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桜が散って連休の近づく頃、目に映る若葉の緑に私の心はいつも踊り出してしまうのである。それで何度も繰り返して同じことを会報の話題にして来て、内心それが何となく芸がないような気がしていたけれど、いっそのこと毎年五月号の題は「新緑」にしてしまおうかという気になって来た。「年年歳歳花相似たり、歳歳年年人同じからず」というけれど、そう遠くない過去から今に至る、己の心の内の移り変わりというものは、自分ではなかなか気づかないものだと思う。ここでは花ではないけれど、毎年変わらぬ緑への思いを書き記し続けていれば、わずかな心の変化に気付くことが出来るかも知れないという実験を思いついたのだ。
さて本題。百錢会の有志十数名と上野村の御巣鷹山に登ったのは、もう6年も前のことだ。雲ひとつ無い好天に恵まれて、この上なく清清しい五月の空気を満喫した。吸い込まれるような青空の下で、まさに萌える新緑に包まれた時は、本当に神様のご褒美に感謝したい気分だった。ところで、その時の楽しい思い出の中で、最近やけに思い出されてならないのが、落葉松の新緑だ。
一枚一枚はとても小さな葉だったと思う。山道で見上げるその葉は割合に近くで見ているのに、枝と葉の繋がっている部分がどうもはっきり見えない。すると無数の葉の若い緑が、幹の回りに絶妙な距離とバランスを保ちながら浮遊しているようで、その姿はなんとも言えず幻想的だった。
「宙に浮く」という言葉が鍵だ。そう思ったら、同じような言葉を口にした、複数の知人との会話が一遍に蘇ってきたので、それを思いつくままに記しておく。
その一。つい先日発表したZEN YAMATOのCDの中に「秋風曲」が収録されているけれど、箏の山登松和さんは、初めての合わせの時に、歌いだしの「求むれど」というところに苦心していると仰っていた。「下からすり上がるのでもなく、押し出すのでもなく、フワっと浮くように唄いだしたいんだよね・・・」、と。あれから何度もこの曲を舞台で共演させて頂いたけれど、山登さんは少しずつその目標を実現してくれるものだから、私もつい嬉しくなってしまう。
その二。「虚無尺八」の照明の演出をお願いしている、小澤明彦氏の談。「明りはね、立て役者を板(舞台の床のこと)から浮かすことができたら成功。でもこれが中々出来ないんだ・・・」
その三。かつての虚無僧研究会の重鎮、故岡本竹外先生は、虚無僧についての話題が無尽蔵で、興に乗って話し出すと終わらなかったけれど、時には三味線のことを語られることもあった。「川瀬里子の三絃は凄いと思ったね。音がね、宙に浮いて目の前を通り過ぎていくのが見えるんだから!」こういう断定の言葉は何度思い出しても愉快でならない。
番外。私の周りで「霧海?」という曲をいい曲だと言って、大事に教えてくれた人はいなかったけれど、なのに私がこの曲が好きで仕方なくなってしまったのは、霧、すなわち小さな水の粒子が立ち昇る様を思い描いてこの曲を吹いていると、その内に自分が浮き上がっていくような気分になってしまうことが度々起こったからだ。もっともそれは、今よりずっと呼吸法が未熟で、酸欠による軽い目眩の所為だったかも知れないけれど・・・。
宙を舞う気分の良さに理屈はない。それは子供が夢中でブランコに揺られ続けるのにも少し似ていると思う。
そういう訳で以来この季節は、街中でも小さな葉の樹木があるとつい目が向いてしまう。緑が宙に浮いている空間。その中に佇んでいると、ある瞬間に、時空を横滑りして異次元の世界に迷い込んでしまわないだろうか、などという、更に子供じみた妄想が膨らんでくることがある。笑われてしまうだろうけれど、私はそういうことを真面目に感じ続けたいと思っている。
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