期待されてくる。しかし担い手は専門家ではないのだから本業との両立が問題となっている。しかし拝見すると、観客席の若い子が先輩の本番の演技に合わせて、嬉しそうに身振り手振りを練習していたので、まだまだ頼もしい限りだ。私はこちらにも大きな拍手を送った。

 私が訪ねたのは9月、天候にも恵まれて爽やかな季節であった。本当に素晴らしい村だと思った。しかし冬になれば日本有数の豪雪地帯である。決して楽に暮らせる土地ではないはずだ。村の青年に聞くと「会津や白河の帰りに雪に降られて、トンネルで夜明かしなんてこともありますよ。」と仰る。我々旅人の驚く顔が面白いのだろうか、彼らは実にあっけらかんと苦労話をして笑い転げるのである。この楽観主義と人情にすっかりやられてしまった。

 たった23日の間であったが、村人に迎えられ、演奏して、祝杯を挙げて、したたか呑んで、食べて、語らい、笑い転げた。思い出せば何でそんな事が可笑しいのかと周りからは不審に思われるような他愛もない事ばかりなのだ。けれども楽しくて仕方がない。この仕事に誘って下さった箏曲の後輩君との帰り道でも、もはや笑いが止まらず、何につけても可笑しさが込み上げてくる精神状態はちょっと異常なほどだった。今落ち着いて思い返すと、それほどに都市に暮らす我々はこれに飢えていたのかも知れないと思った。

 今あるがままを受け止めて福と成す心の営みを日本の心だと思いたい。年明けて自民党政権となり、官僚も落ち着いて仕事ができるようになり、政治経済はひょっとして一時的な安定が訪れるのかも知れないが、福島の問題には霞がかかるのだろう。職業としての現在の政治家は常に外に向かって戦果を挙げたがるが、我々は何時も内面に向かうのを習性とする。政治家との対話は一段と難しくなる一年となるだろうけれど、何事も楽観的に行くことにしよう。

                                                                                          



大先輩の謦咳に触れて

 昨年の今頃、次の年こそは自分の演奏会を再開しようと思っていたが、箏曲の方の依頼を喜んで引き受けているうちに、気がついたら今年後半の予定はそれですっかり埋まってしまっていた・・・。それはさておき、今年はどうした巡り合わせか、思いもかけず斯界の重鎮の先生方との共演に恵まれた。諸先生方は、御歳80半ばにして矍鑠としていらっしゃる。長い年月、音楽の火を心に灯し続けてこられた先生方の言葉にはその端々にまで重みがあり、少しでもその謦咳に接することができたことは本当に有難い事だった。何気ない会話がその何気なさ故に尚私には感慨深かったので、思い出すがままにそれを書き記しておきたい。

 

  “稔るほどに頭を垂れる稲穂”の例えは、今は亡き私の恩師、山口五郎先生のためにある言葉だと思っていたが、今秋にご一緒頂いた箏曲の先生方もまさに謙虚を絵に描いたような方ばかりであった。箏曲の最大会派の頂点に立つ先生であっても、私のような者に掛けて下さった初めの一言は「どうか一緒に曲を作り込んでまいりましょう!」である。キャリアや技術に差があろうとも、お互いが心を尽くして、たった今世界に一つだけの音楽を紡いで行くのだという、ゆるぎない信念である。信念であるが故にその提案には遠慮もなければ妥協もない。高慢な命令とは全く次元を異にするのである。舞台の幕があく直前には「一緒に楽しみましょうね!」と仰って下さった。私にはそのお言葉が、澄んだ夜空のお星様のように今も煌いている。

 

「古典の歌は、ドスを利かせて良いものなのかしら・・・?」とご自身に向かって問いかけるようにつぶやいていらっしゃった先生は、1960年代に数知れない現代作品を初演なさって来られた、いわゆる“現代邦楽”の先覚者である。にも拘らず、先生は今尚一貫して古典の研鑽を怠ることがない。今は亡き諸先生方のお言葉の意味を今も繰り返し咀嚼し続けていらっしゃるのは、若気の浅読みをしていなかったか・・・との戒めであろうか。俄かに新たな発見があればそれはまるで童女のように胸躍せるのである。そしてニッコリ、私に向かって仰るのだ、「歳はとってみるモノよねぇ」と。「修行」という金言に埋没しがちな若き古典派とは、土台“魂”が違うことを思い知らされて、冷たい汗が背中を流れた。

 

またある先生は、リハーサルで門下生に篤くアドバイスなさっていた。そのお姿はいつもの静かな佇まいではあるが、伝えたい思いの深さ故であろう、いちいち曲毎にステージに歩み寄るのである。しかし決して走ったりはしない。「私が転んで怪我をすれば、周りの人に迷惑をかけるから・・・」。人の道として当たり前のことなのかも知れないが、健康管理の前提にまず周囲の人々への気配りのあることに感じ入った。沢山の人に助けられて自分は演奏を重ねることができたという思いが、多くを聞かずともこの短いお言葉から伝わって来たからだ。下合せの為に先生のご自宅へ伺うと、わざわざ玄関の外に立ってお迎え下さっていた。恐縮して慌てて小走りした私の方がつまずきそうになってしまったのである・・・。

 

先生方が旧音楽学校(現 藝大)に学ばれたのは70年も前。激しい戦争のさなか、学徒動員で召集された級友を校門で送る時に歌う『海ゆかば』が、何の指示もなく混声合唱となった時「私は音楽学校の生徒なんだ・・・」と感じられたそうだ。あの光景を思い出すと今でも胸が一杯になってと少し涙声になられたのが忘れられない。大変なこと、辛いことをとにかく一生懸命乗り越えてきた。最近やっと学校教育に和楽器が導入されることになり、それが何より嬉しいと仰った。まだまだ書き尽くせないシーンの連続だった。訥々とお話になる。どのお言葉もその何気なさ故に私の感激は増幅して止まなかった。

 

今年は私だけでなく、全体に尺八主導の活動が少なかったように思う。だから尚更、この秋に箏曲の大先輩方から授かった“温熱”は冷まさないように大切にしまっておいて、来年からまたコツコツと精進して行こうと思う。




エンジニアの勝利              百錢会通信 平成24年11月号より

 リサイタルシーズンの真っ只中である。この時期のコンサートは芸術分野の様々な贈賞の審査となることが多いので、演奏家と評論家、そのどちらにも緊迫感が漂っている。正に演奏会場は“賞獲り”の“合戦場”の様相を呈しているようだ。

 「競い合い」に必ず「判者」が立ち会うのは当り前だ。音楽家は誰が何と言おうとも、「これが私の本当の音である」ということを言い切ることが何より一番大切であるはずなのに、ひとたびコンクールに巻き込まれたならそうは行かない。芸術家としてというよりは先ず、“技術屋”としての実力が否応なく問われるからだ。この時節、演奏家は外野から、普段にも増して一段と辛辣な批評に晒されて、一喜一憂させられるのである。

 しかしこの批評というものが実に多様なので演奏者は泣かされるのだ。たとえば、A先生がある演奏家に向かって表現の抑揚に欠けると言ったかと思えば、B先生は反対にメリハリをもう少し抑制しろと言う。C先生がテンポに躍動感が欲しいと言えば、D先生はもう少し落ち着きのある時間の刻み方はできないのかと反対のことを言う。「では一体私はどうしたら良いの!?」と奏者は頭を抱えて部屋に閉じこもる。毎年こうした話を少なからず耳にすると、自分が当事者でなくとも身につまされて心が痛む・・・。

 話は唐突だが、ふと何年も前に見たF1レースのテレビ放送のことを思い出した。当時、日本のホンダが参戦していて、セナとかプロストといった天才レーサーを擁して大そうな話題となっていた。モータースポーツに詳しくもない私がその時ちょっと興味を覚えたのは、解説者によるプロストの話だった。彼の天才的な運転技術は自他共に認めるところだが、彼は加えて車のメカニズムについても大変精通しているのだそうだ。ドライバーにしか感じられない車の不具合をエンジニアに伝える際、その指摘と表現の的確さは並外れていて、どんなに精密な計測機器も及ばない程だという。故にエンジニアの整備のクオリティーも上がるわけで、ホンダチームの強さはそんなところにも起因するのだろうというコメントだった。

 ところがその放送の時は、マンセルという別のレーサー(ウイリアムズだったか・・・チーム名は失念した)が優勝してしまった。解説者は少し苦笑気味に「これはある意味、エンジニアの勝利とも言えますね・・・」と言った。なぜならマンセルはプロストと正反対で、マシーンの状態のリポートがとても直感的な表現で、意味不明なことがよくあるからだという。だからエンジニアも直感力を働かせて、抽象的なマンセルの報告から不具合の真の原因を見抜かなければならない。例えばエンジンの調子の悪さをわめき散らされても、「オーケー了解した」とエンジニアは冷静に答えて、実はミッションなど別の部位の調整をしたりする。そういうことを積み重ねてマンセルのフィーリングにあったチューンアップが実現する時に勝利の女神が微笑むというわけだ。

 コンクールに参加する演奏家も、ある意味マンセルに対峙するエンジニアのようではないだろうか。音量不足を指摘された時に、逆に弱音や音色の工夫をした方が効果的であったりすることも多いと思う。とにかく秋ほど演奏家同士、「同病相憐れみ、同憂相救う」の思いを強くする季節はない。



大  台                      百錢会通信 平成24年10月号より


 先日友人から干支を問われて、自分は今年年男だったことを思い出した。「人生五十年」も目の前なのだがこれと言って実感もなければ、大きな感慨もない。強いて言えば、さすがに頭髪の衰えが顕著になってきたと感ずるぐらいか・・・。

20年ほど前は、同年代の結婚式によく参加したものだったと思い出す。男の友人達はよく「20代も終わり、年貢の納め時だ・・・」などとケシカラン台詞を口にしていた。「いよいよ三十路だなぁ・・・」なんて言葉をしみじみ語るものも多く、そんな姿を私は不思議な気持ちで眺めていた。そういう感慨が全く湧いてこなかったのは、私が幼い頃から虚無僧尺八を吹いていて、周囲から妙に大人扱いされて来たせいだろうか。とにかく老けて見られ続けてきた。年々歳相応になってくるからと慰められてきたが、この歳になってその実感も全くない。

44歳の時に文化庁主催の芸術祭で新人賞を頂いた。当事は受賞者全員の名前が新聞に掲載されていて、それを見たらナント「善養寺惠介(64歳)」となっていた。急いで文化庁に訂正を求めたが後の祭り、共同通信社を経て全国の地方紙に60代の新人賞の快挙は報道されてしまっていた。しかしそれより驚いたのは「本当は善養寺さん64歳だったのですか!?」と真に受けた知り合いがいたことだった・・・。しかし私は少しもこういうことが不快ではなく、皆さん面白おかしく笑い転げてくれるので、むしろ好んでこのエピソードを紹介するくらいだ。

藝大の後輩さんから最近「大台にのる」といった会話がよく聞かれるようになった。特に40歳のハードルを越えることには特別の感情があるようだ。若いエネルギーが美しく、輝くように燃えていた記憶が時とともに遠ざかっていくような感覚なのだろうか・・・。私にはそういう経験がなく、ただただ想像するばかりである。私は35歳の時に、虚無僧尺八だけのリサイタルを開き、CD録音をした。予想通りの賛否両論が沸騰。業界としての音楽界の中にあっては明らかにマイナーなジャンルである。「活動は戦いだよ!」と言って、十数年来変わらぬ友情で支えてくれるスタッフとともに、今も前線に立っている。40歳を越えた時の記憶などは全くない。「一生懸命に生きて自分勝手に幸福だった」とは谷川俊太郎の詩の一節だが、まさにそんなところだろう。

最近訳もなく、心とか精神というものは、生まれてから死ぬまで何も変わらないのではないだろうか?、という思いが強くなってきた。気を若く持とうとか、少年の心を持ち続けるとか、そういう事とは全く別次元の話だ。雨だれ、そよかぜ、樹木の肌、枯葉を踏む音、雪景色の静寂。こうしたものから少年時代の五感がとらえたものは、肉体の衰えた今も全く色褪せることはない、という感覚を最近は好んで楽しんでいる。



触  媒                      百錢会通信 平成24年9月号より

今月は、何年か前に話題にしたことの、そっくりそのままの繰り返し。厳しい残暑で頭までバテてしまったようなのでご容赦願いたい・・・。

「魔女の宅急便」というアニメーションの作品があって、その制作現場についてのインタビューに答えた作者の宮崎駿が口にした、「触媒」という言葉が妙に忘れられないでいる。昔から魔女は箒にまたがって空を飛ぶもので、物語の中でも主人公の新米魔女さんは実に気持ち良さそうに空を飛び回っている。ところがある時から魔力が抜けてしまったのか、箒にまたがっても空を飛べなくなってしまうのである。この失意から立ち直り、再び魔力を取り戻して空に飛び立つシーンがこの物語のクライマックスなのだが、この時の魔女の形相たるや凄まじいものだった。一人前の魔女になる為の辛いイニシエーションを乗り越えていく、若い主人公に漲る気迫の描写が素晴らしかった。インタビュアーはこの場面について質問を宮崎に向けた。どうやってこの場面を描き上げたのかと。

その答えがユニークだった。そもそも魔女が空を飛ぶのは、箒に魔力を与えて箒が飛ぶのか、それとも魔女自身が飛ぶのかという疑問である。答えは後者だ。何故なら箒自体が宙に浮くなら、たとえ少しの時間であってもそれにまたがっていたら、間違いなく股間が痛くなって飛んでいられるはずがないと言うのだ。

つまり魔女自身の体に浮力が生じると考えるのが自然で、箒はこの浮力を生ぜしめる一つの「触媒」であるという考え方だ。「触媒」を辞書で引くと、「化学反応の前後でそれ自身は変化しないが、反応の速度を変化させる物質」とある。私はこの話を聞いて魔女の箒の様に、尺八も同じく一つの「触媒」ではないかとつくづく得心したのである。

音楽は演奏者の精神と肉体の内側に起こるのだ。この「化学反応」を促すのが「触媒」としての楽器である。私は加えてその楽器の演奏技術と、演奏される楽曲そのものさえも、ひとつの「触媒」ではないかと思うのである。佳き音楽の為に、これら楽器や技術、楽曲について精細な吟味がなされるのは当然のことであるが、注意を要するのは、「触媒」の良し悪しの議論ばかりが一人歩きして、肝心の人間の精神が不在となることであろう。箒が勝手に飛ぶならお尻が痛くなる。

 



お洒落な趣味                 百錢会通信 平成24年8月号より

尺八の友人のお弟子さんに、とてもお洒落な女性がいる。その方の身だしなみがいつも素敵なのだが、私が心惹かれるのはもちろんそんな表面的なことではない。

和服の時もあれば洋装もある。また洋装も多岐に渡って“守備範囲”は実に広い。私がそう感じたことを伝えると「先生はファッションに興味がおありですか?」と質問された。いえいえ私は女性の服飾には全く無案内だし、ファッションのセンスには自信がありませんと答えた。それなのに何故・・・と彼女はちょっと不思議そうだった。

彼女の衣服や装飾品には、その一つ一つ全てに細やかで深い愛着が注がれている。私が強く感じたのはこんなことだった。しかもそのお気に入りの品々が、決して使い捨てにならないように丁寧に選ばれているであろうことも、容易に想像されるのであった。それでいて自分の好みにひたすら没頭するのでなく、TPO(時と場所と状況)に応じて周囲への気配りも怠らず、とても立派だと思ったのである。

インターネットで公開している私のこの駄文もよく見てくださる様で、時折感想等をお聞きする。その会話から、文学や美術についても彼女の“守備範囲”の広いことが伝わってきて感心させられる。きっと芸術鑑賞が生活の中に自然に融け込んでいるのだろう。

私は益々興味を持って、他の趣味について訊ねると、何と彼女が田圃の傍らで尺八を吹いているセルフポートレイトを見せて下さったのである。荒れて放置されてしまいそうな水田で稲作を手伝うというイベントに参加されているのだそうだ。その写真は田植えか何かの折の、ちょっとしたお楽しみ会の1コマだそうだ。「上手ではありませんが、棚田の景色の中で聞こえる尺八の音は、何か良さそうな感じだったので吹いちゃいました!!」と、その笑顔に屈託がない。

昨今の流行は、正に使い捨て。時間をかけて育んで行くものは稀有と言って良い。流行り廃りのサイクルがどんどん短くなり、自分で作っておきながら、人間自身がそのスピードについて行けなくなる有様だ。そして気がつくと、周りは途方もないゴミの山なのだ。

尺八を趣味とする我々は、図らずもこうした人間の愚かしさに対して警鐘を鳴らすことになるだろう。ところが、どうも私の様な無粋な男は、ものの言い方というか伝え方が、妙に理の角が立って面白みに欠ける気がしてならない。そこへ行くと、彼女のアピールの仕方はとてもユニークで微笑ましい。だからこれからは、彼女のような女性の愛好家が増えてきて、疎外された人間性の回復を訴える場が、もっと優美に、もっとお洒落に広まっていくことを願って止まないのだ。そして男の私も女性のそういうセンスを少しでも見習いたいと思っている。



「戻って来ましたね・・・」           百錢会通信 平成24年7月号より
毎年6月に恒例となった、ある小さなコンサートで、よくパーカッションとセッションする。 “古典畑”の私にとってはとても珍しいことで、ほぼ1年に1度きりの機会だろう。よしうらけんじさんという、慶応の法学部を卒業してパーカッショニストになったという異例の経歴の持ち主。演奏はエネルギッシュだが、普段は物腰の柔らかな、お洒落で穏やかな方だ。

 楽屋でやぁー1年ぶりですねと懐かしく挨拶を交わす。そしてありきたりだが、仕事はどうですかと訊ねると、ちょっと間があって「やっと戻って来ましたね・・・」と、よしうらさんはお答えになった。その言葉に私はハッとさせられた。

 東北大震災直後、音楽業界は驚くほどに演奏の場が減ってしまった。激減と表現して不自然ではなかったようだ。 ― なかったようだ ― などと他人事のように私が言うのは、日本の古典芸能の世界は震災前から既に演奏の場が“激減”していたからだ(これは笑えない笑い話だが)。世間一般の商業音楽の世界に比べて我々の業界ではその振幅が遥かに小さかったのだ。大きく落ち込んだからこそ当然回復にも時間を要する。この時期にこの実感のこもったよしうらさんの言葉を聞いて、改めて自分の“浮世離れ”を痛感させられた。「戻って来た」は回復傾向にあるという思いが滲んでいた。完全復調ではないのだろう。

 同時に私は震災による心のショックで演奏活動が出来なくなったミュージシャンの多いことにも思いを馳せていた。音楽をやっている者は、どんなに悪ぶって見せても心のどこかには、音を奏でる自分は非力である、という強迫観念があるものだ。生きることにおいて第一義的な必需品を生産していないことは人間として無力であるという思いだ。こういうことを言えば直ぐに呑気な文化人の反論が聞こえてきそうだ。人間は衣食住が足りて満足できるものではない、文化的な創造を果たしてこそ人間として生きる意味があるのだと。しかし私は今そういう議論に興味はない。そんな理屈に居坐って溌剌と活動する音楽家を私は信用しない。むしろ自分は無力であるという負の観念が起こったなら、その中に深く沈む時間こそ音楽家は大切にしなければならないと思う。その闇の中に深く分け入って、それでも吹かずにはいられない、弾かずにはいられない、歌わずにはいられない自分をそこに見付けたなら、その時はその自分に素直に従えばいい。作品が生まれるとはこういうことだと思う。

「戻って来ましたね・・・」。それは「いい作品が生まれ始めましたね・・・」、という言葉にも聞こえたので、感慨深く、よしうらさんの穏やかな声を何度も思い起こすのである。



ポップス トップ20             百錢会通信 平成24年6月号より

 ごく最近、車の運転中にFMラジオを聴くようになった。1年前の私には考えられない事態である。FM放送は局によって嗜好性が違うものの、音楽の放送が中心となる。しかし私のような変わり者の好みの曲がかかることは稀で、大抵は当世流行のポップスなどが矢継ぎ早に流れて来るのである。興味のない音楽は人の耳と心に却って疲労を与えるものだ。だから近年およそFMラジオに耳を傾けることはなかったのだ。それが些細なきっかけから反転してしまったのである。

 交通情報を聞こうと思いスイッチを捻ったのだ。たまたまその時、今週のシングルレコード売り上げランキングトップ20という番組がかかっていた。まったく興味がなかったのがふとその時、音楽を聴こうというのではなく、当世の流行音楽をニュースとして聞いてみようという気持ちが何故か沸き起こったのである。すると何もかもがちょっとした驚きだった。感じたままにその驚きを綴ってみる。

まずはアニメーションソングの多いこと。声優自身が歌うことも多く、アニメ特有の演技罹った表現は、それがどんなに可愛らしいキャラクターであろうとも、とても猥雑なものが感じられた。また日本のアニメは世界中で大変な人気だから、その“オタク”ルートを通じてこれらの曲も世界中で聞かれているというから驚きだ。

 大人数のグループの席捲にも驚いた。「○○○48」の類が常に上位に喰いこんでいる。ラジオだからダンスは見えないが常に踊りながら、あの大人数がユニゾンで歌い続けている。この不思議なスタイルは日本独自のものだろうか。これらのグループはランキングが下がってきても、どこかで大規模なイベントを打って握手会でもしようものならそれだけでまた上位に返り咲くというから、これまた驚きだ。

 意外に演歌系が飛び込むこともある。後援者に富裕層が多く、そういうファンのレコードのまとめ買いというバックアップがその要因らしい。ディナーショーでテーブル近くに歌手が来れば、自分のしていた何百万もする腕時計をその場ではずしてプレゼントなんて光景が本当にあるそうだ・・・。

 韓国から日本へ進出というアーティストが多いことも知らなかった、流暢な日本語で歌っているから・・・。戦略的というか、したたかな色気が紛々としているという印象があるが、これは私の思い込みだろうか。

 上位20曲にランキングされるための、1週間のレコード売り上げ枚数の目安を放送していたが失念してしまった。自分とはあまりに桁が違うからだ。私の虚無僧尺八のCDは10年かけて2000枚くらい売れた。かたや1週間で数万枚だ。

 というわけで、ちょっとした浦島太郎気分を楽しんでいる。聞く曲聞く曲ごとに、驚きのニュースがある。斬新なアレンジ、今までにない歌唱法やリズム。またそれに対する聴衆の反応の仕方。たった1週間で上位20曲中の8~9割は入れ替わってしまうという、激しい競争の世界だ。20年前には考えられない変動の速さだ。聴衆の興味を惹くためにアーティストも制作スタッフもしのぎを削っていることだろう。だがその所為かわからないが、作品の殆どがかなり表層的で内面の空洞化という感は否めない。飾りつけは実に立派になったが、1フレーズのモチーフに、あるいはたった一言の歌詞に力が無い。そういう内的なエネルギーの発露を待望する気持ちは、聴衆の心の中に潜在的ではあるけれども、決して消えてなくなってはいないと思うから、今後の展開に期待したい。 



新 緑  - 5 -                百錢会通信 平成24年5月号より

 娘がこの春受験に合格して、東京藝術大学の作曲科に入学した。順当に卒業できれば晴れて親子3人同じ同窓生となるわけだが、同じ藝大といっても邦楽科と作曲科では正に別世界。娘の話を聞けば、西洋音楽に無知な私にとっては、それはもうまるで御伽噺のような世界なのである。だから今だに「よく合格できたものだ・・・」と繰り返しつぶやいてしまう。

 誠に思考回路の水準の低いそんな親のつぶやきをよそに、新入生たちの顔は引き締まっている。五線紙に向かう娘の眼に、燃えるような創作のエネルギーが漲っているのを感じて、ハッとさせられた。桜の花の感傷はさっさと通り抜けて、正に若い葉の緑は輝いている。  

 けれども中には若者ならではの倦怠に苛まれている学生も多いことだろう。「自分が本当に学びたいことがこの学校にあるのだろうか?」「そもそも自分が求めているものはこれだったのか?」「自分が生きている意味は何なのか?」 絶望しているように見えてもこうした悩みは、ひたむきに生きようとする、瑞々しい感受性が心の奥底にあるが故なのだから、この苦悩を保持することもやはり若い緑の美しさの一つなのだと思う。

 ただこうした悩みをもしも相談されたら自分はどう答えたらよいだろうと思うようになった。正直にいえば、自分の場合はただ生きて行く日々の現実に忙殺されて、二十歳前のこうした悩みを忘れてしまっただけなのだ。ただこの忘却には中々味わい深いものはある。しかしこれを言葉にすることは難しいし、と言って「そのうちに忘れちまうよ!」というのではあまりに思いやりに欠けてはいないだろうか。

 そこで私が思いついた最善の策は、何かと引用される詩人リルケの次の言葉を贈ることだった。

 

もしあなたの日常があなたに貧しく思われるならば、その日常を非難してはなりません、あなた御自身をこそ非難なさい。あなたがまだ本当の詩人でないために、日常の富を呼び寄せることができないのだと自らに言いきかせることです。というのは、創作するものにとって貧困というものはなく、貧しい取るに足らぬ場所というものはないからです。

 

 「日常の富を呼び寄せる」という言葉に感じ入ったものだった。再読繰り返し胸をうたれ、その度、我が心に若葉の緑が鮮やかに甦ってくるのだ。



  淡白であるということ         百錢会通信 平成24年4月号より

 毎年3月に京都の明暗寺(東福寺塔頭 善慧院)で、「如道忌」という献奏会が開かれている。尺八家神如道ゆかりの愛好家が全国から集い、故人を偲びまたその芸風を顕彰しようという追善会である。私はこの会から遠ざかってはや20年余りとなるが、かつて(高校を卒業した年)岡崎自修師に引っ張られて10年ほどは毎年欠かさずに参加していた。

 プログラムのおよそ7割は神如道の伝承による虚無僧尺八本曲であったと思うが、地歌箏曲との合奏曲も演奏されていた。絃方は故佐々川静枝師とその社中の方で、味わい深く、正にいぶし銀のような佐々川師の芸を間近に拝聴できることも、参会者の楽しみの1つであったと思う。

 岡崎師には、仏前すなわち神先生に聞いていただくつもりで精進せよと命じられたものの、「惠介の顔をそろそろ売り込んでやらねばなるまい・・・」という岡崎師一流の戦略あってのことだった。狙い的中で実に多くの方が毎年笑顔一杯で激励して下さるようになり、ささやかながら人前で竹を吹くことの喜びと自信を少しずつ手にしていったように思う。

 やがて藝大に入学。私は虚無僧本曲以外の箏曲との合奏にも励むようになり、ある年「今回の如道忌は合奏曲で申し込んでみようかな・・・」という気持ちがにわかに湧いてきた。ちょっと腕試しをしてみたかったのだ。そこで岡崎師に相談してみると、「そろそろそういう小生意気なことを言い出すんじゃないかと思っていたら案の定・・・」と、呆れ顔で一笑に付されてしまった。出鼻を挫かれて悔しかったけれども、今思えば赤面の至りである。これ見よがしな演奏は、たとえば茶懐石に覚えたての手料理、差し詰めハンバーグステーキあたりを持ち込んで自慢するようなものだ。諌められて思い止まり、赤っ恥をさらさずに済んだのだ。

 

醲肥辛甘は真味にあらず、真味は只だ是淡なり。

神奇卓異は至人にあらず、至人はただ是れ常なり。

(菜根譚)

 

 淡白であることの背景にどれだけの内容が蓄積されているかということの真意を知ることは、決して容易ではない。鋭い眼力の持ち主は一朝にしてそれを見抜くかも知れないが、我々のような凡夫は、甘いの辛いのと模索し続ける長い長い道のりが、逆説的にそのことを悟る縁になるようにと、祈るしかないのだ。とても時間がかかるし、時間を費やしてもその縁に恵まれないことだってあるだろう。尺八の演奏技術は格段に飛躍し続けている。超高速の運指技術や、音量・音高の厳密なコントロール力など、現代最高の技術的水準に私などはもうとても及びつかない。そうなると今から私が何を主張しても負け惜しみから捏造した“精神論”と見なされてしまうかも知れないが、なんと言われようとも次の考えは私の中で変わることがないだろう。

 演奏家とは来る日も来る日も職人のように技術を磨き続ける生き物である。しかしそれ自身が目的ではないのだ。演奏家にとっての目的、言い換えるなら夢や希望といったものは、その作業の中に勃発する、まったく別次元への跳躍なのである。その世界を「淡白」と言えば、「良きこととは、淡くてあっさりしているものだ」などという、ありきたりの解釈ではないことを、理解してはもらえないだろうか・・・。



政治闘争                   百錢会通信 平成24年3月号より

 幕末の長州藩士といえば誰もが直ぐに思い浮かべるのは、大方は桂小五郎や高杉晋作あたりの名前だろうが、並んで同じ長州藩士、長井雅楽(ながいうた)などという名前をご存知の方は相当の歴史通ではなかろうか。知らない歴史の話に触れることは面白いものだ。長い電車通勤の暇つぶしにたまたま手にした週刊誌の中に、この人物の名前とその仕事の記事を読んで、束の間移動時間の退屈から解放されたものだった。

 当時、外国の侵入を断固打ち払え!という攘夷論が、日本のほぼ全域に蔓延していた。その状況下、少数派の開国論者の中で先の長井雅楽の表明した建白書は、朝廷の孝明天皇を満足させたばかりか、時の老中安藤信正をはじめとする幕閣首脳も大いに賛同したというから、ちょっと驚きだった。

 要約すると・・・。日本の鎖国は島原の乱などの影響によるもので、歴史的には高々数百年ほどの特殊なものに過ぎず、それ以前の日本は外国人をおおらかに出入りさせていたのだ。天照大神は太陽の照らされるすべての地に天皇家の恩恵が行き届くべしと仰せであった。故に日本はまず開国、貿易により国を富まし、日本の皇威を世界に示さなければならないのだと。こうした長井の「薬」はむしろ維新後の日本にちょっと「利きすぎた」のではないかと、この記事の筆者は述べている。

 私は歴史通でもなんでもないからこの史実の真偽の裏を取ったわけではない。ただ、ちょっと心に引っ掛かったのは、朝廷と幕府の双方に賞賛されたという、この「正論」を訴えた主が、どうして幕末のヒーローとして歴史に名を留めなかったのだろうという疑念であった。「出る杭は打たれる」とのたとえの通り、それはいつの時代にもあるその後の政治闘争によるものであろう。それにしても解せないのはこの長井を実質的に「粛清」したのが、長井とほぼ同じ歴史認識を共有する吉田松蔭の弟子達であったということだ・・・。

 繰り返し断っておくが、私にとってこの史実の信憑性にはさしたる興味はない。ただ心に灰色の思いとして残るのは、いつの時代もおよそ政治闘争と